科学と宗教の共存

意識の覚醒を通して新たなる領域を書いてみたい。

理性から愛へと自己拡大を目指して その三

2017-04-23 13:17:49 | 日記
 生きている言葉についてもう少し書いてみよう。

 高野山や伊勢神宮について、テレビ番組で紹介されていたときの記憶だが、高野山金剛峯寺でしたか、修行僧の日々のお務めとして弘法大師様に食事を運ばれている、と住職さんが語っていたのを記憶している。伊勢神宮でも同様のようなことが行われているという。

これを単に修行のひとつと考えているとそんなものかと聞き流す程度かもしれないが、御大師様が今も生きてお務めをされていると考えると、また違った視点が出てくる。
 それから、昔、瀬戸内寂聴さんが北海道長万部町で講演されたときに、源氏物語の専門家としていろいろと話されたのですが、源氏物語を読んでいると、作者紫式部の気持ちまでもよくわかってくると語っていたのを記憶している。
 
 また、聖書を身近によく読んでいる方であると、二千年前のイエス様の言葉が過去のものではなく、今も身近に新鮮に、あるいは鮮明に実感として分かる、こうしたことは可能だなあと思えてくる。

 仏教にしても、あるいは論語にしても、こうした教えを身近によく読んで実践すると、生き生きと分かってくる、、こうしたことは可能だと思う。
 しかし、これが理性の言葉では難しいのである。何故か。理性の言葉は、客観的であり、体系化されているので、そこには人間性というか各自の個性は捨象されていて、標準化、定式化された言葉として示されているので、こうした表現のあり方に原因があるとわかる。

 イエス様の教えは、聖書に書かれているが、私がよく読んでいるのは、「心身の神癒」という書物で、既に絶版になっている。原本については、
https://ja.scribd.com/doc/101117815/Macdonald-bayne-Divine-Healing-of-Mind-Body-Complete-E-book 
  にあるので、英語の得意な方にはよいかもしれません。
 「心身の神癒」は、ずうっと読んでいるので、体質的に馴染んでいる感じなのですが、最初は読んでも、すんなりと入って行けず、何年か放置していた記憶がある。原因は、理性の合理的思考、客観的思考にあると感じていたので、最初に理性の知識思考が身についてしまうと、心の抵抗があって受け入れが難しかったと記憶している。

 それで、①②③④と過程を踏んで愛の教えに入ると、分かりやすいということでいろいろと書いてきたということです。
 やはり、人生において座右の書というか、そうした書物を見出して、よく読むようにすると、人生は変わっていく、、これは確かに言えることですね。自分を動かす生きている知恵が出てくるようになるまで、読んで実践する、、こういう目標を掲げて努力することだと思う。

 さて、これまで、①②③④の順番に愛の意識を語ろうとしてきたが、これは理性の意識に分かるように語ろうとすると、中々難しいと感じながら書いていました。同様に理性の意識から生命を語るのも難しいし、ものから生命を語るのも難しい。科学では、物質、分子原子、細胞、脳、、などから生命にアプローチしようとしているが、これは中々困難な道であろうと思う。

 ①から生命を語るのは難しいが、④を前提に語ろうとすると、実に分かりやすいのである。比ゆ的に語ると、山に登るときのイメージを描いてもらいたい。麓を歩いている辺りでは、周囲しか見えないが、頂上近くになってくると、視野は開けてきて、登ってきた道、山の大きさ、周りの光景等、広く見渡すことができる。イエス様の愛の教えは、山の頂上から見ているような性質があると考えると分かりやすい。

 脳科学では、意識は、脳の活動として生じているという意識で研究しているようだが、これをイエス様の愛の教えで観てみると、意識とは脳の活動であると認めているということであり、この条件のもとで結果が出てくるということになる。
 これは仏教的に考えても、脳というものに縛られている考え方であり、ものに制約されたかたちで結果が出てくることになる。

 愛は完全理念であり、ものに制約されない。ものがなくなっても、愛は永遠に実存する。仏教的に言っても、心がものに縛られているならば、心は自由に動けない。心がものへの執着から解脱して、心は自由に自己展開する。自然法爾、想いが自然に発露して、心が生きてくる。ものに執着している意識とものから離れている意識では大きな違いが出てくる。
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