勿論他の国々でも、住人との心の交流はあった。だが、フォー・ドーファンの山の中ほど心に残ったことはなかった。「素朴」であるとの表現では云い尽くせない純なものを彼等に感じた。私が泊った村はまるで石器時代にタイム・スリップしたのではないのかとさえ感じた。彼等は文明の利器を全く持っていない。今は動いていない発電機と製材機はあったが、これは彼等のものではない。レオング・オーレン社長が運び込んだものである。テレビ、ラジオは勿論のこと、時計さえない。必要としないのである。陽が昇れば起き、太陽が完全に沈んでしまえば寝るだけである。私が持っていたバカチョンカメラにも、時計にも全く興味を示さなかった。だが、懐中電灯には多少の興味を示した。この村には非常にお世話になったので、必要ならと村長に差し上げてきた。持っているだけの予備のバッテリーも全部を差し上げたが、それが切れた後の補充はどうするのかと心配になった。レオング・オーレン社長が「私が何とかします」と云ってくれた。
往きや帰りの途中で出会った山の民たちも、まるで純粋培養された人たちのように感じた。彼等の言葉には「善意」だけで「悪意」と云う言葉がないのだろう。言葉が通じなくとも、彼等と心が通じ合った実感はあった。そして、善意だけしか感じなかった。私が出会った人たちは誰もが幸せに見えた。資産や文明の機器が人間を不幸にしているのかとさえ考えた。だからと云って、私が永遠にこの山中で暮らすことは出来ないだろう。住んでみたいとの憧れはある。だが、幾ら願っても実現の出来ないことである。
畑の手入れをしている一家に出会った。作業をしている姿を撮りたかったのだが、カメラを向けた途端に全員が集まってきた。若い父親はどうしたわけか手製のギターを抱えた。
このだらだら坂を登りきると、車を停めてあるところに出る。嬉しいことに、上半分だけではあるが我々の車が見えた。
やっと車の停めてある村に着いた。レオング・オーレン社長も、「発電機」のオジさんも、なんとなく疲れが顔に出ていた。それを見て、私は安堵した。オーレン夫人は写真を撮られるのを嫌がった。彼女の顔にも疲れが出ていた。
車の中は溶鉱炉のように熱くなっていた。窓とドアーを開けて空気を入れ替えていると、村人が集まってきた。興味深げに車の中を覗いたり、我々の持ち物にまで興味を示していた。カメラを向けると、車から離れ、写真を撮られることの方に興味を示した。
彼等の写真を撮っていると、さらに村人が集まってきた。まるで集合写真を撮るような状況になってしまった。子供だけではなく、大人まで真剣な顔をしてカメラの前に立った。
折角なので、彼等の招待に応じることにした。よく熟したココナッツのジュースが旨かった。
対岸のシャンブー・シャラシャラがこっちへ向かって来たと思ったが、すぐに引き返してしまった。客が呼び戻したようだ。真っ青な川面を乱すのは時折吹く柔かい風と、シャンブー・シャラシャラだけだった。
日本でなら「片肌脱ぎ」と云うべきだろう。12才か13才ぐらいだろうか、家族全員の洗濯物を引き受けたらしく大量の衣類が置いてあった。最初は表情が硬かったが、対岸からシャンブー・シャラシャラが到着するころには、はにかんだ微笑を見せてくれた。実に可愛い笑顔だった。
対岸ではやっとトラックを積み終えた。10トン車だと思うが、荷物を積んだままシャンブー・シャラシャラに乗せても平気だとは驚きだ。
我々の四輪駆動車を乗せ、いよいよ対岸に向けて出港することになった。
フォー・ドーファンに近づいてきた。その証拠に、川には橋が架けられていた。幅は狭いが、大型のトラックの通行も心配のないほどの強度があった。
フォー・ドーファンの海岸。非常な懐かしさを感じた。
お嬢さん方が私の無事な帰還を待っていてくれた。いや、そうではなく、私と食べるアイスクリームやケーキを待っていたのだろう。
ホテルのマネージャーも私との再会を歓迎してくれた。そして、「これからはずっと日本の国旗を掲げておきます。いつでもいらしてください」と嬉しいことを云ってくれた。
往きや帰りの途中で出会った山の民たちも、まるで純粋培養された人たちのように感じた。彼等の言葉には「善意」だけで「悪意」と云う言葉がないのだろう。言葉が通じなくとも、彼等と心が通じ合った実感はあった。そして、善意だけしか感じなかった。私が出会った人たちは誰もが幸せに見えた。資産や文明の機器が人間を不幸にしているのかとさえ考えた。だからと云って、私が永遠にこの山中で暮らすことは出来ないだろう。住んでみたいとの憧れはある。だが、幾ら願っても実現の出来ないことである。
畑の手入れをしている一家に出会った。作業をしている姿を撮りたかったのだが、カメラを向けた途端に全員が集まってきた。若い父親はどうしたわけか手製のギターを抱えた。
このだらだら坂を登りきると、車を停めてあるところに出る。嬉しいことに、上半分だけではあるが我々の車が見えた。
やっと車の停めてある村に着いた。レオング・オーレン社長も、「発電機」のオジさんも、なんとなく疲れが顔に出ていた。それを見て、私は安堵した。オーレン夫人は写真を撮られるのを嫌がった。彼女の顔にも疲れが出ていた。
車の中は溶鉱炉のように熱くなっていた。窓とドアーを開けて空気を入れ替えていると、村人が集まってきた。興味深げに車の中を覗いたり、我々の持ち物にまで興味を示していた。カメラを向けると、車から離れ、写真を撮られることの方に興味を示した。
彼等の写真を撮っていると、さらに村人が集まってきた。まるで集合写真を撮るような状況になってしまった。子供だけではなく、大人まで真剣な顔をしてカメラの前に立った。
折角なので、彼等の招待に応じることにした。よく熟したココナッツのジュースが旨かった。
対岸のシャンブー・シャラシャラがこっちへ向かって来たと思ったが、すぐに引き返してしまった。客が呼び戻したようだ。真っ青な川面を乱すのは時折吹く柔かい風と、シャンブー・シャラシャラだけだった。
日本でなら「片肌脱ぎ」と云うべきだろう。12才か13才ぐらいだろうか、家族全員の洗濯物を引き受けたらしく大量の衣類が置いてあった。最初は表情が硬かったが、対岸からシャンブー・シャラシャラが到着するころには、はにかんだ微笑を見せてくれた。実に可愛い笑顔だった。
対岸ではやっとトラックを積み終えた。10トン車だと思うが、荷物を積んだままシャンブー・シャラシャラに乗せても平気だとは驚きだ。
我々の四輪駆動車を乗せ、いよいよ対岸に向けて出港することになった。
フォー・ドーファンに近づいてきた。その証拠に、川には橋が架けられていた。幅は狭いが、大型のトラックの通行も心配のないほどの強度があった。
フォー・ドーファンの海岸。非常な懐かしさを感じた。
お嬢さん方が私の無事な帰還を待っていてくれた。いや、そうではなく、私と食べるアイスクリームやケーキを待っていたのだろう。
ホテルのマネージャーも私との再会を歓迎してくれた。そして、「これからはずっと日本の国旗を掲げておきます。いつでもいらしてください」と嬉しいことを云ってくれた。
先日のある会合で、アフリカ旅行の話が出ました。その時の一人がマダガスカルに行きたいと言いました。聞いてみると、彼もJamcoさんのブログを読んでいると聞いて驚きました。うれしい偶然でした。
お説のように、未開の地から文明社会へ、一日もかからずに帰ってまいりました。当時のフォー・ドーファンの街並みは決して文明社会のそれではなかったのですが、電信柱を見るだけでたいそう開けた街にいるのだと実感しました。そして、ホテルの浴槽にお湯をいっぱい溜めて入った時の心地よさは今でも忘れてはいません。
三月の半ばごろから、私のブログのご購読者様が急激に増えています。そんな中で、それを実証するような旅好きさんのお話は非常にありがたいことでした。これからも宜しくお願い致します。
それから現在にかけて経済先進国と言われる国々は資源調達でアフリカ大陸等に進出していますが、この影響で
この国の環境、文化が乱されないことを願わずにいられません。
私の行ったフォー・ドーファンの山中の開発が行われたと云う話は聞いておりませんが、他の地域ではかなり開発が進んでいるようです。
森林省では、遅ればせながら貴重な樹木の伐採に関してかなり厳しい規制を行っているようです。而し、マダガスカルの北部では中国人が盗伐をした木材をどんどん中国に運んでいるようです。違法滞在の中国人を無理に追い出さなかったマダガスカル政府の温情が逆目に出たようです。