凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも井伊直弼の大老就任が無かったら

2009年05月31日 | 歴史「if」
 徳川幕府は倒れるべくして倒れたのか。その問いには、そうだろうとしか言いようが無い。
 世界史の情勢を見れば、あれ以上封建制の社会が日本で続いていくことは難しかったと考えられる。いかに極東の国であったとしても世界の流れには抗うことは出来なかっただろう。確かに、日本と比べ清朝や李氏朝鮮はもう少し生命を永らえたが、日本もその態で封建制とその中心である徳川幕府があと4、50年命脈を保ったとしたら、列強の中で植民地化、或いはそれに近い歴史が刻まれていた可能性も少なくはない。
 だが、徳川幕府及び封建制社会が倒れ中央集権制の政府樹立は必然であったとしても、それが薩長によって幕を下ろされなければならなかった必然性はさほど強くなかったのではないだろうか。結局は薩長による革命戦争によって政権奪取がなされ明治政府が誕生するのだが、方法論はまだいくつも道があったのではなかったか。
 徳川幕府は天保の改革以来、確かに疲弊していた。そこへペリーがやってくる。鎖国という祖法(と考えられていたもの)は否応なしに変更せざるを得なくなる。その中で、幕政改革がまた声高に叫ばれ始めた。このままではいけない。国としてどういう方針を採って列強と対峙していくのか。開国か、それとも攘夷か。あるいは第三の方法か。
 ペリー・ショックによってそうした論議(多分に思想論かもしれないが)が巻き起こる中、「倒幕」という考えはまだ表には出てこない。ベクトルはまだ「幕政改革」によってこの危機的状況を乗り越えようとする考えが多数であったと考えられる。これが「倒幕」に移り変わるのはいったいいつの事か。
 いろいろ考えていくと、どうもそれは井伊直弼が大老に就任して後のことではなかったか、とも思えてくる。

 井伊直弼の大老就任によって歴史はどう動いたか。
 ペリー来航時の幕府は、老中阿部正弘を首班とする内閣だった。アヘン戦争などによる列強の帝国主義の恐怖は既に伝わっており、そしてこのペリーによるアメリカの開国要求に対し阿部は、挙国一致内閣で乗り切ろうとする。具体的には、開国は避けられぬ状況下にあって、攘夷論者と言われる御三家で水戸藩の徳川斉昭を取り込み、さらに譜代の有力大名であった松平春嶽や外様の島津斉彬とも連携し、さらに大胆な人材登用で有能な官僚を配置して国難を乗り切ろうとした。これにより、筒井政憲や川路聖謨、岩瀬忠震などの人材が登場し、大久保一翁、永井尚志、また勝海舟らも連なって後に表舞台に出てくる道が出来る。
 逆に言えば、幕政秩序を崩したとも言える訳で、譜代大名中心幕政から外様大名の侵入も許し、また身分の壁も低くなってしまった。
 日米和親条約調印後、阿部正弘は死去する。享年39歳。心労によるものか、若すぎる死だった。
 この阿部正弘がもしももう少し長生きすれば、井伊直弼がどうなったかは興味のあるところだが病死はしょうがない。幕閣は堀田正睦が首班となる。

 ここらへんから、話がややこしくなる。対立軸が数多く出てくるからだ。
 対立軸その一。守旧派と改革派という軸。
 阿部正弘は幕政秩序を崩した、と前述した。これが我慢ならない一派も当然存在する。特に水戸の徳川斉昭の幕政参与は、従来の幕政を担ってきた譜代大名と当然ぶつかる。斉昭は水戸学をバックにした強烈な攘夷論者であり(そう言い切っていいかどうかは判断が難しいがここではとりあえずそうする)、開国を推し進めていた幕閣とぶつかり、松平乗全・松平忠固両老中更迭という結果となる。これに譜代大名は反発する。その筆頭は、譜代の名門中の名門である井伊家当主、直弼である。
 対立軸その二。将軍後継の問題。一橋派と南紀派という軸。
 ペリー来航時の将軍は12代家慶。直ぐに亡くなって後を家定が継ぐ。この家定は、虚弱体質だったと言われている。一説には判断能力も無かったとされ、脳性麻痺だったとも言われる。このことはアメリカ側からの史料からも伺えるが、そうではなかったとの説もあり、TVドラマの影響で家定聡明説を言う人も多い。だが、それはどちらでもいい。家定は将軍就任時30歳だったが、実子が無く後継を持ってこなくてはならなかった。
 その継嗣となる候補は二人居た。一人は、御三卿一橋家の慶喜であり、もう一人は御三家である紀伊の家茂。簡単に言えば、血筋は家茂が近いがまだ若年(子供である)。年齢的にもまた英明さでも慶喜が勝るが血筋は遠い。その対立である。一橋慶喜側には、阿部正弘(既に死去)、松平春嶽、島津斉彬、徳川斉昭。南紀家茂側には直弼を筆頭とする譜代大名と大奥。慶喜は斉昭の実子であり、斉昭は大奥改革を唱えておりその反発もあった。
 対立軸その三。攘夷派と開国派。この話は実にややこしい。
 これは前述したように攘夷の水戸斉昭と開国の直弼という単純化はなかなかしにくい。斉昭は攘夷であるが内面では打ち払いは無理と考えており、直弼は開国を推し進めるが実は心情的攘夷であったとされる。ただ、水戸藩としては攘夷論を大前提にしていて、藩士はその方向で動く。直弼ら譜代は開国は規定路線でありそう動かざるを得ない。さらに、ここには朝廷が絡んでくる。時の天皇である孝明天皇は、徹底した攘夷論者である。この孝明天皇をめぐる勅許問題が、話を実にややこしくさせる。
 さらに第四の軸として、彦根藩の運河開削反対問題がある。これは敦賀と琵琶湖北岸間に掘割と新道を造り、若狭から物資を直接京都に運びこむ事が出来る計画であり、これが実現すれば近江国そして彦根藩は経済的に大打撃を受けることになる。なので井伊直弼は大反対をする。そして、開明的幕府首脳及び官僚と対立構造が生まれる。これは国家的対立軸ではないが重要な問題となっていく。

 ここでは攘夷・開国の話はひとまず措く。対立軸を第一、第二に絞る。特に一橋派と南紀派の対立を見る。
 家定の継嗣は、一橋慶喜が実は規定路線であったとも言える。12代家慶の次は慶喜と既に考えられていたとも言われ、家慶ですら実子の家定が薄弱であることを懸念し慶喜を養子に、という案もあったとされる。これは実現しなかったがその次は慶喜、となるはずだった。ましてや国難の時期である。英明君主を望むのは至極当然だろう。
 しかし、水戸斉昭の幕政への参与が実子、一橋慶喜の障害となった。これ以上斉昭に牛耳られては困る。将軍の親ともなればその権力はいかばかりのものになるか。譜代大名や斉昭嫌いの大奥は何とか巻き返したい。しかし、慶喜を推すのは松平春嶽や島津斉彬ら雄藩であり、阿部正弘もそう考えていた。彼ら有力者に対抗馬を立てたい。それが、井伊直弼の大老就任であったと考えられる。結局、話を単純にすれば徳川家茂の将軍就任と譜代大名らの既得権保守(あくまで単純に言えばだが)のために、井伊直弼は大老になった。
 直弼は大老になると、権力をいかんなく発揮する。家茂を将軍とし、朝廷の勅許なしに諸外国と通商条約を結び、さらに一橋派を弾圧した。安政の大獄である。
 この独裁的政治が、桜田門外の変に繋がり、現役大老の暗殺により幕府の権威は地に落ち、皇女和宮嫁下による公武合体策も虚しく「倒幕」の動きが生じて、幕府崩壊、明治維新に繋がると考えられる。強引な手腕が逆に幕府の命脈を縮めた。

 井伊直弼が出てこなければ、独裁者として君臨しなければ、対立軸はあるにせよ一橋慶喜の14代将軍就任の目が強かったということも出来る。そして、大老は松平春嶽。そうなれば、幕末の風景は相当に変わったはずだ。
 では、井伊直弼が出て来れない可能性はあったのだろうか。

 井伊直弼は、実は井伊家13代藩主直中の、何と14男なのである。普通なら井伊家当主になれるはずもない。ここにifがある。
 井伊直中は、21人の子をもうけた。男子だけで15人。
 長男直清は庶子でありまた病弱であったため(結局21歳で死去)、三男直亮が嫡子となり、後に第14代藩主となる(二男、四男、五男は早世)。細かく書くと、六男中顕は家臣中野家養子となる(後に井伊姓に復す)。七男直教(久教)は岡藩中川家の養子となり藩を継ぎ、八男直福(政成)は挙母藩内藤家を継ぐ。九男勝権は多胡藩松平家を継ぎ、十男親良は家臣木俣家の養子。十一男直元は、兄である三男直亮の養子となる。つまり、井伊家の継嗣である。十二男義之は家臣横地家の養子、十三男政優は、挙母藩内藤政成(つまり八男直福)の養子となり継ぐ。
 ここまでは、直中の子は順調に片付いている。多くは他家の養子となり藩主となり、また家臣となり井伊家を支える立場になった。さて、残るは十四男直弼、十五男直恭である。ところが、元服前に直中死去。直弼17歳、直恭12歳が残された。この二人は「部屋住み」という立場になる。喪が明けて直弼は元服するが、井伊家は兄直亮が藩主となっており、父直中の庇護もなく捨扶持でその後15年を過ごすことになるのだ。
 ただ、チャンスはあった。直弼20歳の時、弟直恭と共に江戸に呼ばれ養子縁組の口を探すことになる。ここで他家の養子となれれば、わずか300俵の部屋住の立場から脱却できる。江戸滞在は1年に及んだ。
 だが、弟直恭は延岡藩内藤家を継ぐことになったのだが、直弼には養子の声が掛からなかった。原因は分からない。直弼は「一生埋れ木で朽ち果てる覚悟」をして失意のまま彦根に戻ることになる。
 この時点で、兄である藩主直亮には子がなく、養子のやはり兄直元(当時26歳)にも子が無かった。もしかしたら直弼は井伊家後継のためのスペアとして残されたとの推測も出来ることは出来るが、年齢を考えればまだ直元の子供を諦めるには早く、残すのなら弟直恭(当時15歳)の方が適う。直弼自身も「埋れ木の覚悟」を決める程の悲壮感を持っており、やはり単にお声掛りが無かったのだろう。就職活動に失敗したのだ。もしも、ここで直弼が他家に首尾よく養子に迎えられたとしたら。後の大老井伊直弼はなかったことになる。
 ただ、養子の口が無かったと言っても、直弼がすぐ継嗣になったわけではもちろん無い。直元はまだ若い。30歳の時に、女児をもうけている(結局早世したのだが)。直元にもまだまだ継嗣が生まれる可能性があったのだ。
 直弼は27歳の頃(直元33歳)、長浜大通寺へ、法嗣が絶え住職が空席となったために迎えられようとしたことがある。これは具体化し直弼もようやく捨扶持の不遇から脱却できると乗り気になった。しかし、この話も頓挫する。これは、直元の健康がすぐれず結局まだ継嗣も生まれなかったために井伊家がストップをかけたのだとする説もあるが、直弼は相当惹かれたようである。もしも直弼が出家して大通寺の住職に納まったとしたら、これも後の大老井伊直弼は無い。
 この話は、約4年もすったもんだしたあげく、井伊家が大通寺に正式に断ることで決着が着く。その時直弼31歳、直元36歳。そして翌年、直元が死去、直弼が井伊家継嗣と正式に決まる。

 もしも直弼が他家の養子になったり、出家したりしていたとしたら、井伊家はどうなったか。この場合、直弼が戻ったり還俗したり、ということはまず無かっただろう。どこかから別に養子を迎えていたに違いない。例えば、六男中顕は井伊姓に戻っており、井伊筑後となっている。直元の兄の中顕が継ぐことはないが、中顕には二人男子がおり、一人はまた挙母藩内藤家に養子に入り、一人は家督を継いでいる。このうちどちらかが井伊家宗家を継ぐ、なんてことも考えられる。他にも血筋を辿ればいくつかパターンは考えられるだろう。何も直弼でなければならないということは無かったはずだ。
 父直中は15人の男子を残したのに、兄である直亮、直元両者に後継者が生まれなかったのも必然ではあるまい。直弼が養子に行けなかったのもまた必然ではない。数奇な運命の中、直弼は井伊家藩主となり、そして時代がその直弼を大老にまで昇らせた。
 この「部屋住み15年」という、エネルギーを満杯に充填した直弼が、壮年で藩主になりその積もり積もったパワーを思う存分発揮してしまう。そのパワーは、表層上は幕府の権力強化に見えて、内実は幕府の持てる力を削ってしまった。

 もしも井伊直弼が、例えば大通寺の住職になるなりして、幕政の中心に座ることがなかったとしたら。家茂擁立を図る南紀派はかなり苦しかったに違いない。
 この時点で、幕政は阿部正弘が死に、堀田正睦が老中首座。彼は、当初南紀派的発言をしていたがこの時は一橋派に傾いていたと考えられる。斉昭と対立して一度は老中を罷免された松平忠固は幕閣に戻ってはきているものの、老中というものは基本的に合議制であって独走は出来ない。溜間詰の譜代大名は南紀派だが、外野に過ぎない。最も奔走していたのは紀州藩付家老の水野忠央だっただろうが、これも基本的には外野である。
 もちろん、継嗣を決定するのは将軍家定であるのは間違いないのだが、家定がどこまで自分の意思を持っていたかは分からない。家定の意思を左右できるのは大奥であり、大奥は水戸斉昭嫌いと水野忠央らの工作で南紀派だったが、これだけでは継嗣決定の決め手にはならない。家定の絶対的意思表明が必要だった。しかし外野勢力は直接、将軍である家定工作をするわけにはいかない。
 外野と言えば、それは一橋派も同じである。一橋派の主体は、水戸斉昭や松平春嶽、島津斉彬らであり、南紀派よりもさらに外野だった。継嗣決定はまず将軍家定の内意であり、それを左右するのは大奥であるから、一橋派も大奥工作を実施した。具体的には島津斉彬の養女である天璋院篤子を家定の室としたが、大奥の意思は南紀派で動かない。なので一橋派は朝廷を抱き込もうとする。勅許による継嗣決定である。松平春嶽は橋本左内を京都へ送り込み、島津斉彬も西郷隆盛をもって工作にあたった。これは、日米条約問題も複雑に絡んでややこしいのだが、一橋派は左内の活躍でかなりの線まで追い詰める。しかし、関白九条尚忠が南紀派に抱き込まれギリギリのところで阻止された。
 歴史ではここで、井伊直弼の登板があってそれら一橋派の工作を一気に反故にして家茂擁立となるのだが、それがなければまだ平行線を辿っていた可能性が高い。どちらに転んでいたかは分からないが、天皇の内勅が左内らの工作により「英明・人望・年長」である継嗣を望むとされていたのを、ただ継嗣を速やかに決定しろ、と肝心の一橋慶喜を指す部分を削らせたのは関白九条尚忠であり、尚忠に工作したのは直弼の腹心である長野主膳である。直弼がいなければ慶喜継嗣の内勅が下り、これをタテに一橋派は慶喜擁立を決定付けていた可能性がある。もうすぐ家定は死去する。14代将軍徳川慶喜が生まれていた可能性も高い。

 井伊直弼は「日本開国の父」とも言われるが、直弼でなければ条約は結べなかったかといえばそうではあるまい。確かに慶喜の父水戸斉昭は攘夷を標榜しているが、そんなダダをこねられる状況ではなかったはずだ。ことに、大老に松平春嶽が就任していれば、まず違いなく調印は行われていると考えていいだろう。春嶽の頭脳は、天才・橋本左内に負っている。開国、西欧の技術導入、国力増強路線へと幕府は進むことが予想される。
 この時点で攘夷を強く訴えるのは水戸藩と朝廷、特に孝明天皇であろう。長州藩はまだそれほど尊皇攘夷色は濃くない。問題は水戸藩だが、斉昭も老体だ。水戸学というのは難しくて素人の手には負えないが、ここで水戸藩さえ取り込めれば、あとの抵抗勢力は弱い。朝廷も、後に長州藩長井雅楽の「航海遠略策」には賛同している。国内が異国勢力に蹂躙されるようなことが無ければ、さほど問題は生じないだろう。
 幕府の有能な開国派官僚たちは、井伊直弼による弾圧も無くまだまだ活躍し続けると考えられる。倒幕の必要性がなければ雄藩はそれを支える立場にもなり得る。そして、この幕府は徳川慶喜によって発展的解消し、郡県制をしき中央政権政府にと生まれ変わる。それは過渡的に大統領制かもしれないが、封建制が幕を下ろせば民主政府は流れの中で生じる可能性も高い。橋本左内が首班となる内閣が生まれる可能性もある。明治維新の富国強兵・殖産興業といった方向性とさほど変わりはないだろう。そして、日本の人材は失われること無く豊富に残っている。
 実際は、安政の大獄に始まり幕末の嵐の中で多くの有能な人材が失われ、最終的には明治に薩長の政府が成立する。新政府の中核が山口県と鹿児島県出身者で占められるという事態を「歪んでいる」とは一概には言えない。ただ、惜しい。他にも新生日本を担うべき人材は多数居たはずなのだ。そういう日本の精鋭を集めた政府をふと夢想したりする。安政の大獄などの弾圧、天誅などのテロリズム、幕長戦争や戊辰戦争などの内乱は本当に必要だったのだろうか。

 本当は尊皇攘夷のことも書きたかったのだが筆が進まなかった。機会を改めてまた記事にしたいと思う。
 

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