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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

12/22・数学の天才ラマヌジャン

2012-12-22 | 今日という日に爪を立てて
12/22・数学の天才ラマヌジャン

12月22日は、『蝶々夫人』を作曲したプッチーニ(1858年)や、日露戦争の英雄、東郷平八郎(1847年)の誕生日だが、インドの数学者、ラマヌジャンの誕生日でもある。
ラマヌジャンといっても、知らない人が多いだろうけれど、彼は南インドが生んだ数学の天才である。
以前、北野たけしが、テレビ番組に登場して、
「芸能界のラマヌジャン、ビートたけしです」
と自己紹介したことがあったが、果たしてどれだけの視聴者がその意味を理解したかどうか。

シュリニヴァーサ・アイヤンガー・ラマヌジャンは、1887年12月22日に、南インドのタミル・ナードゥ州クンバコナムに生まれた。
生まれたのは、貧しいバラモンの家だった。
バラモンとは、インドの特殊な身分制度カーストのうちでも、いちばん高い階層である。
一般にインドの南部、いわゆるドラヴィダ語圏は、カーストの低い人が多いと思う。
身分をきびしくわけるカースト制度は、インドのさらに北から南下してインド亜大陸へ移動してきたアリーア人たちが作ったものなので、もともと北インドにいたところ、アーリア人たちに押され、南へはじきだされたドラヴィダ人たちの身分は低くなるのである。
インダス文明は、このドラヴィダ人たちが、まだ北のインダス川あたりにいたころに作ったものだと推定されているが、アリーア人たちが押し寄せてインド亜大陸に居すわり、いまではアリーア人こそが由緒正しいインド人だという顔をしている。
だから、ラマヌジャンの家は、案外アーリア系だったのかもしれない。
身分は高かったが、彼の家は、近所の人に食べ物をわけてもらわなくては生きていけないくらい貧しかった。
ラマヌジャンは、極貧の、しかし、誇り高い一族の一人として生まれ、育てられたということである。

小さいときから学校の成績のよかったラマヌジャンは、15歳のときに『純粋数学要覧』という本に出会う。
英国の数学者、ジョージ・カーが書いた『純粋数学要覧』は、数学の定理が6000個近く並べられた本らしい。
もちろん、一つひとつの定理についてくわしい解説はない。
ラマヌジャンは、この本に夢中になり、そこに並んだ定理を片っ端から証明していった。
そうして、数学一辺倒の人間になっていった。
17歳のとき、ラマヌジャンはクンバコナム大学に入学するが、数学しかやる気がないために、1年で退学。
ほかの大学に入り直したが、そちらも退学。
学生でなくなっても、ラマヌジャンは数学だけはせっせとつづけ、自分で発見した定理をノートに書きためていった。

21歳のとき、ラマヌジャンは職につかぬまま10歳の娘と結婚し、その後、睾丸がふくれあがる病気にかかった。その治療には外科手術が必要だったが、彼にはそのお金がなかった。
しかし、無料で手術してくれる外科医と出会い、その医師の好意により手術を受けることができた。

彼は家庭教師をしたり、経理の仕事をしたりして食いつなぎながら、数学の論文を書き、それが数学の学会誌に掲載された。
ラマヌジャンはさらに自分の発見した定理を、インドの学者に見せ、宗主国であった英国の学者にも送った(インドは英国の植民地だった)。
こうした手紙はほとんど無視されたが、送りつけられた学者のひとり、ケンブリッジ大学の学者、ゴッドフレイ・ハーディはそれに目を通した。ハーディは、ラマヌジャンの定理の数々に驚いた。
「これまで、これにすこしでも似たものを見たことがない」
ハーディは、これらの定理が真実なのにちがいないと考えた。なぜなら、もしもそれが真実でなかったとしても、そんな定理をでっちあげる想像力をもった人間などこの世に存在しないだろうから。
さっそく、ハーディはラマヌジャンを英国へ呼び寄せるよう手配した。

ところで、バラモンには戒律のしばりがあって、海を渡ってはいけないのだそうだ。
その戒律を破ると、バラモンのコミュニティーから追放されるのだという。
それで、ラマヌジャンの周囲では、
「行ってはいけない」
「いや、行くべきだ」
とのすったもんだがあって、結局ラマヌジャンとその支持者が、ヒンドゥー教の神さまの「行ってよろしい」というご宣託を受け、ラマヌジャンは晴れて渡英したのだった。

ラマヌジャンは、ケンブリッジに約5年間いた。
ハーディは無神論者で、数学においては証明の厳格さを重んじていた。
一方、ラマヌジャンは信仰心厚く、数学においては直感に頼っていた。
それで、二人の共同作業は、ラマヌジャンが毎日もってくる新定理の数々を、ハーディが証明し論文を書く、というものになった。
しかし、暑い南インドと、寒い英国では気候がまったく異なり、ラマヌジャンは宗教上の理由から英国人たちと同じ食事をとらず栄養が不足がちで、さらに異国の慣れない習慣と人間たちに囲まれたストレスから、ついに病気で倒れる。
ラマヌジャンは、王立協会フェローとなる栄誉を得るが、結局、31歳のときにインドへ帰っていった。
その凱旋は地元に人々に大歓迎されたが、彼の健康は回復することなく、ラマヌジャンは32歳の若さで世を去った。
結核だったのではないかと推定されているらしい。

ラマヌジャンが生まれたクンバコナムの町は、チェンナイ(マドラス)から南へ270キロメートルほどいったところにある。
自分はクンバコナムには行かなかったけれど、タミル・ナードゥ州にはしばらく滞在していたことがある。
さすが南インドで、暑くて湿気が高い。
海ばたに魚が並べて干してあっても、湿気が高いし、スコールもあって乾ききらず、強くにおっている、そんなところだった。
あの蒸し暑い土地に、そんなにすごい独創的な天才が生まれたとは、感慨深いことである。
夭逝した数学者というと、19世紀初頭のフランスに生きたエヴァリスト・ガロアが思いだされる。
群論で知られるガロアは、子どものころ、難解な数学書をまるで小説でも読むように読んでいたという神童で、21歳のとき、決闘をして死んでしまった。
ガロアのノートも、途中の証明がすっとばしてあることが多く、後世の学者がそれを証明するのに苦労した、と聞いた。
ガロアの伝記は高校生のときに読んで、いまもその本をもっているが、ガロアより、ラマヌジャンのほうが、より天才的、霊感的と言えそうだ。
自分は数学は、文系にしてはそこそこできたと思うが、それも高校3年までで、いまとなっては中学3年の問題が解けるかどうかといったレベルだと思う。
数学ができると、「頭がいい人」という感じがする。
実際、頭がいいのだろう。うらやましい。
でも、頭がよくて、数学が天才的にできても、それで幸せかというと、本人はなかなかそうばかりでもないようだ。
(2012年12月22日)


著書
『ポエジー劇場 大きな雨』

著書
『ポエジー劇場 子犬のころ2』

コメント
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