あいにく国境は見えない
「三度のゴハン」と云うが、私にも「三度のバッハ」という生活習慣がある。
日に三度はバッハを聴くという高校時代に始まるこのルーティンは、途中パセオ創刊から10年ほどのブランクを除き現在も続いている。
ゴハンを食べて歯を磨いてトイレに行くのと、まったく等しい日常行為だ。
実を云うとこれは「ゴハン・セバスチャン・バッハ症候群」と呼ばれるチョー難病なのだが、人体にはまったく影響がなくて、むしろ調子がいいくらいだ。
ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685~1750)は地球最高峰のミュージシャンとも称されるドイツの作曲家&即興演奏家。
そのバッハ演奏とくれば本場のドイツ人に限る、と当然そう思うでしょ?
ところがどすこいっ!!
ずばりオランダ、ベルギー、日本あたりが現代のバッハ演奏の主流なのだ。
いまだに世界中に愛され続けるバッハ弾き、かのグレン・グールドもカナダ人だし、パブロ・カザルスもスペイン人だ。
ただし御本家ドイツ人様が下手なのではない。
分家があまりに凄すぎちゃうのだ。
だから、時おりドイツ人の優れたバッハ演奏家が出てきたりすると、むしろ物珍しさでCDを買った上に、へえー、やっぱ血筋も関係あるんだあ、などと妙な感心をすることになる。
ドイツ人なのにバッハが上手い。
まるで日本人なのに横綱だあ!!みたいなマルティン・シュタットフェルトもそんな演奏家の一人だ。
彼は2002年、東西ドイツ統一後に本家ドイツ人として初めてバッハ国際コンクールに優勝した注目の若手ピアニストである。
初めて彼のライブを聴いた時、その横綱的快演にドヒョー(土俵)と心で叫びつつも、何やら私はほっとしたものだ。
それは、愛するバッハを生んだお国に優れたバッハ・プレーヤーが誕生したことに安堵する地球愛的心情だったかもしれないし、あるいは、やっとこさ日本人横綱が誕生してくれたか、みたいな愛国的心情の倒錯だったかもしれない。
私たちのお国においても、柔道で金メダルを取ることは楽ではない時代だし、貴乃花の引退後、日本人横綱を土俵上に観られなくなってすでに5年が経つ。
スポーツのみならず音楽の分野でも、日本人のお家芸であるはずの尺八演奏においてそんな傾向は顕著だ。
例えば、日本人より日本的な音を出すオーストラリアの尺八奏者ライリー・リー。
彼のような達人クラスの外国人奏者はわんさか居て、実際それらを聴いてみれば、ただ唖然と息を呑むばかりだ。
体力・合理を評価しつつも、一本勝ちを志さない外国人柔道や、勝つだけの相撲をとる外国人相撲にはいまひとつ共感は薄いが、内容・技術ともにプーロ(純粋)な本質に迫らんとする外国人尺八演奏は、ストレートに御本家日本人の心を打つ。
ああ、これなら負けても嬉しいかも的な、フシギに痛快な敗北感。
「なぜ日本人がフラメンコを?」という例の時代錯誤な質問攻勢にええ加減うんざりしていた私などは、その返答用にとライリー他の尺八名演CDを大量に買い込み、国境好きな論客連中に配りまくったものだ。
その意味で彼らの尺八演奏と日本人のフラメンコは実に近しい。
それらを比較検証すると数多くの共通項が発見できるが、その最たるものはズバリ、心底惚れた相手に対するレスペト(敬意)ということになるだろう。
それはパスポートよりもはるかに重い、熱き慕情そのものと云ってよい。
(つづく)
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以上は、月刊パセオフラメンコ2008年9月号(8/20発売)の「特集:レスペト(敬意)」から一部抜粋。
滅多なことでは本誌に書かない(書かせてもらえない)私の原稿だ。
ほんとうは全文掲載したいのだが、こんなのを全文載っけたら9月号が爆発的に売れ残ってしまう!という社内の危惧に謙虚に耳を傾けた結果である。(TT)