パンチョの世に棲む日々

自称ドン・パンチョが訪れた名所旧跡の感想を綴ります。

稗田阿礼は記憶を失っていなかった?

2012-09-19 12:00:02 | 日記

去る16日の夜は、満天の星空の下で明日香村の劇団「時空」が演じる創作劇「古事記編纂-失われた記憶」を堪能してきました。そのあらすじは橿原日記でも紹介しています(http://www.bell.jp/pancho/k_diary-6/2012_09_16.htm 参照)。毎年この時期に上演される市民劇団「時空」の劇は古代史に題材を取ったものが多く、いつも楽しみしています。

ところで今回の創作劇は冒頭の部分で大津皇子の処刑の場がいきなり登場したのにはいささか驚きました。十字架に括りつけられた皇子に鵜野讃良が死刑を宣告します。創作史劇ですから、史実と異なっていてもいっこうに構わないのですが、良く知られた史実が別の設定で示されると、いささか違和感を感じさせるものです。

『日本書紀』の持統天皇即位前紀朱鳥元年十月の条には、次のように書かれています。

”庚午(かのえうまのひ)(三日)に、皇子大津を訳語田(をさた)の舍(いへ)に賜死(みまからし)む。時に年(とし)二十四(はたちあまりよつ)なり。妃皇女(みめひめみこ)山辺(やまのへ)、髪(かみ)を被(くだしみた)して、徒跣(そあし)にして、奔(はし)り赴(ゆ)きて殉(ともにし)ぬ。見る者(ひと)皆(みな)歔欷(なげ)く。”

つまり、大津皇子は刑場で処刑されたのではなく、自邸で賜死(しし)したと記されています。賜死(しし)とは死刑の一種で、君主が臣下、特に貴人に対して自殺を命じることです。一般には毒薬を自らの手で飲む一種の自殺型死刑と解されています。

それに、稗田阿礼は記憶を亡くして長らく歴史の舞台に登場しなかったのではなく、天武天皇の死後も歴代の天皇や皇族の殯の宮で誦習した帝紀や本辞の内容を奏上してきたと思います。元明天皇は老齢に達した稗田阿礼が死ぬことで、彼が記憶している内容が失われることを危惧して、太安萬侶に筆録を命じたと解する方がすなおでしょう。


朱雀門の前にあった鉄鍛冶工房

2012-09-16 16:01:54 | 日記

昨日、奈文研の平城第495次発掘調査の現地説明会が開かれたので参加してきました。場所は、驚いたことに平城宮のシンボル的存在である朱雀門のすぐ側でした。平城遷都で必要になった鉄釘などを大量に製造していた工房とのことですが、奈良時代の半ばころまで存続していたようです。

朱雀門では国家的行事やさまざまな催しが行われたはずで、相応の広場が必要だったはずですが、広場が設けられたのは、鉄鍛冶工房が廃絶された後に整地されてようやく完成したようです。鍛冶工房が外部からは見えないように、しっかりと塀で目隠ししてあったのでしょうね。

現地説明会の様子は橿原日記でレポートしています。


お水取り神事とお水送り神事

2012-09-10 21:26:59 | 日記

先日、小浜の蘇洞門を見学したついでに、「お水送り」神事で知られる若狭神宮寺と鵜の瀬も見てきました。

奈良東大寺の二月堂で毎年3月1日から2週間行われる修二会では、3月12日の深夜に「お水取り」神事が行われることはよく知られています。その時、二月堂の前の閼伽井屋から香水を汲み上げ二月堂の本尊に供せられますが、その香水が若狭の遠敷川から地下水路を通って流れ着いたものであるとの伝承が古くからあります。

「お水取り」神事に連動して10日前には小浜の若狭神宮寺と鵜の瀬で「お水送り」神事が行われます。ということは、鵜の瀬で遠敷川に注がれた香水は、十日かかって奈良に到着することになります。本当に小浜と奈良を結ぶ地下水路は存在するのでしょうか。諸兄はどう思われます。

お水取りとお水送り神事について、すこし調べてみました。それを以下の橿原日記でレポートしています。

http://www.bell.jp/pancho/k_diary-6/2012_09_07.htm


案山子コンテスト

2012-09-09 02:16:29 | 日記

今年も明日香の彼岸花祭の時期がやってきました。彼岸花が咲きそろうにはもう少し秋が深まる必要がありますが、稲淵の棚田で行われる案山子コンテストの参加作品がそろそろ出そろいました。今年も傑作揃いです。その一部を下記の「Panchoのデジタル・フォトアルバムで紹介しています。

http://www.bell.jp/pancho/photo_album/2012_09_08_kakasi.htm