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著書『誇りに思う日本人たち』
『ビッグショッツ』
『黒い火』ほか

8月13日・ルーシー・ストーンの言

2017-08-13 | 歴史と人生
8月13日は、キューバのフィデル・カストロが生まれた日(1926年)だが、米国の女性運動家、ルーシー・ストーンの誕生日でもある。

ルーシー・ストーンは、1818年、マサチューセッツ州のウェストブルックフィールドの農場で生まれた。9人きょうだいの8番目の子どもだった。当時の農場の生活は苛酷で、とくに女の日常は多忙で、家庭では父親の命令が絶対で、女には発言権がなかった。
母親の大変な仕事ぶりを見て育ったルーシーは、物心つき、女性解放運動や奴隷解放運動のこを知るようになると、「自分はどんな男をも、主人とけっして呼ばない(call no man my master)」と決意した。
学校を出たルーシーは、16歳から学校の教師になった。当時の教師の給与は、男性教師より女性教師のほうが安かった。あるとき、彼女が、やはり教師をしている兄弟の代わりを務めたことがあったが、そのとき彼女がもらった額は兄弟の日給よりすくなかった。
オハイオ州のオーバーリンに全米初の女子学生と黒人学生を受け入れる大学ができ、彼女は25歳でそこに入学した。
ストーンは大学時代、大学の系列女子学校の数学のクラスなどを教えるアルバイトをしたが、同じ仕事をする男性の賃金が半分ほどだった。午前2時に起きて、ハードワークを続けた彼女は疲れきり、ついに大学の教授会に、男女の賃金差の不公平について訴え、男性教師と同等の賃金を要求した。要求は却下された。すると、ストーンは教師の職を放棄した。教授会は問題を再検討し、3カ月後、ついに女性教師に男性と同等の賃金を支払うことを決定し、ストーンを元の教師職に復帰させた。
彼女は29歳で学士号をとり、オーバーリンを卒業したストーンは、マサチューセッツ州で最初の大卒女性となった。卒業後、マサチューセッツへもどったストーンは、まず教職に就いて、借りていた学生ローンを返済しなくてはならなかったが、地元の教会で、奴隷解放と女性の権利について演説会を開いた。すると、これがマサチューセッツ反奴隷制協会の注目するところとなり、ストーンはその協会と契約し、奴隷解放運動の講演家となった。
彼女が各地でおこなったスピーチは論争を巻き起こし、演壇で彼女はしばしば腐った果物や卵などを投げつけられた。協会側は、女性問題には関心がなかったが、
「わたしは、奴隷廃止論者である前から、女性だったのよ(I was a woman before I was an abolitionist.)」
という彼女の主張をいれ、週末だけは反奴隷制を説いてもらい、平日は彼女が自由に女性の権利について語ってもらってけっこうという、週末だけの契約を結んだ。この契約のおかげで、週末の演説の収入で、平日の活動費用がまかなえるようになった。
ストーンはその後も各地で集会や演説会を開き、新聞や雑誌で健筆をふるい、投票権を含む女性のさまざまな権利獲得について訴え、1850年にオハイオ州で第一回目が開かれた「全国女性権利会議」の開催に尽力し、権利平等協会の結成に立ち会った後、1893年10月、胃ガンのため、マサチューセッツ州ボストンで没した。75歳だった。

ルーシー・ストーンは、結婚後も「ルーシー・ストーン」の名前のままで活動した夫婦別姓の先駆である。現代の日本女性たちの多くが知らぬうちに恩恵を受けている、19世紀の女性運動家の巨星である。
(2017年8月13日)



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