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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
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10月22日・ロバート・キャパのセンス

2014-10-22 | 芸術
10月22日・ロバート・キャパのセンス

10月22日は、大女優、サラ・ベルナールが生まれた日(1844年)だが、写真家ロバート・キャパの誕生日でもある。

ロバート・キャパは、1913年、ハンガリーのブダペストで生まれた。本名はフリードマン・エルネー・エンドレ。ハンガリーでは、日本と同様、姓名の順に書くので、彼のファーストネームはエンドレである。ユダヤ系の家系で、母親は婦人服の仕立屋を経営していて、父親はそこの裁縫師だった。エンドレは男ばかりの三人兄弟のまん中だった。
エンドレは早くから政治やジャーナリズムに目覚め、ギムナジウム(中高一貫校)の生徒だった17歳の年に、ゼネストのデモに加わって逮捕された。卒業後は、ドイツ・ベルリンへ行き、写真通信社に暗室係の助手として勤務しだした。19歳のとき、ロシアの革命家トロツキーがデンマークのコペンハーゲンにやってきたとき、エンドレは社命を受け、小型カメラをポケットに隠し持って駆けつけ、演説中のトロツキーを撮影した。この写真は、トロツキー本人が生存中に発表されたトロツキーの唯一の肖像写真となった。
エンドレが20歳になる1933年にナチス党のヒトラーが首相になると、はげしくなったユダヤ人迫害から逃れ、エンドレはフランス・パリへ脱出した。
パリで彼は2歳年上の女性ゲルダ・ポホリレスと出会い、恋に落ちた。ゲルダはドイツ生まれのユダヤ系の金髪美女で、二人は同棲し、エンドレが写真をとり、ゲルダがキャプションをつけて通信社に売り込む、あるいはゲルダも写真を撮るなど、チームを組んで仕事をするようになった。写真をもっと高く売るため、彼らは「ロバート・キャパ」という架空の人物を作り上げ、その有名な米国人カメラマンが撮った写真だとして売り込みはじめた。こうしてロバート・キャパが誕生した。
スペインで内戦がはじまると、キャパとゲルダは戦場へ乗りこんだ。このとき撮った戦場の死を象徴する写真「崩れ落ちる兵士」が雑誌に掲載され、23歳のキャパの名前は一躍世界に鳴り響いた。翌年、ゲルダはスペイン戦線で味方軍の戦車にひかれて死んだ。
ひとりになったキャパは、その後も戦場カメラマンとして、第二次世界大戦の連合軍に同行しノルマンディー上陸作戦の写真を撮り、パリ解放を撮り、戦後は写真家集団「マグナム」を結成し、第一次中東戦争を撮った。1954年5月、第一次インドシナ戦争に取材に行き、ベトナムの戦場で地雷を踏み爆死した。40歳だった。

キャパはブレた臨場感のある戦争写真だけでなく、画家のピカソや、女優のイングリッド・バーグマンなど、交友のあった著名人の肖像も撮っていて、そういうピントの合った写真もみごとである。

キャパが書いた『ちょっとピンぼけ(Slightly out of Focus)』を、自分は若いころに読み、いまでももっている。
「もはや、朝になっても、起上がる必要はまったくなかった。(中略)私には時間など問題ではなかった。有り金といえば五セントのニッケル貨一枚きり──電話のベルでも鳴って、誰かが昼飯に呼んでくれるか、仕事の口でもくれるか、すくなくとも金でも貸してくれそうな話でもないかぎり、ベッドを離れるつもりは毛頭なかった。」(ロバート・キャパ著、川添浩史、井上清一郎訳『ちょっとピンぼけ』文春文庫)
この冒頭部分を呼んだだけで、キャパがあるセンスをもっているのがわかる。それが写真にも反映されたのでは。二枚目だったキャパは、バーグマンほか数々の美女たちとつぎつぎと恋をし、いつもモテモテだったようだ。容貌もさることながら、彼のセンスも大きな魅力だったと思う。
(2014年10月22日)


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