黒柴パルの部屋

日本人のDNAに刷り込まれたシバイヌ。

マタギ講座 覚書

2011-07-20 | インポート

 最後のマタギになるかもしれない、吉川氏の語りの覚え書きを記します。マタギというと、蓑笠かぶり獣の皮をまとった風体をイメージするが、現代のマタギである氏は、四駆にのり、パソコンによるプレゼンテーションをこなし、服はゴアテックス、靴もなにやら高機能らいしトレッキングシューズです。熊の湯という旅館を経営し、川や山での人命救助は数えられないそうだ。警察の捜索方法とは違う方法で探し、別れたところで、別れてからの時間を聞き、45分で一Kmと勘算し、元の方向へ進んで、声を出して探すのだそうです。

マタギ講座覚え書き

マタギというのは、クマなどの大型獣を捕獲する技術と組織をもち、狩猟を生業としてきた人をいう。マタギとは、又鬼とも、又木とも書く。又鬼は、山に入り、鬼のような気持ちをもたないと、クマなどの生きものを殺せないからという。又木という説があるのは、又になった木を杖としてもったからともいう。領地をまたいで、猟をするからという説もある。

 マタギは山を神聖なものとし、山自体を神としてとらえ、獲物は神様からのいただきものと考える。山へ入る時は儀式を行い、山へ入るとき、谷に入る時、そのところどころで感謝する。入山したら、一月は山で、マタギ小屋で暮らす。獲物がとれるまで、山で暮らす。クマを打ったら、頭を下流へ、尻を上流に向けて置き、オスなら手や足をどう組むと決まっており、メスならその逆に組む。さばく手順も、頭をうって、十字に刺し、切り開き方にも順序がある。

 山の神は醜女とされる。だから、醜いオコゼなどを捧げると喜ぶ。新婚のマタギ、赤ちゃんの生まれたばかりのマタギは猟につれていかない。それは、そのことが気になって、集中できないからである。逆に、身内に不幸のあったマタギは猟にはふさわしいとされる。それは、悲しみから立ち直らせる、気持ちを切り替えさせるためでもある。

 マタギの歴史は1000年以上あり、吉川氏の家に伝わる巻物も600年以上のものだという。書き写し、書き写しされてきたようだ。これについては、今年の八月上旬にNHKのBSで森人という番組で、吉川氏の話が放映される予定であるそうだ。巻物の中身はよくわからない呪文、覚書などである。基本的にマタギの作法は、口述のみで伝えられる。文章化したものはない。マタギは山に入れば、日常とは別の言語を使う。それが仲間うちの連帯感を生み出す。自分が死期を悟れば、次を見込む人に、口述で伝える。マタギは本来宗教的なものではなかったが、今では、神道系、仏教系のように別れる、それぞれ儀式が違う。聞いた話として、大正時代に、山に現れる別のマタギがおり、わからない言葉を話していた。それはアイヌだったのではないかということだ。しかし、そのうちに姿を消したという。昔はクマを年に三頭打てば暮せたそうだ。クマがとれない時は、カモシカ、テン、山鳥などをとる。しかし、今ではカモシカも禁漁になった。マタギは実力の世界である。リーダーは猟の作戦を練る力、統率力、判断力をもつ。優しい人はダメだ。最近の若い人たちと一緒にはできない。彼らは、スポーツとして猟をしようとする。マタギは山に対する畏敬があり、取りすぎない、自然に対する配慮がある。ある一定距離逃げたものは、それ以上追わず、山の神が逃がしたと考える。

 マタギは12人では山に入らない。それは、山の神の日が12であり、12日は猟を休む。これは、乱獲を防ぐためでもあったのであろう。西目屋のマタギが昔、12人で山に入り、霧の中、一人ずつ谷を下りて行った。一人が下へ降り、オーイと声をかけ、オーイと返事があれば、また次に降りた。12人目が降りようとしたとき、本来なら、最初に降りた人が向こうの山へ上がってこなければならないのに、その気配がないので、おかしいのに気付いた。雪崩でできたような穴に落ち込み、11人が亡くなった。そのことから、山の神の12を犯したからと考えられ、その後12名にならないようにしている。たまたま二つのグループが出会い、12人になってしまったら、人形(三助)を作り、13人いることにする。マタギ小屋の中でも、たまたま12人になったら、13人目をこしらえる。

 青森と秋田をつなぐ、青秋林道が作られようとしたとき、山を保護する運動をし、知事が動き、その後、それが世界遺産登録という思わぬ方向になった。しかし、世界遺産になって、よかったことはなにもない。クマをとりに入っていた山にはいれなくなった。山菜とりに入っていた山に入れなくなった。今では調査のためだけになら入れる。しかし、それは調査のためであり、クマをとることができない。

 マタギ文化はすたれてしまう。自然と共存してきた、とりつくさず、適数を維持するよう配慮された狩猟の文化であった。ユネスコはそれを含めて、世界遺産と認めたはずであったが、日本政府はそれを外した。管理できないものがあってはいけないのだろう。政府は立ち入り禁止とし、地元民の暮らしが犠牲となった。5年後、10年後に見直すと言ったが、今だ、見直されていない。意見を言うと、文句を言うといわれ、様々ないやがらせ、迫害を受けてきた。運動を続けてきて、失ったものは大きい。しかし、新たな出会いも、学びもあったし、これが宿命と受け止めている。

 保護された動物は増えすぎる。クマ、サル、シカなど。狩猟で適数が維持されたていたのが、今では増えすぎている。それが、人里を荒らす。クマも今はまだ、ヒトは怖いものとして母から子へ伝えられているかもしれない。しかし、保護されると、殺されないと、ヒトが怖いと思わないクマの世代が現れてくる。

 白神の山はまだ、年に1.3ミリ隆起しつつある。白神山地という名前は昔からあったのではない。自然保護運動をするときに、大義名分とともに、区域をもうけなければならず、その区域を白神とすることにした。それにマスコミが飛びついて、定着した。昔は、弘前の西山とか、大川の山とか、赤石の奥山などと呼んでいた。

 ヒトが作った、砂防ダム、三面張り川、テトラポットによる港湾、今では、効果がないことが証明されつつある。自然の脅威から土地や人命を守ろうとしても、自然を保護しようとしても、なかなかうまくいかない。

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