去る16日の夜は、満天の星空の下で明日香村の劇団「時空」が演じる創作劇「古事記編纂-失われた記憶」を堪能してきました。そのあらすじは橿原日記でも紹介しています(http://www.bell.jp/pancho/k_diary-6/2012_09_16.htm 参照)。毎年この時期に上演される市民劇団「時空」の劇は古代史に題材を取ったものが多く、いつも楽しみしています。
ところで今回の創作劇は冒頭の部分で大津皇子の処刑の場がいきなり登場したのにはいささか驚きました。十字架に括りつけられた皇子に鵜野讃良が死刑を宣告します。創作史劇ですから、史実と異なっていてもいっこうに構わないのですが、良く知られた史実が別の設定で示されると、いささか違和感を感じさせるものです。
『日本書紀』の持統天皇即位前紀朱鳥元年十月の条には、次のように書かれています。
”庚午(かのえうまのひ)(三日)に、皇子大津を訳語田(をさた)の舍(いへ)に賜死(みまからし)む。時に年(とし)二十四(はたちあまりよつ)なり。妃皇女(みめひめみこ)山辺(やまのへ)、髪(かみ)を被(くだしみた)して、徒跣(そあし)にして、奔(はし)り赴(ゆ)きて殉(ともにし)ぬ。見る者(ひと)皆(みな)歔欷(なげ)く。”
つまり、大津皇子は刑場で処刑されたのではなく、自邸で賜死(しし)したと記されています。賜死(しし)とは死刑の一種で、君主が臣下、特に貴人に対して自殺を命じることです。一般には毒薬を自らの手で飲む一種の自殺型死刑と解されています。
それに、稗田阿礼は記憶を亡くして長らく歴史の舞台に登場しなかったのではなく、天武天皇の死後も歴代の天皇や皇族の殯の宮で誦習した帝紀や本辞の内容を奏上してきたと思います。元明天皇は老齢に達した稗田阿礼が死ぬことで、彼が記憶している内容が失われることを危惧して、太安萬侶に筆録を命じたと解する方がすなおでしょう。