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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

3月13日・高村光太郎の純

2017-03-13 | 文学
3月13日は、天文学者ローウェルが生まれた日(1855年)だが、日本の彫刻家で詩人の高村光太郎の誕生日でもある。

高村光太郎は、1883年、東京で生まれた。父親は、彫刻家の高村光雲で、本名は光太郎と書いて「みつたろう」と読んだ。
子どものころから、彫刻を彫り、文学を愛好していた光太郎は、美術学校に通いながら、俳句や短歌を投稿する学生だった。
23歳の年に美術の勉強のため渡米。その後、英国ロンドン、仏国パリで暮らした後、26歳で帰国。神戸港に父親が迎えたときには、光太郎はみごとに無一文だったという。
帰国後は、詩、短歌、彫刻、油絵を描き、仏語の翻訳をしたり、父親の仕事の手伝いで彫刻の原型作りなどをしていた。
28歳のとき、女性誌「青鞜(せいとう)」の表紙画を描いていた、三つ年下の女性、長沼智恵子と知り合い、31歳のときに結婚。
光太郎が46歳のとき、智恵子の福島にある実家が破産、離散した。その翌々年、光太郎が仕事でひと月以上家をあけ、この留守をきっかけにして智恵子に統合失調症の症状があらわれはじめた。光太郎が49歳のとき、智恵子が睡眠薬を多量に飲んで自殺未遂。智恵子は1カ月弱入院したのち、退院。
以後、智恵子の精神病はしだいに悪化し、入院、療養を重ねた後、1938年に品川の入院先の病院で結核のため没。智恵子、享年52歳。光太郎は55歳だった。
58歳のとき、詩集『智恵子抄』出版。その年の師走、太平洋戦争がはじまった。
大戦中、光太郎は戦意高揚をねらった、「シンガポール陥落」「神これを欲したまふ」「われら神と倶にあり」「断じて帰さず」といった詩をさかんに書いた。
1945年、62歳だった光太郎は疎開していた岩手県花巻の、詩人、宮沢賢治の実家で空襲にあい、かろうじて助かった後に敗戦を知った。その2カ月後、彼は花巻の郊外に山小屋を立てて、ひとり自炊生活に入った。以後約7年間は、この山小屋を本拠地にして活動した。
70歳のとき、十和田湖湖畔に立つ裸婦像を完成した後、1956年4月、東京中野区のアトリエで没した。73歳だった。

「智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。」(「あどけない話」『智恵子抄』)

「妻智恵子が南品川ゼームス坂病院の十五号室で精神分裂症患者として粟粒(ぞくりゅう)性肺結核で死んでから旬日で満二年になる。私はこの世で智恵子にめぐりあつたため、彼女の純愛によつて清浄にされ、以前の廃頽(はいたい)生活から救ひ出される事が出来た経歴を持つて居り、私の精神は一にかかつて彼女の存在そのものの上にあつたので、智恵子の死による精神的打撃は実に烈しく、一時は自己の芸術的製作さへ其の目標を失つたやうな空虚感にとりつかれた幾箇月かを過した」(「智恵子の半生」同前)

ダンテとベアトリーチェを連想させる。高村光太郎はピュアな精神性の詩人だった。
(2017年3月13日)



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