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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

10月6日・ヴァイニング夫人が開けた窓

2013-10-06 | 歴史と人生
10月6日は、建築家のル・コルビュジエが生まれた日(1887年)だが、米国の作家、ヴァイニング夫人の誕生日でもある。
ヴァイニング夫人は、平成天皇がまだ皇太子だった少年時代の家庭教師だった女性で、かつての日本では、知らない人はいないくらい有名な人だった。自分も子どものころからその名前はよく知っていた。

ヴァイニング夫人こと、エリザベス・ジャネット・グレイは、1902年、米国ペンシルベニア州のフィラデルフィアで生まれた。
21歳でブリンマー大学を卒業した彼女は、べつの大学で図書館学修士の資格をとり、ノースカロライナ州のチャペルヒルにある大学図書館で司書となった。
25歳のころから、児童文学を書き発表するようになった彼女は、27歳のとき、同じ大学の同僚だったモーガン・ヴァイニングと結婚し、エリザベス・ジャネット・グレイ・ヴァイニングとなった。
彼女が31歳のとき、夫妻はニューヨークで交通事故にあい、夫のヴァイニングは死亡し、夫人も重傷を負った。このときのけがの療養中の32歳のときに、彼女はクエーカー教(キリスト友会)の友会徒(Friends)になった。
『メギー新しい国へ』『旅の子アダム』といった児童文学や、評論『ウィリアム・ペン──民主主義の先駆者』などで文学賞を受賞した彼女は、アメリカ・フレンズ奉仕団の広報部に勤務し、報告書や論文を書くようになった。44歳のとき、GHQ(連合軍総司令部)によって、日本の皇太子、明仁親王(後の平成天皇)の家庭教師に選ばれ、1946年に来日。少年時代の皇太子と約4年間を日本ですごした。学習院大学や津田塾大学で講義をおこない、1950年、48歳のときに勲三等宝冠章を受章。米国に帰国後、日本での体験を書き、50歳のとき『皇太子の窓』として発表。12カ国語に翻訳され、全世界で1500万部以上を売る大ベストセラーとなった。
母校ブリンマー大学の理事、副学長など務め、生涯に60冊以上の著書を書いた彼女は、1999年11月、97歳で没した。

ヴァイニング夫人の『皇太子の窓』は、拙著『名作英語の名文句2』でもとりあげた。昭和天皇や皇后、吉田茂首相の印象、皇太子を連れてGHQのマッカーサー元帥に会いに行ったときの様子、東京裁判を傍聴した感想など、とくに日本人にとっては興味深い話題がこれでもかというくらいに詰め込まれた、ひじょうにおもしろい本だった。もちろん、13歳から17歳にかけての皇太子、明仁親王の人となり、その成長ぶりも鮮やかに描かれていて、著者の文章力に感心させられた。

もともと、皇太子(後の平成天皇)に米国人女性の家庭教師をつけてほしいというのは、昭和天皇が言いだしたことで、来日したヴァイニング夫人に、当時の宮内庁長官の松平子爵はこう言ったという。
「あなたに、われわれの皇太子殿下のために、より広い世界へ向けて窓を開いていただきたいのです」
『皇太子の窓』というタイトルは、ここから来ている。
ヴァイニング夫人はクエーカー教徒らしく、良識と善意の人だということが、彼女の『皇太子の窓』を読むとよくわかる。彼女の人格の高潔さ、高い知性、温かい心といったものが、ページから香ってくるような気がする。夫人はみごとに窓を開いたと思う。
(2013年10月6日)



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