凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

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旅の移動手段 その5 バス

2007年11月03日 | 旅のアングル
 今度のバスで行く 西でも東でも

 ペドロ&カプリシャスの「ジョニーへの伝言」を聴いていると、なんだかバスで動くのって実に欧米風で格好がいいような気がしてくる。外国を旅しているみたいだな。日本だと旅行の風景といえばやはり「終着駅」であったり「波止場」であったりして演歌風になったりするのだが、バスであるとちょっと雰囲気が違うような気がしてくる。あまりウェットじゃない、砂埃舞うバスストップのちょっと愛想のない舞台。

 Kathy, I said as we boarded a Greyhound in Pittsburgh
 Michigan seems like a dream to me now

 「キャシー、今じゃミシガンの事なんてもう夢見てたみたいだよ。」ピッツバーグでグレイハウンドバスに乗るとき僕はそう言ったんだ…僕の大好きなS&Gの「America」の一節だが、やはり街を抜け広い荒野を走るバスの遠景が目に浮かぶようだ。軌道がないところが寂しさを助長するのだろうか。旅好きのバイブルでもある沢木耕太郎の「深夜特急」はバス旅の話だ。なんだか乾いた風景が感じられてくる。
 もっとも、こういうのはアメリカとかメキシコに似合うのであって、日本だとどうもピンとこない。日本では長距離移動はやはり鉄道のものであって、バスは駅から目的地に向ってちょっとだけ乗るもの。それは都会であっても田舎であっても同様、停留所がたくさんあって直ぐに停まり昇降が激しく、常に「次は○○前~」とアナウンスが流れてピンポンとボタンを押して整理券と表示画面を見比べ小銭をポケットから出す。そういう風情が普通である。旅行にはあくまで補助的なもの。
 ずっとそう思っていたのだが、昨今の「夜行長距離バス」の隆盛はそんな感情などどこかへ押しやってしまった。日本でもバスだけで旅行は出来る。バスを乗り継いで北海道でも鹿児島でもどこだって行ける。そういうご時世になった。 

 昔は、長距離バス、夜行バスと言えば首都圏と関西を結ぶ「ドリーム号」がその代名詞だった。僕も若い頃に幾度も乗った。これは国鉄バスであり周遊券でも乗れたので、東京ミニ周遊券の場合には大垣鈍行よりも直通であるだけマシ(直角クロスシートよりリクライニングする座席が寝やすいなどの理由も)ということで、列車よりもバスを選んだものだ。
 しかし、四半世紀前のバスの座席は狭かった。まあ観光バスより少しボロい感じであって、トイレは付いているものの形だけであり、座席も隣と密着していてちょっと太ったおっちゃんが隣に座ろうものならもうその圧力でひしゃげてしまうようだった。暑苦しい。なので夜行バスにはあまりいいイメージを持たなかった。ただ安いという理由だけ。
 今は違う。座席はたいてい三列シートでひとつひとつの席が独立している。カーテンで間を仕切る。ちょっとB寝台かフェリーの特二等を連想させる。初めて金沢~博多間のバス「加賀号」に乗ったときは驚いた。夜行バスってこんなに乗り心地がいいのか。もちろん寝台列車と比べてはいけないが、リクライニングも相当傾く。限りなく寝た姿勢に近くなる。バスで熟睡などかつては考えられなかったのだが、このときはよく寝た。
 それ以来、バスを見直した。もちろん疲れることは疲れるが、昔の比ではない。夜行バスのいいところは、もちろん夜行列車と同様夜に移動してくれる点で、朝になれば目的地に着いている。行動時間が確保できる。僕は若い頃ずいぶんと活用した。
 今はあまり乗らなくなってしまったが、それでも利用するときもある。またバス網が非常に発達して、ありとあらゆるところへ行ける。乗車にはかつて都心のバスターミナルへ行かなくてはいけなかったものだが、最近ではあれっという場所からも発着している。僕の住む最寄の阪神甲子園駅からも、なんと鹿児島行き夜行バスが停まる(甲子園発というわけではないが停留所となっている)。なのでこれは利用しない手はないと思いあるとき乗ってみた。自宅から5分でバス停、そして鹿児島の繁華街天文館まで直通である。ドアtoドア。なんだか信じられない気がした。昨夜自宅で食事をしていて、今日は朝早くから西郷隆盛や大久保利通の住んでいた鹿児島の加治屋町をブラブラしている。飛行機でもこの感触は味わえない。

 僕はバスに可能性を見出し(たつもりになって)、ある年の冬の三連休、バス旅だけで東北を旅行しようと思った。当時住んでいた金沢から新潟へ、そして山形へとバスを乗り継ぎ、最終的には盛岡まで足を伸ばした。そして盛岡から夕刻、仙台行きのバスに乗った。これは約2時間半で着く。着いたらゆっくり酒でも呑んで金沢行き夜行バスに乗って帰ろう。そんな算段だった。
 バスという乗り物の怖さは、交通事情によって遅滞がかなり広範囲に及ぶということである。
 僕は仙台行きのバスの車中、眠りこけてしまっていた。どうせ終点下車だからのんびりと、というつもりだったのだが、ふと目を覚ますとあたりの様子が一変していた。
 その冬は暖冬で、雪などほとんどなかった。だからここまで順調にバス旅を続けてきたのだが、天候が一転して豪雪となっている。バスは渋滞の中で立ち往生していたのだ。時計を見るともうニ時間が経過している。いったいここはどこだ? 何、北上だと?! 
 運転手に聞いてみたら「いつになれば仙台に着けるのかはわかりません。のろのろ運転ですから」とのんびりした答え。うーむ。僕は心底焦った。明日の朝には金沢に居ないとまずいのに。
 バスが一般道を走っていて(高速は通行止めになったのか)のろのろ運転であることを幸いに僕は「下ろしてくれ」と叫んだ。運ちゃんはちょっと渋い顔をしたが緊急事態なのでしょうがない。ただしバス停はないので、北上駅に最も近い場所で、と頼んだ。「ああもうここが近いですよ」わかりましたありがとう。それじゃ。
 それから約1kmくらい僕は雪道を走るように歩き(焦っていたのだ)、北上駅にたどり着いた。新幹線は…と見ると、みんな相当の遅れを出している。ただ駅員に聞くと、ここより南は雪も少なく除雪も進んで比較的順調であるという。盛岡周辺の局地的豪雪であるようだ。とにかく僕は来た新幹線に飛び乗った。
 乗った新幹線車内は、乗客が皆憔悴しきった顔をしている。この新幹線も既に二時間遅れである由。ただ、その後は遅れを取り戻すとまではいかないものの比較的順調に走った。僕は仙台で下車せずそのまま乗り続けた。仙台発の夜行バスなんてとてもこの天候ではアテにならない。大宮で下車して、そこから夜行急行「能登」に乗った。これにもギリギリの時間だった。ふぅ。なんとか助かったぞ。(余談だが、この新幹線の特急料金、列車が二時間以上遅れたので払い戻しの対象となった。僕が乗り込んでからは少ししか遅延していないのでいいのかな、とも思ったのだが細かいことは問い合わせなかった。バス代が浮いた)
 バスという乗り物は怖い。雪などの天候でもこのように左右されるが、その他にも事故などの交通渋滞で時間の振れ幅が大きい。僕は結構懲りてしまって、行きはいいが帰りに使うのはやはり時間に余裕がないと躊躇してしまう。夜行バスはまだ柔軟に対応してくれるが、昼行バスで接続させる場合は相当の余裕が必要であることを学んだ。(しかし僕はこんなことばっかりやっているな)

 さて、長距離バスなどはともかくとして、旅行先ではやはりバスに乗らないといけないときが出てくる。バスはあらゆる地域を網羅している。鉄道はそんな細かい地域まで面倒を見てくれない。
 しかし、バスは知らない街で乗るのはちょっと怖い。バスターミナルを併設している大きな駅から乗るのならともかく(こういう場合はたいてい始発だ)、田舎でバス停を探したりするのはなかなか慣れない。雪の降る県道でいつ来るかわからないバスを待っているときなど相当に心細くなる。バスはたいてい時間通りにやってこない。もしかしたらもう行ってしまった後では、と不安になったりする。
 都会でも不安は同じだ。まず、繁華街などバス停がいくつもあって、どこから乗って良いのかわからない。また、知らない街でバス路線図など読み解くのは至難のワザで、どのバスに乗ればいいのかまず分からない。目的地も「○○団地前」とか聞いたことのないものばかりだ。よほど地理に精通していないと無理である。
 また地方によってバスの作法も違う。東京などは料金先払いだ。均一料金だから先に払えと言われても、旅行者は料金を知らないのにどうするんだ。回数券などもちろん持ってないぞ。オタオタしちゃうじゃないか。また沖縄では手を上げないとバスが止まってくれない。タクシーじゃないんだから。直前にならないと目の悪い旅行者は目的のバスかどうかわからんじゃないか。うーむ。
 僕は京都育ちなので京都市内を走るバスには精通しているが、旅行者は戸惑うだろうな。よく泣きそうな顔で「晴明神社に行きたいんですけどどれに乗ったらいいんでしょうか」と尋ねる人が居る。そうだろう。バスには「晴明神社行き」なんて書いてはいないもんな。あっちのバス停から堀川通り上賀茂神社行きに乗ってください。一条戻り橋で降りればいいですから。そうすっと出るようになるには京都に精通しないと無理だよ。これが僕も旅先だと「すいませんけど…」と人に尋ねることになるのだ。かくして、歩いたりレンタサイクルの方が早いや、と思ってしまいだんだんバスには乗らなくなってしまう。

 なんだかバスの問題点をあげつらったみたいになってしまった。決してそんなつもりじゃなかったのだが。
 路線バスというものは、道路さえあればありとあらゆるところへ入っていってくれる。それが都市部では路線が多すぎることに繋がり旅行者はどうしていいのかわからなくなるが、当然ローカルな山間部などにも入っていってくれる。よく晴れた渚の道も走ってくれる。有難い乗り物なのである。
 最近過疎地を中心に路線バスはどんどん衰退している。時代の流れではあるが、旅行者としては惜しい。本当にローカルバスに乗ると、昇降客は最初だけであとは延々運転手と二人きりなんてことはしばしばある。「どちらまで行かれるのですか」などと話しかけられたりして。○○温泉ですよ。ああそれなら終点ですからどうぞごゆっくり。もうすぐ紅葉が綺麗なところへ差し掛かりますよ…てな会話もまた楽しい。地元の人の足はもう乗用車となり路線バスの命脈もあとどれくらいか。しょうがないことだけれども、もう少し乗ってみたいと勝手な旅行者は考えてしまうのである。
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旅の移動手段 その4 鉄道全般

2007年10月31日 | 旅のアングル
 世の中には鉄道マニアと呼ばれる一群の人が居て、それぞれ車輌派、模型派、蒐集派、時刻表派などと分派して隆盛である。これだけ鉄道が廃止の憂き目に遭ってもまだまだ頑張っている。この廃止という流れの中で、さらに「廃線跡派」なども出現しているらしい。
 僕は残念ながら鉄道を移動手段としてしか考えることが出来ずに全然マニアの域に達しない。ただ時刻表派には憧れを持つ。せめて「旅行が好き」と公言するからには、時刻表の見方くらいは精通したい。しかし当方は数字の羅列を見ると頭痛がしてくる方で、「時刻表は見るものではなく読むものだ」という達人たちの言葉にただ恐れ入るばかりである。自分で努力もせずに羨ましいなとだけ思う。
 昔よく中学生くらいの旅行者と同宿したりした。そういう彼はたいてい時刻表に強い。宿の2段ベッドの上で「ちきしょう接続がないぜ」と独り言をブツブツ言っていたりする。僕はと言えば、「ここはどうやって行くといい?」と聞くばかりである。たいていは掌を示すかのように丁寧に教授してくれる。何番線に何時に入るから、ここらへんで待っていればいい。こっちも旅のベテランを自負していたのに形無しである。こっちも負けずに分厚い時刻表を持参したこともあったが、当該月のものでないために臨時列車を逃したりする。
 もう最近では達観して諦めた。時刻表も重いので携行しない。駅に行ってざっとメモして済ましている。それでもなんとか事足りている。もはや長い時間もとれる若者でなくなり、旅行はピンポイントであるために自由度も減ったことが原因ではあるのだが。

 さて、周遊券も主たるものは廃止され、わずかにゾーン券とかよくわからない周遊きっぷにとってかわられてしまい、自由度が少なからず失われ利用者としてはちょっとしんどくなった。それでも旅には出なくてはいけない。きっぷの種類が変わったところで諦めるわけにもいかないのだ。
 時間の無い旅行者にとって、新幹線というのは有難い乗り物である。新幹線網というものも昨今全国区になり、こんなところにまで新幹線が伸びているのか、と隔世の感がある。
 しかしながら、僕はやむを得ない場合を除いて、プライベートで新幹線を利用することはあまりない。もちろん貧乏だから、というのもあるが、どうも新幹線に乗ると出張しているような感覚にとらわれてしまう。一時期僕は毎週のように新幹線に乗らざるを得なかった時期とかがあり、どうもストレートに旅情が浮かばない。なので必要最低限にしている。朝一番で新幹線で動くより、前日から夜汽車に乗ったほうが何故か気持ちが盛り上がる。学生時代の貧乏旅行の後遺症かもしれないが。
 昔はもちろん新幹線など全然乗らなかった。乗るときはある特定の手段として乗った。
 新幹線には、特急乗継ぎ割引きという制度がある。新幹線から在来線特急に乗継ぐ(または逆)の場合、在来線特急料金が半額になる。そのため、ちょっとだけ新幹線に乗って特急料金を半額にするのだ。関西から東北方面へ行く際に、かつて大阪~青森間を特急「白鳥」が結んでいた。この乗車時間13時間に及ぶ特急に乗るため、新大阪~京都間だけ新幹線に乗るのだ。さすれば京都~青森間が乗継ぎとなって特急料金(指定席も)が半額になる。新幹線料金を勘案してもこうした方が特だった。
 今では最長特急白鳥も廃止され、こんなワザを使う人などいないだろうが、もしかしたら豪華寝台列車「トワイライト」もこの手で半額にならないだろうか。しかしトワイライトに乗る客がこんなセコい手を使うとは考えられないが。
 こういう乗継ぎ割引や往復割引などの「いかにしてオトクに列車に乗るか」の方法は様々なものがあるだろう。企画切符なども見逃せない。今はネットがあるのでこの手の情報は溢れているので嬉しい。
 国鉄(現JR)には料金体系に「遠距離逓減制」というものがあり、運賃は基本的に、長距離で利用するほど安くなる。なので大阪~東京~仙台の場合、大阪東京と東京仙台を別々で買うよりも通しで買った方がずっと安い。東京は途中下車という形にすればいいのである。もちろん行程全て列車なら往復割引もあるので全部いっぺんに購入したほうがいい。
 さて、これは時間がある人用の遊びであるが、「遠距離逓減制」を考えると、片道切符を仕立てて買えばもっと安くなる。片道切符になるための条件は「同じ駅を通らない」ことだけであるので、さまざまに工夫して設定する。僕は一例を以前山梨県の旅で書いたことがあるが、繰り返すと京都~東京間移動に、奈良線→関西本線→東海道線で東京に行き、帰りは中央本線→太多線→高山本線→東海道線で戻ってくるという長野廻りの切符を設定した。距離は延びるが単純に京都~東京を往復するよりずっと安い。こんなことは今ではとても出来ないことなのだが、実際乗ると楽しい。安さ以上のものが還ってくる。

 各種フリー切符はまだまだあるが、全国を網羅した乗り放題切符というものはもう種類がかなり限定されてしまった。その中で、ただひとつ生き残って気を吐いているのは、もちろん「青春18きっぷ」である。日本全国の普通・快速列車乗り放題で5日間有効、現在で11500円である。これについてはもう詳細をここで書くのもなんなのだが、この18きっぷ、知られているようで知らない人は全然知らない。細かなことを書くことは僕の筆に余るので言及しないが、同様の切符に「北海道&東日本パス」などがあることはもっと知られていない。
 僕は18きっぷの愛好者で、毎シーズン購入するとまではいかないが結構使っている。夜行列車を組み合わせるとかなり使いでがあり、例えば福岡県の旅で書いたようにうまく使えば相当楽しい。日本全国というのがミソで、時間さえあれば利用しがいがある。春にうちの妻は、一緒に鎌倉に行った折りに一人だけ18きっぷを利用して帰ったのだが(僕は事情で新幹線)、茅ヶ崎から深夜0時を過ぎて列車に乗り小田原で夜行快速「ムーンライトながら」に乗り換え、そして東海道線をまっすぐにうちに帰ると思いきやそのまま我が家を乗り過ごして岡山、そして四国へ渡って坂出、宇多津でうどんを三杯食べてから帰路についたと言う。神奈川から香川経由で兵庫県か。そういう使い方も出来る。それだけ乗っても2300円。
 かつて大垣鈍行(ガキドン)、上諏訪鈍行が一世を風靡した時代から(「のびのびきっぷ」時代ね)18切符は使い続けているが、使いやすくなったところもあれば使いづらくなったところも。夜行列車は臨時を含めれば利用できるのは増えたのではないかと思う。また当時のボックスシート(直角椅子)ではなく多少リクライニングする座席を使用してくれているのもいいところ。
 だが、全体的には使える列車が徐々に減っている(路線が減っている)のも確かなのだろうか。北海道などの廃線については言わずもがなだが、新幹線運行開始により在来線が第3セクターとなり使用できなくなった路線(しなの鉄道やIGRいわて銀河鉄道~青い森鉄道などが致命的)、それに青函トンネルは特急列車しか走らせなくなったことで実に渡道しにくくなった(最もこの区間は特例で18きっぷでも特急に乗れるが、蟹田~木古内間だけのためダイヤが不便)などの不自由な部分が徐々に出てきている。どうして角館には在来線ではあんなに行きにくいのか。
 個人的に思うのは、昨今普通列車の旅に旅情を見出しにくくなっているなと感じること。それは列車の種類によるのだとも思う。普通列車車両は、東海道線などの幹線ではまだ向かい合わせのボックスシートも多いし、快速他は特急型の前向き式クロスシートだが、地方に行くとどうもロングシートばかりになってきた。近郊型車両である。これはつまらない。何がつまらないと言って車窓風景が見難い。そして飲食がしにくい。ローカル線に乗れば駅弁を広げビールの一本も開けたいところであるのに、ロングシートでは如何ともし難い。あの座席で酒呑んでいたらなんだかアル中に見えてしまう。
 それでも18きっぷは魅力がまだまだあるので今後も使い続けるとは思うけれども。基本的に列車に乗るのが好きなのである。

 JRの話ばかり書いているが、私鉄にももちろん乗る。関西近郊私鉄は僕にとっては旅行とも言い難いが、近鉄などは広大な路線を持っていて「週末フリーパス」などはかなり使いでがあるのではないか。伊勢志摩旅行に「まわりゃんせ」などは相当にトクな切符で、これを利用しない手はない。
 首都圏の私鉄で旅情を感じることなどは難しいことなのだが、全国にはローカル私鉄はいっぱいあり、旅の足として使うだけでなくその電車に乗ること自体が楽しみにもなったりする。江ノ電なんかは乗るだけで楽しいのはよく知られているところ。
 そのローカル私鉄の中で最も旅情を強く感じるのは、各地に残る路面電車だろう。これこそローカルそのものである。
 僕は路面電車第一号の街、京都の生まれで昔は事あるごとに乗ったものだが、市電が自動車に圧されて廃止されて久しい。京阪京津線も地下に潜り、僅かに京福電鉄にその姿を残すのみ。かつて全国67の都市で走っていた路面電車だが、今では北は札幌から南は熊本、鹿児島まで16都市だけとなってしまった。この中で僕は東京(都電荒川線、東急世田谷線)と豊橋(豊橋鉄道)以外は全部乗ったが(全路線ではない)、いずれも地元の人の足であり風景以上にローカル色を楽しめる。
 函館、広島、高知、松山など実に楽しいが、白眉は長崎ではないだろうか。一回の乗車100円という安さもさることながら、一日乗車券が500円という素晴らしさ。これで、浦上・平和公園からグラバー園まで長崎の主だった観光名所にはほとんど行ける。5回乗らないと元が取れないが(そもそも運賃が安すぎるので)、本気で長崎観光をしようと思えば10回以上は昇降するので大丈夫だろう。函館や鹿児島の一日乗車券600円というのも素敵だ。
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旅の移動手段 その3 周遊券

2007年10月27日 | 旅のアングル
 周遊券という言葉は、辞書的には一応まだ残っている。しかし僕がこれから書こうとしているものは、その昔の国鉄・JR時代に盛んに用いられた「ワイド・ミニ周遊券」と呼ばれた均一周遊乗車券の話であるので、この記事はもう資料的にはなんの価値もない。そのことをお断りしておく。以下はただの思い出話である。

 でも、「周遊券」と書いて、若い人にはなんのことか分からない人もいるかもしれない。これが廃止されてもう10年近く経つのだから。かつてそういうものがあったのである。若者が旅立つのに最適の切符が。
 細かい定義を書くことは僕の手に余るので、「北海道ワイド周遊券」というものを例にとって考えてみよう。この切符は、北海道に行くにあたり、その往復行程(急行までは使用可)を含み、そして周遊区間内(この場合は北海道全域)の列車乗り放題(特急列車含む)という楽しい切符なのである。
 有効期間は出発地によりマチマチであるが、僕が当時居た京都市内からだと20日間有効、そして値段は20年前で4万円強であったか。さらにこれには冬季割引というものもあり、10月から5月までは2割引、さらに学割が効くのでその上2割引、冬の北海道だと2万5千円くらいで急行券付き往復券と北海道全域特急券付き乗り降り自由という素晴らしい切符が手に入ったのである。
 これが、北海道のみならず東北全域、北陸全域、九州全域などのくくりで発行されていた。これがワイド周遊券。もう少し規模の小さいミニ周遊券というのもあって、例えば「仙台・松島」とか「広島・宮島」とか。扱いはワイド周遊券に準じていた。
 これが廃止されたのには、様々な理由があるとは思うが最大のものは「採算がとれない」からなのだろう。国鉄が分割されてもまだその命脈は10年くらいは保たれていたのだから。時代の流れなのだろう。今はもっと規模の小さくなった「周遊きっぷ」というものが代替品としてあるが、使用日数も少なく使いでがかなり悪くなった。ゾーン券とアプローチ券って何だよ。残念である。
 
 この切符が優れていたのは、もちろん料金的なことが一番なのかもしれないが、なにより「区間内乗り降り自由」である点だろう。だから、旅の予定がどんなに狂おうとかまわなかった。旅行の計画というのはもちろん綿密に立ててしかるべきだとは思うが(その計画を立てる過程がまた楽しい)、その計画は旅先では一日にして崩れることが多々である。旅行ってそういうもの。現地に行けば、ガイドブックでは知りえない情報が溢れている。友達もたくさん出来る。そうした中で、自分の当初計画なんて直ぐに木っ端微塵になる。その崩れ去るときが実に楽しい。これが旅の醍醐味とも言える。そしてどんなに崩れたって周遊券は対応してくれるのだ。乗り放題なのだから。
 僕は自由な時間が確保出来た学生時代に、北海道ワイドを2回、東北ワイドを2回、信州ワイドを1回、東京ミニを2回使った。夏は自転車主体の旅行だったので春冬ばかりだったが。また自由な時間がとれなくなった社会人となっても周遊券はよく使った。結局正規に切符を購入するよりそっちのほうが割安だったからである。ミニ周遊券はもちろん、北海道ワイドも何度も使った。自転車を畳んで持ち込み、北海道のいいところまで列車で行ってそこで自転車を組み立てて乗った。前回僕は「ヒッチをするサイクリスト」と揶揄される話を書いたが、この時期はよく「周遊券を持つサイクリスト」と馬鹿にされた。事実、この区間は自転車で走るとしんどいな、と思ったら直ぐに畳んで列車に乗ってしまった。軟弱このうえなかったが、旅に柔軟性が出たので楽しかった。

 周遊券にまつわる思い出は列挙に暇がない。これは僕だけではなく、周遊券で旅をした経験のある人ならみんなそうだろう。
 まずアプローチからして楽しい。例えば京都から北海道へ行くとして、普通は日本海周りで行くのが妥当だが、太平洋周りで行ってもいいのである。早朝に京都を出る。周遊券では新幹線は特急料金が別となるので、普通列車を乗り継いで行く。そして東京で途中下車。友人と会ったり遊んだりして、上野発の急行「八甲田」に乗る(八甲田が無くなって久しい。北海道を旅する人にとってこんなに著名な列車も無かった)。急行の自由席は周遊券で乗れるので、北海道までは周遊券以外の金銭はかからない。そして「八甲田」の車中は、同じように北海道に行こうとする旅人で溢れている。探せば必ず一人や二人は知り合いが居たりして。
 「おお久し振りだな凛太郎。お前も北海道か。あれ、あっちにヨーコちゃんもいるぞ。ヨーコちゃーん」
 「あららヤマちゃんにヨーコちゃん久し振り。ほんでとりあえずどこまで行くんや?」
 「いや、決めてないんだけど札幌までは出ようかなと」
 「私はまず支笏湖に行こうと思ってるのよ」
 「ほんなら僕も支笏湖に行こかいな」
 「待てよ、俺も一緒に行きたい」
 てな感じである。そして皆で一杯やりながら、これから行く北の大地に思いを馳せる。楽しい。

 周遊券のいいところは、繰り返すが区間内であれば特急、急行であろうとも自由席なら乗り降り自由のフリーパスであるというところである(新幹線除く)。なので、これは宿代わりに使える。区間内に夜行列車が走っている北海道や九州ワイドであれば、これに乗り込むことでお金がなくとも一晩過ごすことが出来る。
 僕は期限内20日間のうちで、この夜行列車の夜明かしで6、7日は過ごした。宿代節約である。中には全て夜行列車を乗り継いで過ごす剛の者もおり、疲れるが金銭的余裕が全く無くても北海道や九州に居続けることが出来るのだ。
 例えば北海道の場合、富良野に居ても小樽に居ても、日が暮れれば札幌に戻ってくる。20年前の当時は、札幌から「まりも」(釧路行き)、「大雪」(網走行き)、「利尻」(稚内行き)という三本の自由席付きの夜行急行が走っていた。夜半過ぎにこれに乗り込んで一夜の宿とする。同じように考えている旅人達が午後8時くらいから三々五々札幌駅に集まってくる。さて今日はどの列車に乗ろうか。そんなお気楽気分で席確保のために並ぶのもまた愉悦だった。今日は「まりも」にしよう。そうしてあまり傾かないリクライニングシート(腰を浮かせばガタンと傾斜が元に戻ってしまう不自由な席だったが)に身体を埋めて寝る。「ホテルまりも」なんて言葉があったなぁ。一夜明ければ最果て、釧路湿原の雄大な白原が目の前に広がる。
 こうして夜行で一夜を過ごす限りは必ず移動が伴うのは自明のことであるが、どうしてももう一日札幌に居たい(あるいは釧路や稚内に居たい)と思った場合。そのためによく旅人は「新得返し」「上川返し」「名寄返し」と言われるワザを使った。札幌から急行「利尻」に乗り込む。下りの利尻は、夜中に途中の名寄駅で稚内から来た上りの急行利尻とすれ違う。停車時間があるので、ここで上りの利尻に乗り換えるのである。朝になればまた札幌に着く。これが「名寄返し」。同様に新得や上川でも上りと下りを乗り換える。
 このワザは、まず夜中2時頃に起きられるか、ということに掛かっている。僕は返すつもりでつい熟睡しちゃった失敗もしている。また、乗り換えたとしても途中駅であるので席を確保できるかどうかの保証はない。それでも旅人は果敢に返す。よくやるよ全く…。

 こうして周遊券の有効期間である20日間は瞬く間に過ぎる。旅は時間の過ぎるのが早い。それでもまだ時間があって帰りたくない場合。
 これは違法行為なのでここに書いていいかどうか迷うが、もう周遊券も廃止されて久しいし真似される恐れもなく、既に時効であると思うので書いてもいいだろう。そういう場合は「周遊券交換」というワザを使うのである。
 旅行をしているのは暇な学生やフリーターばかりではない。休みをとってやってきている社会人もいる。そういう人たちは期限である20日を使い切らずに帰っていく。そういう有効日数の余った周遊券をこっそり自分の切れかけの券と交換してもらうのである(あくまで違法)。
 有効期限があと何日かに迫った旅人は焦りだし、宿で誰かれかまわず声をかけ出す。
 「どこから来たのですか?」
 「えーっと、東京です」
 「そちらの方は?」
 「京都ですけど…」
 「あー僕と同じですねー。いつ北海道に来られたのですか? いつまで居られるの?」
 「3日前に来たんですけど、そんなに長くは居られないのですよ。一週間が限度なの」
 「えっそうなんですか…(内心ニンマリ)」
 そして、周遊券の交換の交渉に入るのである。僕の周遊券あと5日間なんですけれども、貴女はあと3、4日で帰られるのですよね。よかったら交換してくれませんか? 僕はもう少し北海道に居たいんですよ。僕も同じ京都から来てますんで問題はないと思うんですけど。なんとかお願いっ(最敬礼)。
 「えーでも私復路は飛行機なんですけど。立体周遊券(片道は飛行機利用)なんです」
 …交渉不成立だ。残念っ。
 そして次の旅人にまた声をかけるのである。しかしこういうことを繰り返せばなんとか旅程は延長できる。そうして本来20日間有効の切符を引き伸ばしてゆくのである。コツは、まだまだ自分の期間が長いうちに(あと半分くらいの時から)交渉行為を始めて、しかも一気に延ばそうと思わず一日でもいいので交換していくことである。少しづつ繰り返せばなんとかなる。
 しかしこんなことを書いてもしょうがないな。もう周遊券は廃止されているのだから。またこういう行為が周遊券廃止の一因にもなったのだろうな。反省。でも長く旅をしたかったんだもん。

 そんなことをしていてもやっぱり僕にも旅の終わりはやってくる。交換営業も限界があり、またフトコロにも限界がある。無限に旅もしてはいられない。
 それでも出来るだけ旅を引き延ばしたい。なのでこういう手を使う。
 周遊券は20日有効であるが、その最後の20日目に改札を通れば、あとは途中下車は出来ないが汽車に乗り続ける限りは、有効日数を過ぎても出発地までは戻れるのである。途中下車してしまえば前途無効になるのだが。
 なので、有効期限ギリギリの20日目、もう日が暮れているのに僕はまだ北海道の北の果てである浜頓別のユースホステルに居る。そんなところに居てもいいのか。それでも帰れるのである。
 何食わぬ顔で皆と夕食をとり、ティータイムも過ごしてそろそろ消灯時間。その頃おもむろに「じゃあさよなら。また逢いましょう」
 荷物をまとめて浜頓別駅へ。ここから天北線(現在は廃止)に乗り込む。時間は22時過ぎ。周遊券を出して改札を通る。改札を通るのはこれで最後、あとは京都に着くまで外には出られない。
 浜頓別から上り列車で音威子府へ。ここで、稚内からやってきた急行「利尻」に乗り込む。そして早暁札幌へ。札幌から特急で函館に出て、函館から青函連絡船に乗り継ぐ。青森からさらに夜行急行「八甲田」。そして上野に着いたら山手線で東京、そして東海道線の急行「東海一号(懐かしい)」で静岡。そこからは普通を乗り継いで京都に帰る。車内二泊、20日有効の切符が22日間有効に化けるわけである(これは違法でもなんでもない)。

 僕は何度かこの手を使ったが、ただ、これで僕は綱渡りをしてしまったことがある。
 この乗り継ぎ帰郷は、待ち時間でも駅構内から出られないところに難がある。「利尻」が札幌に着くのは朝6時前。冬だともう寒くてたまらない。次の室蘭本線の特急「北斗」まで、まだ1時間半もある。暖がとりたい。僕はつい、そこに停車していた函館本線の小樽行きに乗った。この列車に乗って、小樽経由で普通列車を乗り継いで長万部に出て、そこから特急に接続しても充分に青函連絡船に間に合う。そう計算して小樽行きに身を委ねた。
 これが失敗だったのである。小樽までは順調だったのだが、そこから先の列車が降雪でストップしてしまったのだ。いやストップではなく「のろのろ運転」。これでは計画が水泡に帰す。焦って僕は車掌さんのところへ行った。
 「この列車が長万部で接続しないと僕は京都に帰れないんです(涙)」
 「えっそんなこと言われても(汗)」
 列車は一応動いているのだが、下りが来ないためにすれ違えず倶知安でまた30分待ち。どうしよう。
 「倶知安を過ぎればこっちの列車が優先列車になるのでスムーズに行けると思うのですが。ただいまの連絡で除雪はかなり進んでいるようですし」
 「ああどうしよう」
 「なんとかしてあげたいのですが」
 車掌さんはあちこちに連絡して様子を聞いてくれている。僕はずっとその傍で手に汗を握る。所持金はこの時、既に1300円しかなかった。周遊券の期限は過ぎている。乗り継げなければもう終わりである。
 「特急列車はあまり長い接続だと待ってはくれないのですよ(そんな絶望的なこと^^;)」
 「でも、この大雪だと室蘭本線も遅れが出るかもしれないじゃないですか?車掌さん!」
 「そうですね。特急も遅れてくれればいいんだ」
 最後のセリフは国鉄職員としては言ってはいけない台詞だと思うが、それだけ親身になってくれているのである。
 そうしているうちに、列車は走り出しどんどんスピードを上げた。
 「もう大丈夫です。優先列車になりましたのですれ違いで待たなくてすむようになりました。このくらいの遅れだと特急は接続をとってくれます」
 そうして、ずいぶんと遅れたが列車は長万部に滑り込んだ。特急「北斗」は向こう車線に居た(ホッ)。これで家まで帰れる。僕は車掌さんと固い握手をして、「北斗」に乗り込んだ。

 こういう失敗もあるので、旅は余裕を持った方がいいかもしれない。22日間有効にしようなどと姑息な手段をとった報いである。
 後日談があって、僕は次の年の冬も北海道を訪れたのだが、札幌駅でこの車掌さんに偶然再会した。
 「ああ、あなたはあの乗り継ぎで焦っていたお客さんじゃないですか(笑)」
 一年も経つのに憶えていてくれたのか。あのときは騒いじゃったからなぁ。僕は一年越しのお礼を言い、無事帰れたことを報告して再び握手をしたことは言うまでもない。
 
 
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旅の移動手段 その2 自転車・バイク

2007年10月21日 | 旅のアングル
 自転車で旅をする、ということについては、以前よりよく言及している。県別の旅の話や歌の話でも顔を出すので、自分のことはもういいかな。人力移動の旅1などを参照。

 さて、自転車にもいろいろな種類がある。一般的なのはシティサイクルと呼ばれる街で乗るに特化した車種。つまり「ママチャリ」。これで旅をしようと思えばそりゃ出来るが、ちょっとしんどいかも。ギアもついていないので変速が出来ない。タイヤが太いので地面に対する接地面積が大きく、つまり負荷が大きい。坂道を登る体勢をとりにくい。とにかく長距離にはむかない自転車である。
 でも果敢にママチャリでチャレンジしている人もいる。自ら重荷を負うように旅をする人で、大変だなぁとつくづく思う。ヒザに水がたまりそうだ。
 やっぱり、旅行、長距離移動に適した自転車を選んだ方がラクでいい。僕が長らく乗っていたのは「ランドナー」という車種。いわゆるドロップハンドルのサイクリング車である。旅行用なのでちょっとがっしりとした作り。

 以下、中途半端にマニア的話になってしまう。ご容赦を。
 今はどうなっているか知らないが、僕が自転車に乗り出した四半世紀前は、ブリヂストンのロードマン全盛期だった。他にはミヤタのカリフォルニアロード。丸石のロードエース。ナショナルのタムタムロード。こんな名前を書くだけでなんだかわくわくしてしまう。ブリヂストンのユーラシアは高級車だった。これに乗っているヤツは金持ちでちょっと羨望。アトランティスともなると、大人の雰囲気だった。
 僕はと言えば、ブリヂストンのモノックスに乗っていた。ロードマンよりも若干高い。金欠のくせになんでこんなのに乗ったかと言えば、セールで特別に安かったからにすぎないのだが。青いモノックス・スポルティーフ。これで日本の端から端まで走った。僕の青春時代の象徴とも言える。
 後部にキャリア(荷台)をつけて、後ろ車輪の両サイドに荷物を付けられるようにした。前輪にはなし。キャンプはしなかったのでこれで荷物は充分。ハンドルの間にフロントバッグ。そして寝袋を括りつけて旅立ちの準備完了。
 ところで、僕が自転車に乗り始めた頃は、別に指南役も誰もいなくて、なんの知識もなかった。どう乗れば効率的か、などと考えもせず力任せにペダルを踏んだ。今にして思えば愚かなことで、ペダルにトークリップ(ペダルと足を固定させる器具)もつけてはいなかった。それで宗谷岬まで走るのだから「若かった」としか言いようがないけれども、案の定ヒザを痛めてしまった。
 自転車のペダルというのは、長距離の場合踏み込むだけでは厳しい。ペダルと足を固定することによって、ペダルを引き上げる力も加わる。そうして負荷を分散させないともたない。失敗で学んだ僕は、次回はサイクリングフォームなども雑誌で勉強して旅立った。ペダルを回転させるときには踏み込むと同時にもう片方の足を引き上げるようにすると両足同時に負荷がかかり分散される。どちらかと言えば「引き抜く」感じか。引き抜く足を後方に蹴るようにすればなおさら楽だった。余談だが、自転車のことをチャリンコと言うけれども、中京圏では「ケッタマシーン」と言う。このケッタという語感が、ペダルを蹴るように引き抜く感じに似ていて「名古屋の自転車はみんなサイクリング車みたいだな」と思ったことを思い出す。
 さらには、坂道を登る際には、ハンドルをぐっと自分に引き付けるようにすればスイスイと進む。ツーリングをして夜、腕や肩の筋肉に張りを覚えたときには「ああ僕も一人前だ」と思ったものである。自転車は全身で漕ぐものなのだ。

 そうして、あちこち部品も取替え自分の身体に合わせ、大事に乗ってきた僕の青いモノックスであったが、社会人となってそんなに長いツーリングにも出られなくなった。それでも自転車で旅をしたい。社会人一年目の夏、僕は二台目を購入した。それは「輪行」のためである。
 「輪行」とは、自転車をバラして袋に詰め、列車などに小荷物として持ち込んで目的地まで行き、現地で組み立ててサイクリングを始めるという手段。北海道や九州まで走っていくなどということはもう無理なので、そうしう手段をとらざるを得ないのだ。
 「ランドナー」でも輪行は出来るが、時間もかかるしあちこち溶接してあるのでまたそういう仕様に改造もしなくてはいけない。僕は「ロードレーサー」という種類の自転車を購入した。これは競技用の自転車である(競輪用ではない。あれにはブレーキもついていない)。これだと、車輪もワンタッチで外すことが出来る。慣れれば約10分あればバラして列車に乗り込むことも可能。余分なものは一切付いていない。荷台はおろか泥除けもない。なので雨の日に走れば車道の泥水が撥ねて背中に一筋の黒い汚れが付着する。なので雨の日は走らない方針にした。どうせそんな長い旅はしないので荷物もデイパックひとつで充分であるからして。
 これはタイヤも細く、ちょっとダートに入ればすぐパンクしたが、なにより軽く重宝した。これで北海道・東北・九州とあちこちに出かけた。列車だけでなく長距離バスにも持ち込んだことがある。バスは小荷物料金を取られないのがいいな。

 そうやって自転車旅行を20代後半まで続けた。ちょっと身体を悪くして引退を余儀なくされ、その後結婚もしたので身体が治っても一人フラリのチャリンコ旅はしなくなってしまったが、今でも「自分はかつてサイクリストだった」という誇りみたいなものは持っている。吹けば飛ぶような誇りではあるのだが。
 現在、サイクリスト人口はどのくらいいるのだろう。僕が現役の頃は、北海道の大きなYHに泊まれば玄関前に20台やそこらの自転車が停まっていたものだが、今はあまり自転車旅などは流行らないのかもしれない。僕が自転車を降りて10年以上経つが、その最後の時代でさえ自転車が目に見えて少なくなってくる様が伺えた。
 僕がロードレーサーに乗っていた時代には、マウンテンバイクで旅をしている人々の割合が高くなってきていたように思う。MTBはオフロード用に特化した自転車であり、タイヤも太く長距離ツーリングには向かないと思うのだが、どうなっているのだろうか。重心も低いし。あの時だけの流行だったのだろうか。MTBは確かに格好いいのだが。


 さて、僕は若い頃はずっと自転車に乗っていたのだが、旅で知り合ったサイクリストたちはどんどんバイクに転向していった。僕も「なんでバイクに乗らないの」とよく言われたものだが結局乗らなかった。別に意地になっていたわけでもないのだが、兄貴がバイクで事故をやって半年入院したのを見ており、怖かったのだろう。両親も「バイクだけはやめて」と反対していたし。誘惑はあちこちからあったのだが、僕もそこまでバイクに乗りたいと思わなかったのでそのまま沙汰止みとなった。本当に風になれるのはバイクじゃないということもよくわかっていたので。
 なんでかはわからないが、結婚した相手というのがライダーだった。ガキのように小さい身体で中免を持っている生意気なやつだったのだが、彼女は無理に勧めようとはしなかったので僕も免許は取らなかった。何度かタンデムをやったがこれは怖かったなあ。ニーグリップをしろ、とか訳の分からないことを突然言われてビビったことを思い出す。今は妻も原付にしか乗っていない。

 ただ、バイクというのは旅向きだろうと思う。その機動性において。雨さえ降らなければ楽しいだろう。
 僕が見ているところ、ライダーさんにも二種類いるような気がする。「旅人」と「走り屋」さん。旅行者の視点から見てもったいないなと思うのは、せっかく絶景ポイントや史跡があっても「止まるのが面倒くさいので観ていない」という人が多いということ。バイクってそんなに止まりづらいのかなぁ。見学するより走っているほうが楽しい、というのは趣味の問題であってとやかく言うのは僭越以外の何物でもないことはよくわかっているが、なんとももったいない。昔、摩周湖ですらすっ飛ばして走っていた人と会ったが、そのくらいは見てもいいと思うのだけれどもなぁ。

 僕も普通免許くらいは持っているので、原付には乗ることが出来る。女房の原付には時々跨ることはあるのだが、これで旅に出たことはさすがにない。原付での旅行者は昔は結構居て、北海道のYHの前にジョグやタクトがずらりと並んだ時代もあったのだが、今はどうなんだろう。カブの旅というのも楽しいものだとは思うが。なんせ燃費がいいし(坂道はキツいらしいが)。原付だと止まりやすいのであちこち見て歩く旅行には適しているのではないか。近距離であればしんどくないし。僕で言えば、奈良や京都は原付旅が合うかなぁ。駐車場の心配をしなくてもいいし。
 旅先でレンタルバイクを借りたことは何度かある。交通が不便な島などでは威力を発揮する。昔石垣島で借りたバイクはスピードメーターが壊れていたので怖かったな。古きよき時代の話。

 次回に続く。
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旅の移動手段 その1 徒歩・ヒッチハイク

2007年10月17日 | 旅のアングル
 移動しなくても旅は出来るのだ、という一群の人が居る。動かなくてなんで旅と言えるのかと僕などは思うが、鉄道ファン、特に時刻表派は、移動を伴わない旅をする。時刻表を読み耽り、列車の接続を辿っているとそれだけで旅に出ている気分になってくるらしい。達人になるとそれは実際の旅行の感動を凌駕する場合もあると言う。つまり「机上旅行」であるが、それを全然否定する気持ちにもなれない。ちょっと分かる部分もあるのだ。一種の究極と言えるか。移動手段に絞った旅のひとつの到達点として、非常に純度が高いとも言える。
 しかしながら僕たちのような凡人はとてもそれでは旅行をした気にはさすがにならない。やはり移動してこその旅行で、そのために様々な交通手段を駆使して旅立とうとする。旅は出かけないとやはり成立しない、と悟りを開いていない僕などは思う。

 さて、旅行の手段としての移動には、様々な方法がある。そんなことを思うがままに述べてみたい。

 まず、徒歩である。
 歩きの旅というのは古来からの基本。黄門様も弥次さん喜多さんもそうやって旅をしてきた。また僕がよく言う「旅の達成感」という点においてこれほどそれを味わえる旅もない。
 しかし、現代では日常的にそんな旅をしている人はかなりの少数派である。もちろんいないわけではないが。何故少数派になるかといえば、二つほど原因が考えられる。ひとつはもちろん現代人の体力の低下である。しんどいもん。もうひとつは、最初から徒歩というのは今では贅沢な手段であるからだ。なんせ時間がかかる。その時間を捻出することがなかなか出来ない。
 だから、徒歩旅行をモットーとする人はかなり頑張っている。最近、旧街道を歩く、なんてことをよく実行に移している人がいるが、職業を持ちながらやっている人はたいてい尺取虫式である。東海道を歩くとして、日本橋を基点としてまず品川まで歩く。品川まで着いたら電車などで一旦帰宅。そして次回の休みに品川まで電車で行ってまたそこから歩き始める。そうして繋げていく方式。大変だなぁと思う。
 僕もやってみようかと思ったことがある。学生の頃だ。しかし体力に不安もあり、まず住んでいた京都から、滋賀県の草津まで歩いてみた。約30km。これは難なく到達した。なんだ簡単じゃないの。それに勢いを得た僕は、YH協会が主催した「琵琶湖一周ハイク」というものに参加してみた。これは約180kmである。深夜に起点である琵琶湖南端の大津市瀬田を出発し、琵琶湖西岸を約100km、昼夜ぶっ通しで歩いて琵琶湖北端の海津大崎まで。そして一泊の後、翌日東岸を近江八幡まで50km、そして翌日もとの瀬田まで30km。そういうスケジュール。
 その詳細についてここで書こうと思ったのだが、もうね…。キツかったことしか印象にない。僕は当時サイクリストで体力には自信もあったのだが、体力よりなによりヒザ関節がやられ足が曲がらなくなった。足裏にはマメが出来ては潰れまた出来て。あんまり書いても面白い話は出てこないので止める。一日で100km歩くなんてそりゃもう大変だった。こういうのは「慣れ」もあると思うしコツもあるだろうし、日頃から歩いていればある程度は平気なのかもしれないが、僕にはとてもとても。
 それ以来、徹底した歩きの旅というのはやっていない。
 もっとももっと加齢して「毎日が日曜日」となったらやってみたいなとチラリと思ったりもする。自分のペースで。しかし、おそらく無理だろうな。四国八十八箇所巡礼などのお遍路さんは今でも完全徒歩の人が多い。すげぇなぁと思う。

 旅の移動手段には実に様々なものがあると思うのだが、徒歩に近いもので、以前ローラースケートで旅をしている人と出会った事がある。北海道でだ。これはなかなか格好いいと思った。しかし平坦な道でないと駄目なのでは、と思ったが、話を聞くと、昇りの道でもテクニックであがっていけるのだと言う。ははぁそうなんですか。こういうのは特殊技能の世界なのでとても真似出来ない。僕は実際に会ったことはないが、スケートボードで旅をしている人もいる由。どうやって峠を登るのだろう。

 さて、最初から最後まで徒歩というのはなかなか難しいが、もちろん旅先では徹底的に歩く。街歩きも楽しい。また、登山も旅の一形態だとすればそれは徒歩旅行みたいなものである。

 ここで、ヒッチハイクについてちょっと書いてみたい。
 ヒッチハイクとは、ご承知のとおり走る自動車等に頼み込んで乗せてもらって旅をすること。Hitch hikeであり、hikeと言うからには徒歩旅行の一形態であると言えるかもしれない。
 一時期「猿岩石」がTVで世界をヒッチで旅して話題になり、一時的に市民権を得て、ヒッチ人口が急激に増えた。最近はもちろんブームも去って下火だとは思うが、ヒッチハイクがなくなってしまったわけではない。僕も乗せてもらう側、乗せる側両方に立ったことがあり、内実はある程度知っているつもり。
 ちょっと堅苦しい話を先にするが、これには是非論がある。カヌーの野田知佑氏は「若いときは経験だ、大いにやれ」、ジャーナリストの本多勝一氏は「人に頼るな、自分で稼いだ金で旅をしろ」。双方の異なる意見はそれぞれに頷かせる部分があるのだが、僕は今は本多氏と考えを同じくしている。やはりこれは「甘えの構造」から成り立つ旅行形態ではないのか。
 一部の人のことなのかもしれないが、猿岩石以来ヒッチをする人のマナーが著しく低下しているとはよく言われる話。傍若無人な態度、「これこそ旅だ」と嘯き他の旅行手段をあざけるエセ「旅行の達人」、親切を仇で返す不逞の輩など、見ていて情けなくなったりする。
 僕の考えとしては、ヒッチはあくまでも緊急避難として活用し、基本的には自分で稼いだ金で旅をして欲しい。人の情けに頼って、しかもそれが当然という人が本当の旅行者と賛美されるのにはどうしても疑問が伴う。また昨今はいい人ばかりではない。乗せる側、乗る側両方に危険が伴う。

 そういったことを踏まえて、若かりし頃の甘えの構造の話をいくつか。まあ恥の話です。
 ヒッチハイクだけを手段として旅に出たことはないが、一度だけそれに類したことをやったことがある。
 学生の頃。ある日の朝僕に、東京在住の旅で知り合った友人から電話が入った。「明日旅の仲間で集まるんだけれども出てこないか」
 こういうことはもっと早く言ってくれれば金の工面もするのだが、その時はなんせ明日のことであり時間がなかった。それでも参加したいので、なんとかして行くわ、と返事をして財布を見ると、呑み代を引くと片道分しか交通費は捻出出来ない。キセルは犯罪であるし、僕はなんとかヒッチハイクで京都から東京まで行けないかと考えた。
 しかし国道に出て親指を立てたり、「東京」と大きく書いた紙を掲げたりしていてはいつになったら着けるのかわからない。僕はまず、知り合いが出掛ける際にちょっと同乗させてもらった。高速に乗るためにである。その人は隣県までしか行かないために、途中のサービスエリアで降ろしてもらった。さて、ここからが勝負である。
 待合に入ると、いかにも長距離トラック然としている人たちがたくさんいる。そこに勇気を持って話しかけてみる。「えっと、遠距離バスに乗って東京に行くところだったのですが、トイレに入っている間にバスが出ちゃって困ってるんです」
 こんなのミエミエの嘘である。バスが乗客確認もせず出て行くものか。ただこれで笑ってくれればしめたもの。もちろん最初は断られたが、何人かに話しかけていると、笑いながら「じゃ乗っていくか」と言ってくれた方がいた。ああなんと有難い。
 そして、僕は東京行きの長距離のおっちゃんに同乗させてもらうことが出来た。今にして思えば本当に無茶なことをやったものだ。僕は礼儀として自分が出来る限りの笑い話をして楽しんでもらうよう努めた。その方は本当に親切な人で、ごはんまで奢ってくれて無事東京に送り届けてくれた。
 今考えれば冷や汗ものである。若気の至りとは言え深く反省。本当に感謝しています。

 旅の途中で「乗っていくか」と声を掛けられ同乗させてもらったことはよくある。冬の寒い北海道や東北などで一人トボトボ歩いていると、車が止まってくれたりする。これは厳密には自分からアクションを起していないのでヒッチハイクとは異なるが、結果は同じことである。有難い。また、自転車で走っているときすら、雨に打たれたりしていると軽トラックが止まって「後ろに自転車乗せて乗っていけよ」と言われたことまである。世の中善人ばかりだなと思ったりする。古きよき時代の話。
 他にもいくつもヒッチをした経験はある。例えば知床での話。当時知床半島の西側であるウトロ方面に宿泊していて、そこから山中にある神秘の湖、羅臼湖に行こうという話で同宿者たちと盛り上がった。だが、そこへの入り口は知床横断道路を行き峠を少し越えた羅臼側にある。同行者はみんなバイク。僕は交通手段として自転車を持っていたが、標高738mの峠を越えてまだ少し行って…となると自転車だとキツい。それに時間もかかる。なので、横断道路の入り口まで行って親指を立てた。ここから先は一本道なので必ず誰かは止まってくれた。同宿者からは「サイクリストのくせにヒッチをするやつ」と呼ばれ揶揄されてしまった。いやはや。
 最高人数として、7人でヒッチをしたことがある。沖縄の西表島のことだ。こんな離島では、バスは走っていることは走っているのだが本数が極端に少ない。同じ宿に泊まり合わせた仲間と遊びに出かけたのだが、宿に帰るバス便を逃してしまった。そこでヒッチで宿に帰ろうと思ったのだが、7人じゃ無理である。どんな車もこの大人数を見れば止まってはくれない。
 7人のうち2人は女性である。なので、彼女らにやってもらうことにした。
「一人で運転してるバンが来たら手を上げてみて」
 彼女らは南国の島であるから当然露出度の高い格好をしている。そうしておいて僕ら男5人は陰に隠れた。
 作戦はピタリと的中し、ものの数分で大きなバンが彼女らの前に止まった。彼女らが「どこまで行くんですか」と尋ねて「船浦までなら行くよ。乗っていきな」と言う声が聞こえたとたん、むくつけき男どもがゾロゾロと「いやぁすみませんね」と現れた。
 これは一種の騙しだ。もちろん申し訳ないので断られたら引き下がるつもりだったが、一旦乗せると言った以上はもう女の子だけ乗せるとは言えなかっただろう。苦笑いをしつつ「みんな乗っていきなよ」と言ってくださった。
 これも若気の至りである。本当にごめんなさい。もうこんなずるいことはしません。
 
 そういう牧歌的な時代もあったのだが、今はなんだか事情も少し変わった。
 かつて乗せてもらう側であった僕は、それから車移動の際にはヒッチハイクの人を見れば出来るだけ乗せるようにはしていたが、事件なども多く何だか怖くなって今では躊躇してしまうようになった。時代が変わっちゃったなと思う。
 もちろん再び乗せてもらう側になどならない。別に金銭に困っていないし、今は携帯の時代で、バスを逃してもいざとなればタクシーだって電話で呼べるからではあるが、それよりだれがこんなむさ苦しい中年男性を乗せてくれるものか。

 次回に続く。
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聖域と出逢う 2

2007年08月24日 | 旅のアングル
 前回、三輪神社に本殿がなく、後方に聳える三輪山を神体山として拝している話を書いた。
 こういう神社はまだある。例えばあの御柱祭りで高名な信州の諏訪大社がそうだとされる。ここは四宮に分かれているのだが、上社前宮の御神体は本来守屋山であり、本殿は昭和七年に築かれたものである。また他もそれぞれご神木や磐座を祀っている。こういう形態は前回も書いたように古来の「神の依り代」を祀る神社の古い形を示しているらしい。埼玉の武蔵国二ノ宮、金鑽神社にも本殿は無い。昔は皆そうだったのだろう。
 僕の住む西宮市にもそういう所がある。西宮神社は、全国の「えびすさん」の総元締として高名であるが、その摂社に庭津火神社というのがある。ここには社殿がなく、後ろにある小さな森、そこにこんもりと塚のようなものがあり、神が宿る場所とされている。もともと社殿が無かったのか失われたのかはわからないが、「古い姿を残した神社」と説明されている。なんとも神聖な雰囲気だ。
 古来神社というものはまず、神が宿る依り代があり、その「場所」に対して手を合わせてきたと考えられる。そしてその神を拝するための「拝殿」が造られ、後にその神が天降る「場所」に、「神にも屋根付きの家が必要だ」という思想が生まれ、次々と「社」「祠」が作られ、それが重厚な本殿へと発展していったのだろう。
 ここらへん、僕の感覚と聞きかじりの薄い知識で書いているのでご了承願いたい。

 では何故、その神聖な空間に建造物を造るという現在の多くの神社の形態が生まれたのか。
 それはどうも仏教伝来に関連性があるらしい。
 それまでの日本の「神」とはどういう存在だったのか。よくそれはわからないのだけれども、結局アミニズムや祖先崇拝から発展してきたのではないか。そういう話を以前に書いたことがある。→天皇とは何か
 その土地の精霊、もしくは祖先を崇め、拝する。これはつまり「氏神」であり「産土神」である。そうして、その土地、村落でそれぞれ神を祀ってきた。その中心に、聖なる空間である場所があり依り代が存した。
 その後、日本はそれぞれの土地、村落を大和朝廷が統一する。そしてその朝廷には天皇を中心とした神道があり、八百万の神が居ると規定している。朝廷のバイブルである「古事記」「日本書紀」はそのように書く。そしてその神々に、各々の土地の神域は征服され、朝廷の支配するところ津々浦々まで「天照大神」「素盞嗚尊」「大国主命」「神皇産霊神」「国之常立神」「建御名方神」といった神々が祀られるようになっていく。朝廷は「一之宮」「式内社」という形で系統立ててゆく。
 さらに、朝廷には仏教信仰がある。日本の仏教は偶像崇拝であり、仏像を中心に据える。仏像を祀る社はきらびやかな寺である。その形態が神社にも導入されたとはよく聞く。そうして「神殿」が生まれていく。後には「神像」も作られる。
 後に「神仏習合」「本地垂迹説」も生まれる。「山王権現」「八幡大菩薩」と神々は呼ばれ、素盞鳴は牛頭天王に、大国主命は大黒天となる。こうなればもう神殿を造らないわけにはいくまい。
 さらに、神社は「氏神」「産土神」そして「八百万の神」を祀っているだけではなくなる。権謀術策の渦巻く政治の中「怨霊」という新たな信仰が生まれ、その鎮魂を神社が担うこととなる。これは「鎮守の神」という茫洋とした存在ではなく、はっきりとした人格を持っている。あちこちに天降って祟ってもらっては困るので、はっきりと神殿におわしてもらわねばならない。「封じ込めて鎮魂」の意味合いがある。どうしても神殿が必要となるだろう。

 ここからはさらに僕の個人的な感じ方になる。
 三輪山に登ったときにも感じたとおり、「神聖さ」というものは、僕はどうもその「空間」に感じる。決して社殿ではない。縄文的な感覚かもしれないが人造の社殿には「聖域」という空気が希薄なのである。こんなことを書いては怒られるかもしれないが、ビルの屋上にある稲荷神社には全然神様が宿る感じがしない。
 最近、神社というものを全て「怨霊」に結び付ける考え方が多いのだが、どうもあちこち回っていると「祟り抑え」としての神社は本来のあり方じゃないような気がしてくる。お前わかってない、との声が聞こえてきそうだが、もっと根源的な「畏れ」「敬い」というものがかつてはあったはずなんじゃないのか。

 「聖域」というものを最初に意識したのは、僕は沖縄においてである。この地は、大和朝廷とは長らく無縁で来たところだ。ここには「御嶽(うたき・おん)」という独特の祭祀場がある。
 初めて沖縄を旅したときは、若い頃であるしそんなこと何も知らずにやってきた。青い空と青い海ばかりを目指し、沖縄の信仰のことなどあまり念頭になかった。
 とある八重山の島でのことである。僕はただブラブラと散歩をしていた。沖縄は自分が住む関西地方などとは植生が全然違う。ガジュマルの木。クバの木。フクギ。ブーゲンビリア。森に入ると南国の木々が茂り、眩暈がするほどの旅情を感じていた。
 遊歩道からちょっと横道をそれた時、僕は初めて聖域と出逢うことになる。
 あまりにも濃い緑の森の中に、木漏れ陽の差し込んだ、ぽっかりと何もない空間が出現した。あれだけ木々が繁茂しているのにそこだけなにもなく、掃き清められたような場所。いや、何もないというのではない。小さな祭壇のようなものがぽつりと在った。だが、その祭壇の向うには何もない。僕は、何故かは知らないが背筋の伸びるのを感じた。涼やかな清らかな空間。なんの知識もなかったが、そこは神聖で冒すべからざる空間であると直感で感じた。
 それが御嶽だった。紛れ込んしまってはいけないものを感じ、僕は何故か会釈をしてそこを立ち去った。

 御嶽とは何かということを説明するのは難しい。行って出逢えばすぐに分かることであると思うのだけれど。 形態だけをとらえると、そこは基本的には神が天降る場所であるので、何もない空間であることが多い。僅かに拝むために使われる香炉があるだけ。もう少し整ったものだと、低い石垣などで囲われている。八重山や宮古などでは入り口に鳥居があったりする場合もあるが、これは明治の琉球処分以降のものであり本来あったものではない。
 その最も聖なる空間は「イビ(またはイベ)」と呼ばれ、空間だけであることが多いが、磐座があったり祠があったりする場合もある。だが祠も開け放たれていることが多い。中にはもちろん何もない。神の座するところであるから。そして回りは森である。たいていは木々が生い茂っている。
 
 最も有名な御嶽は、知念にある斎場御嶽(せーふぁーうたき)だろう。本来は限られた人しか入ることを許されなかった、沖縄で最高の格を持つこの場所も、現在は世界遺産に登録され、そのため観光客も押しかけるようになりずいぶん整備されている。それでも森閑とした雰囲気はまだまだ残っている。ここに入ると空気が緊張する様子を肌で感じることが出来る。聖域なのだ。
 この斎場御嶽の最奥部にある三庫理(さんぐーい)からは、海の向うに浮かぶ久高島を遥拝するようになっている。この最高格の斎場御嶽が仰ぎ見る場所がまだあるのだ。その久高島とは、琉球の島々の創成神であるアマミキヨとシネリキヨが天降った沖縄開闢神話の原点とも言うべき島で、島全体が聖域みたいなものである。
 僕は以前この島を訪れたことがある。

 かつて、12年に一度の祭祀「イザイホー」で高名だった久高島だが、その祭りも途絶えて久しい。だが、島自体はずっと聖域のままである。島中に聖地が点在している。その中でも最高の聖地と呼ばれるのが「クボー御嶽」である。琉球の七大御嶽のひとつであり、島の中心に鎮座している。
 僕は港から歩いて行った。集落にも至る所に聖地がある。その集落を抜け、美しい海も見つつ畑地を過ぎ、徐々に森が深くなりしばらく行ったところにそのクボー御嶽への入り口があった。
 もうその入り口に立つだけで何か背筋が伸びるものを感じる。雰囲気が、気が強すぎる場所である。その入り口は木々が繁茂し正にみどりのトンネル状態で、その奥に聖域があることは感ぜられるのだが、その姿は垣間見ることは出来ない。
 と、僕はここまでしか行けないのである。その先は男子禁制の場になっているのであるから。
 同行していた妻に、「中に入って拝んできて」と僕は一応言ってみる。ただ妻は感受性の強い人でそういう霊場などには一切出入りしたがらないことはわかっていた。
 だが、妻は「行ってみる」と言う。もう見るからに畏れ多いこの場所にである。僕は驚きを隠せなかったが、行くというのに止めることもない。僕は入り口で待った。妻は溢れる緑の中へとひとり入っていった。

 しばらく経った後、妻は普通に戻ってきた。駆け戻ってくるかと思っていたのに。
 「中にね、まあるい広場があった。そこには何も無かったよ。道は暗い感じで怖かったけど、その広場はふんわりと明るくて、木漏れ日で綺麗だった。拝んできたよ」
 「どんな感じだった?」
 「えーっとね、トトロの森みたい。やさしい感じがしたよ」

 後に、妻が撮ってきた一枚の写真を見た。その森の中に突如として現れる円形の広場は、確かにトトロの世界に似ている。
 「となりのトトロ」では、妹のメイが小さなトトロを追いかけて、自分の背丈ほどの低い緑のトンネルを走り、そして大木のムロの中へ落っこちて、そこで大きなトトロと出逢うシーンがある。その大トトロとメイが出逢った森の中の明るい空間に確かに似ている。
 聖域とはこういうものなのか。
 畏れは確かに必要だが、そこは本来自分を護ってくれる神が天降る場所なのである。神秘ではあるが怖いものではない。不敬な振る舞いは確かに禁物だが、我々を温かく迎えてくれる場所であるはずなのだから。僕は必要以上に緊張していたのかもしれなかった。「聖域」の一種の究極の形がそこには在った。
 ※現在久高島のクボー御嶽は関係者以外立ち入り禁止となっている。この話はずいぶん以前の話であることを付け加えておく。

 こうして、僕は沖縄に魅せられ、時々出掛けては沖縄の聖地をあちこち拝んで回るようになった。聖域に巡り逢うと、身も心も浄化される思いがする。その感覚こそが、信仰の原点であるような気がする。気がする、に留めておきたいとは思うが。あくまで僕の個人的な感覚であるが故に。
 昔は、本土の聖地もこういうものだったのではないだろうか。村々には「鎮守の森」があり、そこには土地の霊や祖先霊が集う。その場で、人々は豊作や健康を願う。人々は神が天降る空間である「聖域」を大切にする。穢れなきように。ちゃんと降り立ってくれる場所を守るために。
 現在の神社は、その場所に神殿が建つ。何故神殿が建つようになったのかについては前述したような事だと思うが、神殿があればいいというものではない。その「場」をいかにして守っているかが重要であるような気がしている。
 かつては本土の聖域も、その空間を大切にしていた。原始的信仰形態が残るとされる三輪山はその最たるものだが、三輪神社の近くにはやはり古い神社である石上神宮がある。
 この古代豪族の物部氏が長らく祭祀してきた歴史ある神社にも、かつては本殿は無かった。拝殿の奥は聖地とされ、「布留高庭」と呼ばれた、瑞垣で囲まれる禁足地だった。まさに「聖域」を伏し拝んできたのである。
 この聖なる禁足地に本殿をおっ建てたのは、明治以降である。明治政府が生んだ「神祇官」という組織は、あの廃仏毀釈をやったところだが、批判してはまたこちらも「分かったようなことを言うな」と言われそうなので差し控える。が、この聖域に神殿を建てる行為は、禁足地を踏み荒らしたことにはならないのか。歴史と伝統を重んじた行為だったのだろうか。疑問にも思う。
 
 「聖なる空間」ということに拘りすぎかもしれないが、あくまで僕の感じ方である。京都の山の奥、貴船神社の天の磐舟や御船形石には実に聖なるものを感じる。隣の鞍馬寺の奥の院には魔王殿と呼ばれる聖域がある。ここには650万年前に、金星から魔王尊「サナト・クラマ」が降臨したという物凄い伝承があるのだが、その聖域は磐座である。もっとも現在は磐座の上に祠が乗せられているが、拝殿の奥を覗き見るとなんとも畏れ多い場である。気がビンビンする。サナト・クラマの真偽はともかく、何かはここに降り立ったのだ。そういう空間である。
 神殿を建てない方がいいと思っても、もう既に神社という存在は長い歴史を持ち、今更何を言うのかということだと僕も思う。しかし、神社の神殿は聖域に建てられているのだということを忘れることは出来ない。
 日本神社の総元締めである伊勢神宮は、二十年毎に神殿を建替える「式年遷宮」が行われていることはよく知られていることである。この謂れについては書いてもいられないが、参詣された方はよくご存知のことであると思う。20年ごとに内宮、外宮の全ての社殿(別宮も含め)を建て替え、隣の更地に遷す。この意味合いには様々なことがあるのだが、社殿が壊され新たに隣地に建てられたあと、その跡地は「古殿地」としてまた20年後を待つ。僕はこのなにもない空間である「古殿地」を見る度に清浄なる空間とはこういうものかと言う感を覚える。かつてここに神がおわし、また幾年か後に神を迎え入れる空間。何も無い清浄の極みであるこの空間にも聖域の原点が見えるような気がする。

 結局、神社の本殿が建っているのはどこなのか、ということに尽きる。それはやはり聖域に建っているのである。だから、その聖域は守らなければならない。では聖域とはどういうところか。それは神が「天振るに値する」場所だということになろう。
 その条件とは、やはり僕は森(杜)じゃないのかなと思う。ビルの屋上の稲荷もいいが、何か無機質な感じがする。木々が生い茂る涼やかな場所。それこそ神がやってくるに相応しい。
 僕の住む場所にある西宮えびす神社にも森は存在する。本殿の後背は鬱蒼と繁った森であり、そこには我々は立ち入ることは出来ない。その森があるからこそ、神が天降る条件が整う。昔から「鎮守の森」と言うではないか。
 開発の魔の手は、聖域から木々を奪う。神社はいつの間にかビルの谷間に埋もれてしまう。あれでは神がどこに天降っていいのかわからなくなるのではないか。
 紀伊の巨人、南方熊楠は、明治のあの国家神道の時代に、神社合祀反対運動を起した。政府による「一町村一神社を標準とせよ」という強引な政策により神社が統合され、鎮守の森である森林の伐採が実行されようとしたとき、熊楠は敢然と反対運動を行った。もちろん熊楠は科学者であり、研究対象である植物や菌が絶滅するのを恐れたのが理由だが、地域住民が祭祀対象としてきたものが失われるのを嘆いている様子をも見ていたに違いない。熊楠は後に神社宮司の娘さんと結婚しており、民俗学者柳田國男とも親交があった。
 
 偉大なる南方熊楠はもういない。そして、今も昔も畏れを知らない人間は居る。沖縄の斎場御嶽は世界遺産となったことで整備が進み、むしろ森林の荒廃が嘆かれている。それもそうだが、この小石ひとつ持ち帰ることは許されない聖地で、香炉を盗む不逞の輩が現れたという事件。その後斎場御嶽は警備が強められ入場が有料になったと聞く。そのうち看板と柵だらけになり聖地の趣は消えてしまうに違いない。
 そして、あの久高島のクボー御嶽でまた、神木を無断で伐採されるという事件も。そしてクボー御嶽は立ち入り禁止となった。本当に情けない。
 沖縄だけではない。和歌山の丹生都比売神社(ここも世界遺産だ)で神木に穴を開け除草剤を注入するという猟奇的犯行。なんなんだいったい。昔から寺の仏像を盗むという畏れを知らない事件はよくあるが、あれはまだ美術品盗難ということで理由が分かる。しかしこういう事件は全然理由が分からない。
 聖域の敵はこれら阿呆ばかりだけではない。もっと大きな「開発」という魔物も居る。皆「聖域」というものに対する感覚が違うのだろうが、もう少しなんとかならないのかと切に思う。そしてまた、いつ失われてしまうかもしれない聖域に出逢うためにまた僕は旅に出ようとも思うのである。

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聖域と出逢う 1

2007年08月19日 | 旅のアングル
 先日、久々に奈良は桜井にある大神神社(三輪神社)の神体山である三輪山に登頂してきた。ここに登るのは約8年ぶりのことである。
 この三輪神社、大和国(現在の奈良県)の一宮であり、日本で最も古い神社ではないかと言われている。こういうことの真偽などはもちろん分からないけれども、そう言ってもちっともおかしくないくらいに古い。その証明とも言うべきことのひとつに、この神社はこれだけ社格が高い神社でありながら本殿を持たない。
 普通日本の神社というのは、神がやどる(依り代とする)本殿を中心として、その前に拝殿があり本殿に居る神を伏し拝むのであるが、この神社はその依り代が後方に聳える三輪山なのである。その三輪山に神が天降(あも)る。三輪山が本殿であり神体そのものなのである。
 こういう形態は、日本の原始宗教とも言える形態であるそうなのである。かつて日本の原始信仰は、木々や磐や滝などに精霊が宿るという言わば「アミニズム」であったと考えられている。その形態を色濃く残しているわけだ。
 もちろんかつて、この神体山である三輪山には人は入り込むことは許されなかった。僅かに特別の場合に(旱魃などの時の雨乞い等)入山がなされたと聞く。今では、三輪神社から山之辺の道を辿ってゆく隣(?)の狭井神社に入山口があり、時間を限って住所、氏名などを明記の上、襷を掛けての入山が許される。誰でも入れるようにはなったのだが、もちろん往復とも指定された一本の登山道を上下する以外は許されない。山中には多くの禁足地があり、何人たりともそこへの侵入は厳禁である。
 
 夏の暑い日の午後、僕は許可を得て入山した。暑い。既に汗が滴り落ちている状況である。入山口にある「入山者の心得」(汚すな・食べ物を持ち込むな・写真撮影はダメ)などを見つつ足を踏み入れる。
 一歩山に入ると、木々が生い茂り陽光は届いてこない。気持ちだけでも涼やかである。木漏れ日が斜光線状に道を横切り、幻想的な風景とも言える。急坂のあと道は沢沿いとなる。
 ここにひとつ磐座(いわくら)がある。巨石を断ち割ったような形態の中に小さな空間があり、注連縄が張られている。実に神聖な雰囲気。思わずこうべを垂れる。
 磐座と言うのは神が天降る依り代である。三輪山には山中にこういう磐座がいくつもあると言われる。代表的なものに「奥津磐座」「中津磐座」「辺津磐座」と呼ばれる三箇所の聖地である巨石群が存し、それぞれ大物主神、大己貴神、少彦名神を祀るとされている。この山道は山頂にある奥津磐座を目指しているわけである。
 ただ、中津磐座と辺津磐座についてははっきりとした案内はなされていない。中津磐座は中腹にあると言われているが、辺津磐座は山麓にあると言われている。
 
 三輪神社の拝殿は、前述したように三輪山山麓にある。この拝殿の奥は当然禁足地であり、そこに辺津磐座が存在するのではないかと言われている。しかし、詳しいことは分からない。
 以前、拝殿に昇らせてもらえる機会があった。その時、僕は不敬だと知りつつこっそりと拝殿の奥を覗き込んだ。
 そこには、重要文化財である「三ツ鳥居」が存する。「古来一社の神秘なり」とされたこの三ツ鳥居は、明神形式の鳥居(鳥居の一番上の横棒が笠のように覆いかぶさっている形式)の両側に、やや小型の脇鳥居が組み合わされていて、つまり柱4本で三つ鳥居を造って並べたような形である。特殊なものだ。
 鳥居というのはくぐるためにあるのが普通だが、ここの鳥居はそうではない。脇の二つの鳥居は塞がれていて、横に伸びる塀(瑞垣)と一体化している。そして真ん中の本鳥居の入り口には御簾が掛けられている。そのとばりの内側には扉があるらしい。この扉は一年一回、元日の繞道祭でのみ開かれるという。
 その鳥居の上部に開く隙間から奥を覗くと、なんだか右側に建物が見える。校倉造みたいだ。あれが噂に聞く宝物殿(神庫)なのか。だがはっきりとはわからない。見えない部分に磐座が祀られているのだろうか。背伸びしてもわからない。ここは絶対の禁足地なのだ。
 
 そういうことを思い出しつつ山道を歩く。山道の脇を流れる沢はやがて尽き、そこに水行場がある。小屋があり、その奥に小さな滝が設えられてある。「三光の滝」だ。そこで水行が出来るようになっている。
 以前ここを訪れたときに、水行真っ最中の方々を見てしまったことがある。「見てしまった」と書いたが、小屋の扉を開けるとそこで女性二人(巫女さんか)が何かを唱えながら(祝詞か何かは聞き取れない)水を浴びていらっしゃる。神聖な行事を覗いてしまった後ろめたさのようなものを感じ僕は足早にそこから離れた。
 水場を離れるともうひたすら山中を登りである。厳しい。以前来たときはもう少し余裕があったと思ったが、やはり年齢か。息が上がる。
 しばらくゼイゼイ言いながら登ると、山の斜面に巨大な磐座が現れる。巨木に囲まれ大きな岩がゴロンゴロンと重なり合い、周りには結界の縄が張られている。実に神聖な光景である。ここが「中津磐座」であるのか。ただ、そういう案内は全くされていない。そうかもしれない、と思うだけである。
 磐座とは何か。僕には神道的解釈も学術的解釈もよく勉強していないのでわからないけれども、感覚として、巨石ないしは石群にはなにやら神秘的な香りがするのは確かだ。僕にも古代人のDNAは確実に受け継がれていると思う。また感覚で言うと、岩自体が神であるということではない。ただ、そこに神が降りてくる可能性のある場所であるというのは何となしにわかる。多分祈れば降りてきてくれるのだろう。だから、その聖なる場所は穢してはならない。神の座であるから。禁足にするのも理解出来る。
 日本各地にこういう巨石信仰は存在する。僕の住む西宮市には「越木岩神社」というのがあり、やはり巨石を祭祀している(HP)。ここはなかなかに凄い。確かに神聖さを感じる。
 話がずれてしまうが、「神が天降る」と感じられる場所は、巨石だけではない。巨木や泉、滝などにもそういう神聖さを感じることがある。屋久島の縄文杉などは正に神の木だ。摩周湖や那智の滝もそうだろう。結局はその神聖さを感じる「場所」がすなわち神座で、究極のところはそれは「何もない空間」ではないかと思うのだが、ちょっと話が進みすぎた。

 「中津磐座」ではないかと思われる場所を過ぎてもまだ急な坂は続く。暑さによりどんどん体力は失われ、ヘトヘトである。休み休みでないともう無理だ。ただ、山の木は非常に繁茂していて、直射日光が当たらないのが救い。この「森の深さ」が静寂を生んでいる。
 しかし厳しい。そもそも、登山道というのは傾斜をやわらげる為にジグザグに刻まれている場合が多い。だが、三輪山は稜線を一直線に進むのだ。少しでも山を傷つけない配慮であり、足跡を減らすためであろうとは思うが、登攀には辛い。
 その木々の間から少し空が見えるようになってくる。頂上が近いのだろう。道もようやくゆるやかになり、視界が広がる頃、高宮神社の祠が姿を現す。あまり大きな祠ではないが、簡素な造りに神聖さが浮かび上がる。祭神は日向御子神。不思議なのは、建っている場所は平地なのだが、そこに穴を掘るように窪みが築かれ、その中に鎮座している。これは濠なのだろうか。よく分からない。まずは参詣。
 その高宮神社の後方、歩いて5分くらいのところだろうか。「奥津磐座」にようやく辿り着いた。
 広さは…一周すると100mには満たないかなぁ(よくわからない)。注連縄で囲まれている。当然禁足だ。そこに大小の磐が重なり合い鎮まっている。ピラミッド状ではなく、上部は平坦、とまでは言わないが岩々で舞台を造っているかのようだ。この上に神が天降るのだろう。聖域、という言葉に相応しい神々しさを感じる。陳腐な表現ではあるが、思わず平伏したくなる。
 この磐座の上に祠でも建てようものならもうブチ壊しだろう。その磐の上にある「聖なる空間」が神秘さを増しているのであるから。大神神社によれば、ここに「大物主神」がおわすらしいのであるが、おそらく大物主神という「国つ神」のトップがここに祀られる以前からここには磐座はあったのではないか。大物主神は大国主神であり大己貴神と同形であるが、大己貴神は中津磐座に祀られている。磐座を後に国つ神のトップに比定したのではないか。もちろん僕は神道のことなど門外漢でありこんなことを書いてはいけないのだが、感覚的にそう思う。
 国造り神話は古事記、日本書紀に書かれてあるが、それ以前の原始的な信仰の姿がなんだか見えるような気がする。三輪山がはっきりと大物主の山になったのは、もしかしたら不比等以降の事であるのかもしれない。それ以前にもずっとこの山には神が天降っていた。あえて言えば、大物主とは「おおいなるもののけのぬし」であり普通名称であるようにも思う。
 いい加減な妄言を書いてしまった。もちろん決して茶化すつもりではない。それほどこの磐座には特定の人格(神格)を超えた何かがあるような気がする。
 拍手を打ち合掌し、その磐座を去る。

 下りもなかなか厳しい。急坂のせいだ。ヒザに古傷を持つ僕には多少堪える。それでも重力に逆らわないぶんだけマシ。そうしてもとの狭井神社に帰って来た。
 厳しい暑さのせいでもうフラフラである。神社に襷を返して神奈備への参詣を終える。
 狭井神社拝殿の脇に神水が湧いている。この「薬水」が湧く井戸があることから「狭井神社」であるわけだが、この神水を思わずガブ飲みしてしまう。飲んだしりから汗となり身体を伝う。薬効のある聖なる水であるはずだが、こうもガブガブ飲んでは効力も期待出来まい。

 以上が三輪山登山のあらましだが、この「聖域」というものについてまたいろいろ考えてしまうことになった。次回に続く。
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日本のはしっこを歩く 3

2007年01月18日 | 旅のアングル
 前回の続き。

 さて、最○端と呼ばれるところは数多くある。おおまかに日本には北海道、本州、四国、九州とあって、それぞれに最○端がある。これもはしっこははしっこなのだが、どちらかと言うとマニア向けだろうかと思う。こういうところへ行こうと思う人はやはり好事家だろう。

 北海道は、もちろん最北端は宗谷岬、最東端は納沙布岬であるが、最南端となると思い浮かばない人もいるのではないか。地図で見れば簡単だが、渡島半島の白神岬である。江差や松前ともなると観光地だが、白神岬となると訪ねる人も少ない。いちおうちゃんと北海道最南端の碑は建っているが、記念撮影をする以外にやることがない。もう目の前は津軽の竜飛岬であって、実に値打ちがない。
 最東端ともなると、もう行けない所である。北檜山町と熊石町のちょうど境にある尾花岬がそうだが、そこまで行く道がないのだ。船をチャーターするか、登山装備でもないと無理。従って僕も遠望しかしたことがない。道道北檜山大成線が開通すれば行ける様になるが、いつになることか。
 もっとも、都道府県で言う北海道としてみれば、最東端は奥尻島の北追岬となる。ここも未踏。

 さて、本州である。
 最北端は、青森は下北半島にある大間崎である。ここに行ったのはもう20年も前になる。青森市内から列車、バスを乗り継ぎ一日がかりだった。どうしてそんなにまでして最○端に行かなければならないか疑問を感じ出した頃である。今は大間と言えばマグロで有名だが、その頃はさほどでもなかった。「本州最北端」の碑が建つ他は特に何もない漁村であったが、YHが一軒あり泊まった。ただ何もないとは言え夜に偶然夏祭りに遭遇し楽しかった記憶がある。念のため検索してみたら、今はマグロのおかげで結構観光地となっている様子。
 最東端は、岩手県宮古市にある重茂半島の先端、魹ヶ崎(とどがさき)である。
 ここはなかなか行き応えのあるところだ。交通機関がない。最寄の駐車場から遊歩道が伸びているが、歩いて一時間で行けるだろうか。結構山道である。最東端の碑は自然石にはめ込まれた形でなかなかいい。おそらくはしっこめぐりをしている人でないと行かないだろう。でも値打ちはある。
 最南端はご存知和歌山県潮岬だ。ここは観光地である。展望タワーの前は広々とした芝生になっていて、最南端の碑が建っている。しかしながらそこに立つと、その先に岩礁がのびているのに気がつく。あそこのほうが最南端だろう。なのでその岩礁に行ってみた。磯釣り用に足場があるが、ちょっと危険かもしれない。あまり薦められないが、いちおう先まで行ける。はしっこマニア向けだろう。
 最西端となると、さらにマニアックになる。場所は山口県の毘沙ノ鼻。何がマニアックと言って、その場所である。毘沙ノ鼻に行くこと自体はさほどでもない。国道から「本州最西端 毘沙ノ鼻」と標識も出ている。そこは小公園になっていて最西端の看板もある。しかし、本当の最西端はそこではないのだ。隠れた最西端がある。なんと最西端の碑は、その崖下にあるゴミ処理場の敷地内にあるのだ。まず処理場の受付に行き許可が必要。そして坂を下ると、フェンスの向こうの岩礁にちゃんと本州最西端の碑が建っている。ここが間違いなく最西端だ。フェンスを乗り越えることは危険であり御法度なのだが…まああまり詳しく書かないことにしよう。ここは本州最東端とならんで値打ちがあるなあ。なんとなしに秘密の場所っぽいし。

 さて、四国。ここで東西南北を意識して歩く人などほとんどいないのではないだろうか。マニアだけだろう。
 最北端は香川県の庵治半島にある竹居観音崎。庵治町は最近「セカチュー」のロケ地として有名だが、最北端に来る人はそうはいない。一応碑のようなものはある。実際には小豆島とかのほうが北だけれども、それを言い出すとキリがない。
 最東端は徳島県の蒲生田岬であるが、ここでは碑らしきものは見当たらなかった。マイナーなのだなあ。
 最南端は四国東西南北で最も有名な足摺岬である。ここは別に最南端で売っているわけでもなくジョン万次郎の銅像が立つ。四国最南端の碑は見つけられなかったなぁ。よくわからないのだけれども、最南端の碑は沖ノ島にあるという話だが未踏。
 最西端は四国佐田岬である。ここもまだ未踏だなあ。四国はついおざなりになる。

 九州で重要なのはまず最南端。鹿児島は大隈半島の佐多岬である。「本土最南端」であり、日本縦断などでは宗谷岬と並ぶ「聖地」であるのだが、ここは実に行きにくいところなのである。徒歩や自転車では到達出来ない(公式には)。詳細は「旅の宿 野宿」に書いたので出来れば参照していただきたい。
 同様に九州には「本土最西端」もあるはずなのだが、ここはまた難しい。公式には長崎県の神崎鼻である。しっかりとした最西端の碑が建っている。それで文句はないはずなのだが、ここまで来ると目の前に平戸島がでーんと見える。島は考慮に入れないであくまで「本土最西端」にこだわればいいはずなのだけれど、この平戸島は橋で繋がっているからなんとなく釈然としない。歩いてでももっと西に行けると言うことでこの「最西端の碑」の値打ちを下げているようにも思う。難しいな。
 九州最北端がどこか実はよく知らない。ここらへんまでくると相当にいいかげんである。というのは、地図で見れば北九州は門司の田野浦であることはわかるのだが、ここいらへんは埋立地なのである。関門海峡に面したところでありその近くへは行ってみたのだが立ち入り禁止のところもあり、ウロウロしただけで終わった。九州最北端なんて訪ねる人はマニアだけなんだろうなあ。埋立地を「本土」と言っていいのかもわからず、定義すら危うくなってくる。
 最東端は大分県、佐伯の街に近い鶴御崎である。ここは道案内もしっかりしており、九州最東端として「ミュージアムパーク鶴御崎」なる公園が設けられていてちゃんと九州最東端の碑もある。しかしこの公園は入場料がいる。九州は南と東が有料なのだ。

 さて、沖縄最北端は辺戸岬で…もうここいらへんで止めようか。

 最東端とか最西端とかで話題になるのは、他に「駅」がある。鉄道で旅をするひとはこれが重要かもしれない。
 日本最北の駅はこれは北海道稚内駅であって、誰も異論を挟まない。正しく「最果ての」駅である。風情ありますね。
 最東端はもちろん列車の終着根室駅、と思うのが普通だが、ここが最果てであったのは昭和36年まで。根室本線は根室駅に入る前にぐっと東へ走り、ヘアピンを描くように入る。そのヘアピンの突端に無人駅「東根室駅」が出来ている。ここが現在の最東端。ちゃんと最東端の駅の標柱が建つ。しかしこの駅は廃駅の噂も聞き、そうなると根室駅が返り咲くことになるのだが…。
 さらにウンチクになるが、かつて「根室拓殖鉄道」という軽便鉄道があり、根室の市街から東へ向かって伸びていた。根室半島を走る列車で終着は歯舞。これが最東端の駅だったが、昭和34年に廃線となっている。
 最西端は、従来は国鉄松浦線の平戸口駅だった。ところが現在はこの松浦線は第3セクター松浦鉄道となり、JRの最西端は佐世保駅となった。佐世保駅には最西端の標柱が建っている。しかし平戸口駅はたびら平戸口駅として健在で、なんだか本家争いみたいになっている。
 最南端もややこしい。JR最西端は指宿枕崎線の西大山駅であるが(もちろん最南端の標柱が建つ)、手前の山川駅も「日本最南端の有人駅」の標柱を出している。ややこしいな。
 ところがそのややこしさを一気に覆す出来事が起こった。数年前に沖縄にモノレールが開通したのである。モノレールは果たして鉄道の範疇なのか? という疑問もあるのだが、軌道法では「胡座式鉄道」であり、駅もちゃんとあるのでこれは鉄道の範疇だろう。そこに最南端駅「赤嶺駅」と最西端駅「那覇空港駅」が出来た。ちゃんと石碑まで作ってアピールしている。僕も好き者なのですぐに沖縄に行って両者を撮影してきた。かつて戦争が終わるまであった沖縄県営鉄道の栄光を取り戻したとも言える。

 もう少し書きたいことも多いのだが(日本最高地点の話とか)、長くなりすぎたのではしっこの話を終わる。

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日本のはしっこを歩く 2

2007年01月14日 | 旅のアングル
 前回の続き。

 日本最西端の地。それは与那国島である。ここは日本の正真正銘の最西端である。前回書いたように、日本の東南北のはしっこはそれぞれ曰くつきでもある。現状でもそれぞれ弁天島(北)、南鳥島(東)、沖ノ鳥島(南)であり、北方領土との兼ね合いもある。実際、普通に旅をしていれば行けない所ばかり。しかし与那国島だけは、公共の交通機関を使って誰もが訪れることが出来る。
 場所は、石垣島から西方124km。台湾までは111kmであり、正に「国境の島」だ。かつては怪力無双の巫女として君臨したサンアイ・イソバによって統治されていた独立国。後に琉球王国に併呑され琉球処分により日本となったが、地勢的に台湾に最も近く、第二次大戦後の米軍統治も経ているので、独特の文化がある。ついこの間まではカイダ文字と呼ばれる象形文字も実際に使われていたらしい。神秘の島である。

 近頃は与那国島もメジャーらしい。例の海底遺跡の発見によりメディアでもしばしば登場する。また僕は観ていなかったのだがドラマ「Dr.コトー診療所」の撮影地にもなってロケ地めぐり観光も増えている由(富良野や尾道みたいなもんだな)。
 僕は与那国島には一度しか行った事がない。それはもう21年も前のことである。なので少しズレたことを書いてしまうかもしれないが了承していただきたい。
 与那国島に行く手段としては、もちろん飛行機がある。石垣からだけではなく那覇からの便もあるし、たいていの人はこれで行くだろう。しかし21年前の僕は当時学生であり、貧乏旅行で飛行機などとんでもなかった。船だ船(笑)。石垣島から船が出ている。今では週二便、ということになっているようだが、当時は「だいたい4日に一便」というアバウトなものだった。
 ところがその船がなかなか石垣島を出航しない。僕が行ったのは3月だったのだが、どうも荒れた季節だったようである。与那国へは外海を行くため、石垣から西表や石垣へ行くのとはちょいと様子が違うようだ。海が荒れてずっと出航を延期していたらしい。
 しかし、それも一週間ともなると「島に物資が不足する」という事態になっているらしい。そこで「ちょっと無理をして出航」という運びになった様子。石垣島で与那国島行きの船待ちをして、ずっと呑んだくれて滞在していた僕はこれ幸いとその船便の切符を買った。しかし船会社の窓口のおばちゃんは「海が荒れる中無理やり行くのです。相当揺れますよ。大丈夫ですか?」と念のため聞いてきた。僕は船酔いなど全くしたことのない人間であるし、そんなの大したことじゃあるまい、とタカを括って「大丈夫大丈夫。チケット頂戴」とお気楽に乗り込んでしまったのである。
 乗ってみて驚いた。いちおう「フェリー」という名目であったがかなり小さな船である。つまりこれは貨物船なのだ。乗客のスペースは、まあ20畳くらいのもんだっただろうか(記憶であり正確ではない)。狭い座敷だ。その中に乗客が20人くらいである。みんな肩寄せあってという風情である。出港は朝9時。時刻表によると15時半着ということになっている。6時間半の船旅だ(現在は4時間くらいで行けるらしい。船のグレードが上がったのだろう)。

 船は定刻に出港した。港を離れ外海に出ると、驚くほどの揺れである。文章でこの揺れを表現できるかどうかよく分からないが、外海に出てしまえば船はまあ枯葉の如き存在だった。ローリング(横揺れ)とピッチング(縦揺れ)が激しく同時にやってくる。大きな「8の字揺れ」をしているとでも言えばいいのだろうか。船室に座っていたのだが、座ることすら覚束なくなってきた。みんなダルマのようにゴロンゴロンとひっくり返ってしまう。立つことなどとても出来ない。
 乗客の顔が全員青ざめた。船酔いが襲ってきたのだ。三半規管がここまで苦しめられた経験などない。僕の、船の揺れなんぞたいしたことないという自負は木っ端微塵である。
 そのため、ちょっとこういう場では書けない惨状が船室内で繰り広げられた。簡単に言えば全員「嘔吐」なのだが(読みたくない人は飛ばして下さい)、金盥が用意されているものの全員分ではない。トイレは(簡易トイレだったが)船室にはなく別のところにある。なので、そりゃヒドいこととなった。
 サトウキビ刈りの援農目的で乗船していた筋肉自慢の兄ちゃんはたまらず船室から這い出し、波洗うデッキで海に向かって吐いた。船員さんの「外に出ちゃいかん! 危ない! 」という制止の声に「俺は力があるから大丈夫だぁ」と叫び返しながら吐いている。
 女の子が三人乗っていた。その子たちはどこかの大学の旅行研究会だったかの人だったのだが、さすがに面前で吐くのは恥ずかしいと思ったのだろう。必死でトイレにまで向かった。だがトイレまでには階段があり、揺れが激しくてなかなかたどり着けない様子。「キャー」という声が何度も聞こえる。ひっくり返っているのだろう。気の毒に。
 しばらくして、アタマを抱えて丸くなって寝ている僕の上にドスンと重いものが降ってきた。衝撃に思わず見上げると、トイレから帰ってきた女の子が僕の上に乗っかっている。揺れで転んでしまったのだろう。僕は青春真っ盛り、普通なら女の子が乗っかってきて嬉しいところだが今はそれどころではない。その子はゴメンナサイを繰り返し立ち上がろうとするのだが再び揺れてまた降ってくる。何度もヒップドロップをお見舞いされて相当ダメージ与えられてしまった。
 ここに書いていることは誇張ではない。凛太郎はいつも話にオヒレを付けすぎるとよく言われるが、これは本当の話である。さながら地獄絵図(これは言い過ぎかも)であった。

 船はエンジントラブルもあった様子で、大いに遅れて夕刻17時過ぎに与那国島へと到着した。あの狭い大揺れの船室で結局8時間である。外へ出てもまだ身体がグラグラと揺れている。三半規管がやられ、平衡が保てなくなってしまったのだ。そうしてようやく日本最西端へと足跡を残すことが出来たのだ。ふぅ。

 翌日からは与那国観光である。もちろん、西崎(いりざき)には日本最西端の碑が立っている。ここに立つことが目的だったのだ。船旅で苦労したこともあり、実に感慨深い思いにとらわれた。西方には台湾がある(この日は見えなかったが晴れた日には望めるらしい)。そして遥か東方を見て、日本で自分が一番西の地にいると思い悦に入ってしまう。まあ暫しの満悦感である。
 景勝地も史跡もこの島にはたくさんある。久部良バリ等島の悲しい歴史。軍艦岩や東崎等の景勝地も多いが、やはり島の歴史というものが迫ってくる。風景もなんだか厳しい。もちろん牧歌的な牧場風景もあるのだが、それ以上に「孤島」のイメージが強い。八重山諸島(石垣島や西表島、竹富島)を巡っていた時には感じられなかったものである。この島は「どなん」と呼ばれていた。つまり「渡難」である。ここは与那「国」。ひとつの国なのだな。

 呑んべの僕は泡盛が大好きである。この島にも酒造所が三軒ある(この島の規模でこれはすごいと思うが)。そのひとつである「国泉泡盛酒造」を訪ねてみた。
 与那国島といえば「花酒」。この島は日本で唯一60度のアルコールの製造販売が許されている島。本来は、乙類焼酎のアルコール度数は45度以下と定められているのだが、これは特例措置である。本土復帰の時に島の経済振興に配慮した結果であると言われているが、事情の詳細はよく知らない。もちろん泡盛なのだが、酒税法上「泡盛」と名乗れないので「花酒」と呼ばれる。
 で、工場見学させてもらった。工場と言ってもごく小さな酒造所である。ひとわたり見させていただいたあと、試飲をさせていただいた。花酒は60度なのだが、ここにはモルツがある。
 「72度なんですけれども呑みますか?」はいはいもちろん呑みます。
 一口含んで…嚥下出来ない(汗)。強烈。火を噴く、という表現があるけれども、口当たりは滑らかで美味いのだ。もっとピリピリくるかと思ったけれども。しかし喉に通すとなると…思わずむせてしまった。口中が燃えるよう…ではなくかえってひんやりする。そうかこれはアルコール消毒と同じ現象だな。おそるべし花酒。しかし美味い。

 夜は民宿で酒盛り。呑んだくれてまた翌日は島を歩く。そんなことをいつものように繰り返して与那国を堪能した。独特の雰囲気のある島だが、訪れる価値がある。
 帰りの船は、うそのように波が凪いで揺れもほとんどなかった。離れていく島を船上で見ながら再訪を誓ったが、未だそれはなしえていない。また行きたいなぁ。ものすごく遠いけれども。

 最西端の話が長くなった。日本の東西南北はこれで終わりだけれども、もう少し蛇足をつけたいので次回に続く。

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日本のはしっこを歩く 1

2007年01月12日 | 旅のアングル
 徒歩や自転車旅行の経験がある人、またバイクなどで「日本一周だ」と目標を立てた人などは、「日本最北端に足跡を残したい」などと必ず思うだろう。僕もそうだった。
 岬に立つと日本列島を体感出来る。地図上に自分の立っている位置がしっかりと確認出来るからではないだろうか。ましてや例えば最南端と言われる場所に立ち北を向けば、「おいらが今一番南に立ってるんだ。こっから先が日本列島」という爽快な思いを体感出来ることになる。それは気分がいいものだ。

 そもそも僕が最初に長期旅行をしたのが「自転車で日本最北端を目指そう」がテーマだったので、その「日本最北端」である宗谷岬に立ったときの気分の良さは比類がなかった。ちょっとそんな話を書いてみたい。

 宗谷岬への憧れはずいぶん昔からあった。実家にあるアルバムには父が撮影した古い写真が残っている。今の日本最北端の碑は三角錐をした実にお洒落なモニュメントだが、昭和30年代だと思われるその写真にはもっと無骨な碑が立っていた。周りにはなにもない。いかにも寂しげで「どんづまり」に相応しい風景だった。僕が北の果てを望んだ頃はそんな風景ではないことはガイドブックなどで承知していたけれども、一度その地に立ってみたいと願った。そして19歳の夏、京都から20日ほどを費やして自転車でその地を訪れた。
 行ったことがある人は分かると思うけれども、最北端の地は岬の突端というわけではない。実に茫洋としたところである。なだらかな海岸線が続くその途中に忽然とにぎやかな場所が現れる。え、ここが最北端? と誰しもが思うのではないだろうか。自転車を漕ぐ足を止めると、そこは一大観光地である。「最北端の土産物屋」が何軒も並び駐車場は満車(夏ならばね)。ダカーポの歌がエンドレスで流れ、モニュメントには記念撮影の行列。古い一葉の写真を見て憧れを持っていた僕は、ここまで俗化しているのかと驚いたがそれは若い日のフライング的考えだろう。そりゃこれだけ人が訪れる場所だもの、それで当然である。

 その後も何度かこの地には訪れた。冬に来たときにはさすがに人気もなく「最北の地」らしい風情を見せていた。また驚いたことにしばらくして妻と車でやってきたときには、最北端の碑が移動していた。あれからさらに観光客が増えて、駐車場増設のために岬を少し埋め立てた結果、さらに北に少し移設されたらしい。国土はあれから北に少し伸びたのだな。そのときは余裕もあり最北端を満喫した。最北端到達証明書の購入はもちろん、日本最北端の給油所でガソリンを入れ記念品をもらい、最北端の郵便局で貯金をしてスタンプを押してもらった。なお余談だが、スタンプラリーマニアの妻は一応、日本の東西南北(大岬郵便局、珸瑶瑁郵便局、波照間郵便局、与那国郵便局)での貯金は済ませている。
 なお、宗谷岬は一応日本最北端ということだが、実際はその岬の先に「弁天島」という小島があってそこが本当の北の果てである。しかしそこに泳いでいくわけにも行かず、漁船でもチャーターしないと無理である。また、北方領土がもしもこの先返還という運びになれば、最北端は択捉島になる。宗谷岬は「北海道最北端」というふうになってしまうなぁ。また、近くの礼文島の北の端のスコトン岬には「最北限の地」の碑が立っているが緯度的には宗谷岬の方が北である。ただし風情はこっちのほうがある。

 さて「最東端」はどこか。それは太平洋上に浮かぶ「南鳥島」である。気象庁と海上保安庁、自衛隊らが駐屯する小さな島で、一般人は行くことが出来ない。一時期憧れたが、今はどちらでもいいと思っている。行けない所に行こうと思ってもしょうがない。
 自力で行ける最東端は、根室の先にある納沙布岬である。夏の自転車の旅でここに行き損ねていた僕は、冬の厳しい季節に初めて訪れた。これは今にして思えば正解だったかもしれない。後に夏に再訪したが、やっぱり記念撮影の行列が出来ていた。
 夜行列車で札幌から釧路まで、そして列車を乗り換え根室まで行く。そこからはバスだ。とにかく寒かった。終点でバスを降りたとたんに顔全体が凍るかと思った。気温も低かったが風が強くさらに寒さに拍車をかけていたのだろう。そこから歩いて岬へ。
 最東端の碑はすぐに見つかった。さすがにここでは「日本最東端」とは書かれず「本土最東端」と刻まれている。目の前にはもう歯舞群島が見えているのだもの。拘らざるを得ないだろう。北方領土に対する気持ちが宗谷とは温度差があった。

 では「最南端」はどこか。これは小笠原諸島をさらに南に進んだ「沖ノ鳥島」である。これも南鳥島と同様一般人は行けない。
 行けない、と言うか、ここは島というより岩礁であるらしい。TVで様子を見たことのある人もいるだろう。日本にとっては非常に意義のある岩で、これによって日本の経済水域が保障されているため(200カイリ問題ですな)、岩が侵食されないように防波設備を作り、また満潮時に沈めば島とみなされない為にさまざまな工夫が施されてあるらしい。カネが掛かっている岩礁なのだ。
 さすがにこんなところには行こうとも思わない。自力で行ける最南端は、沖縄の波照間島である。有人島最南端というわけ。この島については以前に書いたことがあった。(→りんけんバンド)
 石垣島から飛行機の便もあるし、高速船もある。今では非常に行きやすい島になったのではないか。かつては船便が週3便、最南端に憧れるマニアたちはその船に乗って日帰りでことを済ませようとする人たちが多かった。石垣島から三時間くらいかかり、船の停泊時間が約二時間半。その二時間半を利用してとにかく最南端の碑の前で写真を撮ろう。港は島の北側にある。船が着いたらとにかく駆け出して南まで急ぐ。そんなに大きな島ではないのでそんなことも可能なのだ。そして碑の前でチーズ。そしてまた急いで帰る。そんな人が多かった。
 波照間島は実にいいところで、そんなことをしてはもったいない。今は船便も充実しているのでせめて一泊はしたほうがいいだろう。なんせ南十字星が見える島なのである。
 最南端の碑は島の南部、高那崎にある。宗谷岬の最北端の碑と比べて実に簡略な、まあ立て札にも近いものである。この素朴さがいい。風景は絶壁でありいかにもはしっこである。最果て感が実に漂う。この先はフィリピンなのだ。パイパティローマは残念ながら見えない。
 島にあるものは全て「最南端」である。学校、交番、郵便局。そんなものを巡るのもまた楽しい。海はあくまで美しく澄んで、陽が暮れれば星が瞬く。楽園とはこういうところを言うのだろう。心が洗われる島である。

 さて、最西端について書こうと思ったが長くなりすぎた。次回に続く。


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城を観に行く

2006年10月01日 | 旅のアングル
 あちこち旅をしていると、城郭を訪ねる機会が増える。たいていがその町のシンボルとしての役割を果たしているのでどうしても足を運ぶ。僕は歴史好きではあるがいわゆる「城マニア」ではなかった。しかし気がつけば、日本に現存する天守閣(もちろん復元も含めて)のほとんどを訪れたことがあることがわかった。
 これに気がついたのは、先日城を訪ね歩いて何十年という人と話す機会があったからである。それまではあまり意識をしていなかったのだが、どうもそういうことらしい。そうであるならば、もっと城の形態や時代区分、城主の変遷などをもっと勉強して系統立てて歩けばよかった。しかしもう遅い。

 そもそも僕が城めぐりにさほど興味を持たなかった理由は、復元したものにあまり関心を持てなかった、というのが一番だろう。僕は京都生まれであるので、城(天守閣)と言えばそれは伏見桃山城のことだった(二条城というのは城と言うより御殿であり庭園)。この伏見城は「キャッスルランド」という遊園地の中に聳えている(キャッスルランドは先日閉園)。つまり遊園地のアトラクションの一部であって、鉄筋コンクリート造りの「模擬天守閣」である。エレベーター付き。
 これはかつての「城跡」に作られたものでもない。本来の城郭部分は明治天皇陵となって立ち入り禁止であるし、石垣やその他も往時のものではない。新作である。歴史的遺物ではないのだ。復元であるとも言いにくいのではないか。ただ遊園地の目玉として作られただけ。
 こういうものを幼稚園のときに見てしまっているので、城に意味を見出せなかったというのが本当のところ。それから何年かして姫路城にも行ったけれども、この現在は世界遺産でもある往時のままの城郭も「伏見城と同じ」という感覚でしか見られなかった。城に興味を持つようになるのはもう少し後年、歴史が好きになった頃だろう。

 現在、天守閣が現存しているのは全国で12しかない。それは弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、備中松山城、松江城、丸亀城、高知城、松山城、宇和島城である。これは惜しいことだ。明治を迎える頃は全国で200もの天守が残っていたという。しかし、明治維新の破却令によってかなりの城が取り壊された。この破却令は、明治政府神祇官による廃仏棄却と並んでの非常に残念な政策であった。ただ、天下の愚策である廃仏棄却と違って、この城郭破却はしょうがない一面もある。まだまだ身分を奪われた武士の反乱が予想された時期であり、城を残しては反乱の拠点となってしまうからだ。こうしてかなりの城が取り壊された。
 残った城郭も、第二次世界大戦の空襲などで炎上してしまったりして、結局今に残るのは12しかない、というわけだ。この残された城は国宝、重文となっている。
 しかし、取り壊されたり破損した城(跡)も、その全てが失われているわけではない。天守はなくとも、往時の建築が残されていたり、またそういうものは一切なくても堀や石垣はそのままである場合が多い。それまで壊すのは大変だから残されているというのが本当のところだろうが、それによって想像力でかつての姿を見ることが出来る。
 再建されているものも多い。観光の目玉になりうると言う事で戦後復興されたものが大半だが、結構昔の普請記録や古写真を元に復元されている。伏見城のようなアトラクション的建造物はあくまで例外であって、歴史的見地からちゃんと作られている場合が大半。なので一部を除いては訪れる価値がある。

 さて、城跡というものは結構あちこちに残っているものなのだ。僕の住むところから最も近いのは尼崎城だろう。ここは明治の破却令によってほぼ完全に取り壊されたと考えられていたが、最近工事の際に石垣の一部が見つかり、石碑だけでない城跡となった。もっともほとんど現状を留めてはいないのでかなりの想像力が必要となるが。本丸跡は現在小学校(最近まで城内小学校という校名だった)であり、尼崎城址公園という小さな公園もある。なかなかここに立って往時を偲ぶのは難しいことではあるのだが、摂津尼崎藩五万石の根拠地である。ここにはかつて青山忠成の息子である幸成が封じられ4代続いた。青山氏ゆかりの地であると知ったならば、近くにある洋服の青山までが由緒正しく思われてしまう(これは全然関係はない)。
 青山氏と言えば、前述の忠成は秀忠の養育係として知られ、江戸に広大な屋敷を持っていたことで知られる。その名前は地名となり、青山学院や青山墓地などに残る。青山氏と言えば兵庫県内では丹波篠山城が高名で、城内に青山神社がある。この青山と東京のおしゃれな一等地青山が遠く繋がっていると思うだけで歴史の面白みが湧く。篠山城跡は実に立派で石垣が素晴らしい。築城は藤堂高虎の縄張りである。加藤清正と並んで城造りの名人であった藤堂高虎が造っただけのことはある石垣である。

 話があっちこっちに飛んでしまう。
 城跡は、天守閣が復元されていたりするところはちゃんと史跡として遇されているが、多くはいろいろな目的に利用されている。江戸城の皇居がその最たるものだが、福井城のように県庁になっていたりするところもある。前述の尼崎城や大分の日出城のように学校として利用されている場合も多い(この日出城の下の海で獲れるカレイが「城下カレイ」である)。城址公園となっているところが最も多いだろうか。小諸城や津山城のように中に動物園があったりするところもあって面白い。
 「古城」という響きには独特の感慨が生まれる。古城と言って思い出されるのは前述の小諸城であったりするが、大分の岡城も捨てがたい。「荒城の月」のモデルとしても知られるが、とにかく物凄い石垣である。相当堅牢な城であったことをうかがわせる。この岡城を訪れたときは夕刻で、徐々に夕闇が迫る中、ぼんやりと月も浮かび歌の通りであったことを思い出す。寂寞感が胸に迫り、旅の悦びここに極まれリであった。
 城というものは江戸時代には大名の住居であったが、本来は戦争を目的に建造されたものである。なので生々しい爪痕を感じさせるところも多い。戊辰戦争の会津若松城や五稜郭、西南戦争の熊本城などはまだ歴史も浅くさまざまなものが漂っていてもおかしくない場所だが、きちんと整備されていてそれほど実感が湧かない。それよりも、長崎は島原の原城を訪れたときは何だか妙な緊張感が生じた。島原の乱の籠城戦として幾千の人々の流した血をそのままに廃城となった歴史がそうさせるのだろうが、ここでは戦争のリアル感が迫る。有体に言ってちょっと怖い。
 司馬遼太郎の「おお、大砲」と言う短編を読んで、奈良の高取城を訪れたことがある。高取藩が守るこの城に幕末、天誅組が攻め寄せた小説だが、山城であり標高は600m近い。僕はそのとき麓から登った(本当は途中まで車で行けるのだが、寄せ手の感覚を知りたかったのと、途中にある猿石を見たかったため)。秋も深い頃だったが、登るうちに汗が吹き出た。徐々に霧が深くなり、観光客とて全く居ないこの山道を歩くことに不安を感じ出したとき、霧の向こうから突然石垣が浮かび上がってきたときには感動した。感動したというより畏怖感さえ感じた。誰もいない。天空に僕一人である。こういう感覚を味わえるのは旅の悦びのひとつだろう。

 そんな感じで結果的にはずいぶんと城跡を歩いた。北は五稜郭から(いや、正式には四稜郭の方が北か。この城跡も何故か生々しい)、南は鹿児島城まで。南(西)は沖縄のグスクを入れてしまえばそっちの方が端にあるがとりあえず措く。鹿児島城は信玄が言う「人は城、人は石垣」の考えで築城されているのでどちらかと言えば屋敷のような感じである。しかしこの周辺は裏の城山も含め西南戦争の爪痕がしっかりと残っている。
 西は五島列島は福江島の石田城か。ここも高校になっているが立派な石垣と堀が残る。東はどこかな。よくわからない。
 こんな感じで歩いている。これからもちょくちょく城跡を覗きながら旅をしたい。

 僕が行った城跡一覧はこちら

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人力移動の旅 3

2006年08月17日 | 旅のアングル
 自転車で旅をするということは、こうやって文章化してしまえば実に結構で、爽やかなものにとらえられがちだが、その実、やってみるとそれほど爽やかなものではない。
 いや、当人は至って爽やかな気持ちでペダルを踏んでいるのである。しかし、傍目から見ればどうなのかな…。
 主として自転車旅行は暖かい時期に行う。これはもちろん天候に大きく左右される自転車ならではだろう。僕も真冬にツーリングに出たことはあるが、真冬だととりあえず寒いので着込まなければならない。荷物も増える。そして、足の回転に負荷がかからないようウェアは短パンで済ませたいのだが、冬はそれも出来ない。しかし漕いでいれば厚着では暑くて困る。でも脱ぐと寒い。日は短くて制限時間が出来てプレッシャーになる。ええい面倒臭い。なのでサイクリングの主体は夏が多い。

 ところが夏は暑いのである(当たり前だ)。なのでウェアはTシャツ短パンが主。肌を露出している。当然日に焼ける。真っ黒となる。
 真っ黒の原因は太陽だけではない。とにかく汗をかく。そして、普段は一般道を走っているわけだから自動車も行き交っている。汗で濡れた肌に排気ガスが付着する。風が吹くと飛んでくる細かい砂なども着く。まあそれは汚い。不潔である。臭い。と、様々に言われてしまう。
 よく手に「サイクリング焼け」をしている人がいる。サイクリンググローブというのは、滑り止めとハンドルとの間のフィット感だけを目的にしているので、たいてい指先がない。また、ライダーグローブのようなものであると暑いので、手の甲の部分はメッシュになっているものが多い。最近はいい素材のものもあるが、僕達の頃は、少しでも涼しくしようと手の甲の部分に小さな穴が開いていたり、また甲の部分がまるごと開いているタイプも多かった。こういう手袋をして走っていると…わかりますね。指先だけ黒い。そして、手の甲に小さな黒丸が無数にあったり、また大きく甲だけ黒くなっていたりする。不細工ですねぇ。そういうまだら模様の手は、事情を知らないと気味悪がられる。

 なので…モテたためしがない(キッパリ)。まあ自分の器量の悪さを棚に上げて自転車のせいにしては自転車が泣くかもしれないが。

 旅先においては、誰とでもすぐ友達になれる。普段道を歩いていてナンパなどそうそう出来ないが、旅先では、とくに旅人が集う宿などにおいては「どこから来たの?」という絶対に回答の返ってくる問いかけがあるため、うちとけるのに時間がかからない。そうして、旅が好きという共通意識があるために必ず話題が続く。僕のように口が達者でマシンガントークを得意とする関西人は、確実に楽しく女の子と話をすることが可能である。
 しかし、ここでも自転車は結構不利なのですなぁ。
 女性サイクリストは当時はやはり少数派。なので、普通に旅をしている人と話すことになるが、

 「どうやって旅をしているの?」
 「ああ、実は自転車なんやけど」

 ここで一瞬会話が止まる。異次元の人を見るような視線をいただいたことは一度や二度ではない。
 しかし、自慢ではないが話題豊富である。なんとかそのハンデを乗り越え、こっちのペースに引きずり込む。笑わせるのには自信が当時はあった。しかし、話が旅の詳細になると、雲行きが怪しくなる。
 「えりも岬に行きたいのよ。でも、あそこって鉄道が走ってないでしょ。どうすればいいのかな…」
 そこへ、横から会話に入りたくてウズウズしていた鉄道マニア君がすっと口を出す。
 「えりもへ行ってるのは国鉄バスだから、周遊券で行けるよ」
 「え、そうなの♪」
 「帯広から広尾線で行けばいい。この路線はもうすぐ廃線になるから乗っておく値打ちはあるよ。愛国駅も幸福駅もあるし」
 「あら素敵」
 「愛国→幸福の切符を買うと幸せが来るっていうからね。でも、愛国で降りるとローカル線だから次の列車まで時間があるんだ。困るでしょ? ところが愛国駅の停車時間は…」
 ちきしょう、持って行かれた(涙)。

 まあざっとこんな感じだろうか。話術には自信があるんだけれどもなぁ…。
 それでも、うまく女の子と仲良くなれることはある。別にナンパ目的で旅をしているわけではないが、若い時だもの、宿に泊まったときくらいは楽しくいきたいじゃないですか。
 しかし、仲良くなってもそれがなかなか続かないのだ。
 「明日はどこへ行くんや?」
 「えーっとね、釧路まで出て、夜行で札幌」
 もうそこでその人とはサヨナラである。列車のスピードには絶対に勝てない。そして鉄道君がまた顔を出す。
 「ああ僕も同じルートだよ。一緒にいこうよ」
 ちきしょう、また持って行かれた(汗)。

 しかし、鉄道に挑戦したことが僕にだってある。
 その日、僕は出雲に居た。予定より早く着いたので、やはり宿に早着していた女子大生と、一緒に出雲大社へ参詣。結構仲良くなれたと思う。
 「明日はどこへ行くん?」
 「明日は萩まで行く予定なのよ」
 うーむ…。
 萩までは約210km。これはちょっとサイクリングの限界に近い。しかも海岸線、風とアップダウンが厳しい。しかし…
 「へー。僕も萩へ行こうと思ってたんよ。偶然やな~。また明日も一緒やね♪」
 言ってしまった…。

 僕は翌日、いつもより早く出て、必死になって漕いだ。若いからこそ成し得るパワーではあるが。今ならこんな気持ちになることはないだろう。
 しかし、どこにも寄り道しなかったにも関わらず、萩に着いたのは日も暮れた頃だった。さて、萩のYHにて。
 「あらー、今着いたの? ご苦労様♪」
 「いやぁ大したことなかったで(本当か?)」
 横に男が立っている。
 「この人、昨日出雲のえびすやYHに泊まってたでしょ? 宿を出るとき一緒になって、そのまま列車乗ってここまで来たのよ。今日は半日、彼と萩観光してたの」
 ちきしょう、またまた持って行かれた(笑)。
 一応聞いてみる。「明日はどこへ行くの? (下関と言ってくれ!)」
 「明日はねー、広島まで♪」
 もうお手上げである。さようなら。
 (ちなみに、日帰りを除いて旅の途中での最高走行距離は、この出雲~萩が僕の記録である。女の子追っかけて走ったなどとは誰にも言えない)

 しかし、ライバルは鉄道君だけではない。もっと強力な人たちがいる。ライダー君である。なにより彼らはカッコいいからなあ。
 これも昔の話。最北端を目指して走っていたときのことである。
 青森に着いてねぶたの最終日、さんざん踊って跳ねて、そのまま僕は青函フェリーに乗り込んだ。そして北海道上陸。あんまり寝ていないので函館観光をして、そのあと少し走って大沼公園に着いた。
 ここから見る駒ヶ岳の雄姿は素晴らしい。ベンチに座って、僕はぼんやりと山を見ていた。ああ北海道にやっとたどり着いたな。
 そこへ、珍しいことに女性から声がかかった。こんなことはまずない。
 「ねぇ、どこから来たの?」
 「ああ、京都からですがな」
 「チャリンコさんよね。フェリーで来たの?」
 「うん。青函はもちろんフェリーやけど。そんでも青森までは自走やで。10日かかったけど」
 「えーっ!! すごい~~!」
 こんな反応はめったにない。しかも美人。僕は嬉しくなって、彼女に旅の面白話をたっぷりとした。彼女はキャハハと笑ってくれて小一時間。結構いい雰囲気。
 しばらくして、僕達が座っているベンチの前に、一人の黒づくめのライダーさんが止まった。話に入りたいのか。
 メットを取ると、坂上二郎と杉田二郎を足して割ったような顔をしている。勝った、とそのときは思った(うしし)。
 「この人(僕のことね)、京都から自転車で走ってきたのよ。すごいでしょう♪」
 「ああそりゃ凄いね。…俺も、名古屋からなんだけど、ここまで走ってきたよ」
 ここまでならまだ僕の勝ちである。人力移動だから。しかし、彼の次のセリフが違った。
 「アテもなく走ってたんだ。どこ行こうってこともなしにね。そうしたら…なんだかわかんないんだけど、とうとう北海道にまで来ちゃったんだ…(空を見上げる)」
 なんとクサいセリフ。(* ̄m ̄)プッ
 しかし、彼女は感銘をうけてしまったらしい。(何でだ?)
 「それってカッコいいじゃない~」 (゜∇゜;)エッ!?

 「すごい」と「カッコいい」の差。これは歴然としていた。ライダー君は僕達が座っているベンチに無理やり座り込み、「バイクは風」ということを滔々と話し始めた。僕は気力を失っている。

 「じゃ、一緒に行く?」彼はとうとうそう言った。何だと。どうして一緒に行けるんだ?
 ヤツは予備のヘルメットを差し出した。「怖くないから。安全運転が俺のモットーさ」
 なんですと?!
 ヤロー、最初からそれが目的だったな。メット二つ持ってツーリングなんて。何が「アテもなく」だ。
 そして二人は立ち去っていった。「しっかりつかまって」などと言いながら。走り出すときに、ヤツのナンバーが「尾張小牧」であるのを見たとき、「名古屋じゃねーじゃん!」とツッコミを入れようと思ったのだが、そんな僕の声はもう爆音で聞こえてはいないのだった。

 自転車は結局、孤独である…。
 でも、自転車の旅はいいもんだよ(どうしても負け惜しみに聞こえるでしょうが…)。

 人力移動の旅の話、終わり。(ぉぃぉぃ)


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人力移動の旅 2

2006年08月14日 | 旅のアングル
 自転車で旅をすることの悦びとはいったいどういうものだろうか。

 簡単に考えれば、自動車やバイクで走ったほうが遥かに楽であるし、それをわざわざ自転車でペダルを踏んでゆくというのは、自己満足以外の何物でもない、と仮定してみる。強いて言うならそれは「達成感」だろうか。自力で北海道や九州に走っていったという充足感。またもっと小さな場面で言えば、長い峠をえっちらおっちら漕いで上りきる悦び。これは多少登山に似ている部分もあるかもしれないが、登山は頂上を征服すれば、恵まれれば素晴らしい風景に出会うことも出来るが、自転車で峠を上りきっても、そりゃ凄い絶景に出逢えることもあるがそういうのは少なく、あとは下りの悦びが待っているに過ぎない。
 自転車で坂道を下るというのはうれしいものだが、上りに30分かけて下りは5分、などということも多く実にあっけない。また本音はもったいない。リアス式海岸などを走っていると上っては下り、の繰り返しである。坂道を上り切ったら、下りだけではなく次の上りがもう見えている。ああ下るのがもったいない。そういう繰り返しを「達成感」の悦びだけでなんとか乗り切ろうとすることは難しい。よっぽど精神力が強いか、或いは自己暗示力が強いか…。

 「達成感」は自転車旅行の大きな悦びのひとつには違いないけれども、もちろんそれだけではない。そういう自己満足を得るだけでは続かないのだ。明らかに乗っていて面白いから、楽しいことが多いからである。
 まず最初に「スピードが適当」であることがあげられると思う。自転車などは、荷物を積んで普通に走ると、いくらがんばっても時速20kmがいいところだ。僕などはもっとのんびり走っていた。旅を始めた最初の頃は張り切って漕いでいたが、徐々に自分のペースというものがわかってくる。そのペースというのは、「走っていて辛くない」スピードというだけではない。僕が重要だと思っているのは「音が聴こえる」スピードであること。
 詩的に言えば、風の声、波の声…なのだろうが、そこまで言わなくても、虫の音や鳥の鳴き声くらいは聞きながら走りたい。自動車で走っていると、窓を全開にしていても「あっ、今なんか聴こえた」程度でしか体感できないが、自転車となると、森のざわめきまでもが実感できる(ちょっと格好良く言いすぎか)。これは、エンジンがついていないことも有利だと言える。自分の夾雑音はほぼ無いと言っていいのだから。
 もちろん田舎のオバちゃんの「頑張れ~」という応援も聞こえる。これは嬉しい。手を振って応える。さらに「ちょっと休んでいきなさいよぉ」という次の声まで聞こえる。お言葉に甘えて止まる。そして冷えたスイカをごちそうになった。なかなかいい思い出である。自転車ならではに違いない。

 このスピードには感謝することは本当に多い。申し訳ないがライダーさんや車の人には味わえないだろう。
 僕が自転車で走っていて感動したことのひとつに、僕の旅 北海道Ⅲで書いた、くす玉の紙吹雪のようにひらひら舞う蝶々達の話がある。それは本当に感動したのだが、そのあと僕が休憩していたとき、後方からライダーさんがやってきて、こんちわ、ということで一緒に休んだ。そのとき僕は、「蝶々の群生がすごかったでしょう」と問いかけると、「ああ、メットにぶつかって潰れてホント困ったよ」という返事だった。なるほど、と僕は思った。感動を共有出来なかったのは残念だったが、ああいうのは自転車だけの悦びなんだ。
 同じ記事で書いたことだが、「風に同化出来る」というのも自転車だけの感動だろう。ライダーさんは「風になる」人たちだが、実際は風はあんなに速くはない。

 こんな自分に都合のいい話ばかり書いてもいられない。自転車はいいことばかりではないのだから。
 傍から見ると、自転車の最大の辛さは上り坂であるように見えるらしい。確かに汗をダラダラ垂らして必死の形相で漕いでいるわけであるから、しんどそうに見えるだろう。しかし、前述したように峠を越えるのは達成感もあり、上りがあれば必ず下りもあるのであって、さほど辛いと感じたことはない。
 本当に辛いのは、むしろ天候に関わることだろう。
 雨はもちろん困る。濡れるし(当然だが)、ブレーキが滑って効かなくなる。僕などは軟弱サイクリストであったので雨の日は走らないことにしていたが、天気予報が外れ途中から降り出してしまうこともある。不運を呪う。雨の日なんてちっとも楽しくない。
 それよりもイヤなことは、風である。追い風に同化することの悦びを先ほど言ったところではあるが、向かい風というのは最悪である。なんせ漕いでも漕いでも進まない。足に負荷がものすごくかかる。峠を越えるのは、それは自分で選択した道であり、どんな天候でも関係ないからさほど痛痒を感じない。しかし風向きというのは運が悪かったといか言いようがない。アタマにくる。
 旅を始めたころは、計画もきちんと立ててその通りに走っていたものだが、だんだん旅擦れしてくると「臨機応変」ということを覚える。以前北海道の内陸を東進していて、層雲峡から石北峠を越えてオホーツク海に抜けた。そして網走から知床へ行こうと思っていたのだが、斜里方面へ向かおうとすると大変な向かい風で、もうこんなんじゃ楽しくないと旅程を変えて逆方向のサロマ方面に行ってしまったことがある。そりゃ追い風で楽しかったですよ。「風の向くまま~」を地でいったわけだが、それほど向かい風はイヤだ。

 学生の頃は金がない。なのでよくライダーさんたちから「ガス代がかからなくていいね」と言われた。とんでもない。ガス代はかかるのである。もちろん胃袋に、である。
 とにかく腹が減っては走れない。その頃の基本は「ラーメン&ライス」であって、とにかくエネルギーを詰め込む。また3食では持たない。ライダーさんに「今日何食べた?」と聞くと、「ああ、止まるのが面倒臭かったから昼は抜いちゃった」これではどっちが燃費がいいかわからない。20年くらい前、北海道をうろついていた頃は、ちょうど原付ライダーが一大勢力だった。タクト、ジョグ、そしてカブ。カブなどはリッター100km走ると言う。あきらかにそっちの方が燃費がいい。
 腹が減っても走れないが、もっと怖いのは脱水症状である。汗をものすごくかくので、とにかく補給しなくてはいけない。自動販売機でジュースばかり買っていては干上がってしまう。なので、水筒に常に水は満タンにしておきたい。駅などには水場がある。また、学校や交番でも水を分けてもらったことも。もっと酷いのは、墓場を見つけたらつい水を補給する癖がついた。墓石にかけるためたいてい水はある。

 さらに自転車はよく「パンク」するのである。細いタイヤで無理をするからだが、未舗装道路を走らざるを得ないときなどは悲劇だ。瞬く間にぷしゅ~とタイヤがペシャンコになっていく。泣けてしまう。
 こういう時のために、予備チューブを携帯する。パンクしても、穴の開いたチューブを新品に交換すれば大丈夫。旅の途中でパンク修理は大変だからだ。作業自体は慣れれば早くなるが、穴を見つけるのが一苦労なのである。水につければ泡が出てすぐわかるが、そんなに都合よく水場や川の傍でパンクはしてくれない。
 初めて長距離を走った最北端への旅では、まだ予備チューブを持つという知恵はなかった。なのでその度に修理していた。よくやっていたなと自分でも思う。
 それでも一日何回もパンクしたらもうイヤになる。

 その日、僕は旅の最終日だった。北海道の日本海側を南下していて、その日は増毛から走り出した。翌日の朝には小樽から敦賀行きのフェリーが出る。なので、日が暮れてもなんでもその日のうちには小樽に着いていたかった。
 実は、その日増毛のYHを出発しようとしたとき、タイヤから空気が抜けていた。パンクだった。朝からパンク修理しようとは思わなかったが、その後僕は小樽にむけて、海岸線を走ろうとしていたのだ。これが失敗の始まりだったのだある。
 難路国道231号線。そんなふうに当時は呼ばれていた。留萌から札幌を繋ぐ、僕がいままさに走ろうとしているルートのことである。
 この日本海側は、長い間道が全通していなかった。途中にある浜益村などは陸の孤島で、船で往来しなければならない時代が続いていた。'80年代初頭ようやく開通したのだが、まだ完全舗装もされておらず、トンネルも不備で工事中が多く峠にダートの迂回路が何本も設置されていた。僕の持っていた安物の地図にはそんなことまで書いてなかったため何も考えずに走り始めたのだが、まだ実はそんな時代だった。
 30分ほど走ってまたパンク。泣きながら修理。そしてまた一時間ほどして、この日3回目のパンクである。旅の最終日だと言うのになんでこうツイていないのか。
 車も走らないダートの道で、僕は座り込んで修理をしていた。ふと気がつくと、横にキタキツネの子供がいてじっと見ている。警戒心ゼロ。ちきしょう。3回目のパンクにキツネまで笑ってやがる。
 ようやく直して、僕は走り出した。しかしダートの上り坂。遅れを取り戻すどころか、スピードも出ず疲れだけがたまっていく。見ると、さっきのガキんちょキタキツネが前を走っている。キタキツネにもスピードで劣ってしまった。
 さらにアタマにくることには、時々立ち止まって僕を待っているのである。やっと追いついたと思えばまた走り出す。バカにされている。
 そうして、子ギツネと競争しながら(僕の圧倒的負けだが)、ようやく峠に着いた。もうヘトヘトである。
 子ギツネはそこで僕を待っていた。やつは海の方角を見つめてじっと立っていた。海は木立の向こうで見にくいのだが、なんとなしに木々の隙間から僕もふと海を見て、驚いた。

 遥か視界良好の海の向こう。手前に小さな島が二つ並び、その向こうに尖がった島が遥か霞んで見える。
 これは、どう考えても手前が天売、焼尻島。その向こうの尖ったのは利尻島ではないか。
 にわかには信じられなかった。現在地は雄冬というところ。天売、焼尻島までは直線で60kmくらい、利尻に至っては150km近くあるのではないだろうか。そんなのが見えるなんて。
 北海道最終日。北の大地はまたひとつ奇跡を見せてくれた。
 横を見ると、子ギツネはまだ隣に居た。一緒に海の彼方を見ている。
 そうか、お前は僕を案内をしてくれていたのか。お前が一緒でなかったら、こんな木立の隙間から海を見ることなんかなかったよ。ありがとう。
 パンクはしたけれども、自転車にはこんな出会いもある。

 その後、この場所~雄冬へは自動車で2度ほど訪れた。しかし、もう海岸線を結ぶ道路が全通していてトンネルも整備され、昔走ったダートの峠などどこから行くのか分からなくなってしまっている。もう閉鎖されているのかもしれない。そして、あの奇跡の島影を見ることもなかった。
 キツネの子供に道案内をしてもらうなんてことは、もちろん自転車でしか経験し得ないことではあるのだけれども。

 次回へ続く。
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人力移動の旅 1

2006年08月11日 | 旅のアングル
 僕は、今は間違うことなくおっさんになって、体力もとことん低下している。それはまあ自然の摂理ということでしょうがないのだが(本当にしょうがないのか?)、かつては、とにかく体力自慢だった。
 このブログでは、僕が書く話は旅の話が多い。旅行は僕の最も重要な趣味のひとつであり、もしも旅をしていなかったら僕なんて本当にスカスカの人生だったと思う。その旅好きになったキッカケとして、少年の頃に始めた自転車を使っての遠出が上げられるだろう。

 このことは、僕の旅 滋賀県の記事で既に書いたことではあるのだが、「自分の力でどこまでいけるのだろう」というひとつの空想から始まったことだった。その「夢」とも言えない様な思いを、少年のある時点から抱き始め、少しづつ具現化していった。そして、そうした憧れ、また挑戦のような気持ちから、僕の旅 福井県で書いたように、徐々に「自転車で旅すること」の楽しさを知り、いつしか「日本中を自転車で走ろう」という目標に転化されていった。

 大学生になった最初の夏、僕はとうとう自宅のある京都から、日本の北の果てである北海道の宗谷岬を目指して走ろうと思った。今にして思えばそんなことをやっているサイクリストはたくさん居るのだが、当時は情報も少なく、周りは「無理」「危険」ということで反対が多かった。だが、膨らんだ夢はいかんともしようがなく、「ダメだと思ったらすぐにやめる」ことを条件にして、暑いある夏の日、一人で北へ向けてペダルを踏み始めたのだった。
 こういうのは案ずるより生むが易しで、持つかと思われた体力も若さが上回ってしまった。当時19歳だった僕は、ペダルを踏む辛さなど全く感じることなく、初めての一人旅ということへの興奮と悦びがそれを凌駕してしまった。
 京都から青森まで約1200km、それを10日で走りぬけ北海道に上陸、そして函館から北の果て宗谷岬まで約700kmも、ただただ楽しいだけで終始した。その旅は結局合計で2400kmほど走ったのだが、こんなに楽しかったことはなく、完全に旅行の奥深さにはまった。そして、最北端にたどり着いた感動。自力でここまでとうとう僕はやってきたんだ、という何物にも代えがたい思い。
 当初は、ただとにかく走ろうというだけの気持ちだったのだが、そこで生じたいくつもの情景が僕を「ただ走る」だけでなくしてしまった。目に映じる素晴らしい風景。たくさんの人たちとの出会い。わき目も振らずに走るだけでは得られない感動をいくつももらった。この旅を「今やれ」と言われても体力的に無理だが、仮に今やったとしてもここまで心に残るとは思えない。まだ二十歳にもなる前の、感受性豊かな青春時代だからこそ得られたものがたくさんあると思う。この経験は一生のたからものである。

 僕は、こうして人力移動による旅行にはまった。

 翌年の夏、今度は最南端の鹿児島佐多岬に向けて僕は走り出した。とにかく、自分に何かを残したい、人に誇れるものを得たい、ということで「日本縦断」ということだけは達成しておきたいと思ったのだ。しかし、旅行の楽しさも知ってしまっている僕は、一目散に鹿児島を目指すことなく、京都からまず山陰に抜けて、遠回りで走り始めた。九州に上陸して後も、まっすぐに向かわず長崎経由。外周である。そして、やはり旅だもの。様々な観光地を経由して寄り道しながら佐多岬へと向かった。佐多岬へ到着したときのことは旅の宿 その8 「野宿」に書いたとおりだが、最北端を目指した昨年の旅に負けないような素晴らしい経験をすることが出来た。そして九州を一周し、山陽路を辿って旅を終えた。

 僕はそうした中で、「旅行」というものの楽しさから逃れられなくなり、人力移動以外の旅もやってみたくなって、東北を周遊券で回ったり、また沖縄の島々をめぐったりして旅のキャリアを積んだ。しかしながらやはり自転車旅行が最も僕に合っているような気もして、次の夏は北海道だけをひと月+α走り回った。これは楽しかった。北海道を自転車で巡るのは最高だ。そして、そんなことをすればますます拍車がかかり、翌春、淡路島経由で四国に上陸した。
 この頃になると僕はもうずいぶん旅擦れしてしまっていて(前回の北海道のときもそうだったが)、ひとつところに2、3日いて遊び、また自転車で移動することの繰り返し。観光もたっぷりして、かつては一日120km平均だった移動距離も、半日走ってはあちこちうろうろ、といったスタイルになり、「交通手段が自転車」というだけになってしまったようでもある。しかしながら、やはり自転車で動くことで得られるものは大きい。旅行が「点」ではなく「線」「面」になる。日本の広さも実感できる。エンジンがついていたらこんなふうに思うことは出来ないだろう。僕は四国を堪能し、徳島から和歌山に渡り紀伊半島一周、そして東海道を東へと向かった。

 このあたりになって、「日本一周」というものがチラつき始める。日本一周の定義というものはいろいろあって、海岸線を全て繋げようというもの。また、それでは内陸を捨ててしまうことになるので、せめて47都道府県に全て足跡を残さなければいけない、また、県庁所在地くらいは全部回らないと、などいろいろな考え方がある。
 とりあえず僕は東へと向かったのだが、箱根の山のふもとでしばし考えた。
 この峠を越えて、東京、そして太平洋側を北上すればいちおう「外周の旅」は完成する。ただ、このキャリアに荷物をいっぱい積んだ日焼けして真っ黒の、髭ボウボウの御面相で、交通量の激しい横浜、東京を走って何が楽しかろう。
 そう思って、僕はそこから引き返し、内陸を経由して京都に戻った。従って、僕は「日本一周」を経験せずに学生時代を終えた。

 この事はあとで後悔ももたらすことになるのだが、それが正解だったとも言える。ノルマをこなす旅よりも、やはり悦びを得られる旅を選択するのが正しい。

 社会人となった僕は、もちろん学生時代のようにひと月やふた月の長い旅をすることは叶わなくなった。しかし、まだまだ自転車には乗りたい。なので、それまで乗っていた「ランドナー」と呼ばれるタイプの自転車(自転車旅行目的で作られたツーリング用サイクリング車)から、「ロードレーサー」と呼ばれるタイプの自転車(欧州で多いロードレース仕様のサイクリング車)に乗り換えた。ランドナーが、旅行用に頑丈に作られ、キャリア(荷台)を固定し荷物もたくさん積めるように設計されているのに比べ、ロードレーサーは速さを目的としているので余計なものはついていない。キャリアもなく、タイヤは細く両輪に泥除けすらない。実にシンプルだが軽い。これは、もちろん速く走るために選んだのではなく、輪行(自転車を畳んで袋に入れて持ち歩く)目的で選んだのである。
 前後の車輪がワンタッチで外れるほど簡単にバラせるこの自転車を、僕は袋につめて小荷物とし、夜行列車に乗り込む。早暁目的地についたら、組み立てて走り出す。そうして機動性を高め、長い休みの折の北海道はもとより、東北や九州など各地を一泊二日などの旅程でずいぶん走った。東北の太平洋側も何度かにわけて走り、ほぼ日本の外周は網羅したと言える(それでも首都圏は走っていないので日本一周とは言えないが)。こうして、片翼の人力移動の旅を幾度となくやった。

 この自転車利用の旅は、20代後半を過ぎた頃、ちょっとした自動車事故に巻き込まれて(大したことはないのだが)首を痛めて後、残念ながら引退することになった。その後に嫁さんをもらったので、移動は自動車が主体となり、もはや体力も無くなって、人力移動の旅は、今は過去の追憶となってしまっている。しかし、得難い経験をさせてくれた自転車の旅を忘れることはない。また再開出来たら…という夢想を捨てきれずにいる。

 次回に続く。


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丼大全その3(番外・ライス編)

2006年07月07日 | 旅のアングル
 前回からの続き。

 いわゆる丼の範疇の話ではないのだが、「めし」にのせて食べる料理のことなのでついでに聞いて欲しい。洋風の「~ライス」と呼ばれる世界の料理のことである。ライスの世界にもいろいろあって、カレーライスを筆頭に、ハヤシライスなどのごはんにかけて供されるもの、またチキンライスなどの混合ごはん(そんな言い方ないわな^^;)、またそれらの複合系の「オムライス」など様々である。こういうたぐいの食べ物の中に、実に地域性豊かなものがある。それらについて少し。

「スープカレー」
 ご当地料理の代表格とも言える北海道の「スープカレー」。今や日本中を席巻する勢いである。
 スープカレーがどういうものかということはもう説明不要かもしれないが、その名のとおり「カレー味のスープ」であり、カレーと言って思い出すルーの世界とは全然違うものだ。カレー風味のスパイシースープと言った方が的を得ているか。中に入る具はルーのように細かく切り分けられたものではなく、骨付きの鶏モモ丸ごと、じゃがいも丸ごとといった具合に豪快。形状はポトフに似ている。それをライスと共にいただくという按配である。
 と、知ったようなことを言っているが、恥ずかしながら僕は本場札幌でスープカレーを食べたことがない。語る資格ナシかもしれないが、今は都市圏では専門店も出来てきていて行かずとも食することが可能である。
 ただ、知らないと食べ方で迷うかもしれない。スープカレーの食べ方は自由であると言われるが、多くなされている食べ方はライスをスプーンですくい、スープに浸して食べ、また具を切り分けて食べ…の繰り返しである。もちろんライスに掛けて食べることも可だが、ルーではなくスープであるが故に、いっぺんにぶっ掛けるとライス皿から溢れてしまう。そうやって掛けてあわてている人を見たことがある。気をつけたい。

「エスカロップ」
 これは、北海道の東の果て、根室にしか存在しない食べ物ではないだろうか。そういうご当地ものが大好きな僕は、根室に行ったときにとにかく食べてみようと店を探した。最初聞いたときには「ハスカップ」のような果物的想像をしてしまったのだが、もちろんこれはライスものである。
 どういうものかと言えば、その定義はピラフの上にカツ(トンカツが一般的のようだ)をのせ、その上からデミグラスソースを掛けたものであり、それにサラダを添えたものと考えていいようだが、店によりいろいろ種類があるようで、僕が食べたのはピラフではなくケチャップライスだった。根室観光連盟HPによると、ライスはたけのこ入りバターライスとなっている。いろいろ店によって変わるようだ。そこらへんは北海道の大らかさだろうか。
 語源は「エスカローぺ(フランス語で肉の薄切り)」からきているらしい。

「ハントンライス」
 僕は北陸金沢で長い間生活していたが、その地には「ハントンライス」という摩訶不思議なネーミングの食べ物がある。金沢でしか通用しない食べ物だろう。「ハントン」と言うので、半分トンカツがのっているのかと思えば、これはケチャップライスの上にオムレツ(薄焼き卵の場合も)がのり、さらに白身魚やエビなどのシーフードフライをのっけて、タルタルソースをたっぷりかけた食べ物である。オムライスのフライのっけ、と言ってしまえるかもしれないが、金沢ではこれは独立したメニューである。
 なんで「ハントン」かと言うと「ハン」はハンガリーのこと、「トン」はフランス語でマグロの意味らしい(昔よく行っていた洋食屋さんで教えてもらった)。魚のフライをのっけるハンガリールーツの食べ物、といったところか。

「えびめし」
 これは岡山名物として知られる…と言いたいが本当に全国的に知られているのだろうか。よくわからないけれどもなかなか美味い。どう言えばいいのか、えび入りの色の濃い(黒いと言ってもいいかも)炒め飯である。味はソース味的でスパイシー。そんなにしつこくなく食べやすいと思う。
 岡山ではチェーン店展開している店もあり、となりの兵庫県にも進出してきたことがあった(加古川とかに)。それで馴染みがあるのだが、なかなか全国展開までは難しいかも…。

「トルコライス」
 最近はつとに有名になった長崎名物トルコライス。長崎の洋食店や喫茶店などでどこでも食べられる定番メニューなのに、長崎からは広まっていかない食べ物である。
 内容は、ドライカレー(またはピラフなど)とスパゲティ(ナポリタンが主流)、これを皿に半分づつ盛り、その上にカツ(トンカツあるいはチキンカツ)をのせソースをかけて(デミグラスやトマトソースなど)供せられる。なかなかのボリューム。
 なんでトルコなのか? これは諸説あってわからないらしい。ドライカレー(インド)とスパゲティ(イタリア)の中間にトルコがあるから、とか、カツ、ピラフ、パスタの3つの食材から三色旗、トリコロールを想像してそこから転じたとか、よくわからない。でも美味いよ。

「タコライス」
 沖縄名物タコライス。これはまた沖縄らしいクロスオーバー的食べ物である。
 タコスというメキシコ料理がある。炒めた挽肉、トマトなどをトルティージャと呼ばれるクレープみたいなやつにくるんで、サルサソース(辛い)をたっぷりかけて食べる中米らしい料理。これが米軍経由で沖縄に伝わったわけだが、このタコスの具をライスの上にのせて食べちゃおうという寸法。これがタコライス。アメリカを経由しているらしく、タコスの具にはたっぷれの千切りレタスとチーズを加えることが多い。占領時代からある食べ物でもはや伝統がある。
 これ、なかなかいけるのですね。僕よりも女房がハマった。

「ちゃんぽん」
 ちゃんぽんと言えばもちろん長崎名物の具たっぷりの麺類なわけですが…。
 沖縄では「ちゃんぽん」は飯ものなのである。ちょっと驚く。食堂で何も知らずに「ちゃんぽん下さい」と言えば旅行者は間違いなく驚くだろう。
 沖縄で言う「ちゃんぽん」とは、野菜炒め(沖縄らしく具はとくに決まっていない。キャベツ、モヤシ、ニンジンなどが主。これに豚肉やポークランチョンミートなどを加えて炒める)を、さらに卵とじにしてどーんと皿の山盛りめしの上にのっけて供される。丼の場合もある。
 とにかく驚くのはたいてい圧倒的な量だということで、食べきるのに苦労する場合もある。何故ちゃんぽんと言うのかについては、沖縄の人に聞いても「わからんさぁ」と言われてしまったりするのだが、やはりこれはチャンプルーをライスにのっけているからだろうと。単品で野菜炒めはチャンプルーというのに何故めしの上にのるとちゃんぽんなのか? 僕は「チャンプルーどん」の省略かなぁと勝手に思っていたりもするのだが、回答を得られることはなく謎のままである。


 丼・ライスについての話はひとまず終了。
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