ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

みんな同じわけがない。学校選択制と、平等信仰の恐ろしさ。

2017-08-09 | 平等信仰と学校選択

公立中学校の学校選択制が定着した。
行きたい学校を、保護者や児童生徒が自由に選ぶのは当然である。
その一方、義務教育とはいえ、公立中学校もまた、入学者を選ぶのも当然ではなかろうか。だったら、遠慮なく、選んでくれ。

選択制にするのはいいが、無理は禁物だ。実力以上のものを出そうとしたって、元からないのだから、何も出やしない。
これは子供や親に言っているのではない。学校に言っている。

まじめだけが取り柄のような教員や教育事務所(別名は教育委員会)は、地域からの評価だとか、協力者会議だとか、児童生徒による授業への評価だとか、点付けごっこのまねごとをして、ほっとする。

そんなことをしなくても、どうせ実力はすぐわかる。ばたばたするな。
無理をせず、普段通りのことでいいのである。自ずから、評価は定まる。

地域の暇人の協力者なんて、いらない、と突っぱねるがいい。学校管理者は、地域と仲の良いままで、退職しようなどとを夢を見るんじゃない。器でもないのに無理するな。

バランスシートは、どの分野でも必要である。均衡の上に立つべき学校が、利得関係者に操られたり、教員組合に押しまくられたり、保護者やその取り巻きに左右されてはならない。力のバランスを利用しながら、危うい航海をして行くのが、学校である。修道会を見よ。

学校選択について、各種の教員組合が恐れていたのは(または、その振りをしていたのは)、「競争激化」ということだ。
競争はどんな社会にもあるし、進歩の条件だから、望ましいはずだが、教員は、そうは思わない。ない袖ならぬ、ない能力を絞られることを嫌がって、駄々をこねる。 
惜しいかな、教員は競争を恐れすぎる。競争に負けたからと言って、明日がないわけじゃない。そもそもが、学校教育は売り上げを競う店舗ではない。
だから、競争とはいっても、大したものではないのである。枕を高くして寝ていろ。そして、目前の児童生徒に、しっかりと学業をたたき込めばよい。
それで十分だ。


ところで。
いまどき、人間の能力がみな平等である、と、まじめに信じている人はいるまいが、教員には、平等大好き人間が多い。

「がんばれば、できるようになる」は、教員間でも親たちにも、なるほど受けのいいかけ声である。
しかし、当の子供たちはだれもそんなことを信じてはいない。

数学や国語や体育や美術、あるいは音楽など、誰が得意で誰が不得手か、クラスメートもよく知っているし、何より本人が一番よくわかっている。
制度的なことはともかく、意欲容姿容貌学力その他の資質能力のどれ一つを取ってみても、なにひとつ平等であることなんてない。
要するに個人が生まれ持ったもの、またこれまでの生きてきた経験の結果として、平等なわけがないのである。

学校教育を「平等」が支配すると、学級や学校全体の児童生徒学生のレベルを引き下げて、日本人の学力の低下、やがては日本の国力そのものを引き下げる。
だからこそ、教員やマスコミは平等信者なのである。本音はポルポトなのである。

個々の素質素養の違いは、認めるしかない。
悔しいけれども仕方がない。仕方がない中で、悩んだり努力したりして、そこに進歩や発展がある。
「みな同じ、平等に、仲良く」というわかりやすく、低俗なキャッチフレーズは、すべてを狂わせる。
少なくとも建前としては、「みんな同じ」が大好きだった社会主義国をみるがいい。散々なことになってしまった。

みな違う、そこから始めよう。

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