凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

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立ちのみさまざま

2013年01月26日 | 酒についての話
 もちろん昔からある飲食店形態なのだけれども、こういうご時世だからか「立ちのみ屋」が増えてきた。たいていは座って呑むより廉価であり、気軽さも評価されているようで。

 僕は、そりゃ立って呑むより座って呑むほうがいいと思ってるよ。楽だもん。
 僕が酒場に向かおうという心理状態になるとき。それはもちろん美味い酒が呑みたい、旨い魚が食べたいと思って暖簾をくぐる場合もあるが、たいていは酔いたいからである。陶然とした気分に浸りたい。酔いたい理由はその時々によって違うけれども。
 そして酔っ払ってくると、身体から力が抜ける。したがって、立っているのがしんどくなってくる。座ろうよ。座らせてくれよ。そうなるのは目に見えている。
 立ちのみのいいところ(狙い)は、そこなのだろう。長時間立っていられないので客の大半は長居しない。したがって回転が良くなり、なかなか小さな酒場では成しえなかった薄利多売が可能になった。だから酒も肴も廉価で提供してくれる。そうなればもちろん客も嬉しい。
 しかし、酒場でグズグズしたい僕などには不向きということになってしまう。なので、かつては積極的に足を踏み入れなかった。

 もうひとつだけ理由があって、これを書いてしまえば身も蓋もないのだが、どうしても「立って飲み食いするのは行儀が悪いのではないか」という意識が僕の脳内に少しだけあった。
 話がそれるけれども、先日久々に故郷京都錦小路の市場を歩いて驚いた。あちこちの店舗前で食材を串に刺して一口サイズで売っている。出し巻きや鳥、魚等々。それを齧りながら歩いている観光客多数。なんとも下世話な雰囲気になっている。錦市場というのは、プロも買いに来る伝統ある「京の台所」。僕も幼い頃、母がハレの日或いは正月用の買出しのためにここへ来るのによく付いて来た。そういう場所だったはず。今は観光名所になっているのは承知しているが、缶ビール片手に串を食べ散らかしながら歩く人たちを見て、何とも違和感をおぼえた。試食ならいいよ。でもなぁ。例えば神戸南京町とは違うこの道幅の狭い小路でそれはないんじゃないのか。何より品がない。この世の中、京都伝統の錦市場もしんどいのか。こういうことを許すようになったとは。
 以上本当に余談で、区画された店内で立って飲み食いすることに文句があるわけではもちろんない。そういうルール内でなされていること、何の問題もない。そして今では立ちのみ屋さんを「行儀悪い」などと考えることなど全くないことは申し添えたい。あくまで過去の僕の意識内でのこと。

 そんなこんなのクドクドした理由で、立ちのみには過去それほど出入りしていなかったように思う。もちろん例外はあるが、僕が出入りする酒場において立ちのみの占める割合はそう高くなかった。
 だが、ここ何年か、そういう店によく誘われるようになった。若い人たちと呑むことが増えたからかもしれない。

 そんな一軒。先日、何とイタリアンの立ちのみ屋へ行った。絶対に自分の意思では足を踏み入れない場所だなぁ。バール風とでも言えばいいんだろうか。
 値段のことについてはよくわからない。最も安いグラスワインが350円くらいだったか。だいたいイタリアンレストランの相場がわからないから何とも比較しようがないか。総じて安いらしい。しかしトリッパのトマト煮込とか初めて食べたわ。
 行ってみて、案外楽しいのである。パーティーに来たみたいな。
 立ちのみというのは、僕の持っていたイメージでは、まずグループで来店するものではない。一人で「カウンターでもくもくと呑む」ものである。混むと「ダークスタイル」になる。ダークスタイルの説明は不要と思うが一応書くと、立ちのみの店は基本的にはそんなに広くなくてカウンターだけの店も多い。混んでくると、カウンターに対して正対していた客が斜め向きになって詰め、スペースを空けて新たな客を入れてあげる。個々に椅子のある店では不可能だが椅子のない立ちのみならこうして詰め込むことが可能。この片方の肩を前に出した姿勢ががコーラスグループ「ダークダックス」に似ているためにそう呼ばれるようになったと承知している。
 ところがこの店はスペースが広く、テーブルが店内にいくつも置かれた様相であるために、ダークスタイルなんてものは無い。余裕がある。多くはグループ客でありひとつのテーブルに集まるのだが、振り向けば背中合わせに隣のグループがいて、僕はその違うグループのおっさんと話し込んでしまった。カウンターであると両隣の人としか接触がないので、まず後ろのおっさんとしゃべるなんてことはない。
 店を出るとき若い人から「盛り上がってましたね。そういう赤の他人とでも楽しくやれるのが立ちのみの醍醐味ですよ」とご高説を賜った。うーむ。僕は初対面にやたら強いので別に立ちのみでなくてもいくらでもそういう機会はあるが、こういうスタイルが一種垣根をとっぱらう効果はあるのだろう。先ほど「行儀悪い」などと書いたが、その行儀悪いことをしているという意識もおそらくプラスに働くに違いない。
 僕が知る立ちのみというのは、放吟してはいけない場所だったように思うのだが。いや、してもいいのかもしれないけどそういう雰囲気にはならなかったはずだが。
 経験もさほどないのにこういうことを書くのも何なのだが「立ちのみも変わったのだな」とそのとき思った。安いから行くのではなく、楽しいから行くのか。そうか。

 こんな感じで、僕は今までよりも立ちのみに馴染むようになった。今さら感はあるのだが、まあよかろう。昔と比べて体力も落ち、そんなに長くは「立って呑んで」いられないが、それが逆に推進力となっている。どうせ短時間なのだ。ちょっとだけ寄ってもいいだろう。そんな感じでね。何より懐ろもさほど痛まないし。
 そうして様々な店にお邪魔し呑みながら、立ちのみという形式の酒場は、どのようにして始まったのだろうか、どこにルーツを求めればいいのだろうか、などということを酔眼で考えていた。立ちのみも、さまざまである。僕は分類と体系化みたいな作業が好きでブログでもしょっちゅうそんなことをしているが、また同じことをしている。
 そういうことをぼんやりと考えているうちに、こういう立ちのみの酒場というのは、四つくらいに分類できるのではと思い当たった。もちろん厳密ではなくその発展形態によってこれは交錯していくのだが、ルーツを辿れば、そのくらいに分けられる。
 
 ひとつは、通常の飲食店から椅子を無くした形態である。
 この形態は、もちろん古くからあり「オヤジたちのオアシス」として存在している。しかし新しい感覚の店も多く登場している。上記のような洋風立ちのみはその典型ではないだろうか。
 こういった店のかたちは、もちろん値を下げることを目的に、酒場の客回転を速くするために採り入れられたものだろう。それがデフレの世の中に適して増殖したと考えられる。そしてさらにその気軽さが受けた。
 かつては、立ちのみの酒場が供する酒や料理の種類はある程度決まっていた。バーなどを除けば居酒屋系が主で、焼鳥やおでんなどが出され酒はビール清酒焼酎。バラエティがあってもその範疇を出るものではなかった。
 今は、イタリアンやフレンチなどは普通に存在し、中華料理やエスニック系の店まで立ちのみに乗り出している。もしかしたらあらゆるジャンルの立ちのみ店舗が存在するのではないか。

 焼き肉屋に行ったことがあるぞ。扉を開けると煙が上がっている。コの字型のカウンターに立つと、七輪を置かれる。煙はそのせいだ。そしてスタンディングで肉をジュージュー焼いて食う。
 焼き肉の値段というのは高いか安いかという判断がつけにくい。肉の質によって千差万別であるから。僕は舌に自信がないので品質云々はわからないが、一人前の肉の量と値段だけでみれば、この店はそう飛びぬけて安いわけではない。普通の座って食べる焼き肉屋さんでもっと安い店もある。
 しかし、この店はそれなりの雰囲気を持たせている。店の外観、内装が既に洒落た空間。そこに無煙コンロではなく七輪というのも、味のみならず演出もあるのだろう。非日常的感覚か。女性客も居る。隣の客はワインを飲んでいる。それで空気感が伝わるのではないだろうか。僕はこういう雰囲気は苦手なので若い人たちに任せようと思うが(汗)、このように立ちのみに付加価値をつけるという手法もあるようだ。ただ薄利多売を目指しているだけではもうないのである。もしかしたら後年、立ちのみだからこそ多少高くても行く、なんて思考も登場してこないとは限らない。
 
 本当に、いろいろなジャンルの店がある。僕は他にも不思議な立ちのみに入ったことがある。
 ハイボールを売りにした酒場。もちろん居酒屋であることを看板にしていてアテの種類もそれなりにメニューにあるが、ほとんど食べている客はいない。みんな酒だけを呑んでいる。そのハイボールの値段は、無論安いものの、激安とまではゆかず座って呑む店とあまり変わらないかもしれない(安い店が回りに多い場所柄なのである)。
 しかしながら、カウンターの向うにいる店の人は、若いおねえさんが数名なのだ。
 それが目当てで人が集まる、と断言したら怒られるかもしれないが、話しているとおねえさんの勤務時間は曜日や時間ごとに変わり、それに合せて来る客もやっぱり多い由。おねえさんは客と気さくに談笑しつつ、グラスが空くと「お代りいかが? おつくりしましょうか」。行ったことないけどガールズバーってこんな感じ? それはわかんないがこの雰囲気、カラオケこそないがどうも「スナック」にかなり近いんじゃないの。
 しかしチャージ料はない(椅子もないが)。そしてハイボール3杯のめば結構いい気分にもなる。小一時間居て、それで1000円くらいだからこんなに安いスナックはない(楽しくてもそれ以上長い時間は僕には無理)。

 こういう通常は普通の飲食店として成立するはずの店が、思い切って椅子をなくし、客回転をよくして廉価での提供をを目指すとともに、「立ちのみ」という営業形態に個性を見出して、例えば非日常感覚、またお洒落な雰囲気、またフレンドリーな空気感といった付加価値を副次的に与えるという方式を採りだした。それは立ちのみというジャンルにおいては最も新しい形態であるようにも思う。
 もちろん、従来のオヤジの味方である大衆居酒屋的立ちのみも健在である。このオヤジ立ちのみの付加価値は今も昔も安さと気楽さ。これらを便宜的に「通常飲食店由来型」と呼ぶか。

 立ちのみには、そのルーツなどから考えて、他に3パターンの形態があると思っている。それは、次回
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珍味で一杯

2010年05月21日 | 酒についての話
 呑みたい、というココロは、つまり気分だ。
 したがって、それは空腹、満腹を問わない。酒は食べ物に奉仕すると僕は常々言っているけれども、ヤケ酒は別として、メシ食ったあとに何か祝いたい出来事でも起こったらどうする。それはもう、呑まざるを得ないだろう。
 そういうときに、何を呑むか。これも気分だ。
 ウオッカをクイッとやりたいときもあるだろうし、ブランデーなどを甞めるように呑みたいときもある。そして、日本酒をしみじみと味わいたい場合も、ある。
 
 酒によって、肴がどうしても必要な酒とそうでない酒がある。前回そんな話を書いた。その続き。
 日本酒は、何も肴がなくても呑めるか、と言われればそれは呑めるけれども、やはりどうにも寂しい。醸造酒はやはり食べ物と共に歩んできた長い歴史があり、特に日本人である僕は、和食の頻度が最も高く、したがって今まで呑んできた酒の中では日本酒を最も頻繁に呑んできた。それも、常に何かを食べながら。だから、何かをつまみつつ呑まないとどうも酒がうまくない。
 個人的見解だが、やっぱり清酒は日本の食べ物に合わせて造られているのだと思う。原材料は日本人の食べ物の根幹を成す「米」であり、酒を呑むことは御飯を食べるのと同じことではないだろうか。
 白米を炊いたものだけを食べてもそりゃうまいが、やはりおかずがあった方が当然ありがたい。おむすびであっても具は入る。具が何も無くてもせめて塩を手につけて握ってくれ。日本人の主食の座にある御飯というものはそういう存在である。これは、清酒にもまた言えるのではあるまいか。
 清酒がその場面によって、主であっても従であってももちろんかまわないけれども、やはり酒だけをなかなか呑み続けられない。炊いた御飯をおかずなしで何杯も食べるのがしんどいのと同様に。だから、何かつまみながら呑ませてくれ。

 ここでちょっと話が横にそれるが、日本酒にも様々あって、僕が思うに何も肴を必要としない一群の酒がある。それは、吟醸酒である。
 吟醸は、それだけで呑める。というか、吟醸にあう肴を選定するのは実に難しい。何故かと言えば「うますぎる」から。吉田健一氏が、うますぎる酒に肴はいらないと言われたがまさにそのとおりであって、他に何も欲しない。あるがままに味わう酒であろう。
 これは、吟醸酒というものはそういうふうに出来ているのだ。そもそもは、品評会用の酒だったと言ってもいい。食中酒として造られていない。料理とあわせ呑む歴史も浅い。昔は、こんなに米を削り酵母を低温で苛め抜いて造る酒などなかった。日本酒のうまさの限界に挑戦した酒。
 その芳醇な香りと味わいを持つ吟醸は、誤解を恐れずに言えば料理を殺す。自己主張が強く料理に奉仕しない酒。僕などはしごくさっぱりとした和食よりむしろワインに擬して肉料理にでも合わせたらどうか、と考えたりもするがそれももったいない気がする。それだけで呑んでやったほうがいい。
 だが、そんなに量は呑めない。蒸留酒と異なって日本酒の度数は16度くらい。ブランデーの如く甞めるような味わい方も難しい。そして、何も食べずに呑み続けるのもまたしんどい。赤ワインと同じだ。せいぜい1~2合が僕にはいいところだろう。これ以上だと言葉は悪いが、その個性ゆえに飽きる。うますぎる酒の宿命か。
 
 話を戻して、清酒。純米酒でも山廃でも本醸造でも三増酒でもいいが(あんまり甘味料を入れすぎてベタつくのは嫌だけど)、前述したように何かつまみながら呑みたい。しかし、腹が一杯であればどうしようか。酒を主として呑みたい気分のときはどうしようか。
 極端な話、そりゃ塩でもいい。塩むすびと同じ理屈である。清酒をそれだけずっと呑み続けるのはしんどい。酒に馴染み過ぎた舌をリフレッシュさせ、また酒を活かす。よく塩を甞めながら枡酒、なんてあるが。塩じゃいかになんでも侘しければ味噌でも。北条時頼の味噌を肴に一杯やる質素な暮らしぶりが、吉田兼好の徒然草に描かれている。
 しかし味噌とて、質実剛健の鎌倉武士の象徴として描かれているのであり、やはり寂しいには違いない。ただ、もうあまりたいそうな幅のある肴はいらない。料理を食べなくてもいい腹具合。箸の先にちょいとからみつくくらいの量で酒が呑めるものが欲しい。
 御飯をワシワシ食べたいときのアテがヒントになる。だいたい、メシに合うものは酒にもうまく合ってくれる。しかし塩からい鮭とか佃煮とか、梅干などというのはやはり酒より飯か。ちりめん山椒など僕は飯の友として史上最強かもしれないと思っていて、むしろ酒の肴にするにはもったいなく思ってしまう(何か考え方がせこいな)。梅干をほぐし山葵と鰹節を混ぜてちょっと醤油を垂らしたものなど実は酒が何杯でも呑めてしまうのだけれども、ちょっとややこしいか。また、ふりかけで酒など呑みにくい。
 こういうときのために、日本には「珍味」と呼ばれる一群の食べ物がある。これだ。

 塩辛というものは、熱い御飯に相性抜群であると言われる。確かにそれは多数派の意見。妻などは「烏賊の塩辛で酒呑むなんてもったいない、御飯食べるからおいといて」と言う。ただ、僕にとってはこんなに絶妙な酒の肴はない。好みの問題もあるし、成長過程における経験値もここには関わってくる。僕は、母親がこういう「ふとすると生臭く感じるもの」が嫌いで、子供の頃の食卓に上ったことがなかった。イカ塩辛をちゃんと食べたのは大人になってからのことで、もう既に酒がセットとして刷り込まれている。
 塩辛のように、塩分を多く含んだ発酵食品は、僕にとって清酒のために存在するようにも思えている。そして、やはり燗酒に合う。
 ダメおやじの古谷三敏氏が「ぼくの場合、つまみに塩辛がだされていれば、たとい真夏であろうと、無条件で、燗をつけた清酒を要求する」と著作で書かれていたのを読んだとき僕も膝をうって同意した。この発酵熟成させた旨みの塊のような存在には、やはり燗酒が適う。冷やした清酒であれば、どうしてもその生臭さのようなものが口中で切れない。あたためた酒だとそれを完全に洗い流してくれるような気がする。そしてまた塩辛、また酒、という連鎖に自然と繋がる。
 御飯との関係で考えるといい。熱い飯に塩辛は上等だが、これをおむすびにして冷えてから食べると、やはり生臭さが勝つような気がする。塩辛おにぎりを以前食べたことがあるけれども、それは塩辛に大葉をうまく混ぜ込んでクセを抑える工夫がなされていた。
 好みはあると思うけれども、僕には燗酒が望ましい。もちろん冷や、あるいは冷酒に合わせられてもそれは好みである。その発酵食品のくせのようなものを燗酒で消そうとするのはもったいない、というご意見もあろう。ただし、ビールやワインにはどうかな。生臭みが助長されるのでは…と思うが、これもまた好みか。

 日本には、イカ塩辛だけではなく発酵アミノ酸をベースにした食べ物が多い。そもそも味噌も醤油も鰹節もそうであるからして、日本人には好まれるはずだ。旨みの根源でもある。日本における三大珍味とは「越前雲丹」「長崎唐墨」「三河海鼠腸」であるが、いずれも熟成保存食品である。
 ウニなんてものは流通の発達でどこでも生のものが食べられるが、塩漬けはまた一味違う。生ウニは丼にして食べるのが最高だが、塩漬けウニは一種究極の酒肴といえる。これは、保存食であるところに妙味があり、酒に絶妙だ。高級品でなかなか食べられないが。
 塩辛、というジャンルにはさまざまなものがあって、イカのようにそのワタを発酵させてアミノ酸を生成させるものもあれば、麹をつかうものもある。様々で、それぞれがうまい。塩辛で言えば、イカや三大珍味のひとつであるなまこの「このわた」、鮎のうるか、鮭のめふん、さらにはカツオ内臓を原料とする「酒盗」。このネーミングからして酒がないとどうしようもない("ままかり"が飯をどうしても必要とするのと同じ)。

 僕は昔、北陸に住んでいたためにこういう食品をよく食べることが出来た。イカ塩辛にも富山では「白作り(ワタ入れない)」「赤作り(皮付き)」「黒作り(墨を入れる)」とあった。なかでも黒作りがうまい。真っ黒なので一瞬怯むが、酒との相性は抜群。
 このわたも能登の名産であり、さらに卵巣を「このこ」として塩辛で食べる。干したものは「くちこ」。しかし、高級品なのだよなあ。 
 カラスミは魚卵としては日本では最高級品だろう。僕も数度しか食べたことがない。これはボラの卵だが、加賀地方には何とフグの卵巣の糠漬けがある。フグの卵巣といえば猛毒でありひと腹で何人殺せるかわからないほどだが、これを3年も糠漬けにして毒を抜き供する。恐るべき美味への執念だが、この調理法が完成するまでおそらく犠牲になった方もいただろう。これ、相当に濃厚な味わいだが薄切りにしてもかなり塩からい。酒がいくらでも呑めてしまう。
 こういう「魚の糠漬け」には能登に「こんかいわし(鰯糠漬け)」若狭に「へしこ(鯖糠漬け)」がある。軽く炙って食べるとうまいが、やはり塩からい。ごく薄切りにしても酒をクイクイ呑ませる魔力がある。血圧も上がりそうだが、やめられない。僕は一時期、こればっかり食べていたことがある。

 妻が津軽出身なので、所帯を持ってからは東北方面の珍味も食卓に上るようになった。中でも、酒の肴として珍重しているのは「切り込み」である。
 切り込みとは鰊を米麹漬けにしたもので、これと酒のマッチングは絶妙。こういう米を使って漬け込み発酵させるものを「いずし(飯寿司)」と言うようで、北陸にも「かぶら寿司」という塩漬けにした蕪で薄切り鰤をサンドイッチにして米麹で漬け込む珍味もあったが、かぶら寿司はなかなか高級品であるのに対し切り込みは簡単に手に入るのでありがたい。冷蔵庫にいつも常備している。ちょっと呑みたいときにはいつもこれだ。
 僕は関西出身なのでこういう珍味系には縁が無い、と思いきや、関西には発酵珍味の横綱がいる。言わずと知れた近江の鮒寿司である。
 有名なので説明は不要と思うが一応書くと、琵琶湖の鮒を長期間塩漬けにした後、炊いた飯とともにさらに漬け込む。飯はペースト状になり乳酸発酵で酸っぱくなる。寿司のルーツでもあるが、年を越して供されるそれは、腐敗と発酵が紙一重のものだということが実感できる。その臭いには驚くが、これが食べるとうまい。もっとも、好き嫌いが分かれるだろうなあ。僕は三十過ぎて初めて食したが、事前に相当に脅されていたために「あ、意外にうまいやんか」が感想。でも、今では高級品であり慣れるまで食べた、というわけではない。一度青森に持ち込んだら大変好評で(発酵食品に免疫があるんだなああいうところは)、また買っていかなければいけないな。でも一尾何千円もするのだよ。

 僕の生まれた京都は海無し都市で、あまり動物性の発酵食品が大手を振ってはいないけれども、そのかわり漬物がある。
 漬物というのは「香の物」であり食事中に食べては料理を作った人に失礼にあたる、食事後に少しいただくのが礼儀と親から躾けられたのであまり酒肴としてはどうかと思うが、例えば「すぐき漬」などは乳酸発酵食品であり酒に実に合ってしまう。うまい。また呑みすぎる。
 京都人の僕は、壬生菜や菜の花漬で酒を呑んでいればこれほど幸せなことはないのだが、漬物は日本中にある。奈良漬なんてのはそもそも酒粕で漬けたものであり酒に合わないわけがない。九州の高菜や安芸の広島菜などもいい。どちらかといえば浅漬けよりも、発酵が進んだものの方がやはり酒にはいいような気がする。
 僕は主として燗酒を念頭において書いているのだけれども、高名な信州の野沢菜漬については、どうも冷やの茶わん酒が合うような気がしてしょうがない。寒い冬、部屋を暖かくして野沢菜パリパリやりながら、一升瓶から酒を茶碗に注ぎ、くいっ。絵になるし、うまい。

 かのように、例外はあるけれども燗酒と塩辛に代表される発酵珍味の相性は、僕にとっては最強。
 夜半過ぎ、一本つけて呑みたくなるのはたいていが幸せな気持ちのときが多い。テキーラをあおったりラムを生のまま喉に放り込むときとはちょっと違う。ほんわかした気分。その幸福感を十二分に享受するために、塩辛や切り込みは冷蔵庫に欠かさないようにしたいものである。
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酒に肴は必要か

2010年05月07日 | 酒についての話
 酒と肴というのは、両輪である。いつもそう思っている。
 うまい料理にはやはりどうしても酒が欲しくなる。そして、うまい酒があればやはり何かちょっとつまみたくなる。なかなか、「酒だけ」「料理だけ」というのは僕にとっては、辛い。
 落語を聴いていてこんな印象的な場面に遭った。「二人で呑んでたら、ちょいと肴が余っちまった。こいつを残して帰れねえしシャクだし、じゃあもう一本づつ呑もうってんで、酒頼んでまた呑んでたら今度は肴がなくなっちまった。しょうがねえんでまた肴を頼んで呑んでたら今度は酒が足らなくなっちまった。また酒を頼んで…」
 なんの落語だか忘れてしまった(どなたかご教示下さい)。これはもちろん呑みすぎた言い訳の話だが、この無限ループには、酒と肴が両輪であることが端的に表現されている。肴が余れば肴だけ食べる、酒だけ呑む、なんてことは考えられない御仁はやっぱり昔からいるのだ。僕にはこの無限ループの話はよくわかったりする。
 だが、これが当然の話かと言われればそうとも言えない。酒呑むときには食いもんなんていらねーと言う御大将もやっぱり存在するからだ。むしろ、それが本当の酒呑みだという風潮もある。
 例えば遠藤周作氏はこんなふうに言う。
酒のみは酒のさかななどなくても、海苔の二、三枚でもあればそれでよいと言うし、よく夕暮、町の酒屋の前を通ると、手に塩を少しのせて、それでコップ酒を飲んでいる御仁を見かけることもあるが、私の場合は酒のさかなが幾つか並んでいなければ、どうも酒がうまくない。
「酒のさかな(狐狸庵閑話)」

 狐狸庵先生は呑むときには何かつまみたい派である。仮に遠藤型としておこうか。対して、吉田健一氏は
ロンドンのホテルの食堂で食事をしていて、何ともうまい赤葡萄酒をその給仕長が持って来たのでほめたらば、こういう酒ならば料理なんかない方がいいという返事だったのにはこっちもその通り、その通りと賛成したくなった(中略)西洋でも酒が本当にうまくなるとつい食べる方がお留守になる(中略)うまい酒を飲んでいれば食べることを忘れるのは確かであって(後略)
「酒、肴、酒」
 これは少し作為的に引用しているが、吉田健一氏は食べ物についていつも実にうまそうに語るのに、こうして「酒を飲んでると肴のことを忘れてしまう」という発言をよくされる。西園寺公望が酒樽を前に一晩中呑んだという話を引いて「そういう時に肴は余計であり、酒の味が酒の肴にもなるわけであるが」と豪快なことをおっしゃる。この姿勢を仮に吉田型としよう。

 僕は、間違いなく自分を「遠藤型」であると思っている。持論として「酒は食べ物に奉仕するもの」と常々言っていることもあるし、また、ただ酔いたい場面においても、やっぱり何かつまみたい。
 けれども、よくよく考えてみると、時と場合、また酒によっては「吉田型」になることもあるのではないか、と。
 これは、どうしても忘れたいことがあって酒にすがりたい、またヤケ酒においてとにかくググーとやる、といった酒への感謝を忘れた呑み方をしてしまう場合はひとまず措く(そんな酒はたいていうまくない)。あくまで酒の種類や時間帯、腹具合などの状況に限る。
 何も食わずに酒呑んで、うまいか。アテを必要としない酒があるか。つまりそういう話。もちろん、僕の個人的な嗜好の問題。

 そうやって考えると、例えば上質のブランデーなどは何も食べたくない。
 そもそもブランデーの呑みどきと言うか、いつ呑むのにふさわしいかと言えば、食後である。食後酒。気取って言うとディジェスティフ。むろん、ストレートであるがままに味わいたい酒であり、その芳香にはどのような食べ物も負けてしまう、と思われる。相方には洒脱な会話。あるいは独りであればいい音楽、そして喫煙者であればタバコの一本でもあればいいか(葉巻であればそりゃいいだろうけれど)。
 酒場でブランデーを呑むときは、上手に煎られたナッツやレーズンバター、もうちょっと安い店だとポッキーなどが供されたりする。ブランデーに合うのはチョコレート、とする考えもあるらしいが、僕はちょっとポッキーなどは食べたくないな。それくらいしかアテとして考えられないのなら、もう何もない方が望ましい。
 だが、これは食後、つまり満腹状態である、ということ前提である。ハラ減ってたらどうすんだよ。
 そういうときは、ブランデーを選択しないのが賢明だと思う。ふさわしくない。
 けれども、僕は食事と共にブランデーを呑むことがある。以前にも書いたが、中華料理の時に安物のブランデーを水割りにしてガブガブと呑むことがある。これ、意外に合う。しかし、あくまで「安物」であると断っておく。上等のやつは、そんな呑み方したらもったいない。

 蒸留酒においては、酒の質によるのかなーとも思う。
 ブランデーにおいても、上質のものは香り高い。その香りが、食べ物を要求しない。合わせるのも難しい。中華料理とともに呑むブランデーは廉価なものにしているが、それは「もったいない」という理由が最も大きいのは確かだが、それ以外に強い香りを望んでいないというのもある。食事と共に、となるとどうしても食が主、酒が従となるので、個性が強いものは困ってしまうのだ。
 これは、ウイスキーにもラムにもテキーラにも言えることだと思う。ウイスキーにはサラミが合うぞ、とおっしゃる人もいるだろうが、どうもあまり刺激の強いものは(香辛料控えめのものもあるけど)好まない。
 こうなると僕も、洋酒のスピリッツ(しかも上質のもの)に関しては「吉田型」と言えるかもしれないな。食べ物が邪魔になる。うまい酒はそれだけで呑むのがいい。
 もっとも、以前から書いているように僕は安物のウイスキーを水割りにしてビール代わりに飲み、また韓国料理にウオッカを合わせたりする。これも、質の問題かと思う。あと「セコさ」もあるけれど。安もんでないとこういう飲み方したらもったいないじゃん。
 最近はビール代わりに「ハイボール」が人気である。ジョッキでハイボールを供するとはメーカーも考えたものだ。確かにこれはいいかもしれない。ただ、やはりベースとなるウイスキーには「角」を奨めている。レッドやトリスでもいいのじゃないかしらん。

 以後醸造酒に話をすすめるべきだが、その前に混合酒、そして混成酒についても少し。つまりカクテルと、リキュールのことである。これらは、ブランデーが食後酒であるのに対し、多くは食前酒(アペリティフ)として呑まれる。
 これも、何もアテはいらないな。何かを合わせるのがむしろ難しい。
 ことに、「甘い酒」であればなおさらである。例えば、氷砂糖が溶け込んだ果実酒でいったい何を食べればいいのか。何も思い浮かばない。日本の代表的なリキュールと言えばまず屠蘇であるが、おせちを肴に屠蘇飲むなんて考えられないぞ。また、するめをアテに梅酒がうまい、と言う人がいて僕もお相伴にあずかったことがあるけど、ちょっと首を傾げてしまった。
 もっとも味覚のことは好みであるので、一概に否定も出来ない。あくまで「僕にとっては」である。だって、想像を絶する呑み方する人いるものなあ。
 若い人の中に、居酒屋で刺身やホッケを食べながら「カルアミルク」を注文して飲んでる人がいる。ええ、そりゃ自由ですよ。でもなんだかこっちが見ていて気分が悪くなったりしてしまうので、出来れば同席したくないですわ。でも、「カンパリオレンジ」とか「カシスソーダ」とか人気があるんだよなあ。
 話がずれるけれども、チェーン居酒屋などでは「サワー」というものがあって、これもまあ酎ハイの発展系とみればそれはそれでいいのだけれど、「アップルマンゴーサワー」とか「カルピスサワー」とか、実に恐ろしい。何でも試してみなければいけないとは思うのだけれど、その勇気が無い。想像だけで話すが、おそらく単体はうまいのだろう。だが、それに居酒屋メニューをどうあわせればいいのか。もろきゅうでカルピス…。

 醸造酒に話を移す。
 醸造酒を呑む場合、僕は基本的には「遠藤型」である。どうしても肴が欲しくなる。また、勘違いかもしれないが基本は、食べ物と合わせて呑むように造られているのではないかと思う。
 さらに、蒸留酒が強い酒であり基本的にチビリチビリと呑むのに対して(薄い水割りはこの限りではないが)、どうしても度数が低いため量を呑んでしまう酒であり、そうなると「寂しい」というのもあるのかなと自己分析してみる。合いの手が欲しいのだ。なかなかそれだけを呑み続けられない。
 例えば、ビール。
 これは、何も食べずにグイーっと飲むことは一応可能だ。特に「とりあえずビール」の場合は食前酒を兼ねる場合が多々。まず最初にいっぱつ飲んで勢いをつける。
 だが、それもグラス一杯、または小ジョッキ一杯、缶ビール350ml一缶くらいかな。それ以上だとどうしても寂しくなる。何かアテが欲しい。焼き鳥注文していいかな。
 そうして、串カツだの唐揚げだのを食べつつビール。幸せだ。
 ただ、満腹時であればどうなのか。
 そもそも僕個人の嗜好で言えば、食後酒にビール、なんてのは考えられないのだが、世の中にはそういう人もいる。酒はビールしか飲まない人。二次会、カラオケ行ってもスナック行ってもビールだ。そういう場合、その人は肴もなくビールだけ飲んでいる。好きなんだなあ。だから、人によるのかもしれないけれど。
 ただひとつ、ギネススタウトだけはつまみを欲しない。嗜好だなあ。

 ワインともなれば、やはり料理と共に味わうのが一般的だと思う。料理とワインの組み合わせのウンチクを語りだしたらキリが無い人は多い。「マリアージュ」なんて言葉もあるくらいで、フォアグラにはソーテルヌだの、鴨にはピノ・ノワールだの、生牡蠣にはシャブリだのと。僕にはよく分からないので聴いているだけだが、料理とワインの相性には歴史というものもあるようで。
 しかし日本では歴史も浅く、しかも西洋料理ばかり食べていないお国柄であり、さらにワインブームなどもあって、ワインだけ楽しむ、という方も多い由。食後ゆっくりとワインを飲みつつ団欒、なんておしゃれですな。
 そういう場合において、僕の嗜好で言えば、白ワインは単独で飲むのにふさわしくないような気がする。やはり、料理と共に味わいたい。例外はシャンパンかもしれないけれど、これもそう量は飲めないな。何も食べずに一本空ける、なんてのは無理かも。
 赤ワインは、コクもあり深いので単独でもいけそうな気がする。食後にワインでも、なんて言う人はたいてい赤ワインを飲むだろう。でも、僕はチーズかなんかやっぱり欲しいな。なかなか「吉田型」にはなれない。もっとも、本当にうまいものを飲んでいないからなのかもしれないけれど。
 うまいワインということで言えば、貴腐ワインは数度飲んだことがあるけれども、これは確かに料理を必要としなかった。これにはもちろん「うまい」という前提があってこそだろうけれども、その「甘さ」も要因としてあるのではないかと思う。シャトーディケムなんて見たこともないけど飲んでみたいなあ。
 
 さて、日本酒について書こうと思ったのだが、長くなったので次回に。
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腹内温度一定の法則

2010年04月23日 | 酒についての話
 前回の暦と燗酒、また冷やの話で、「酒の燗は、重陽節の宴から上巳の前日まで」という文言に対しやや乱暴ながら「ウルセー」と書いた。つまりこんなのは好みの問題で、燗して呑みたいときはそうすればいいし、冷やでやりたいときはそうすればいい、という話。
 それでは、燗の気分、冷やの心とはどういうものか。自分のことでのみ考えてみる。

 通常であれば、酒の種類で考えられるのだろう。つまり吟醸酒などの香りが強い酒、またさっぱりした「水の如し」タイプは冷やで。旨みや酸味が勝つ濃厚ボディタイプの酒は燗で。これは確かに一理ある。よりその酒を美味く呑む、という意味においては。
 「燗あがり」という言葉がある。燗をして美味さを発揮する酒を指す。あたためることでより旨みが強くなったりする。酒の味は甘鹹酸苦さまざまな味の集合体だが、温めるとから味苦味は抑えられ甘味は増す。酸味はあまり温度にかかわらないと言われるが甘味が増すため相対的に抑えられる。つまり、バランスがよくなる。だから濃厚な酒は燗したほうがいい、という話。
 究極これは好みなので(酒は酸味だ、という人もいるだろうそりゃ)一概には言えないが、まあまあ当たっているかもしれない、とも思う。
 しかしながら、これは燗と冷やの呑み分けの理由付けにはならない。酒の種類も味わいも星の数。燗酒が呑みたいときはそういう酒を選び、冷やでやりたいときはそういう酒を呑めばいいだけの話。
 あくまでも僕にとっては、燗冷やを選ぶ基準は酒の種類ではない。

 「酒は食べ物(肴)に奉仕する」これは、僕の持論である。酒だけ呑んで酔っ払いたいときもあるにはあるが、あくまで基本は、酒は食べ物を美味く食べるために寄り添うもの。そういう意味において、僕は燗と冷やを呑み分ける。肴との相性において、燗か冷やかを決定するのである。
 では、その基準はどこにあるのか。一応僕には簡単な法則がある。
 とりあえずそれを「腹内温度一定の法則」と呼ぼうか。つまり、熱い肴は冷や、冷たい肴は燗でやる、ということ。さすれば、お腹の中の温度が熱くなったり冷たくなったりせず、一定温度を保つ。例外も多いが一応、そう考えてみる。

 基本的に料理というものは、世界的に見てだいたいは温かいものである。料理とは火を通すこと。年間気温が非常に高い国でもそうである。暑い国では食べ物が悪くなりがちであり、当然口に入れるものは加熱する。インドや東南アジアであまり冷製料理は聞かない。
 隣の中国は基本、火と油の料理。冷たい(冷めた)料理は死人か罪人の食べるものだという言い方もあるらしく、僕が思いつく範囲で温かくない料理は棒棒鶏か、あとは前菜のクラゲや杏仁豆腐くらいしか出てこない。冷製料理は極めて珍しい。韓国でも冷麺があるくらいか。だいたいは、温かい。
 西欧料理においては、前菜は冷製の場合はある。しかしオードブル(hors-d'œuvre)という言葉の意味は本来hors(外に)œuvre(作品)ということで、「作品外」、つまり料理ではない。料理ではないとは言いすぎかもしれないが、冷たい主菜というものはほとんどないはず。
 日本には「割烹」という言葉がある。「烹」は火を使用して煮ることであるが、「割」とはつまり包丁で切ること。包丁技が料理人の基本であり、煮炊きと並列に称される。しかも烹割ではなく割烹。包丁が先んじる。そして火を使わなくとも日本では包丁技だけで料理ともなりうる。その代表格はもちろん「刺身」。
 西欧では、火を使わないものは料理とはみなされない、とはよく聞く話。例えば生牡蠣などはちゃんとした料理店ではシェフが扱うことがなく「エカイエ」という専門の職人が供する。古式ゆかしいレストランでは、サラダのドレッシングはウエイターが目の前で調合してくれたりする。いずれもシェフの仕事外となる。日本では、刺身を引く人が「花板」つまり料理長であり、「煮方」「焼き方」いずれも二番手三番手の名称だ。「包丁人」「板前」という言葉が料理人の代名詞である。西欧とは考え方が違う。
 つまり、日本では冷たい料理も数多い、ということ。他国では、冷製料理だけで食事を終わらせることはほぼないだろう。サルバトーレ・ダリが生牡蠣と水だけで食事を終わらせた、なんて話を聞いたことがあるがそんなの特例中の特例だから語られるのだろう。ところが、日本では寿司屋に行けば冷製料理だけで終始してしまうことは普通だ。中国では昼食に朝作って既に冷めたおにぎりを食べる、なんてことは考えられないという話も聞くが、日本では旅行で温かくない駅弁を車中普通に食べる。

 話がそれたが、日本ではかのように冷製料理が幅をきかせている。だからこそ、日本には燗酒があるのだ、と言いたい。世界的にも珍しい、温めて呑む酒というものが。
 居酒屋で、まぐろ山かけと〆鯖と白和えと鱧皮酢で一杯、というのは普通のこと。これ、全て冷製である。こういうときに、冷や酒ではなんとなしに身体が冷えてしまうような気になる。僕は蒲鉾が大好きで板わさで一杯というのを至上の喜びとしているが、やはりこういうときには燗酒を所望したい。僕の「腹内温度一定の法則」とはつまり、そういうことである。
 これは、話がそれるが日本酒に限ったことではない。例えば、ビールには枝豆、というのは黄金の組み合わせだと世間では言われるが、僕はあまりこれを好まないのだなあ。それでも茹で立てアツアツ枝豆を供されればまだ良し。でもね、よっぽど心遣いのある店ならともかく、まずそういうのは出てこない。特に「とりあえずビール」に熱い枝豆などは無理だ。間に合わない。冷や酒は常温だが、ビールはキンと冷やしてあるのが普通(またそうでないと困る)。そうなると、僕は茹でおきの枝豆は食べたくない。贅沢な物言いだけど。
 冷えたラガービールに合うのは僕はフライや串カツが最高峰だと思っていて(時として焼き餃子もアリ)、口の中を火傷しそうなものをガブリとやってビールをゴクリ、が至福。そしてそれは当然「腹内温度一定の法則」にも適う。
 もちろん、これは僕だけの法則であって、人に強要することではない。ポテサラでビールが史上最強だという人と以前呑んだが当然異は唱えない。だが、焼肉屋で「肉を焼く前にとりあえずキムチとナムルでビール飲もうよ」と言われたらなんとなしに「もうちょっと待とうよ」とは言いたくなる。たいていは押し切られるけど。
 燗酒に話を戻せば、やはり燗か冷やかは肴の温度による。煮魚や炊き合わせなど温かいものは冷やでもいいが、出来ればぬる燗が望ましい。温かい肴には、ほんのり温かい酒。これが丁度いい。舌を火傷しそうなものには、冷やかあるいは冷酒。
 例えば、天ぷら。これについては油の料理であり、熱めの燗が口内の油を切るのに向く、とは言われる。しかし、僕は冷やか、冷蔵酒がいいなと思う。カウンターで供される揚げ立てアツアツの穴子の天ぷらを天つゆにさっとくぐらせサクッと噛み切る。ハフハフ。そこに冷やした酒をくいっ。ああ幸せ。常識に反しているのかもしれないが、好みの問題であり勘弁してもらえればと思う。

 かように、酒と肴のそれぞれの温度による「腹内温度一定の法則」はたいていの場合僕には適う。これに例外を求めるとすれば、それはやはり季節だろう。腹内温度を凌駕するものは、もっと全般的な体内温度だ。人は変温動物じゃないんだから体内温度は常に一定だろう、と突っ込まないで欲しい。感じ方の話。夏は汗が噴出し、冬は芯まで冷える。そういう場面での話。
 もっとも、最近は屋内であれば、たいていは温度調節がなされている。冬は暖房、夏は冷房。こういうところではあまり関係がない。「腹内温度一定の法則」が発動する。だが、最近は少なくなったがこういうシチュエーションはどうだろう。寒空のおでん屋台。
 今日も一日疲れた。寒い。同僚と一杯やってから帰りたい。目の前のおでんがぐつぐつ煮える匂いに引かれて、屋台の人に。コートも脱がずに座る。大根と、玉子とゴボ天ちょうだい。湯気の立つあつあつの大根をハフと食べる。酒は、チロリからコップに注がれる熱めの燗…。これが冷たい酒ではちょっと。室内ではぬる燗でもいいが、この場面ではやはり熱燗。酒、肴ともに熱いが、なんせ外が寒く身体も冷えてしまっているため、これでちょうどよくなる。
 逆に、暑い夏。休日我が家で窓を開け放ち、パンツ一枚になって(失礼しますごめんなさい)、まずビール、そして冷やか焼酎のオンザロック。アテは冷奴、冷やした焼き茄子、もろきゅう、そして冷やしトマト。さらに氷でばしっと締めた素麺。TVはナイター中継。こんな幸せはないぞ。僕はこのコースを、暑気払いの王道路線と呼ぶ。室内に冷房を効かせたらこうはいかない。
 いずれも腹内温度はぐっと上がったり下がったりする。これが嬉しいのはやはり季節。春秋にこんなことはしない。

 だいたい以上のような感じで、僕は燗酒と冷やを呑み分けている。実に単純な話である。しかしながら、「お腹の中の温度を一定に保ちたい」なんてのは、相当胃腸が弱い人の感じもするなあ。実際は、僕も昨今残念ながら身体のあちこちにガタが来ているのだが、胃腸だけは何とか丈夫なのだけれどもね。
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暦と酒、あるいは燗と冷や

2010年04月16日 | 酒についての話
 酒はカレンダーに左右されるものではない。呑みたいときが呑むときだ。桜が咲いていようがなかろうが、いつ呑むかは自分で決めさせろ。

 忘年会とか暑気払いとか花見とかを理由にした酒宴が昨今特に面倒臭い。なので「ウルセー酒くらい好きなときに呑ませろ何かを言い訳にして皆団体行動に走るな」と大声で叫んでみる…勇気も無く、桜の散ったあと明後日の方向に顔をむけコッソリと言う。冒頭はそんなつぶやき。
 けれども、それではあまりにも風情も潤いも艶もないことくらいは、わかっている。季節感なんてものもひとつの肴。結局集団行動が面倒なだけなのだ。
 なので前言撤回。酒はカレンダーに左右されることも、ある。
 酒というものは、一種の農作物であるともいえる。その年の恵みから醸された酒は、まずは神に捧げられ、収穫祭で振舞われる。これは当然、日本に限らないことだろう。オクトーバーフェストなんてのもあれば、熟成を尊ぶワインの国でさえ、ボジョレーヌーボーなんてのがある。新酒という言葉の響きには、その酒の旨さよりも、なにやら気分的に浮き立つものがある。
 (日本酒の新酒といえば古米で造るもの、という話は措いて感覚的に書いている。初鰹とか新米とか、そういう気分的なものを連想する、という話)

 暦と酒の関係は、相当むかしにさかのぼれるものなのだろう。旬という言葉が生きていた時代。冷蔵庫も密封容器もあり生産技術も高い今と違って、昔は季節に縛られている。酒も新酒、間酒、寒酒、春酒などという時季の造り。寒造り、寒仕込みという言葉もある。
 そして、季節を寿ぐための酒。花見酒や月見酒。また正月に屠蘇。上巳に桃酒。端午に菖蒲酒。重陽に菊酒。
 節句に酒を、というのは縁起物ということがあるのだろう。邪気払いか。薬草を混合した屠蘇散はもちろん、桃や菖蒲や菊にも薬効があり、それらを浸して呑む酒は一種のリキュールだったとも言えるかもしれない。この中で、今も生きているのは正月のお屠蘇くらいか。上巳(桃の節句・3月3日)の酒は白酒となり、形を変えたがまだ生きていると言えるか。だが、端午の節句の菖蒲酒、重陽節(9月9日)の菊酒はもう見なくなった。

 ところで、上巳と重陽からの連想だが、よく聞く話にこういうのがある。

 「酒の燗は、重陽節の宴から上巳の前日まで」

 つまり、燗酒は9月9日から3月2日まで、ということ。もちろん旧暦である。旧暦はパッと計算できないので、こちらのお世話になって日付を確かめると、この記事を書いている2010年4月16日は旧暦で言うと3月3日、つまりもう燗酒の季節は昨日で終わっちゃったことになる。そんな阿呆な。さっき湯豆腐とハタハタ焼きで燗酒を一杯やったばかりだぞ。おいおいちょっとまってくれ。今日は結構、夜は冷えたぞ。
 もちろん杓子定規にそんなことは考えなくてもいいのだが、季節の酒の話から始めたのにいきなりこれでは困る。「酒はカレンダーに左右されることも、ある」と前言撤回したのに、さらに再撤回では格好悪い。
 誰がこんなことを決めたのか。それはよく分からないが、小泉武夫氏の著作などを見てみると、「温古目録」や「三養雑記」に「暖酒は重陽宴より初めて用うるよし」と書かれてある由。さらに調べると、「貞順故実聞書条々」に藤原冬嗣がそう語った、と書いてあるらしい。
 藤原冬嗣は燗酒の元祖かもしれない、という話は以前ここでも書いたことがある。このときは冬嗣さんに「よくぞ燗酒を発明してくれてありがとう」と感謝の気持ちも持っていたのだが、あんた今日から本当は酒は冷やで呑まねばいかんのだぞ、と言われたようで実に困る。そんなのウソと言ってくれ、とばかりに原典にあたろうとしたのだが、ネットではここでしか出てこなくて、しかもこれは本当の史料そのものなので酔眼ではとても読めない(酔ってなくても教養が追いつかず無理だが)。
 なので、恥ずかしながら再撤回ということにする。カレンダーもいいが、呑みたいときに呑みたい形で呑む、ということを基本姿勢としたい。冬は燗酒、夏は冷やという枠組みはちょっと不都合だ。

 そもそも論で書くが、本来の燗酒の出発点とは、藤原冬嗣が冬に酒を温めてミカドに供して喜ばれたことが発祥なのだろうか。既にリンクした過去記事「燗酒の季節」に矛盾しているようだが。
 民俗学者の神崎宣武氏が、「旬を外した(出来てから時間が経ち飲み頃をはずした、状態がよろしくなくなった)」酒を呑む手段として燗という方法が編み出されたのだ、と言われている(「燗酒ルネサンス」玉村豊男編より)。
 冬嗣さんが酒を温めた、というのは事実であるとしても、それは風流としての酒の呑み方であって、燗酒が常態化した理由ではない、ということである。
 酒というのは、前述したように農業生産物のようなもので、旬がある。そして醗酵させたものであるから、醸し供される時期を外すとうまくなくなる。うんと昔は「火入れ」という手段も一般的ではなく、ほうっておけば醗酵はどんどん進む。また後に醗酵を止める手段も講じられたが、それとて完全ではない。また、冷蔵庫のない時代は保存方法も難しい。必然的に、酒は時間が経つと悪くなっていく。
 かつて酒は、ハレの飲み物だった。祭りのときに造られた。酒は神に捧げられ、そして直会(なおらい)でそのおさがりをいただく。そして造られた酒は全てその祭りで呑み切られた。そういうことから、酒は長期保存を前提としていない。
 しかし世は移り、酒は嗜好品となっていく。さすれば、呑み頃を逸した酒も売られる。さらに江戸時代には、灘や伏見の酒を江戸へ運んだ。どうしてもそうなると品質が落ちてしまう。そうなったときに「燗酒」が常態化した。劣化した酒を呑む手段として。
 この話には、うなづける部分も多いのである。僕が子供の頃でも「この酒は二級酒でしかもヒネているから熱めに燗してくれ」なんて台詞がよくあった。風流だけでは酒は夏に燗はしないだろう。だが、酒を造る季節から考えて、やはり夏には品質が落ちる。したがって夏でも燗酒を呑むようになる。
 こういう話を聞くと、思わず冷や酒を燗酒よりも上位に据えたくなってしまう。安物の酒を呑む手段として燗酒が講じられたのであれば。

 だがしかし、である。神崎氏はこのようにも言われる。「クオリティを問わない、飲み頃を特定しない日常消費の酒をもって、酒が大衆化する」と。つまり、祭りや神事、儀式の際にしか呑めなかった酒、あるいは特権階級にしか呑めなかった酒というものが、燗酒という手段を得て大衆のものになった、ということだろうか。
 確かに、神事や儀式の酒には燗などない。神社ではお神酒をかわらけで呑む。当然、冷やである。三々九度だって冷たい酒を杯でいただく。また、暦法に沿った酒はみなそうだ。温かいお屠蘇なんて聞いたことがない。お屠蘇はぐい飲みで呑んだりはしない。三々九度と同様、銚子から杯に注がれる。あれは、ハレの酒だ。
 こうなると、我々庶民に「ケの酒」をもたらした燗という手段に、やはり一票投じたくなる。燗酒あればこそ、我々は酒を「呑みたいときに呑む」ことができるようになったのだ。 
 「酒の燗は、重陽節の宴から上巳の前日まで」なんて話は貴族の話。冬嗣さんなんてのは左大臣にまでのぼりつめた人であり、藤原北家隆盛のもとを作った人。そんな超上流階級の人の話を考慮に入れる必要もない。庶民の僕は、安心してまた燗酒を呑む。まだ冷えるもんね。

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ハングオーバー

2009年11月27日 | 酒についての話
 めっきり酒に弱くなった。
 先日は、調子にのってビールの大ジョッキを立て続けに二杯飲んだ。これがいけなかったのである。僕は、昨今はもちろん酒全般に弱いが、特にビールがいけない。炭酸系がダメなのか、発泡酒もいけない。やたら酔う。すぐにいい気分になってしまう。
 もちろん、それで止めておけばなんということもないのだろうが、たいていはそこから呑み出す。ビールだけでは、酒を呑んだという感じがしない。なので先日は以降燗酒だった。寒くなったので燗酒がことさら美味い。もう一本。笑う。放吟する。さらに一本。とめどなく呑む。
 結果、二日酔いである。阿呆だ。

 二日酔い。「宿酔」とも書く。酔いがずっと体内に宿っている。ああいやだ。英語だと「hangover」。語源は知らないけれども、ハングと言えばハンガーのハングであり「ぶら下がっている」的な意味か。ずっと体内に垂れ下がり続けているもの。これもよくその雰囲気が出ている。うっ気持ち悪い。
 二日酔いのダメージというものは、まず肉体に来る。頭痛。嘔吐感。胃痛。限りない脱力感。末端の痺れ。口唇や舌が自分のものでない感覚。激しい渇き。僕の場合は昔の頚椎捻挫の後遺症で首痛がそれに加わる。よって、全く使い物にならない。
 さらに、それに精神的苦痛が加わる。オレはなんてダメなやつなんだ。激しい自己嫌悪。こうなるのは分かっていたことじゃないか。この歳になって。馬鹿丸出し。駄目人間。人間の屑。
 こうして「もう酒は呑まない。ヤメた」と固く誓う。
 だが、その誓いが守られたためしが無い。何と愚かであることか。

 じゃなんでそんなに呑むのか。
 もちろん「酒が好き」ということが大前提としてあるのは間違いないが、これは量を過ごすということの説明にはならない。適量を見極めればいいだけのこと。酒を呑みだしてずいぶん経つのに。これまでの経験はどうした。
 僕に限っては、この酒を過ごすということの原因は「過信」だと思われる。まだ呑めるとどうしても思ってしまうのだ。
 もちろん、普段はそんな過信などない。むしろ自分を矮小化してとらえている。僕は気が弱くしかもマイナス思考の人間。酒についても同じこと。自分は弱くなった、もう呑めなくなった、と普段から口にしている。
 しかし、酔うとこれが変わるのだ。酒に限っては大変な楽天家に変身してしまう。
 酔ったら人が変わる、ということについては、僕はそんなことはあるまい、と常々思っている。酒というのは意識の拡大剤だと言える。呑んで尊大になる人は普段からその萌芽がある、と見ている。とてもそうは見えない人は、それは理性で押し殺しているのだろう。それはそれで偉い。だが、それが酒によって残念ながら顕在化してしまう。よって、乱暴になる人はそういう素養がある人。エッチになる人は普段は隠れ助平。酒は人を正直者にする。
 というわけで、僕は実は楽天家なのか、と自らに問いかけるも、どうもそうは思えない。酒を呑んでも、酒以外のことではダメだ。心配性は抜けず、負けることばかり考えている。じゃなんで酒を呑んで「二日酔い」の心配をしないのか。
 過去の記憶が甦るからだろう。それも近々の記憶ではなくひと昔は前のこと。その頃は当然今よりもずっと呑めた。その記憶が、酔いのために「ついこの間」のことのように勘違いしてしまう。10年前、15年前と言えば、若い頃は遥か昔に思えたものだった。20歳の頃の10年前は、人生の1/2である。そりゃ遠い記憶だ。だが、45歳の10年と言えば1/5強程度になってしまう。だから、10年は最近のことだとつい思う。大いなる勘違いなのだが、酒がそのへんの定規を霧に包んでしまう。
 しかも、酒というのは呑み過ぎているかどうかが分かりにくい。メシであれば、腹一杯になれば分かる。腹の皮も突っ張る。しかし酒は、肝臓が一杯になったかどうかが皮膚感覚として分かりにくい。しかも、酒が過ぎたかどうかは後の「回復力・回復時間」の多寡であり、後からツケがやってくる。その時は、呑めれば呑めてしまうものなのだ。
 よって「過信」が生じ、呑みすぎる。結果二日酔い。自己嫌悪に苛まれる。過信と自己嫌悪の繰り返しであり、正真正銘の阿呆と言える。客観的に自身の肝臓の代謝能力を計ることが出来る「酒量メーター」みたいなものが発明されないものか。…発明されても同じか。

 二日酔いになってしまったものはしょうがない。どうやってこの地獄から抜け出せばいいのか。
 原因は、体内に残るアセトアルデヒドだということは分かっている。名前からして厭らしい感じ。アルコールを摂取すると、肝臓が頑張ってそれを分解する。その分解の途上で、このアセトアルデヒドという物質が生じる。これは、毒である。この毒素を分解しきれなかった時に、二日酔いとなる。肝臓だって酷使されているのだから、肝臓君を責めることは出来ない。お前が許容量以上のアルコールを摂取するからいかんのだ。
 よって、アセトアルデヒドを分解させる何かを摂取すればいいのだとは思うが、研究は進んでいるらしいがよく分からない。民間療法も含めよく言われる方法は、柿を食べる(柿のタンニンがアセトアルデヒドと結合して排出を促進する、カタラーゼが分解を促進する)とか、ゴマを食べる(セサミンが肝臓を助ける)、またウコンを摂る(クルクミンが肝臓を助ける)などと言われる。いいものなら何でも試したいとは思うが、あの気持ち悪い最中に柿食べたりゴマ擂ったりなんて出来ない。
 タンパク質がいいから納豆を食え、ビタミンCがいいからレモンを齧れ、といくつも二日酔い処方箋はあるようだが、そういうものがのどを通るくらいの症状ならさほど心配はいらないのである。(ちなみに「納豆」という言葉は二日酔いのときに聞きたくない言葉の第2位である。聞くだけでエヅく。第1位は「固茹で卵」である)
 もうこうなれば時間の経過にすがるしかない。過度な運動はせず、電車内では座らせてもらい、家に居られれば横になる。そうして肝臓にパワーを集中させる。
 ただし、水分補給はせねばならない。これも、タンニンが含まれる緑茶がいい、とかスポーツドリンクで糖も同時に補う、とかよく言われるが、酷いときにはそんなものも胃が受け付けない。どうせ吐くなら、もう水でいいと思う。繰り返し飲む。徐々に身体に浸透してくるように思う。

 何か食べられればそれに越したことはないが、なかなか身体が受け付けない。嚥下出来たとしても胃がそれを跳ね返してしまう。無理せず、消化のいいものを少しづつ流し込むよりしょうがないだろう。ほんの数時間前はこってりしたラーメンまで食べられたのに。人体の不思議だと思う。
 あるビジネスホテルにて。昨夜はどうやってこのホテルに帰ってきたのか全く憶えていない。しかし、不思議と早朝に目が覚めた。頭が相当に重く身体は疲れきっているものの、なんとか動ける。あれ、わりに元気だな。何か食べよう。そうして階下に降り、ホテルの朝食バイキングの席につく。トーストや卵なんかは見たくもないが、おにぎりが置いてある。これなら食べられそうだ。と、味噌汁をすすりつつ食べる。意外に食べられるので驚き、いくつも口にした。これだけ食べられれば二日酔い状態からは脱せるな、と喜んだ。
 考えが甘い。その時は、実はまだ酔っていたのだ。後から聞けば午前2時くらいまで大酒を喰らっていたとの由。朝6時過ぎに完全に醒めているわけがない。食べ終わって部屋に戻り、シャワーを浴びた後くらいに猛烈な二日酔い症状が襲ってきた。苦しい。気持ち悪い。なんでおにぎりをあんなに食べたんだワシは。阿呆か。そしてまた胃袋が空に戻る。その時の自分の状態も見極められない馬鹿なのだが、これ、そんなに前の話ではない。あたしゃ何歳だ全く。

 汗をかくと良い、とはよく言われる。スポーツ選手達はランニングして前夜の酒を出す、などと聞くと凄いとは思うが、素人が真似しない方がいい。倒れる。サウナに入る人もいるが、よくこんなに気持ち悪いのに入れるなと思う。しかしこれも危険な方法である。血液は前夜の酒でドロドロのはずだ。西条秀樹さんや長島茂雄さんもサウナが原因で脳梗塞で倒れた。だいたい、本当に前夜の酒がそんな簡単に汗として出るものだろうか。そこらへんがよく分からない。
 もちろん、それがいいと信じている人もいることだろうし否定もしにくいが、とにかく水分を徹底して補給し続けながら、でないと危ないだろう。しかし、そんなに水をガブガブ飲んで走ったりサウナに入ったり出来るというのは、相当二日酔いも軽度なのではないだろうか。
 山口瞳氏によれば、文壇の大酒豪として名高い井伏鱒二氏の二日酔い脱出方法は、ぬるい風呂に入ることらしい。そして少しづつ温度を上げていく。さすれば、二日酔いが治るそうである。しかし、風呂はよく薦められるが本当に効くのか。確かに、血行がよくなるせいか頭痛は多少軽くなる。ただ、血の巡りは良くなるが肝臓に血流が集中しなくなるとも聞く。いいか悪いかよく分からない。
 だいたい井伏鱒二さんなんて人は、開高健氏や吉行淳之介氏など多くの作家がその脅威を書き記す大酒豪である。本当は二日酔いなんてしていないのではないか。諧謔としてこんな話をしているのでは、と疑う。山口瞳氏の話はまだ続く。「先生、宿酔がそうして醒めた後はどうされるのですか?」「決まってるじゃないか。また呑みはじめるんですよ」
 こんな人の話など参考になるものか。

 人により効く、効かないはあるかもしれないが、結局、決定的な治療法などないのだろう。だから「二日酔い対処法」がこれだけ百花繚乱なのだ。最終的にはじっとして嵐が通り過ぎるのを待つしか方法がない。
 「酒は呑んでも呑まれるな」とは古人の名言だろうが、おそらくこの古人も散々呑まれてきたのだろう。そして、こう言った後もまた呑まれ続けたに違いない。「酒は呑まれるなら止めるべし」ではないところがミソである。結局、また呑むのだ。昔から酒呑みは反省しないのか。
 いや、反省しないのは僕だけかもしれないなあ。こんなことを書いていて、舌の根も乾かぬうちにやっぱりまた呑んでしまっている。だが今日は、何とか適量。

 
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酒器の話

2009年02月05日 | 酒についての話
 前回、ビールグラスについてクドクドと書いてしまったが、僕がそんなに酒を呑む器について細かく考えているかと言えば実はそうではない。
 我が家のサイドボードには、すぐにパーティーが出来るほどの数々のグラスがずらりと並んでいるのだが、パーティーなど開けるほどの豪邸に住んでいるはずもなく、それらをほとんど使用したことが無い。並んでいるグラスはほとんどが戴き物、景品の類いであってグラスを集める趣味も有していなければ、酒によってグラスを換えるなどという面倒臭いことは自宅ではほとんどしない。中には相当いいものもあって宝の持ち腐れのようにも思えるが、割れやすいグラスを日替わりで使用するなど大変だ。
 なので来客があったり、よっぽど気分が乗った時以外は、僕は以下4種類しか普段使用していない。それは、ごく普通のタンブラー(つまりガラスのコップ。ビール、水割り、ロックこれ全てこなす)、ショットグラス(ウイスキーやラムなどのスピリッツをストレートで呑む場合)、ぐい呑み(燗酒用)、そして湯呑み(焼酎お湯割り、清酒を冷やで呑む時もこれ。寿司屋のやつより少し小さい)。これだけである。大きいの二つと小さいの二つ。これで用が足りてしまう。
 全て安物ばかりだ。酒造メーカーのマークなんかが入っている。サイドボードには薩摩切子や九谷焼の酒器もあるけれども、破損しそうで使用していない。もっとも、景品で貰ったいつも使うぐい呑みも、もう二十年近く使っているが一向に欠けたり割れたりする気配を見せない。
 
 ワインですらコップで飲んでいる。ワイングラスだって所持しているのだが、使うのはせいぜい記念日とかだな。さほど上質のワインを飲むわけでもなし。
 もちろんワインをワイングラスで飲むにはそれなりの理由がある。形状が洋梨型になっているのは香りを逃さず楽しむためであり、脚付きであるのは、本体を持って微妙な温度変化を避けるためのものである。しかし、そこまで気を遣わねばならないワインを飲む機会は家庭では残念ながら無い。コップで十分である。
 ブランデーなどは上質なものを呑むこともあるが、怒られるかもしれないがやっぱりショットグラスで呑む。ブランデーのグラスを包み込むように持って馥郁たる香りを楽しみつつ少しづつ味わう、なんてのは、上等のソファにでも座って葉巻をくゆらしクラシックでも楽しみながら、なんて場面でようやく絵になるのであって、畳の上に座ってTV観たりPC開けてブログ書きながら、なんてのにはどうもそぐわない。
 したがってこれ以上の酒器は普段は用いていない。

 燗酒の話だが、僕はぐい呑みを愛用していて、酒杯は滅多に使わない。厚手の器が好きだということもあるし、盃は量的にどうもチマチマして、と思ってしまう。だが、通人は圧倒的に盃を好む。口唇に当てたときの感触、そしてすいっと口中に流れる心地よさを好ましいと感じるからだろう。確かに盃の方が粋ではある。高台もついているので持つと絵になる。
 もともとは酒を呑む器としては盃の方が圧倒的に歴史があるのだろう。神事ではかわらけを使い、おそらくこれが最も歴史が古く、ここから酒杯に発展したのだろうと推測出来る。庶民に燗酒を呑む習慣がいきわたる江戸時代には盃が一般的だったということは、時代劇で呑むシーンなどを見ていると大抵は盃ですいっと呑んでいて、そうなのだろうと思ってしまう。
 僕もそういう粋の世界に入ってもいいのだが、前述の理由で使っていない。いや、そんな格好いい理由ばかりではないな。さらなる理由は(これが最も大きいかも)、どうも不器用なもので盃だと酒を溢してしまうことが多々ある。縁が広がりすぎているのが原因だろうとも思うし、注ぐ時にも雫が落ちたりして。結局盃というものは深めの小皿に高台がついている形状であり、液体を皿に注ぐわけだから失敗に繋がる。全く持って情けないとも思うが、酔っ払いは得てしてこういうものだろう(お前だけだ)。
 盃は口が広いので冷めやすいからぐい呑みの方が、という屁理屈もあるが、こんな小さな器で冷めやすいもへちまも無い。
 ところで、酒杯のことをおちょこと言ったりする。酒杯全体を指す言葉なのだろうけれども、あくまで僕の感覚だが猪口は盃の口のあまり広くないもの、という感じがする。正解はよく分からない。猪口というのは「蕎麦猪口」なんて時にも言うので、高台の無い、どちらかと言えばぐい呑みに形状が似ているようにも思えるのだが、あまりぐい呑みを指して「おちょこ」とは言わないなあ。僕だけかな。

 以上は酒を呑むための器だが、酒を注ぐための器というものがある。
 ワインにはデキャンタというものがあり、またビールにも頻度は少ないもののピッチャーがある。でも、どちらも自宅ではまず使わない。デキャンタは貰い物を一つ所持しているが、未だ使用したことがない。場所をとるのだが、何やら上等そうなので処分出来ずにいる。デキャンタの役割とは、そもそもボトルの底にある澱(不純物)を取り除くことにあるらしいが、そんなものが入っているワインを見た経験は僕にはない。また積極的には、ワインの色を愛で、また空気に触れさせることによってワインに呼吸をさせ、味わいを深めることにあると言う。「これによってワインが”開く”のだよ」という薀蓄も聞いたことがあるが、そんな年代モノのワインには残念ながら縁がないし上質の舌も持ち合わせていない。
 注ぐための酒器と言えば、僕が思いつくのは燗酒の時に使うものだろう。

 燗酒の酒器は、徳利が一般的である。居酒屋に行って燗酒を頼めば、まず徳利で出てくる。他にはチロリなんていうものもあってこれもまた味わい深いものだが、ひとまず措く。
 ところで、言い古された話に「お銚子一本、と頼むのは間違い。銚子と徳利を混同するな」という薀蓄があって、通人はよく指摘する。僕も確かに狭量な人間なので「ビアマグとビアジョッキの違いはどこだよ」なんて書いたりするから人様のことは言えないのだが、もはや徳利を「銚子」と近来は表現するようになった、と言ってもいいのではないか。それほど浸透してしまっている。「別名」「同義」だ。僕も何も知らない若僧の頃は銚子と言っちゃっていたかもしれない。
 もちろん両者は本来は別物である。銚子というのは、あの雛飾りで三人官女の向かって右側の人が持っている、柄の長い酒器のこと。三々九度とかでも使うのでご存知の人も多いだろう。あれ。
 ところで、三人官女の真ん中の人は三宝を持ち酒杯が乗っているが、左側の人は蔓(ぶら下げるような持ち手)のついたやはり酒器を持っている。正月に屠蘇を祝う時に使用するのに似ている。形状としてはやかんの小さいの(ちょっと乱暴な表現か)。あれは何と言うのだろう。話がそれるが検索した。
 よくお邪魔させてもらう月桂冠のサイトには、「提子(ひさげ)」と記してある。初めて知った。勉強になるなあ。銚子に酒を入れる酒器であるらしい。現在も樽酒から酒を出すとき片口に一旦受けるが、その役割と同じなのか。提子から銚子に酒を移し、そして酒杯に注いで呑む。
 上記月桂冠のサイトにもあるように、後には提子から直接酒杯に注ぐようになり、江戸時代には銚子とも呼ばれるようになったとか。なるほど。徳利が銚子と呼ばれるようになったのと同じ道筋である。そもそもあんな柄の長いヤツで酒を注ぐなんて、不器用な僕にはとてもとても。
 徳利のルーツは「瓶子(へいじ)」であるそうな。瓶子と言えば僕などはすぐ後白河法皇を思い出す。鹿ケ谷事件である。平家打倒の謀議をめぐらせていた後白河一派が、酒器である瓶子が倒れたのを見て「瓶子(平氏)が倒れたとは幸先の良い」などと言い(オヤジギャグの元祖みたいな話やな)、後にこれがバレて俊寛が島流し、というあの話。瓶子も徳利も背が高いので安定が悪い。
 
 徳利が燗酒の酒器のスタンダードであるということは誰しも認めるところであり、異論はないと思われる。居酒屋では「お銚子下さい」と言っても徳利で供されることは前述したとおり。
 ただ、僕は実は徳利という容器がさほど好きではない。こんなことを言えば通人からはアホと言われることは予想されるし、酒呑みの風上にも置けないだろうが、徳利は①瓶子と同様倒れやすい②熱燗になると熱くて持ちにくい③最近の焼き物の徳利は注ぎ口が捻り出されているものも多いが、多くは(白磁のものとか)縁に凹凸がないので、注ぐと尻漏れしてしまう…などの問題もある。もちろん大部分は僕の不器用さのせいであるが。さらにもっと風上に置けない理由として④電子レンジにかけると温度差が出来てしまう…というのもある。酒を電子レンジで燗するなんて酒を愛していない証拠だ、という突っ込みは享受するが、面倒臭いんだもん。
 そもそも徳利は湯燗をつけるのには実に適しているが、それは供する側の論理であり呑む側が求めているものではないんじゃないか。注ぐのには提子(銚子)の方が注ぎやすいし持ちやすい。

 というわけで、僕は自宅では徳利を使わない。家では自由にさせてもらう。
 しかし、徳利に代わる酒器があるのか。それがあるのである。
 例えば、薩摩の芋焼酎を呑む際に使われる黒ジョカ。言ってみれば、土瓶を平たくした形状だと思っていただければ遠くはない。薩摩隼人はこの黒ジョカに焼酎を先に水で割って入れ、寝かして馴染ませて後、ゆるゆると直火にかけて温める。お湯割とは、湯呑みに湯と焼酎を直接入れるのではないのだ。水割りを温めるのである。これを、猪口でチビリチビリとやる。これは清酒にも応用出来るはずだ。
 ところが、我が家には黒ジョカが無い(買えよぉ)。もちろん買えばいいのだが、さらに代替品がある。沖縄の「カラカラ」。やはり土瓶型の酒器である。泡盛を入れて使用するためのもので、黒ジョカと異なるところは蓋がない。泡盛は燗をすることがないので、蓋など必要としないのだ。しかしそもそも徳利にだって蓋はないじゃないか。また、直火にかけると良くないが、電子レンジに入れるには申し分ない。平たい形状で温度差も出来にくい。
 そうして、僕は長い間カラカラで燗酒を呑んできた。持ち手があり、注ぎ口がありうまく注げる。座りもよく倒すことなどない。そうやって悦に入っていたのだが、僕の所持するカラカラの容量は一合である。ちょっと小さめ。
 僕は晩酌では、たいていは二合呑む。なので、途中でお代わりをせねばならない。多くは妻に頼むのだが、機嫌が悪いとやってくれない。しかし自分でやるのは面倒臭い。
 次に沖縄に行くときには必ず二合入りカラカラを買おう、といつも思うのだがつい忘れる。忘れたと言ってすぐに行ける場所でもなく、もちろんこっちでも専門店では売っているが概して高価である。
 
 僕は今、どうやって家で燗酒を呑んでいるかと言えば、実はティーポットである。
 結婚式の引き出物で貰ったもので、底が平たくずんぐりとしていて持ち手もついている。陶製で薄緑色、なんとも安定がいい。もちろん紅茶用だが、我が家には既に長年使用しているティーポットもある。なので戸棚にしまわれたままだったのだが、これで燗をするとすこぶる調子がいい。七分目くらい入れてちょうど二合。電子レンジでもいいが、卓上保温器の上に置いてしばらくすればちょうどいい温度になる。便利この上ない。
 ただ、もちろん風情はない。とは言うものの、こういうものは慣れで、今ではすっかり違和感が無くなった。貰い物のティーポットから景品のぐい呑みにゆるゆると酒を注いで呑んでいる。安上がりの幸せであるなとも思う。
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ビールグラスのことなど

2009年01月27日 | 酒についての話
 先日、割烹のような小料理屋のような、そんな場所で呑む機会があった。まずはビールを、ということで注文すると、グラスではなく焼き物の酒器を供された。こういう場所ではよくあることだ。釉薬のかかっていない、ザラリとした肌触りのやつ。素焼きと言えばいいのかな(陶磁器に詳しくないのでよくわからん)。

 「焼き締めのビアマグは、表面に気孔があってビールの泡がこわれません。なので、クリーミーな泡が生じてとてもおいしくなります」

 同行者が「なんでこういう湯呑みたいなやつで?」と聞いたので、おかみさんが丁寧に説明をしてくれている。僕はこういう話はよく聞くので耳タコなのだが、知ったかぶりをせず横でハイハイと聞いていた。その理屈はわかりますよ。ただ、マグというのは取っ手がついている円筒形のやつのことじゃないのかな、といつも疑問に思ってしまう。これは形状的には取っ手もなく、尻すぼみの形でマグと言うべきではない、といつも思うのだが。
 それはともかく、僕はこの焼き物のビールコップが残念ながら好きではないのだ。
 味というものは、視覚というものが大きく関わるものだということをこの件ではいつも思う。普段ガラスの透明なコップないしはジョッキでビールを飲み慣れている僕などは、やはりビールの状況が側面から見えていないとどうも落ち着かない。素焼きの器は当然透明ではないので、ビールは上からしか見えない。さすれば、見えるのは泡だけだ。
 目を瞑って、コップに注いだものと素焼きのやつと飲み比べたならば、おそらく焼き物に注いだやつの方が美味いのだろう。しかしそんな利き酒のようなことをしてビールを飲むことなどしない。
 もちろんビールの本場西欧では、陶器のビアジョッキがあることも知っているし、蓋付きのものも見たことがある。しかし、我々は歴史浅き日本人であり、ビールは透明のコップで飲むことが刷り込まれている。習慣というものは恐ろしくまた力強い。上から見て泡だけが見えている状態はなんとも頼りなく、別の液体のようにさえ思えてしまう。どうしても検尿を思い出すし(笑)。
 さらに、これが生ビールでサーバーから注がれて供せられるのであればまだ良しとしよう(本当は良くはないのだが)。この器を出されて、ビール大瓶一本をドンと置かれた場合、どうしたって日本人の因習としては「注ぎ合い」をせねばならない。そうすれば、先方のグラスが空いているのかが分かりにくく、そしてうまく注ぎにくい。透明であれば、7:3の割合で泡を押さえつつ美味そうに注ぐことも出来るのだが。
 ビールをグラスに注ぐ場合、やはり「注ぎ方」というものは重要であると思う。些細な事を言うようだが、巷間言われているように、最初はグラスに一気に注ぎ、泡が盛大に立った時点で少し待ち、その泡が少しおさまって細かな泡ばかりが残ったところを見計らい、今度はその泡の層を持ち上げるようにゆっくり注ぐ。細かな泡の層がグラスの縁から盛り上がりなおかつ泡が消えていかず、ちょうど泡とビールの割合が7:3になるくらい。これを一気にぐいっとやってプハー、が僕の思うビールの正しい飲み方であり、現に美味い。
 この作業は実に簡単なことなのだが、それはビールグラスが透明であってこそである。一目瞭然、見ているから誰にだって出来るのだ。これを透明でない器で勘に頼って注ぐとなれば急に難しくなる。いくら素焼きで泡がクリーミーになる、としてもである。
 そのうえ視覚の問題である。ビールを飲む時にグラスを持ち上げる、その時に視界に入る黄金色の艶と白い泡とのコントラストが、さあビールを飲んでプハーとやるぞ、の気持ちを一瞬でも盛り上げるのではないか。
 焼き物のビールグラスなど「こけおどし」であるなどとは言うまい。店側も、美味いビールを飲んで欲しいという気持ちから供しているのだろう(と、一応好意的解釈をする)。しかし視覚を封じられては、ビールを飲む醍醐味が半減してしまうように思ってしまうのだ。闇鍋と同じ、とまでは言わないが。
 僕の見方が必ずしも正しいというわけではないことは重々承知している。現に同行者は「やはり器にはこだわらないといけないな。今日はビールが美味い」とのたもうている。人によりけりだ。でも僕は透き通ったグラスが嬉しい。せめて選ばせてくれれば、とも思うが、「こちらの備前焼は泡がクリーミーになります。こちらはただのコップです。どちらがお好みで?」と言われて、一人呑みの場合を除いて、ただのコップの方を下さい、とはなかなか言いにくい。願わくば、こういう「こだわりを持つ」呑み屋が増殖しないことを望むだけである。
 
 ビールは、缶ビールであっても僕は大抵はコップに注いで飲むようにしている。外食時は当然だが(缶ビールをそのまま出したり瓶をラッパ飲みせよ、などという店は一部立呑み処などを除けば珍しい)、自宅、ないし旅行先でも一応注ぐ。例外は暑い日にコンビニやキオスクで衝動買いしてしまったときくらいである。
 それは、無論その方が美味い、ということがあるが、それほど7:3に注げとか細かな泡だけを残せとかうるさいことを考えてのことではない。僕は、こんなことを書いていて何だが、実は炭酸飲料がそれほど得意ではないのだ。ノドがシュワシュワするあの感じが苦手。よく瓶のコーラのイッキ飲みなどを立て続けにやる人がいるが(渡辺正行さんはスゴいね)、僕は絶対に出来ないな。
 ビールは注ぐことによって、適度に炭酸が抜け、ノドに強烈にくるシュワシュワ感を軽減する効果がある。だから僕のように軟弱な徒でもグイっと飲めるのだ。缶ビールを直接口にすれば、どうしても僕などはグビグビ飲むことが出来ない。それは誠に残念なことなので、一度注いでから飲むことにしているのである。

 困るのは、旅先でのことである。ビジネスホテルに泊まって、とりあえず部屋で飲みたいときがある。外へ飲みに行けばいいのだが、疲れてちょっと部屋で思わず寝転んでしまうと一瞬寛いでしまう。街に繰り出すより先に一杯くいっとやりたい。今すぐ。そんなとき、缶ビールの自動販売機なんかは廊下などにたいてい備え付けてあったりするが、安いホテルだとグラスが無い。
 どんな安宿でもお茶などの設備はまずあって、湯呑は確実にそなえつけてあるのでそれに注いだりする。ちとわびしい。また、洗面所にプラスチックのコップがあって、それで飲んだりする。さらにわびしい。これらは前述したように視覚的効果が妨げられ、しかも別に泡がクリーミーになったりはしないのだ。でも注がずにはいられない。もう少し上等のホテルにすれば良かったかなと思ったりする(と言ってルームサービスのあるようなホテルに泊まれるほどの身分ではない)。
 さらに困るのは、僕はプライベートだとキャンプをしたりPキャンをしたりする。その時もビールの器で苦労する。
 昔、自転車旅行をしていたときには、所持している食器はシェラカップのみだった。熱伝導に優れていて、保温性が高いのに飲み口はさほど熱くならない。そのままバーナーの火にさえかけられるシロモノだったが、これにビールを注いだらもうそれはビールでは無くなってしまうようだった。泡も立たない。飲み口が広い器はダメだ。飯茶碗にビールを注ぐ阿呆はいないだろう。この時はさすがに直飲みをせざるを得なかった。
 移動手段を自転車から自動車に変えてからは、車にホーロー引きのマグを必ず積んでいるが、これは透明ではない。グラスくらいは積めるはずだが、妻が「割れたら困るわよ」と賛成しない。しかし透明の器が欲しいので、僕は事あるごとにプラスチック製のコップを物色していた。しかしなかなか大きさ的にいいのが無い。
 あるとき椎名誠氏のエッセイを読んでいたら(雑誌で読んだと思うので出典を明記出来ない。ごめんなさい)、ペットボトルを半分切ってそれをグラス代わりにして飲む話が出てきた。なるほどそれだ。僕は空のボトルのラベルを剥がし、カッターナイフでちょうどいいところで切った。うむうむ。ところが大きさはいいのだが、不器用なせいか切り口がザクザクになってしまった。怪我をしても困るので、僕はヤスリをかけた。このグラスの良さは使い捨てという点だと思うのだが、ヤスリまでかけて作ったので惜しくなり、洗って今でも再利用している。我ながら阿呆だなとは思うが、当人は野趣に富んだつもりで悦に入っている。

 ビアグラスには様々な種類がある。むろん生ビールにはジョッキだろうし、瓶ビールにはタンブラーが普通に供される。
 ところで、上品な店に行くとグラスが小さくなる傾向がある。一口サイズと言ってもいいかも。接待用で何回も注ぐことが出来るから割烹などでは採用されているのかもしれない。でも、小さいと実際は注ぎにくいのだ。前述した二段階注ぎもしにくい。すぐに泡が立って溢れそうになり「おっとっと」となる。やはりある程度の大きさが欲しい。またグラスの背丈もある程度は欲しいので、オールドファッションドグラスなどはやはり向かない。
 また、底が丸みを帯びていると泡がうまく立ちやすいのは確かで、気の利いた店ではゴブレットを出してくる。確かにビールには最適かもしれないが、ちょっと上品過ぎる気もしてしまう。そんなおしゃれな店にはあまり僕も行かないし。居酒屋専門の僕にはほぼ縁がない。
 しかし、勘違いをしている店もある。チューリップ型のグラスを供されればどうも「しゃらくさい」と僕なんかは思ってしまう。泡を楽しみたい場合、やはり側面はまっすぐ垂直なのが望ましい。ピルスナーグラスというものがあって、日本のビールはチェコのピルゼン地方を発祥とするビールを範としており、その地方のスタイルであるピルスナーの名を冠したグラスで飲むのが「通」であるという説もあるが、どうもあまり僕には望ましくない。一概にピルスナーグラスと言っても種類があり定義はよく知らないが、上部と下部で太さが違うくらいなら良しとする。しかし、よく細めのメガホンをひっくり返したような形状のものがあるが、これはどうも好きではない。逆円錐形で口が広がっていると気が抜けやすい、ということもあるが、何より僕にとっては飲みにくい。あんなのはフルーツパフェに使用すればいいのではないか。もちろん好みなので僕にとっては、だが。
 様々な器を供する店もある。ブランデーグラスのようなやつが出てきたことがあったが、こっちはラガービールを飲もうとしているのだ。そんなのはベルギー産の、度数も高く香りを楽しみチビチビと飲むタイプの場合に使用すればいいのであって、グイッといきたい日本のビールには不自由でしょうがない。
 長靴型のなど論外である。学生の頃あれで飲んで一気に洪水の如くビールが押し寄せ、むせかえりビシャビシャに溢し往生したことがある。今でもトラウマだ。

 そんなことは大した問題ではないのかもしれない。もっと大きなことは、グラスの状態だ。よく、細かな汚れが残っていたり拭きあとがあったりするとビールの泡がうまく立たない、しっかりと洗って自然乾燥させたものを使え、とは言われることだが、不自由な屋台でもなければ、今どきそんな困ったグラスを出してくることは珍しい。汚れていれば客にクレームを付けられてしまうし。
 グラスやジョッキを冷やしている店はある。凍っているかのように真っ白になったグラスを供する店があるが、店側は親切でやってくれているとは思うものの、あれは必要ないな。そういう店はビールもチンチンに冷えている。ビールはノドで飲むもので「歯に沁みるからヤメロ」とは言わないが、一気に飲むとアタマがキンキンしてしまったことがある(本当に経験した)。触ると指がくっつきそうだった。結露も酷い。グラスなど普通の状態でいい。火の側に置いておいて熱くなっている、なんてのは絶対に困るが、グラスなど常温であればいいのではないか。何も冷凍庫にまで入れなくとも。
 もっと困るのは、ビショビショのグラス。まあね、今どきそんなグラスをポンと置く店など珍しいとは思いますがね。かつて「餃子の○将」では、水を入れて待機させていたグラスの水をジャッと空け、ポンと置かれることがよくあった。今はもうそんなことはさすがにしていないだろうな。最近あまり行くチャンスがないので(行ってもビールを飲まないので)確認していない。念のために、僕は京都生まれで「餃子の王○」は大好きな店である。

 本当は酒器全般について書こうと思っていたのだが、ビールグラスだけで話が終わってしまった。また他のものについては後日。
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酒場の話題について

2008年09月17日 | 酒についての話
 「酒の最高の肴は、楽しい会話である」
 これは確かに至言であると思う。しかしながら、これはなかなか難しいものだとも思う。世の中には酒の邪魔をする会話が山ほどある、と言っては「お前何サマだ」と批判を浴びるかもしれないが、実際に酔うに酔えない状況を作り出す場面を嫌になるほど経験してきている。
 酒って何のために呑むのだろう、という自問はこれまでもずいぶん繰り返してきている。僕は「酒は食べ物に奉仕すべき」とかいろいろ理屈を言ってきているが、結局のところ「味わいかつ酔う」ために呑むのだろうと思っている。酒を味わいそして酔っ払うのが好きなのだ。
 ではそうするための状況作りが必要となってくる。どんな場面で呑んでも酒は美味いさ、と言う方もあるだろうが、僕はまだまだ修行が足らないのでそういう境地には達していない。例えば、呑むことが仕事になり結果を求められるようになったら、とてもおちおち酔っ払ってはいられないだろうと想像する。ビール製造会社の新作研究所などでテイスティングを生業としてらっしゃる方が居る。僕がもしもその立場であるならば、仕事(酒を呑む仕事)が終わった後、さんざん呑んでいるにも関わらず一杯やりたくなるに違いない。
 結局、酒とは開放感がないと美味くないものだろうと思う。酒を呑むから開放感が生じるのか、開放感を持ちつつ酒を呑むから美味いのか、それははっきりと分からないが表裏一体のものだと僕は感じる。仕事で酒を呑むと実に美味くない。接待という仕事が苦痛なのは、いろいろ要因はあるけれども「殺して呑む」ことが前提になっているからだと考えている。

 酒は状況であり、酒は開放感である。いくら上質の酒を呑んだとしても、そのときの状況が酒に相応しくなければ、その酒の価値を十分に享受することが出来ない。
 その状況というものは、複数で呑んでいる場合は、その時の会話によって成り立つ。場所の設定や時間帯もあるかもしれないがそれはあまり大きな要因ではない。下らない話で占められている時は最高の雰囲気を持つ立派な酒場で呑んでいてもまずい酒はまずいし、バラックで呑んでいても楽しい雰囲気なら美味い酒は美味い。
 だから、酒場の会話というものは難しい。酒に相応しい状況、雰囲気は人それぞれでまちまちであるため、一方が楽しいと思っていてももう片方は満足しているとは言えない場合がある。酒場の話題のニーズというものは個々で本当に違う。
 
 酒の席で仕事の話をするな、とはよく聞く話である。僕ももちろんそれには基本的に同意している。しかしながら、例えば職場の同僚と呑む場合は、仕事関係の話にならざるを得ない部分があるのはもう致し方ないかとも思ってしまう。共通の話題がそこにしか存在しない場合があるからである。
 この酒場での仕事の話、愚痴や上司の悪口であればまだ良心的ではないかとも思ったりする。僕は、酒をストレス解消の道具に使うのは好きではないし酒に申し訳ないとも思っているが、まあ酒にすがりたいこともあるだろう。日頃口に出せない鬱憤を酒の力を借りて晴らすのも、酒の持つ優しさのおかげかとも思う。個人的には愚痴や悪口などあまり聞きたくない話題だが、付き合いであるからしょうがない。なお、僕は酒場の話題で自分から仕事に限らず愚痴や悪口を言うことは無い。愚痴を言うときにはそのときの不快な思いを反芻することになるからだ。酒を呑む時には楽しい気分で居たいので、嫌な思いを繰り返すような話は避けるのが得策だと考えている。そんな話は忘れたいのだ。なので自制する。
 しかし人が言う分にはまだ許そうかとも思う。そのくらいの度量はこの歳なので出来てきている。しかしながら、その話が愚痴に留まらず、酒場で仕事が始まるかのような話を持ち出す御仁も居る。これだけは勘弁願いたいものである。
 どうしたら成績が上がるか、どうしたら取引先を陥落させられるのか、どうしたら効率のいい営業が出来るか、等々。そんなのは会議室でやってくれ。酔っていいアイディアなど浮かぶはずがないのだ。無駄であるし不快である。同僚や若い人がそんな話を始めたら僕は制するかもしくは席を立つが、これが上役である場合は全くのところ困る。今すぐ電話して先方に交渉しアポをとれ、などと言い出す。阿呆か。そんなのは酒を呑む前に言え。挙句の果てに説教を始める。お前の頭の中は仕事しか無いのか。可哀相な人であるとの判断も出来るが、酒場には邪魔な人種である。こういう人には、正しい酒の運用方法ではないのは承知しているがガンガン呑ませてツブしてしまう。ようやく静かになったか。ああまたあたら美味い酒なのにもったいない使用法に用いてしまった。こちらまで自己嫌悪になる。こんなヤツと二度と呑むか。

 共通の趣味を持つ人と呑むのは楽しいものである。僕には身近に70年代フォークソングの話をする友人が一人いるが、実に話していて楽しい。また、鉄道マニアでガンダムヲタクの知り合いが居るが、これもまた楽しい。
 別に共通の趣味でなくてもいい。知り合いに釣りの大家が居るが、僕は全く釣りに関しては不調法であるものの、太公望の話は面白い。その人の友人で登山家の人と同席したことがあるが、これもまた楽しい。こういう人たちには蓄積があるので、次から次へと話題を提供してくれる。
 むしろ、共通の趣味など持っていない方がいいのかもしれない。貴方と話が合うと思うから、と言われ格闘技好きの人たちの集まりに同席したことがあるが、僕は格闘技を観るのは好きだが根本はプロレスファンである。どうしても噛み合わない。噛み合わなければ黙って聞いていればいいだけの話だが、プロレスよりK-1を上位に置きたがるその人は、僕に対しプロレスなどというショーより真剣勝負の総合格闘技を重視した方が絶対に面白いと説く。面倒くさいな。悪酔いしてしまうではないか。
 趣味は深まれば深まるほど狭量化してくるものなのかもしれない。この歳まで続いている趣味ならなおさらである。自省を含めて考えるのだが、趣味であっても長く続くとそれについて考える時間も長いし深みも増す。専門性も強くなる。そうなると、例えばその中で自分が出した結論などについては執着心も生じる。
 聞いたことのある話だが、釣りマニアが居合わせた酒の席で、生餌と疑似餌についてどちらがいいかの大論争になってしまった話があると言う。普段はそんな話で揉め事など考えられないのだろうが、酒が入るとその「自分の信ずるものへの執着心」が狭量な部分を先鋭化してしまうのだろうか。
 僕は歴史ヲタクなので日本史の話が出ると楽しいはずなのだが、例えば「信長は日本最大の偉人だ。秀吉なんてタダ横から出てきただけの小心者で器じゃないヤツだ」なんて言葉を聞くと、お前秀吉の何を知ってるんだと言いかけてしまう(もちろん僕も信長や秀吉の何を知っているわけでもない。ただ酒が入るとそんなふうに思っちゃったりするのだ)。これで、坂本龍馬なんて薩摩に踊らされただけ、なんて話題がもしも出たら目を吊り上げて反論してしまうだろう。幸いにしてそういう場面に出くわしたことがないので事無きを得ているが、危ない。例えば邪馬台国論争だって喧嘩に発展するかもしれない。酒は、普段ならば押し殺してしまう部分を顕在化させてしまう作用がある。あんまり深い話はご法度にしたほうが安全だ。
 その最たるご法度話題が政治と宗教なのだろうか。「自分の信ずるものへの執着心」が最も如実に現れる話題である。酒の席で折伏されてはたまらない。
 
 結局、つまらないけれども酒場の話題は「あたりさわりのない話」に終始するのが最も問題を生じさせないのだろう。

  イッキ呑みしか出来ない彼氏 酔ったら車か女の話です

 松山隆宏さんの「はっきり言って僕はあんたが大っ嫌いです」という歌の一節だが、若い頃はこういう酒呑みが僕も嫌いだった。しかし、こういう話をしている限りは喧嘩も意見対立もない。もう好きな女性のタイプであるとかで盛り上がる年齢でもなく、イッキ呑みをしていたらひっくり返ってしまうが、酒場の話題が論争になるよりはいい。
 最近は、話題として子供自慢の話が増えた。僕も親バカの年齢なのだが、子供が居ないのでそんな話には加われない(加わらない)。でもまあ平和である。
 だが、そうして達観するのもいいがどうも酒が美味くない。むしろ一人で呑んでいる方がストレスがたまらないような気さえする。「酒の最高の肴は、楽しい会話である」はずなのだが、徐々に面倒になってくる。
 太田和彦氏は、酒場の話題の極意は「明るい方向に導く」ことであり、そのためには会話を「その通り」「そうだそうだ」と肯定の返事をして話を順接に繋げることである、とする。愉快に呑むのは楽しいに決まっているし、そのためには話の中に対立軸を作ってはならないのだ、と。それは確かに一理ある。だが、歳をとってしまったなとも思うのだ。こういう手法に一理あると思う自分に。
 もっと上手でお洒落な会話が出来ないものかと思う。先達の書いた書籍などを読んでいると、酒場の会話でのお手本が沢山出てくる。吉田健一氏の洒脱さ。丸谷才一氏の薀蓄。吉行淳之介氏の粋と含羞。こういう人たちは達人であって一朝一夕に真似など出来るわけがないのだが、こんなふうな酒呑みになりたいものだと思う。
 そもそも、なんでこんなに酒場の話題が難しい、などと考えるようになってしまったのだろうか。そうだ。昔は酒場の話題が難しい、なんて考えたこともなかった。安い居酒屋で、友人の下宿で、公園の一隅で、時間が経つのも忘れてひたすら喋り、呑んだ。
 その頃と比べて今の僕には何が足りないのか。若さだ、と言ってしまっては虚しすぎる。しがらみが多くなりすぎちゃったのか。しかし、酒席というものはそういうものを本来取っ払ってもいい場所であるはずなのだが。
 そうして堂々巡りに陥る。

 しかし酒場の会話は気を遣うものばかりではない。楽しい会話だってまだいくらでも出来るはずだ。実際、楽しかった酒席も多い。
 最近記憶に残る話題。
 ・吟醸酒を燗するといかに美味いか
 ・あの4の字固めで何故藤波は猪木の足を折れなかったのか
 ・なんでグレープは解散しちゃったのか
 ・ガラスの仮面の結末はどうなるのだろうか
 ・義経ではなく桃太郎がジンギスカンになったのではないか
 ・明智光秀は桃太郎の子孫なのではないか
 等々。阿呆な話題を真面目に考える至福というものがある。次期総裁選の話などよりよっぽど楽しい。

 いろいろな考え方もあると思う。ただやはり「酒席に必要なものは開放感」であるという考えは僕は揺るがない。そして、会議室でやるべき議論や対立軸が生じるような話題は「酒品が無い」とも僕は考えている。酒が泣くような話題は出来ればごめんこうむりたい。酒をもっと生かしてやれよ。元来美味いものであり楽しく酔っ払いたいではないか。
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酒と肴の相性についての勝手な話

2008年03月22日 | 酒についての話
 最近、妻がワインにはまっている。どうも友達の影響らしい。
 それまでは、妻はまあせいぜい家ではビールを飲む程度だった。呑めない体質でもないのだが、若い頃に酒や焼酎、ウイスキーなどを呑んで酷い目にあった経験がトラウマになっているらしく、あまり強い酒は呑まない。
 妻の嗜好がそうであるので、我が家に妻が買ってきておいてくれる酒はビールオンリーである(正確には発泡酒である)。それ以外の酒は、僕が自分で買ってこなくてはいけない。まあ別にいいんですけれどもね。酒というものは様々な銘柄があって、「これとこれを買って来ておいてくれ」などと細かく説明して頼むのも面倒なことであるし、酒屋で酒を選ぶのもまた悦楽であるのだから。

 ところで、前述したように妻はビールに加えワインも買ってくるようになった。それも赤である。「ポリフェノールは健康にいいのよ」などとみのもんたかヤッくんがひと昔前に盛んに番組で言っていたようなことを今頃になって言っている。まあそれはよかろう。勝手に飲めばよろしい。
 であるが、ワインというものはたいていは750ml入りの瓶である。コルクを抜いたらどんどん劣化していくと妻は信じているので(一面それは事実だがそんなに厳密に考えることもないのに。レストランじゃグラスワインだって供するではないか。翌日飲めばいいだろうが)、一瓶自分一人で飲むのは多すぎるので僕にも付き合えと言ってくる。
 別にそれは付き合ったってかまわない。こっちも呑ん兵衛だ。
 だが、僕は酒は、特に醸造酒は食べ物に奉仕するものであるという考えを持っている。これはよく今までも書いている。食べ物を美味しく食べるために酒を呑むのだ。単独で呑むべき酒ももちろんあるが、少なくとも醸造酒は僕はそのように解釈して呑んでいる。なので僕は妻に念を押す。「ワインを飲むならワインに合う食卓にしてくれ」と。
 そうして、我が家はしばらく洋風の食卓が続いた。しかも買ってくるのが赤ワインであるからして、どちらかと言えば肉系統となる。ステーキやビーフシチューなんてのが毎日続くとなんだか贅沢だな。日頃身体のことを考えて野菜を多く食卓に出す妻としては結構な方向転換である。
 我が家の食卓は、僕の好みもあって基本的に和食中華エスニック系統が多い。妻もそういうものは作りなれているのだが、ワインに合う食事というものは一緒に生活して長いがあまり作ってはいない。なので、メニューに手詰まりが生じたようである。
 
 「今日は魚焼こうと思って」
 「じゃ久々に酒だな。焼酎にしようかな」
 「えーワイン飲まないの?」

 何でアジの塩焼きでワインを飲まねばならんのだ。そりゃね、地中海では白身魚や青魚を焼いてレモンを絞ってワインを飲むよ。でもそりゃ白ワインだろう。何が何でも肉には赤、魚介には白だと形式ばったことを言うつもりはないが、赤ワインってのは結構個性が強い飲み物なのである。いかにアブラが乗っていようと肉に比べれば至極あっさりとしている魚介に赤ワインは飲みたくない。トマトソースでも使ったものなら無理して赤でもいいが、そうでないものならやはり赤は厳しい。まして染め下ろしなどでも添えようもんならそりゃ日本酒の世界である。

 「今日は大根がメチャ安だったからおでんだよー」
 「そうかやっぱりそりゃ燗酒でごんすな」
 「ワインじゃダメなの?」

 ダメです。ここはきっぱり言っておかなくてはいけない。あんたが勝手に飲むのなら別にかまわんが、ワシにそれを勧めるな。
 以前、みんなワインがそんなに好きなのかという記事を書いたことがある。人の嗜好までとやかくは言わないが、僕は僕の道を行く。生牡蠣とシャブリみたいな話をしようとは思わないが、何でもかんでもワインというわけにはいかない。おでんでワインなんか絶対に飲まんぞ。

 「何言ってんのよ。あんたの酒のチョイスだっていつも滅茶苦茶じゃないの」

 うーむ。そこを突いてきたか。
 確かに、僕は人が驚くような酒の呑み方をすることがしばしばある。
 酒と肴の相性というものは完全に嗜好の範疇だとは思うが、ひとつの指針として「その国の(土地の)料理はその国の(土地の)酒で味わう」というのは、さほど間違った選び方にはならないと思われる。刺身には日本酒。チャンプルーには泡盛。チゲ鍋には真露。点心には紹興酒。ソーセージにはビール。
 ところが、僕はそんなルールを全く無視することが家ではあるのである。

 酒は、前述したように僕が自分で買ってくる。無くなったら妻が補充しておいてくれるわけではない。管理は自分自身である。なので、時々呑みたい酒の在庫がない場合が生じてしまう。
 
 「今日はチヂミと牛骨スープね。あとでビビンバの用意があるよ」

 帰宅してそう言われたときに、韓国焼酎(真露など)を先日呑み干していてしまっていたことに気付く。もう疲れているので今から買いになど行きたくない。そういうときに、僕はふと「ウオッカでもいけるのじゃないか」と思って共に呑んでみた。さすれば、これが悪くないのである。
 あくまで嗜好の問題であるので、人に勧めようとも思ってはいない。しかし、それ以来僕は韓国料理だとウオッカをよく呑むようになった。また、もっと安い甲種焼酎でも可である。麦やそば焼酎はあまり合わない。すっと呑める口当たりのいい本格焼酎よりも、ウオッカや甲種焼酎のような「アルコールの匂いが立つもの」の方が韓国料理に合う。むしろ真露は甘いと感じるようになってしまった。

 さらに、中華料理のときには基本的に紹興酒を呑んでいたのだが、それがうっかり尽きたのを忘れていた。そのとき思い出したのが、邱永漢氏が確か著作の中で書いていた「香港ではよく料理と共に高級ブランデーを呑んでいる」という話である。さほど高級でもないがブランデーくらいならあったので、本来はやらない「ブランデーの水割り」で中華を食べてみた。これが結構いけるのである。
 紹興酒というものは糯米で醸す酒であり、総じて甘い。甘くないドライなものもあるが香りは甘くふくよかである。これが結構ブランデーに通じるものがある。原材料も造る行程も全く異なるのであるが、案外悪くない(あくまで僕の嗜好です)。僕は、その後家で中華を食べる際にはブランデーが定番となってしまった。普段寝酒にしたりするブランデーとは別に、廉価のブランデーを購入して水割り用とする。質のいいブランデーなど水割りにして食事時にガブガブ呑むのはもったいない。なので常に二種類のブランデーを買い置きするようになった。

 さらに、である。以前安いウイスキーを呑みながらでも書いたが、僕はビール代わりにウイスキーの水割りを呑んだりもするのである。お好み焼きや鉄板焼きにウイスキーである。そんなアホなとおっしゃる向きもあろう。しかし、僕はしばしばこういう呑み方をする。どっちも基本原料は大麦麦芽じゃないか(乱暴)。
 理由は、上記記事にも書いたとおり「痛風になるのが怖い」からである。医者にプリン体を多く含むものの摂取は控えるようにと言われているのだ。家ではビールをほとんど飲まず、基本的に発泡酒か第三のビールだが、それはこの国に少しでも無駄な税金を払いたくない(このことは何度も書いている)のも大きな理由だが、発泡酒などの「プリン体カット」という文句にも惹かれているのである。
 さらに、醸造酒よりも蒸留酒の方が基本的にはプリン体含有量は少ない。したがって、ウイスキーやブランデーなどの本来は食後などにあるがままに呑むべき酒が食卓に登場してくることになるのである。紹興酒って含有量が実に多いのだ。

 しかしながら、こういう酒の呑み方はある種「乱暴」である。僕の味覚の中では許容範囲であるのだが、第三者から見ればチヂミにウオッカが「おでんにワインとどう違うのよ」と言われても困ってしまう。嗜好は説明のしようがない。 

 「じゃいいからあんたはワインを飲みなさいよ。ワシは酒を呑むから」

 そう言って僕は酒を燗した。おでんにワインなんてやってられるか。妻はブツブツ言いながらワインを飲んでいる。

 「うーんやっぱり合わないわね。○○さんはおでんにワインもいけるって言ってたのに」

 そりゃそうだろう。○○さんの味覚を疑うわけではないが、どうしてもそりゃ無理がありまっせ。でもコルク抜いちゃったわよ、という妻に、コルク逆さまにすればまた挿せるからそうしておいておきなさいと言った。同じ酒を呑んで分かち合いたい気持ちもわかるけど、無理はいかんよ無理は。
 酒と肴の相性、そして家庭内平和というものはなかなかに難しいものである。僕はその後パチンと留めるワインの替え栓を土産として買って帰った。減圧式の上等の替え栓は高いので雑貨屋の安物だが、これで飲みかけを置いておいてもこぼれないはず。まあそんなにすぐには劣化しないよ。これで円満家庭と好みの酒が得られるのであれば、このくらいは安いものである。

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ウイスキーの小瓶

2008年01月31日 | 酒についての話
 汽車に乗って旅に出る。昼間は流れる車窓風景をぼんやりと眺める。夜は物思いに耽りつつ夜汽車に揺られる。いずれにせよ酒が不可欠なのではないかと思う。お前だけだ、と言われるかもしれないが賛同者も多いのではなかろうか。
 そういうときに何を呑むか。僕は圧倒的にウイスキーを好む。
 ウイスキーのポケット瓶というものを僕は旅の友として最上のものと定義しているが、そういうのは昨今流行らなくなってしまったのかもしれない。

 みなみらんぼう氏の名曲に「ウイスキーの小瓶」といううたがある。一人旅の心情を歌ううたとしてこれほど心に沁みていくものはない。

  ウイスキーの小瓶を口に運びながら 涙と思い出を肴にして
  酔いつぶれてしまいたいなどと 思っているこの僕を

 こういう旅情というものが無くなって久しい。今は列車で呑む酒と言えば圧倒的に缶ビールだ。列車がガタンと動き出すとあちこちから「プシッ」というプルトップを引く音が聞こえる。さあこれから旅立つぞ。楽しい旅が始まるんだという合図の音にも聞こえる。それはそれでいいものだが、缶ビールには何故か勇ましさを感じる。団体旅行、グループ旅行にはそれはそれで似合う。ただ、一人旅に伴うそこはかとない哀愁のようなものは「プシッ」には醸し出されない。不思議なものだと思う。またカップ酒というものもあるが、それも旅情にどうも結びついてくれない。
 よくよく考えてみれば、どうも缶ビールやカップ酒は「開けたら呑みきらなくてはいけないもの」であるからかなとも思ったりする。どちらも開ければ蓋が出来ない。勢いも必要である。ウイスキーの場合は「チビチビ」とやる。なのでいきなり酔っ払ったりはしない。強い蒸留酒で、しかもストレートであるので少しづつ呑む。これが長い汽車旅の格好の友となる。移り行く車窓をぼんやりと眺めそして徐々に陶然として、さまざまな思いが頭をよぎる。

  列車の窓に僕の顔が映る なんて惨めな姿なんだろう
  戯れだと思っていた恋に 打ちのめされてしまうなんて

 旅に逃げているわけじゃない。でも、旅は救ってくれることも確か。そのひとときの現実逃避が何かを昇華させてくれる。

 しかし前述したように、ウイスキーのポケット瓶を座席横の窓枠に置いて旅をしている人は少数派になった。人に話を聞いてみると、「アル中に見える」とひどい印象を言う若者がいた。なるほどなあ。ポケット瓶というのはたいてい180mlである。つまり一合。度数を仮に40度として、日本酒だと2.5合ぶん。ビールだと350mlで約4本ぶんとなる。そうなると、アルコール摂取量が多すぎると感じてしまうかもしれない。だからこそチビチビ呑むわけで、そこが旅情に結びつくと僕などは我田引水的に考えるのだが。
 ラッパ呑みでもすればそれはアル中的様相を呈するが、僕が知る限りは、ポケット瓶を買えば小さなプラスチックのショットグラスが付いてくる。それに少しづつ注ぎチビチビやっているぶんにはさほど問題はないと思うのだが。最近は見なくなったが、昔は付属のショットグラスなど無かったのだろうか、瓶のその小さなフタにチビリと注ぎ、舐めるように呑んでいるオヤジさんをよく見たものだ。もちろんポケット瓶のフタであるから慎重に注いでもすぐこぼれるほど入る。その表面張力で盛り上がったフタの酒を、振動でこぼれないよう口で迎えにゆき、キュッと干す。そのチビチビ感に旅情を僕などは感じるのだがどうなのだろうか。これにはさすがに賛同者は少ないだろうか。

 列車で呑むウイスキーにはポケット瓶の他に「ミニチュア瓶」というものもある。これには50mlしか入っていない。アルコール含有量とすればまあ缶ビール350mlでいうと一本強、お手ごろな量だろう。
 このミニチュア瓶、実に可愛らしい。
 話が反れるが、ポケット瓶というのは、基本的に瓶が平べったい。何故平べったい形状をしているのかということについてちゃんとした解答を僕は持っているわけではないけれども推測するに、これはスキットルの形状を模しているだろう。スキットルというのは、旅行、アウトドアの場面で酒を入れるための携帯用水筒のこと(→Wikipedia)。これからの発想だろう。つまり携帯に便利な形であって、ポケット瓶だからポケットに入るように作られているのである。最初から旅先で呑む仕様になっているわけで。これが普通の円筒形であったとすれば、窓枠に置くことが出来ない。特急には簡易テーブルがあるけれど、普通列車であれば置く場所に困ってしまう。
 だから、ポケット瓶はレギュラーサイズの酒瓶のデザインを押しつぶしたような格好になっている。これはこれで味わいはあるのだが、ミニチュア瓶は違う。レギュラーサイズの瓶を正確に縮小した瓶である。手のひらに乗る大きさ。だから、ままごとのようで実に楽しい。思わずコレクションしたくなる(実際にコレクターは多いはずである)。
 こういう小さな瓶が何故製造されているのかといえば、最初はおそらく見本用だったのではないか。試供品だったのかもしれない。確かに普通の酒屋では見かけない。高価なウイスキーやブランデーを一瓶買うのは財布が許さないが一口味見したい、と思う人にはちょうどいいとは思うのだが。このミニチュア瓶を容易に見ることが出来る場所は、ホテルの部屋のミニバーと列車の車内販売である。
 車内販売で「ウイスキーはいかがですか」と聞こえてくればこのミニチュアボトルである。プラスチックのグラスに氷とミネラルウォーターをつけて販売してくれる。水割りセットだ。50mlであるから水割りを一杯か二杯作れば終わりである。これを寂しいと思うかちょうどいいと思うかは個人差であるので論評は出来ない。
 しかしながら、これは僕のようなものから見れば値が高いのではないかと思うのだ。酒の種類によって値段も違うのは当たり前だが、ワゴンサービスの場合ウイスキーを注文すれば600円で済めば実に安く、1000円くらいの値段がついたりもする。50mlに、である。確かに昔は車内販売のウイスキーといえばサントリーオールド(ダルマ)が定番であったが、今は「山崎」とかが出てくる。別にそんな上等のものを望んではいないのだが、まあ時代なのだろう。しかし1000円は高くないか。相当上等のバーでないとこの値段はつかないと思うのだが。
 しかしまあ「阿房列車」の内田百先生に言わせれば、「決して高いことはない」と言われるだろうが。これは単なる水割りではなく、走る列車の中で呑む水割りだから。飛んでいく風景を見ながらの水割りなど普通のバーでは絶対に呑めない訳で、そういう付加価値もついての1000円なのだ、とおっしゃられるだろう(これに類した発言を百鬼園先生は確かしていたはずだと思うのだが、手元の本を繰っても出てこない。出典に自信はないので完全に信用しないで欲しい)。
 しかし僕は内田百ではなくセコい市井の人間なのでやはりなかなか手が出ない。それに一杯ではどうせ足りないので、やはりポケット瓶を愛用することになる。水割りでなくてもかまうものか。むしろストレートでチビチビやるところに旅情が生まれる、と頑なに言い訳をしつつ、またポケット瓶をキオスクで購入する。

 初めてウイスキーのポケット瓶を呑んだときの記憶がまだ僕には鮮明である。それは冬の北海道だった。もう20年以上も昔の話。
 現在は北海道の鉄道網は廃線の嵐で壊滅状態だが、当時は「羽幌線」というローカル線があった。日本海側の留萌から幌延を結ぶ単線で、羽幌はそのちょうど中間にある街である。かつては炭鉱とニシンで賑わったこの街も、炭鉱は閉じニシンも来なくなって人口が減少し、路線も無くなった。
 当時も既に廃止直前で本数も少なくなっていたが、僕は留萌から列車を乗り継ぎこのローカル線で羽幌にやってきた。なんで羽幌に来たかといえば、妹がこの町出身である歌手のファンで、その実家である喫茶店の写真を撮ってきてくれ、と頼まれたからである。日程も決めていない周遊券の旅だった僕は、それでなんとなしに羽幌までやってきた。
 降り立ってみるとえらい吹雪である。国道沿いにあると聞いていたのだが、風が強く寒くてなかなかアプローチに苦労した。店は比較的簡単に見つかって、僕は写真を一枚撮り駅へ引き返したが、極寒の吹雪の中を歩いたので身体が冷え切ってしまった。こういうときにはラーメンでも食べればいいのだろうが昼食はさっき食べたばかりである。僕は酒を呑もうと思い、駅のキオスクで「サントリーレッド」の小瓶を買った。ビールなど全く飲む気がしない。当時でそれは270円だった(細かいことを記憶しているが、貧乏旅行のせいである)。
 待合室に人はいない。次の列車は二時間後だった。誰もいない空間で、僕はチビリと酒を呑んでいた。
 陶然としてくるうちに、その旅に出る直前の出来事などを思い返していた。その冬、僕は一人の女性をどうも傷つけてしまったらしい。
 「貴女の気持ちには応えられない」と僕は向かい合って座っている女性に言った。言葉をもっと選べればよかったのだが、当時の僕には語彙が不足していた。今ならばもっと柔らかな、相手の気持ちを慮った言葉を遣えたと思うが、まだ僕は二十歳そこそこの子供だった。このことは、強い後悔を僕に残した。
 列車の到着は雪のせいで遅れた。都合三時間僕は駅で待ち、そして車中の人となった。まだウイスキーが半分ほど残っている。当時はそれほど酒に鍛えられていたわけでもなく、今ならこんなポケット瓶など呑み尽くしてしまうはずだが、僕はまだ車窓を見つつチビチビと酒を舐めていた。北海道の車窓風景といえば雄大さがまず想像されるけれども、季節は冬、しかも流氷がやってくるオホーツク海と違って、日本海側はただ厳しさだけが迫る。
 そうして北上し、車窓に夜の帳が下りるころ、列車は幌延に到着し宗谷本線に接続した。今日は稚内まで行く予定である。乗り換える頃にはさすがのポケット瓶もカラになっていた。酔いが回っていたが、その酔いが僕には有難かった。
  
 以来、しばしば僕はポケット瓶を汽車旅に持ち込む。しかも「三つ子の魂百まで」ではないが、いまだにいつもレッドなのである。レッドが置いていない時にはしょうがないので角やダルマにする。なんでそう安いウイスキーにするのか。今はローヤルだって北杜だって「響」だってポケット瓶がある。
 しかしながら、そういうウイスキーはしっかりとした酒場や、ゆったりと時間のある日の自宅で呑めばいいではないか。それに「山崎」なんぞ呑んでいると「涙と思い出を肴にして」の世界から離れてしまうような気がしてならない。ここはやはり「上質」よりも「郷愁」を求めたい。旅情ってそういうものだと勝手に思い込んでいる。
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焚火とバーボン

2007年09月21日 | 酒についての話
 焚火に憧れを持ち始めたのはいつだったかと思う。子供の頃であったのは間違いない。

 ひとつは、おそらく丸大ハムのCMだ。「腕白でもいい。逞しく育って欲しい」という台詞で有名なこのCMで、おっちゃんとその子供達が焚火をして、直火でハムを焼いて食べている。美味そうだ。僕は子供の頃からハムが大好物だったが、炎に炙られジリジリと脂が浮き出すハムには生唾を呑んだ。僕はその頃、まだ薄切りのハムしか食べたことがなかった。ところどころ焦げた分厚いハムをがぶりと齧る。実に憧れた。貧乏人だと笑われそうだけれども。その光景が焚火への憧れを育んだことは間違いない。
 もうひとつはムーミンに出てくるスナフキンである。彼はムーミン谷のはずれでいつもキャンプをしていて、焚火をおこしその前に座ってギターを弾いている。

  雨に濡れ立つ おさびし山よ われに語れ 君の涙のその訳を…

 実に格好いい。本当に憧れた。僕は後年ギターを中学一年で入手するのだが、フォークソングが好きだったということ以外に、その原風景にこのスナフキンとキカイダーが立っていることは間違いない。
 ギターを入手して間もなく、僕はAmがキーのこのスナフキンの歌を完全コピーした。この曲はどこで演奏してもウケた。ただ、出来れば焚火の前で爪弾きたい。そうずっと思ってきた。

 切り株に座って焚火を見つめつつ夜が更ける。そういう情景に憧れ、僕は少年の頃ボーイスカウトに入隊したことがある。これ自体は、ちょっとその団体行動が肌に合わなくて長続きしなかったのだが、手旗やモールス信号、ロープの結び方などと共に、焚火の熾し方もしっかりと習得した。焚火はただ木を組んで火をつけても燃えるものではない。かまどの作り方と言うか、風の道をいかにしてうまく作ってやるか、それにかかっている。火をつけることに関してはその集団の中で僕が一番巧かったと思う。好きこそものの上手なれ、である。
 ただ、この時にはキャンプファイヤーこそ何度も経験したものの、一人ではぜる炎を見つめつつギターを爪弾く、という経験など出来なかった。

 少年の日を過ぎ、焚火に憧れを持ったままの僕は、その青春時代に椎名誠さんや野田知佑さんの愛読者になった。この人たちはいつでもどこでも焚火である。その焚火への撞着度合いにも恐れ入ったが、実に楽しそうだ。椎名さんの「東日本何でもケトばす会」に入りたいと心底思ったが、関西在住の高校生ではいかんともしがたい。
 また、野田知佑さんはカヌーで日本のみならず世界中の川を下る。風景と同化しつつたゆたい流れるカヌー。日が暮れれば陸に上がってキャンプだ。星の降る川原で、投網で獲った魚を焼きつつ酒を呑む。相棒は犬の「ガク」だけ。ギターそしてハーモニカが響く。これってかつて憧れたスナフキンの世界と同じだな。僕は限りない憧憬を感じた。野田さんは焚火をひとり見つめつつ、持参のバーボンウイスキーをラッパ呑みする。ああ格好いい。こういう男の生き様は最高だ。

 バーボンウイスキー。アメリカの国民酒と言っていいのかどうかはわからないが、美味い酒である。そのバーボンとはケンタッキー州のバーボンに由来する。この地名はどうもフランスのブルボン王朝かららしい。独立戦争のときにブルボン王朝はアメリカに味方したことから地名に名を残し、この地で醸される酒が「バーボン」とネーミングされた由。
 広く知られているようにこの酒はトウモロコシが原料である。トウモロコシと大麦やライ麦などを発酵させてのち蒸留する。そして樽で貯蔵するわけだが、この際に、内側を焦がした樫の樽に詰めて2年以上寝かせる。このため、焦げた樫の色と香りが酒に移って熟成され、独特の芳香を放つ。これが美味いんだな。
 スコッチが老成した大人の酒であるとすれば、バーボンは荒々しい若者の酒である。また、僕の印象だがスコッチはネクタイを締めていても似合うがバーボンはもっとラフな格好で呑みたい。そして、西部劇やらの刷り込みもあるとは思うが、スコッチはバーなど閉鎖された空間で呑むに相応しいが、バーボンは風渡る空の下が似合う。屋内でも扉を閉め切ってはいけない。砂塵舞う荒野からオープン開閉のドアをくいと押してそのままカウンターへ行き注がれたストレートの酒を喉に放り込む。
 フォア・ローゼス、I・W・ハーパー、ワイルド・ターキー、そしてジャック・ダニエル。荒くれ者の酒だ。バーテンダーが丁寧に作るハイボールには向かない。
 こうして、僕の憧れの焚火とギターにバーボンが加わった。一人前の大人になったらこのセットを実行しよう。そう決めていた。

 ところがこれがなかなか実行出来ないでいる。全く困ったことであるのだが。
 これを実行するには、「自然」というものが不可欠である。都会に住む僕にとっては必然的にこれは「旅」を伴うものとなる。
 いや、旅はよくやっているのだ。だがなかなかそのセットが揃わない。
 若い頃は自転車で旅をしていた。大自然の宝庫である北海道にもよく行った。ロケーションには事欠かないのだが、自転車でキャンプ用具一式を積んで走るのはなかなか大変である。当時僕は金欠であって、テントは人から譲り受けた三角テントを所持するのみ。これは重いのである。ペグも鉄製だ。こんなの積んでいたら峠を越えられないので、僕はいつも寝袋ひとつをキャリアに積むのみであった。
 そうなればキャンプではなく「野宿」ということになる。寝るのは屋根のある無人駅やバス停、公園のあずまやなどが主体。無人駅で焚火などしていたら警察に通報されてしまう。火はせいぜい簡易ガスバーナー。これでは雰囲気が出ない。
 ましてやギターなど背負って自転車でツーリングなど出来るものか。阿呆だと思われてしまう。
 
 そんなことをして機会を逸しているうちに、所帯を持ってしまった。嫁と一緒に旅に出るとなると、これは乗用車で出かけることになる。こうなればキャンプ道具一式も積める。なんだって積めるのだ。僕は意気揚々として、今度こそ焚火でバーボンだ、厚切りのハムも炙るぞ、と張り切った。
 ところが嫁は、キャンプには反対しないけれども、とにかくトイレなどの設備が整っているところでないと駄目だと言う。まあ女性はそうかもしれないな。ということで、キャンプ場とされている施設が主たる宿泊場所となった。
 ところが、なんたることか。現実にはキャンプ場のほとんどは焚火禁止なのであった。
 確かに、しっかりとしたキャンプ場は芝生でありここで焚火をしたら地面が燃えてしまう。また、川原や浜辺ではなくちゃんと清掃されていて、薪になるようなものも当然存在しない。僕らはやっぱり簡易ガスバーナーで湯を沸かし調理した。うーむ。バーボンはしっかり入手しているのにガスバーナーの青白い炎では野田知佑になれないではないか。僕はそのときギターこそ積んでなかったもののブルースハープ(ハモニカ)は持ってきていた。しかしこんなの吹いたら、よっぽど(プロ級に)上手であればいざしらず、周りのキャンパーから苦情がどっと来るのは目に見えている。
 僕は夜半、ガスのランタンに火を灯してバーボンをシェラカップに注いで呑んだ。本当はラッパ呑みをしたいのだが行儀が悪いと妻に止められたのだ。なんたることか。なんで焚火をしてバーボンを呑むだけなのにこんなに障害があるのだろう。憮然たる面持ちで僕は酔っ払っていた。

 負けてはいられない。翌年の夏、僕は近所のホームセンターで七輪を購入した。普通ならこれは炭を熾して使用するものだろうけれども、薪だって燃やせる。今年は行儀悪くともラッパ呑みをするぞ、と妻に宣言して北海道に渡った。
 旅の途中、山道に車を止めて薪となる枝などを袋に詰めた。なんか買うのもしゃらくさいと思ったのだが、妻は旅に出てきてなんでこんなことするのと不満顔である。そうだろう。僕だって不満なのだよ。だが焚火でバーボンをするにはこのくらいのことは妥協である。
 そしてキャンプ場。テントを設営して、僕はその前に七輪をセットした。ふふふ。焚火だ焚火。七輪に枯れ枝を突っ込み、火付けに固形燃料を放り込んで火をつけた。ハムも途中のスーパーで購入済みである。
 だが…確かに火は燃えるものの、どうも小規模であることは否めない。うーん、しかしそこには目をつぶろう。そして長年の念願であった、ハムを分厚く切ってフォークに刺して火にかざした。
 熱い熱い(汗)。これはやはり木を削って刺して炎にかざさないと駄目だ。しかしそんなものは用意が無く、持参のトングを用いた。なんか雰囲気が出ない。くそぉ。
 炙ったハムは美味かった。しかし、トングで挟んで焼いているのでそのままかぶりつくわけにもいかず、皿にとって箸で食べる始末。野趣が全く無い。
 そして、七輪の炎はすぐに火力が弱まるのである。そうだろうな。小規模すぎるのだ。常に薪を補充して扇いでやらないといけない。バタバタと扇ぎ薪を入れ、ハムを切ってトングで挟んで火にかざす。忙しい。バーボンもラッパ呑みしなくてはならない。僕は理想から遠くはなれていくのを実感していた。スナフキンも楽ではないのだ。
 そうして、その夏はそのあと数回キャンプをしたものの、七輪の出番はなかった。

 あれから十数年経つ。七輪も引っ越したときに処分してしまった。今はキャンプもしなくなって久しい。旅に出たら、宿に泊まらなくてもパーキングキャンプが主体となり、場所は道の駅などだ。ますます焚火をするわけにもいかない。
 エッセイストの玉村豊男さんは、東京から軽井沢に拠点を移したときに、象徴的に言えば「焚火で肉を炙って食うために」引っ越したのだと言う。そこまでやらないと焚火は出来ないのか。玉村さんほどの器量もない僕は都会にしがみ付き、焚火でバーボンの夢だけが残った。はぜる薪と揺れる炎。それを見つめつつバーボンを呑み酩酊してゆく。肴は思い出。そんなことも出来なくなった今は、ストレートで呑むべきバーボンをオンザロックにして呑みつつ、この一文を釈然としない思いで書いている。
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玉子酒を作る

2007年06月21日 | 酒についての話
 酒は百薬の長、とよく言われる。
 この格言の出展は中国の史書「漢書」である。故事成語と言えばいいのか。もちろん漢書など読んだことはなく孫引きなのだが、原典は「夫鹽食肴之將 酒百薬之長 嘉會之好 鐵田農之本 名山大澤 饒衍之臧」で、「鹽(塩)は食肴の将であり酒は百薬の長、嘉なる会には実に好し。鐵(鉄)は農業の大本であり名山大沢(素晴らしい山や大いなる河川・湖沼)は豊饒の蔵である」ということであるそうな。百薬の長とは全く持って素晴らしき言葉である。どんな薬にも勝る、と訳せばいいのだろうか。
 もちろんこれは酒呑みの我田引水的解釈であることは百も承知である。どんな病気も酒で治るのだ、と言えば嘘つき呼ばわりされるに違いない。呑みすぎて肝硬変になる可能性もある。なんでも適量、ということが肝要だろう。
 酒の効用と言えば、まず精神安定でありストレス解消効果が上げられるだろう。ストレスから病気になることだってあるのだ。思いつめて胃潰瘍になるより、精神を酒によって和らげる方がいいに決まっている。酒はいつでも我々の味方だ。だから、酒を呑むことを強要する先輩や、酌を強いるセクハラ上司などはこれ皆酒の敵でありひいては健康の敵である。これは僕の持論。
 もっともそういう精神的な薬としての酒の効用もあるが、実際に薬としての力も酒は持つと言われる。古来、酒は薬として服用されたこともあったと聞く。文字通り百薬の長として。(しかし昔はお茶や砂糖や牛肉も薬だったわけだから、あまり力説も出来ないが)
 まず、適量の飲酒は血行をよくする。血液の循環がよくなると体も温まる。鬱血が病気の元であるのは間違いないところだ。さらに、適量の飲酒は善玉コレステロールを増加させるとも言う。コレステロールの善玉悪玉というのははっきりと色分けできないとは昨今言われていることだが、動脈硬化の予防にはなるらしい。生活習慣病予防にも繋がる。
 いいことづくめのようであるが、これはもちろん「適量」という但し書きが常についてまわる事柄であることはよく理解しなければならない。とくに僕のような酒呑みは、自制心こそが酒を薬に変えるのだ。反省も込めてここに書いておく。

 というわけで、玉子酒である(何が「というわけ」だ)。
 先週より僕は夏風邪を引いてしまった。あまり夏に風邪など引いたことがない僕は焦ってしまい、しかし病院に行くほど重症でもなく、これは酒を呑んで治してしまえ、という乱暴な論理を組み立てて、引いたその日の夕食は消化のいい食べ物とともに一杯の熱燗を呑んだ(一杯とは、うちにあった寿司屋用のデカい湯呑みで一杯ということである)。
 僕はこのブログ内では、燗酒は好むが度を超えて熱した「熱燗」は酒の良さを著しく損なうとずっと言ってきているのだが、この際そんなことも言っていられない。身体を温めて汗をかき毒素をみんな放出してしまいたい。なので強めの燗をした。舌が思わず引っ込むくらいの熱さにしたから、60℃近かったかもしれない。むせ返りそうになるのをぐっと堪えて呑んだ。それでも美味いのはなんたることか。
 さすがに身体が火照り、じんわりと汗が出てきた。いいぞいいぞ。その勢いで布団にもぐり込み即座に寝た。これで明日はケロリと治っているに違いない。
 しかしそうはいかなかったのである。うーむ。情けないことにまだグズグズと鼻水は落ち、高熱こそ出ないもののひたすらダルい。関節も痛い。そんな状態がしばらく続いた。
 これではいかん。幸いにして休日がやってきたので、ここで一気に風邪を撃滅させようと一計を案じた。
 休みの午前中、僕は妻に頼んだ。「玉子酒を作ってよ」と。

 「玉子酒」こそ風邪引きの切り札である。少なくとも僕はそう信じている。
 僕は時代小説の池波正太郎先生のファンであり、中でも「鬼平犯科帳」「仕掛人藤枝梅安」「剣客商売」の江戸シリーズが好きである。ここに出てくる人たちは、秋口、ちょっと冷えてきたりするとすぐに玉子酒をやる。実に粋である。鬼平こと長谷川平蔵など実によく玉子酒を賞味している。風邪に限らない。疲れがたまってちょいと精をつけたいとき、よく鬼平は玉子酒を所望している。
小鉢へ卵を割りこみ、酒と少量の砂糖を加え、ゆるゆるとかきまぜ、熱くなったところで椀にもり、これに生姜の搾り汁を落す。これが平蔵好みの卵酒であった。
久栄は、なれた手つきながら、凝と火の加減と箸の先を見つめている。(鬼平犯科帳)
 このようにちゃんとレシピまで書いてくれている。池波先生は実に親切なのである。
 しかし、これだけを手がかりにして作るのは結構難しいのだ。その火加減というものはやってみないと本当にわからない。
 玉子酒の身上は、その酒と卵が渾然一体として、とろりとした滑らかな喉越しを実現するところにある。しかしこれは難しい。卵というものは火を入れると瞬時にして固まってしまうものだからである。強火にすると酒の中に炒り卵が浮かんだようなシロモノとなる。これでは呑めない。かと言って、弱火でトロトロとやると日本酒の酒精分が飛んでいかない。僕は酒呑みだが、玉子酒に関してはある程度アルコールが飛ばないと旨くない。実にただアルコール臭い飲み物となってしまうのだ。卵とぬるいアルコールが混ざると、なんとも生臭い感じがしてしまう。(これは好みもあって、アルコール臭が好きな人は別に問題がないかもしれないが)
 というわけで上記のレシピではなかなか上手に出来ない。平蔵の奥さんの久栄さんは達人だが、素人ではそうそううまくいかないのである。

 失敗せずに作るやり方はないものか。と、料理本のようなものを出してみる。
 池波先生の作品群は、その食べ物の描写が実に細に入ったもので、読むたびに「ああ美味そう」といつも思う。読者はみんなそう思うようで、池波作品に登場する料理のレシピ本なども数冊出版されている。僕は好き者なのでそういう本も所持している。
 「剣客商売 庖丁ごよみ」という本がある。これはもちろん名作「剣客商売」シリーズに出てくる料理を再現しようという試みから出来た本で、調理はあの銀座の「てんぷら近藤」の近藤文夫さんが担当。近藤さんが山の上ホテルに居たころずいぶん池波先生は贔屓にしていたからな。この本に出てくる料理写真の数々には本当によだれが出そうだが、その中に「卵酒」もあった。
 ところが、である。近藤さんが作った玉子酒の写真を見ると、見事に「酒の中に炒り卵状態」になっているのだ。名人近藤、なんたることか。レシピを見ると、「器に熱い酒を注ぎ、その中に溶いた卵を加え、かきまぜる」となっている。おいおいそれじゃ固まっちゃうよ。それに近藤さんは卵を完全に攪拌していない。つまり白身と黄身がダンダラのままだ。僕は玉子酒の際には卵をちゃんとしっかり掻き混ぜてほしい。茶碗蒸しのようにさらしで濾せ、とまでは言わないが。誰も指摘する人はいなかったのだろうか。こんな掻き玉汁みたいな箸を使いたくなる玉子酒はいけないのではないか。それともこういう玉子酒も存在するのか。名料理人近藤さんの作ったものだが、僕にはどうも納得がいかない。

 もう一冊出してみる。「鬼平料理番日記」。これは、鬼平犯科帳がTVシリーズになった際に料理考証をされた阿部孤柳さんという料理家の出された本で、やはり載せられている料理の写真には生唾ゴクリなのだが、玉子酒もあった。
 そこでは、「小鍋に卵を割って入れ、酒と少量の砂糖を加え、混ぜ合わせて熱くなってきたら椀に盛って出来上がり」とある。完全に久栄さんのレシピのままだ。なお注意書きとして、掻き混ぜながら様子をよく見ろ、と書かれていて「加熱しすぎて玉子豆腐になってしまいますから、酒を先に鍋に入れて温め、その中に砂糖を加え、火を止めてから卵を入れて掻きまぜるとよいでしょう」とある。しかしこれでも難しいのだ。絶対に卵は固まってしまう。載せられた写真は、まだ近藤さんの炒り卵よりはマシとは言え、やはり多少酒と卵が分離している。
 
 ということで、池波式を僕は諦めた。なにかいい方法はないものか。
 別の本を読むと「土鍋で作ると良い」と書かれていた。なるほど熱伝導がゆるやかだからだろうな。江戸時代はそうやっていたのかもしれない。土鍋とか行平鍋とか。しかしそんなの面倒だ。
 結局、卵が固まるのは一気に熱が入るからだ。しかし酒はある程度熱くしたい。卵と酒の混合液を湯煎にかければ成功しそうだが、そうするとおそらく酒精分が飛んでいかないだろう。
 なので、混ぜ方に工夫をすればよいのではないか。卵と酒を混ぜて火にかけると分離しやすい。また、熱い酒に卵を投入する方法も固まりやすい。ならば、卵に熱い酒を少しづつ混ぜればよいのではないか。
 まず酒は鍋で煮立てる。アルコールに弱い人はここで火をつけてアルコールを飛ばすのもいいだろう。そして砂糖を加える。そうして、別椀によく溶いた卵を用意して、そこへ少しづつ熱い酒を加えていく。一気に加えれば卵が部分的に固まるのでゆっくりと。卵は常に攪拌しながらである。ぐるぐると箸で卵液を回転させ、たらりたらりと酒を加える。
 そうすれば…おお、成功したぞ。卵が固まるでもなく、心持ちクリーミーに仕上がっている。サラリとしたカスタードクリーム、と言えば言いすぎだろうが、さりとて濃度はある。酒は煮立てたので、卵で割ってもまだまだ暖かい。
 こうして、ようやく自己流の玉子酒作りは完結したのだ。人は失敗を乗り越えなければならない。
 なお、卵は卵黄だけ使用するのがよい、ともされるが、味は確かにそちらの方がいいかもしれないが、風邪の場合は卵白が身体にいいので(卵白に含まれるリゾチウムが風邪のウィルスに効果アリなのだ)、全卵を使用するのがいいと思われる。

 ということで、今回の玉子酒。僕は風邪引きさんなので妻に調理を頼んだ。ただ、今まで玉子酒は僕がいつも自分で作っていて、人に頼むのは初めてである。うまく作って欲しいので、レシピの注意点を口が酸っぱくなるまで伝えたのだがやはり気になる。結局、鍋で酒を煮立てて卵を混ぜてもらった時点で僕も台所に立ってしまった。ここいらへんが僕の神経質で嫌がられるところなのだよなぁ。
 さて、横からやいのやいのと僕が言うので煩がられたが、ようやく風邪引きの切り札、玉子酒が出来上がった。ふふふ。しっかりと酒と卵が渾然一体となったやつですぜ。では一口。
 
 美味いじゃないか…。

 百薬の長の代表選手として今回は玉子酒に出馬してもらったので、味よりも効用が重視されるとは思うが、やはり口に入れるものは美味いほうがいい。巷では玉子酒に甘味を加えるのは邪道との意見もあるのだが、ぼくにはやはりほんのり甘い方が美味いと思うし、何より滋養強壮によい感じがする。
 卵L玉ひとつに砂糖少々、酒は一合五勺くらいか。酒が多いようにも思うが酒精分を飛ばしてあるのでさほど酔うという感触はない。何より芯から温まる。何より僕には「これを呑めば治る」という信仰のようなものがあり、それが精神的に体調を良い方向へ持っていくのだとも思う。自己暗示だな。
 そして、即行布団へ。とにかく無理をしてでも寝るのだ。

 さて、どうなったか? もちろん治りましたよ。こうやって何とかブログも書いています。玉子酒は偉大なのである。


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テキーラを飲みほして

2007年04月18日 | 酒についての話
 時々男には、強い酒をただあおりたい瞬間ときがやってくる。

 こう格好つけて書くと、じゃあ女はどうなんだよ、酒は男だけのもんじゃあるまい、とか、いろいろ異論も出てくるだろう。ごめんなさい。また、酒に逃げるなんていつもお前の言っていることと違うだろう、ということも自問したりする。確かに僕は「酒は食べ物に奉仕する」が持論でもあるし、ただ酔うためだけに酒をあおるのは酒に対して申し訳ないという気持ちを常に持っている。酒は味わいかつ酔う。それでないといけないとも確かに思う。
 ただ、酒は我々に対して優しい存在である。
 いつも酒に対して敬意を払って呑んでいれば、時として酒にすがりたい場合には両手を広げて迎え入れてくれる。辛いことや忘れたいことがあれば私に任せなさい。そうささやいてくれる存在である。

 なので、黙って身を任せる。

 「若いときは女が、そのあとは一杯の酒が、老いて後は暖炉がお前を暖めてくれる」

 どこの国のことわざだったかは忘れてしまったが、今の僕には酒なんだろうな。女性に頼るほど弱みを見せたくない年齢になり、そして暖炉にはまだ早い。

 なんかガラにもないことを書いているな。いつも前説が多すぎる。
 こんなふうにして僕は時々気分で強い酒を呑む。我が家にも、強い酒をいくつか常備している。呑みたくなる時ってあるんですよ。酒に逃げる弱い男だと自分でも思う。
 こんな時のための酒が、サイドボードに何本か並ぶ。ロシアの国民酒ウオッカ。火の酒ラム。そしてテキーラ。
 これらはストレートであるがままに呑みたい酒である。他にブランデーや泡盛、中国の汾酒なんかもあるけれども、これらは柔らかい気持ちの時に呑みたい。尖がっている時には、やっぱりウオッカやラム、テキーラである。なんと言うか、嵐山光三郎的に言えば「キック力のある酒」なのだろうか。
 その中でもやはりテキーラである。この酒は優しいのに激しい。

 テキーラはご存知のとおりメキシコの酒である。原料はこれもよく知られているようにリュウゼツラン。
 竜舌蘭は、とにかく神秘の植物であって「70年に一度しか花を咲かせない」ことでも知られる。以前、TVニュースで竜舌蘭の花が咲いているのを見た。ニュースになるほど日本では珍しい竜舌蘭の開花だが、彼女らは花が咲いたら枯れてしまう。潔くもあるし哀しいとも言える。
 メキシコではこれを原料にして酒を醸す。これをプルケと言う。僕はまだ呑んだことがない。保存が難しく輸出出来ないと聞いたことがある。どうもどぶろくのようなものらしい。地元でしか呑めない濁り酒というものには興味をそそられるが、そのためだけにメキシコに行くわけにもいかない。
 これを蒸留したものがメスカルと言う酒(正確にはプルケをただ蒸留したものではなく醸造の行程がちょっと違うが)。メキシコの一般的なスピリッツと言えばこれで、テキーラとはつまりその中でもテキーラという町で造られた特別なものを指すそうである。なるほど。「灘の生一本」とか「スコッチ」「コニャック」と言うのと同じだな。しかし僕たちにはその「特別な酒」であるテキーラの方が馴染み深い。

 テキーラはとにかく利く。胃の腑にズゴーンと入り込んで、脳を揺さぶられる。何より酩酊するのが早い。僕がいつも呑んでいるのはCuervo(クエルボ)というやつだけれども、とにかくキック力がある。
 これはテキーラの製造過程に理由があると言われる。
 テキーラの蒸留、精製の過程は単純である。最低二回蒸留すればいい。これが、非常に高純度になるまで蒸留し活性炭による濾過を行って成分をいかにエタノールに近づけるか努力するウオッカと異なるところ。つまり言葉は悪いが不純物がまだ残った状態で供せられるのがテキーラなのだ。その雑味こそがテキーラの身上である。
 しかし、不純物が多いことが、酔いに複雑さを与え、場合によっては「悪酔い」に繋がるのも自明のこと。足をとられたり、呑み方によっては気分が悪くなったりする。酔う速度は圧倒的に速い。それが「危険な酒」テキーラの魅力でもある。悪女だな。この悪女を御して呑めれば一流の酒呑みだが、まだまだ僕などは一流への道は遠い。

 テキーラは強いもので、アルコール度数55%である。そんな本格的なものは呑んではいないが、僕がいつも呑むのは40%である。これをあおる様に呑む。チビチビのむ酒ではない。小さなグラスに注ぎ、カッと呑む。よく「のどに放り込む」と表現されるが、うまい言い方だと思う。その喉を通る焼けるような味わい。テキーラの魅力の極みでもある。
 家では情けないことに水を横に置きながら呑むけれども、本場ではそういうことはしないらしい。
 最近はあまり外でテキーラを呑むことはしないが、以前は酒場で気取ってよく注文した。ちゃんとした酒場では、テキーラを注文すると「テキーラセット」がついてくる。それはライム(レモンも可)と塩である。氷や水はついてこない。
 どうやって呑むかと言えば、有名なのでご存知の方も多いとは思うが、半割りにしたライムをそのまま齧り、酸っぱい状態でテキーラを口に放り込む。そして嚥下。塩を握った拳の親指の上に置き、それを一舐めしてテキーラをあおる。交互にやってもライムと塩同時でもかまわない。これが本場の呑み方であるらしい。最初は僕も「そんなに気取らなくてもいいだろう」と思ったが、試してみると確かにテキーラの呑み方としては最上のように思えてくる。
 どうしてもチェイサー(水)が欲しい向きには、トマトジュースを勧められた。これもまたよくわからないのだがメキシコっぽい(トマトジュースとメキシコの関係はよく知らないけれども)。
 そのようにして、若いときにはよく泥酔していた。

 最近はめっきり弱くなって、そんなことを外でしていたら立てなくなるので封印しているが、家では時々テキーラをあおる。酒というのは意識の拡大剤でもあり、決まって気持ちが折れているときに呑むので、余計哀しくなったり辛くなったりしてしまうことがあるのだが、テキーラはそんな心の弱さを浮き出させる時間を与えない。そこが狙い。呑んだらすぐに酔ってしまう。
 そして、南の国の酒である。つい放吟を始めたりしてしまう。何故か無理やり陽気にしてくれる成分が入っているのかもしれない。不純物が多い、というのはそこの部分なのか。だとしたら有難い。救いの酒だ。聖なる悪女だな。

 さて、テキーラを使った有名なカクテルに「マルガリータ」がある。この、流れ弾に当たって死んだ恋人を偲んで、考案したバーテンダーがその名前をつけたと言われるこのカクテルは美味い。これはテキーラ半分に、ライムジュースとホワイトキュラソー(リキュール)を加えたもので、グラスの縁をスノースタイル(塩を縁に薄く付ける)にして供されるもので、なんのことはない、メキシコ式のテキーラの呑み方を上品にしたものだ。しかしこのカクテルも酔う。このテキーラをラムに替えると「X-Y-Z」となる。つまりもうこれでおしまい、という意味。こんなの呑んでいたら酔っ払って確かにもうこれまでだ。

 そして今宵も「聖なる悪女」テキーラを一杯。別に忘れたいことばかりじゃないけれど。そして、気分よく酩酊。BGMはもちろん「予感」。
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酒場で何を食べよう ビヤホール編

2006年12月18日 | 酒についての話
 僕はここでよく書いていることだけれども、「最初の一杯」としてビールはありがたいけれども、さほど飲み続けられないほうである。一人で飲んでいるときは勝手にやればいいのだけれども、宴席の場合はずっとビールが続くことが多い。ビールは注ぎあいに便利だ、ということもある。そんなときはもうしょうがない。延々ビールが続くことになる。刺身やおでんでビール、というのは僕としては相性が悪いように思えるのだが、これは好みである。なので周りに素直に従うようにしている。
 僕は実はビールに弱いのですね。すぐに酔う。炭酸飲料だということが影響しているのかもしれない。ビール中瓶一本と日本酒一合だとさほどアルコール摂取量は変わらないと言えるのだが、明らかにビールのほうが酔う。
 早く酔えるのは(仕事で呑んでいる場合を除いては)誠に結構なことと言えるのだが、たくさん呑めないのが残念でもある(←意地汚い)。それに、すぐに腹が張るのも困る。トイレも近くなるし。
 しかしながら、「ビールしか飲まない」という人もまたいるのも事実で、こういう人はバーやスナックに行ってもビールを飲んでいる。凄いな。こちらとしては異存がなく、勧めてさえこなければ相手が何を飲んでいようがかまわない。

 しかし、酒場によっては僕だってずっとビールで最後まで通すこともある。食べ物によっては当然ビールとの相性がいい場合もあるのだ。
 例えばお好み焼き屋(お好み焼き屋が酒場かどうかは措いておいて)。もうお好み焼きなどは、焼きそばも含めてビールしか考えられない。いわゆるソース系の食べ物にはラガービールしか合わないのではないか、と以前にも書いたことがある。→ラガービールに合う食べ物とは?
 串カツなどはやっぱり圧倒的にビールだ。
 大阪、神戸には串カツ屋が多い。また気軽に入れる雰囲気も手伝って「ちょっと一杯やるか」という時にはよく利用する。もちろんここで言う「串カツ屋」とは「ソース二度づけ厳禁」の安直な店のこと。コースで食べる「串揚げ店」になど入ったことがない。「こちらは塩で、こちらはタルタルソースで…」などと言われてかしこまるのはどうも苦手だ。ソースにジャボっとつけてキャベツと頬張りビールをゴクゴク、でないと落ち着かない。

 さて、そろそろビアホールの話をしなくてはいけないのだが、その前にビールに徹底的に相性のいい食べ物にも触れたい。北海道の雄、ジンギスカンである。これは美味いなー。今まで最高に美味かったビールの話としてサッポロビール園の話を書いたことがあったが、これはたまらないなー。ビールとジンギスカンってのは最強タッグかも。もちろんビール園に限らず札幌にはジンギスカンの名店が多い。また屋外でデイキャンプなどでのジンパ(ジンギスカンパーティーのことを地元の人がそう言った)なんかは、夏の短い北海道ではたまらない娯楽であること、大阪でたこ焼き器がかなりの確立で普及しているのと同様に北海道ではジンギスカン鍋があるのが当たり前だと言う話、楽しく聞くことが出来るが、屋外ジンパなど酒場の話ではないのでこのへんで。

 ビールを飲む、と言えばとにかくビアホールである。ビアホールと聞いて浮かぶイメージはさまざまだろうと思う。ミュンヘンのオクトーバーフェストの様子がTVで流れたりするので、とにかく広い場所でワイワイとやる感じが浮かぶ人も多いだろう。ホーフブロイハウスとか。日本で言えば銀座ライオンとかね。また、イギリスのパプやイタリアのバールを連想させる雰囲気の場所もある。カウンターを重視していたりね。こっちはワイワイよりも静かに楽しむ感じか。僕のお気に入りの場所は、地下へ潜った穴蔵のような雰囲気だった。カウンターはあんまり多くなかったけれど小さいテーブルが並び、一人ないし少人数に向いていた。
 ビアホールの「hall」を広い場所と解釈すれば、ビアガーデンだってビアホールの一形態なのだけれども、「季節もの」である印象が強いので範疇に入れるかどうか。昔はビアガーデンにいい印象は持っていなかった。デパートの屋上などで夏季営業される、バイキングないしは食券制でビールも飲み放題というシステムが多い。しかし、その肝心のビールがあまり美味くないところが多かった。注ぎ名人など居ないのだろう。またスーパード○イ一種類しかない、とか。喧しい雰囲気も手伝ってどうも苦手で、誘われても逃げることが多かった。もっとも最近は、ホテルなどが主催しているガーデンも増え、それなりに質が上がっていると聞くが、値段も張りそうなのであまり行かない。

 ビアホールで何を飲むか、と言われればそれはビールを飲むに決まっているわけであるが、幾種類ものビールが揃っているのがビアホールの良さであって、いろいろなビールを飲むことが出来る。たいていは生で、しかも絶妙に注がれている。ビール専門店ならでは。
 さて何を飲むかの前に「ジョッキ問題」もある。大ジョッキは男らしくていいが、量が多くてすぐに飲み干せないために味が飲むに従って落ちる、小ジョッキを何杯もおかわりするのが正しい、という意見。そりゃ確かにそうだが、小さなカウンター店ですぐオーダーに応えてくれるのならともかく、「すんませーん、おかわりー」と何度も言わなければならない店では小ジョッキは面倒だ。店の規模もあり、迷うところである。
 また、何を飲むか。せっかく専門店でラガービールばかり飲むのもつまらない。ここは気分によっていろいろ飲む。
 大勢の場合はそれでもラガー中心になる場合が多い。軽い味わいであるし、食べ物にさほど困らない。どんな料理にでもある程度対応するからだ。しかし、出来れば冷たいビールには温かい料理が望ましい。フライドチキンやフィッシュ&チップスなどは合うなぁ。ウインナーシュニッツェルも好き。揚げたての熱いところをハフハフと頬張り、口の中が軽く火傷をしそうになり、その油が舌に残るところをグイっとビールで流す。美味い。僕がよく行く店に「きのこ入りジャーマンフライドポテト」なる品があり涙が出るほどビールとの相性がいい。たまらんのですよ。
 少人数でわがままが言える時は、やはり断然黒ビールである。コクがあり芳醇な味わいのこのビールに合わせたいのはやはりソーセージだろうと思う。本当は「腸詰」と言いたいところ。黒ビールとの相性は抜群だ。マスタードをつけて口の中へ。パキっと音がして肉汁が溢れる。アイスバインも美味い。なかなか注文するには高価な店が多いのだけれど。1000円未満で少量づつ出してもらえないかな。
 そして最後にギネス樽生。これは特に食べるものを必要としない。じっくりと味わって終わる。

 ビールばかり続けられない僕がビアホールに行くとこんなにビールを飲めることが不思議である。やっぱり美味いからに違いない。ビールは専門店に限るのかな(そんなこと言えるほどの通でもあるまいに)。
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