蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

神戸新聞の布引谷・市ケ原の豪雨災害に関する、エエカゲンで呆れる記事

2014-11-30 06:08:29 | 神戸布引谷での出来事

ワタクシは5歳の時、両親に連れられて布引谷の住民になり、28歳で所帯を持つまでそこに棲息していた。
そこは麓の布引や熊内から歩いて30分以上、標高200mの地点にあった。周りにはハイカー相手の茶店以外、何の店もなく、コックをひねればお湯が出たり、排せつ物が流れ去ると言う近代的生活とは、28歳まで無縁だった。
オヤジが神戸で働くようになったため、ここに引っ越しして来たのだが、何故山の中に家を、と言うハナシになると、それはオヤジに金がなかったから、要するに貧しかったからだ。

そんな山の中でも、そこから通学する仲間はいて、引っ越しした翌年から麓の幼稚園へは3人で通った。

 通学路の大半は、神戸市水道局が管理するハイキングコースだった。

そして小学5年の時、布引谷の東側に聳える世継山にゴルフ場が出来て、そこの従業員が住み出し、小中学生も増えた。
しかし、その4年後、昭和42年7月9日、ゴルフ場の開発により脆弱になった世継山の斜面が、集中豪雨で崩壊し21人が亡くなった。中学生になって初めて夏休みを迎えるマリちゃんと、彼女の妹、弟を含む小学生5人も巻きこまれた。

斜面の崩壊はゴルフ場の開発が原因の人災とされ、当然ゴルフ場は閉鎖、その従業員家族はいなくなり、ゴルフ場が出来る前からいた住民も徐々に布引谷から出て行った。最多で4人いた同級生は、高校の頃には全くいなくなったのだ。
ワタクシの、一人でいるコトが平気な、このヘンな性格は、この時期に培われたモノではないかと思う。

しかしその後、ワタクシも街で暮らす様になり、最後まで残ったナカモリ君もその数年後、街で所帯を持つことになった。 

この国の高度成長期に、阪神工業地帯の港町・神戸の山中・布引谷から、多い時には10人以上の小中学生が歩いて通学していた。そして今、誰もいなくなった。

ワタクシはこのブログにカテゴリー「神戸布引谷での出来事」(この辺りは通称、市ケ原と呼ばれるのだが、国土地理院の地図では「生田川」「葺合町」、昭文社の山と高原地図では「布引谷」と載っていて、ワタクシは我が成育地を「神戸布引谷」とした)を設け、布引谷・市ケ原から通学した奇妙な子供達の存在、つまりそれは奇妙な自分の存在なのだが、彼らの思い出などを書き残しておこうと思った。

ただ、幼い頃のまた聞きのまた聞きとか、曖昧なコトなども多々あり、それらは櫻茶屋のレイコさんに聞くコトにしている。彼女はワタクシの雲中小学校の20年先輩だ。

先日、半年ぶりに戻った時も、神戸新聞の豪雨災害特集記事に載っていた、ある事柄について確認しようと思っていた。それは7年前の記事だったが、いつでも聞きに行ける、と思っている内にレイコさんは80歳を越え、ワタクシは60歳を越えてしまった。

その日、最近のツマラナイ出来事など色々聞いたり話したりした後、神戸新聞のエエカゲンなあきれた話しを始めたのはレイコさんの方だった。

「8月の終わり頃やったか、神戸新聞が来てなぁ、あの時の大災害のコト、知ってる人おらんか、と聞いて来てン」、とレイコさんは話し始めた。

神戸では、昭和13年にも豪雨災害があったが、その時、布引谷・市ケ原では犠牲者は出なかった、と聞いている。あの時の大災害とは、現在櫻茶屋がある場所から数100m上流にあった旧櫻茶屋一帯を、山津波が襲い21人が亡くなった、上述の昭和42年の豪雨災害ことだ。

「ワタシ、知らん、おらん、言うてん」

あの山津波で7人の家族を亡くしたU本さんは、1年前に倒れて今は施設にいる。おそらくもう戻ってくることはない、そんな雰囲気だ。
旧櫻茶屋の主人も、娘夫婦、息子のヨメ、マゴと共にその時に亡くなり、女将は奇跡的に助かった。
レイコさんはその女将の姪になるそうだが、女将は主人の後妻だそうで、亡くなった人達とは血の繋がりはないらしい。しかも水害の日は旧櫻茶屋にはいなかった。要するに被災者でも遺族でもない。
ただオバサンが住む旧櫻茶屋へはしょっちゅう泊りに来ていて、休みの日などは週明けの授業の教科書を提げてやって来て、翌朝市ケ原の小学生と一緒に雲中小学校へ登校していたらしい。また山津波当日の状況は、奇跡的に助かったオバサンから詳しく聞いている。
そしてオバサンと桜茶屋を再興され、今は一人で茶店を維持しながら市ケ原を見守っておられる。

しかし、もう仰々しい新聞社の取材など受けたくなかったのだろう。そもそも新聞などに出たがる人ではない。それで「知らん」と応えたレイコさんの気持ちはよく判る。

そしてもう一軒の茶店についても、「災害の後やって来た人で、当時のコトは何も知らん」、と教えたそうだ。

もう一軒の茶店とは、我が山の家の隣にある。

その茶店、昔は手伝いの女性も何人かいて、谷側に張り出した大きなベランダにテーブルをいくつも並べ、 とても繁盛していた。
主人は神戸製鋼が鈴木商店の頃、そこへ顔パスで入れる程、大がかりに商売をやっていて、息子は医者になったり、娘は社会的地位のある先へ嫁いだり、兄弟は三ノ宮で何軒かの店をやっていたりと、要するにそこそこ“立派な人物”だったそうだ。また、周りの木々を相手にチャンバラをして遊んでいたワタクシを、樹木は大事にしないといけない、と諭す好々爺でもあった。
ヒロミちゃんと言うお孫さんが住んでいたこともあり、他所に住む賢そうな兄弟、美人姉妹のお孫さんも、夏休みには泊りに来ていた。

そんな隣の茶店に集う人達が、女将が亡くなり、後妻が娘と息子を連れてやってくると、ゴッソリいなくなった。ワタクシに木々を大事にしなさいと諭した好々爺は、実はオメカケさんがいて、子供ももうけていたのだ。
つまりオメカケさん親子がやって来た後は、先妻時代の親族、主人の兄弟までもが寄り付かなくなった。そう言う“オトナの事情”を周りの大人が話していた。
寄りつかなくなったのは親族だけではない、それまでの固定客も寄りつかなくなり、茶店の“ハヤリ”は急に“スタレ”ていった。

昭和42年の豪雨災害は、女将がオメカケさんに替ってから起こったので、今の主人であるその息子は災害当日、布引谷にいて、ワタクシ達と一緒に山が崩れていくのを見ていた。
しかし、全く存在感はなかった。山津波に呑まれ最初に発見された旧櫻茶屋のマゴとは、同学年のはずだが、一緒に通学した仲間ではない。
だからレイコさんも災害時にはいなかった、と勘違いしたのだろう。しかし、現女将は災害の数年後嫁いできたので、明らかに災害時のコトは知らない。

「で、神戸新聞はどうしたんですか?」
「それがやなぁ、その後送って来た新聞、見たら、夫婦で写真に写って載っとンねン、ワタシ、あの二人は災害のコト知らんて言うたのにィ」、それはどうも防災の日、9月1日に発行された朝刊のようだった。

「で、どんなコト、言うてましたン?」
「何やアホラシなって、よう見てヘンねけど、えらい目に遭うたけど負けんとガンバっとう、みたいなコト言うてた様な ・ ・ ・」
「でもあの主人、茶店や周りの土地、売り飛ばして、確か海辺の村へ引っ越したい、とか言うてましたよ、具体的になったのでウチとの境界に柵、立てたいとか、訳の判らん事も言い出して、市ケ原でガンバっとうちゅう様な感じとは全然 ・ ・ ・ 」
「そうや、あの夫婦がエエかっこ言うたンか、神戸新聞がウソ書いたンか、よう知らんけど、どっちにしてもエエカゲンな話しや、あきれるわぁ」
「ところで、これも神戸新聞の記事ですが、チョット確認したいコトがあって」、とワタクシは’07年に発行された豪雨災害の特集記事の、ある箇所を見せた。

そこには、42年の山津波で、“登山客に「峠の茶屋のおじさん」と慕われていた桜茶屋の主人も犠牲になった”と書いてあった。

「峠の茶屋て、そんなンありました?」
「昔、今のハーブ園の入口あたりに茶店はあった、あの辺にも別の道、あってン」
ハーブ園の入口、それは昔のゴルフ場の入り口でもあるのだが、当時“イモホリ峠”とか呼ばれていた。名前の由来は知らない。

「で、その茶店の主人て、昔の桜茶屋の主人、あのオジイサンだったンですか?」
「いいや、桜茶屋とは関係ないよう、全然別、そうそう、私の友達が空襲で家燃えて、しばらくそこへ住んどった言うてたわ、その子ォの親戚やったらしい、そやから峠の茶店と桜茶屋とは違う、それとも昔、桜茶屋があったあそこ、あれ峠かァ、違うやろゥ」
「ほんなら、この記事、何なンでしょうね」
「こないだの記事みたいに、エエカゲンなコト、書いたンちゃうのン、神戸新聞は、ホンマあきれるなぁ」

そしてワタクシが、その様なエエカゲンなコトではないか、と疑っている事柄はもう一つあった。
それはその茶店のおじさんが、“山を人一倍愛し、「山をけがすヤツはこのツエでたたき出してやる」が口癖だったと(慕っていた登山客は?)いう”と、書かれた部分だった。
それが「峠の茶屋のおじさん」の口癖だったのであれば気にはならないが、「桜茶屋の主人」の口癖であれば、ワタクシが見聞きした事実とはかなり違う。

当時、布引谷・市ケ原の村長的存在で、兵庫県から“のじぎく賞”で表彰もされ、我々子供達から“桜茶屋のオジイチャン”と呼ばれていた桜茶屋の主人は、毀誉褒貶と言うか、悪いウワサが色々あった。

新しく引っ越してきた住民にはコマゴマとイヤガラセをしていたそうだし、崩れそうな別荘の石垣に“子分”を使って細工をさせ、大雨の後、崩れた石垣の所有者に文句を言い、それを直して小銭を稼いでいた、と言うウワサもある。それは、細工をした“子分”が仲間にそうバラしていたらしい。

ニンゲンが山中で生活すること、それ自体が“山をけがす”コトになるのだが、山をけがして最初に住んだ者は、次に来る住人を“山をけがすヤツ”としてたたき出そうとする、そう言うコトをニンゲンはするのだろう。それも既得権益なのかも知れない。

しかし“山をけがすヤツ”の最大、最悪の対象は、世継山周辺を乱開発して出来たゴルフ場であり、それを桜茶屋の主人がたたき出そうとしたことを、ワタクシは聞いた事がない。

当時、昭和34年頃、市ケ原にはゴルフ場造成に反対していた、平井某氏が代表者の組織はあったらしい。確かに雲中小学校の同窓会名簿には、昭和24年と31年に市ケ原に住む平井姓の卒業生が載っている。
しかし、この平井サンという人達をレイコさんは知らないと言う。別荘が何軒かあって、そこの住民だったらしいが、茶店の関係者とは付き合いが薄かったらしい。当然ワタクシも、オトナの会話にですら、平井サンの名前を聞いた事がない。
どう考えても櫻茶屋の主人が、平井某氏の反対運動に加わってゴルフ場をたたき出そうとしたとは思えない。

そして、桜茶屋の主人はゴルフ場に反対するどころか、それを推し進める側に変わったそうだ。ゴルフ場造成の付帯工事か何かで、一人暮らしのオバアサンの同意を得る必要があって、中々そのオバアサンが首を縦に振らないことが騒ぎとなり、桜茶屋の主人が乗り出してメクラ判を押さした、そんなコトをオトナ達が話していた。
「そやからバチ当たって、最後まで見付からなンだンや」、と言っていたオトナもいた。

いずれにせよ、桜茶屋の主人も推し進めたゴルフ場は、世継山をグチャグチャに切り開いて完成し、4年後、集中豪雨で山頂直下にあるコース辺りから崩落し、桜茶屋一帯を押し流し、21人が亡くなって、一緒に亡くなった桜茶屋の主人は、一番最後に貯水池から見つかった。

それは、“山を人一倍愛し、「山をけがすヤツはこのツエでたたき出してやる」が口癖だった”との、神戸新聞の記事とはイメージとはかなり違う。何故そんな記事が出たのか。

それは思いこみだと思う。

新聞の記事は真実、事実に基づくモノではなく、記者、編集者、新聞社の思いこみで作られるモノ、も多いのではないか。
某巨大新聞社の吉田証言、吉田調書に関する誤報騒動も思いこみで、ただその思いこみの方向は間違っていないとワタクシは思う。
特に吉田証言では、誤報によりニホンが貶められた、と騒ぐエライさん、論客も多いそうだが、貶められたのは、大陸に侵略し、米国に奇襲攻撃をかけ、ニホンを戦争に導いた、旧ニホンの支配層、軍部であり、60年以上、ニホンジンであるワタクシは貶められた、とは思っていない。

この神戸新聞の記事も、誤報などと言う大げさなモノではないが、思いこみだと思う。
俗から離れ、山中に暮らすニンゲンは、ただ自然を愛し、災害には負けず、“清”で“純”な煩悩も少ない人、と言う思い込み、しかし、その方向はかなり違う。

この国の高度成長期に、布引谷山中に住んだ人々には、まず経済的理由があり、案外、欲ドシイ人物が多かったのだ。

金が無いから街には住めず山に来た、と言うオヤジはワタクシのオヤジ以外にもいた。「山もエエでェ」と言いながら。

また学生の時は山岳部で、山が好きだと言ってやって来た近所のオヤジは、布引ウォーターを使ってマスの養殖をしようとした。十和田湖のマスの養殖の事を授業で知って、「それとおんなじやねぇ、オッチャン」、そう話すと大変喜んでいたが、結局上手くいかず、後年は出没が増えたイノシシを捕まえて、ボタン鍋向けに養殖しようとしたらしい。
山が好きやと言いながら、山でひと儲けしようとしていた訳だ。

防災の日の神戸新聞の朝刊に載ったもう一軒の茶店の主人は、建機のレンタル業もやっており、周囲の保安林を自由に使える、そんな権利を先代サンから相続したと勘違いしたのか、そこにプレハブ事務所を建て、周囲の空き地を建機の置き場にした。
建機と言うのは置いておくとサビる。要するに汚い。当時は他の住民と大モメしたらしい。
災害後、周囲の土地所有者は神戸市に代わり、市街化調整区域にもなっているので、このプレハブは違法建築物であり、建機の置き場は保安林の不法占拠になる。
にもかかわらず、本人が意識していたかどうかは別にして、建機レンタル業を営むのに伴う賃料を、何十年も逃れてた事になる。
これもかなり大きな経済的理由と言える。

真に布引谷の自然が好きで、布引谷の自然を金儲けの対象としなかったのは、ワタクシの記憶ではたった一人。
その紳士は、布引谷に惚れたついでに、レイコさんにも惚れ、櫻茶屋の住民となった。ザイルを使ってもっと高い山へ登ろうとする我々の良き理解者でもあり、周辺の整備はさることながら、ハーブ園開発の始まると反対運動の先頭に立った。しかし早々に亡くなられた。確か60そこそこだったと思う。真に自然を愛する人は儚いのか。
この紳士がまだ生きれおられれば、自然を純粋に愛する茶店の主人として、レイコさんの記憶を補助しながら神戸新聞の取材を受け、防災の日にふさわしい記事が出来たのではないか、と思う。

ところで昔、布引谷へ新聞を配達してくれる業者はなく、朝起きると朝刊が放り込まれていると言う生活も、街で所帯を持った28歳からだった。
家人はまだまだ先になるにも関わらず、子供の進学を考えて、受験問題によく使われる「天声人語」が載る超巨大新聞がいい、と主張したが 、ワタクシは巨大メディアは問題も多いと聞いていたので、地元の神戸新聞を選択し、それを30年以上継続していた。

2年程前、そんな神戸新聞に載っていた荒唐無稽な広告を見て驚いた。

それは「幸福のナントカ」と言う宗教団体が関係しているらしい映画の全面広告だった。日本で、海外で大ヒット上映中、と書いてあったが、そんな映画の話題は聞いた事がなかった。
広告には、「このままでは日本は占領される」とか、「原発ゼロは日本が中国や北朝鮮の核に対する抑止力を失うことを意味する」とか、「中国の核ミサイルが日本の14都市を狙っている、人類最高の霊能力が中国の謎の構造物を遠隔透視、そこには核ミサイル基地と宇宙人基地が存在した」とか、訳の判らん非現実な文言が並んでいた。
この宗教団体、幸福ナントカ党とペアの、あの団体だ。幸福ナントカ党は、ニホンはチャンと軍隊を持って、危険な北朝鮮には先制攻撃すべし、と訴えたりした、キレイなカラー刷りのビラを時々我が家のポストに投げ込んでいる。
しかしその日ワタクシが見ていたのは、そんなビラではなく神戸新聞の全面広告だった。

広告収入が重要なのはそれなりに判る。しかしこんな非現実で荒唐無稽な広告を見て、少なくともワタクシは気分が悪くなった。
そしてそんな広告を載せる神戸新聞はもうヤメようと思った。
それが何故かダラダラ続き、やっとお断りのTELを入れたのが8月末。

その結果、防災の日の、レイコさんが「エエカゲンな話しや、あきれるわぁ」と評した記事を、幸いにも見ないで済むことになった。見たらまた、気分が悪くなっていただろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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3 コメント

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市ヶ原の豪雨災害 (シエル)
2017-07-09 21:03:39
はじめまして。
神戸に在住です。こないだ神戸市広報に この昭和42年の水害が載っていて、母から昔そのような水害があった事は聞かされていたのですが、市ヶ原の話は広報から知りました。

小学校時代によく親と布引に登っていたので、市ヶ原の話は本当に驚きました。
同時に今まで知らなかった事を恥ずかしく思いました。
広報にはゴルフ場の事は書いていなかったので、自然災害でなく、人災だったのもショックでした。
亡くなられた方々の御冥福をお祈りします。

市ヶ原の水害を調べていて このブログに出会いました。
コメントありがとうございます (蒼ざめた馬)
2017-07-11 21:27:53
シエル様、コメントありがとうございます。ハーブ園-世継山のその前をたどると、どうしてもゴルフ場-豪雨災害に辿りつきます。国の認可が先にあったとしても、神戸市には、それを追認した後ろめたさがあるのでしょう。だから何も書かない。しかし今回、神戸新聞の特集でこの災害を取り上げるそうです。小生はこの災害の遺族でも被災者でもありませんが、中学生になったばかりのマリちゃんを含め、21人が亡くなった事実として、絶対忘れてはいけないと思います。
お返事ありがとうございます。 (シエル)
2017-07-15 15:24:34
そうですね、神戸市は後ろめたいのでしょうね。
ハーブ園が出来た時に、あんな山中に広大な施設をよく作ったのだなあ…、と不思議に思ったのを覚えています。
ゴルフ場があった長年放置していた場所だと知り、納得しました。
当時の地図を掲載されているブログがあり、今の地図と照らし合わせてさらに納得しました。
蒼ざめた馬様が書いておられるように 当時亡くなられた方々のお名前や 覚えておられる思い出の日々の記載は、本当にその時代をリアルに映し出し、亡くなられた方々の 悲しくも失われた輝かしい人生が 垣間見られ 決して忘れてはいけないものだと強く思いました。
これから先 市ヶ原…布引谷を訪れる度にこれらを忘れず黙祷を必ず捧げようと思います。
本当教えてくださった事を感謝しています。
蒼ざめた馬様のブログはとても楽しく、日々の生活や布引谷での思い出のお話は引き込まれて読んでいます。

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