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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

2月7日・ポール・ニザンの手紙

2014-02-07 | 文学
2月7日は、英国の国民的作家、チャールズ・ディケンズが生まれた日(1812年)だが、作家のポール・ニザンの誕生日でもある。
ずっと昔、自分は作家の原田宗典さんに仕事を頼みに行ったことがあって、結局断られたけれど、会う前に彼の作品をいくつか読んでいった。そのなかに「ポール・ニザンを残して」という短編があって、それで自分はポール・ニザンを知るようになった。

ポール・ニザンは、1905年、仏国のトゥールで生まれた。祖父、父親とも鉄道会社の従業員だった。ポールはリセ(高等中学校)では、後に哲学者のサルトルと同級で、二人は似ていて、よくまちがえられたという。当時から、ニザンはマルクス主義に傾倒していた。
学校を出て、21歳でイエメンのアデンへ行き、そこで家庭教師をして、1年ほど暮らした。現地では、先進国の植民地主義を目の当たりにし、資本主義と戦う決意を新たにした。後にこのときの体験を書いたのが紀行『アデン・アラビア』である。
フランスへ帰国した22歳のとき、フランス共産党に入党。
24歳で哲学の大学教授資格を取得し、いったんは哲学教師になったが、すぐにやめて、パリで共産党系の出版社の雑誌に原稿を書き、また編集をするようになった。
29歳のとき、小説の処女作『アントワーヌ・ブロワイエ』を発表。
ニザンが34歳のとき、ヒトラーのドイツと、スターリンのソビエト連邦が不可侵条約を結び、これをフランス共産党が支持したため、ニザンは共産党を離党した。
ニザンは軍隊に二度召集され、第二次世界大戦中の二度めの軍隊では、工兵隊の書記をしていたが、1940年5月、ダンケルクからの撤退中の戦闘で戦死した。35歳だった。
著書に『トロイの木馬』『陰謀』『九月のクロニクル』などがある。

マルクス主義作家のポール・ニザンは、日本ではよく引用もされて、人気が高い。
ニザンの『アデン・アラビア』は、書きだしがかっこよくて有名である。
「僕は20歳だった。それが人の一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい。」
これは、きっとつぎの英語のことわざを踏まえていったものだと思う。
「二十歳で美しくなく、三十歳で強くなく、四十歳で富貴でなく、五十歳で賢明でない人間は、ついに美しくも強くも富貴にも賢明にもなれない」

以前『アデン・アラビア』の本をもっていたが、結局2ページ以上読み進められなかった。
小説は知らないが、ニザンの書簡集は、自分はおもしろく読んだ。ニザンは戦場から妻に宛てた手紙のなかで、こう書いている。
「ゆうべ任地へついて、イギリス軍に配属された。(中略)たかが一兵卒にイギリス軍の将校なみの生活をさせるとは、実におかしなことさ。町を歩いてると、僕にはなんの恩義もないような兵隊がいっせいに敬礼するんで、まったく身の置きどころがないよ。」(1940年3月8日、野沢協訳『ポールニザン著作集9』晶文社)
「このところ、ひどく技術的な仕事をやらされてるんだ。インチをミリメートルに換算したり、フランをポンドに換算したりして日を送っているよ。」(1940年3月29日、同前)
「でも、英語で生活し英語でものを言うのはくたびれるね。」(1940年4月3日、同前)
これを書いた翌月に彼は戦死した。同じ連隊のイギリス人将校も大部分死んだらしい。
友人のサルトルが戦争を生き延びて、ニザンのことを語り継いでくれたのが、死後の復権に大きく寄与したと思う。
(2014年2月7日)


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