ドイツの哲学者、ハイデッガーの空しさの三段階について書かれている。
「むなしさ」というものを哲学的に考察した人。
1.手持ち無沙汰の空しさ
ドイツの片田舎で電車を待つ空しさ
2.友人宅でパーティーに参加して楽しんで、
それが一区切りして自宅で机に向かう時の空しさ
・文化祭、修学旅行の後
・面白うてやがてかなしき鵜飼かな
3.人間存在そのものの空しさ
何時来るか分からない。いつもある。
3番目のはみんな軽視している。
だけどこれこそ一番重視しなくてはならない、とは言ってる。
太宰の『トカトントン』という小説がある。
何か事を起こそうとすると頭の中から「トカトントン」という音がする。
その音がしたら、何やってんだ、と思って急にヤル気がなくなる。
最初に主人公がその音を聞いたのは玉音放送。戦争負けた瞬間。
何やってきたんだろう、という思いが胸を覆った。
小説書いて最後の場面を考える。ところがその時音がする。
冷めちゃう。原稿やぶってしまう。
政治運動に参加。みんなで話をしている。
しかし音がする。もうやめちゃう。
誰かを好きになる。しかし音がする。別れる。
そして小説の終わりの方は
「この小説は遺書です。しかしこれを書いているうちにも音がしている。」
と書いている。
芥川は「人生は狂人の主催したオリンピック」
「ぼんやりとした不安」
と言っている。
これも3番目のむなしさを言っているといえる。
人間存在そのものの不安、これを親鸞聖人は無明の闇と
言いました。
この心こそ苦しみの一番奥深いところにある迷いの親玉です。
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何時来るか分からない。いつもある
学生の頃はこんな事はよく考えていました。
自分がここに存在する意味はなんだろう
なんて
太宰治の『人間失格』を読み終えた後は
一種の嫌悪感と虚無感が残りました。
なぜだろうと分析はしませんでしたが
タイトルの意味がなんとなくわかりました。
毎日が充実しているからなのか、気付いてないからなのか???
一時期は、空しさばかり感じていたんだけどなあ。
私は、空しさというのは、とことん楽しんだあとに、唐突に襲ってきます。
例えば、旅行などの帰りのバスの中とか、ブログなどで、盛り上がりすぎて、その後、自分自身を見失って空しくなってしまったりとか。
でも、そんな繰り返しで、生きているんでしょうね。
ただいま!
お久しぶりです☆
元気そうで何よりです。
これからもよろしくお願いしますね~