凛太郎の徒然草

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夕陽を追いかけて

2014年03月31日 | 旅のアングル
 普段、日没などはほぼ気にして暮らしていない。だいたいは、日常生活の中のひとつの流れの中に埋没している見慣れた風景に過ぎない。ビルの向うに大きくなって沈む夕日をたまたまみて、ふと美しさを感じることはある。だが夕刻高速道路を西に向かいながら、まぶしくてたまらないギラギラした太陽を疎ましく感じる日もある。いずれにせよ、特別なものではない。
 ところが、旅に出るととたんにsunsetが素敵なものにかわる。旅とは日常を離れることなのだとつくづく感じる。

 自転車で旅をする場合、基本的に夜は走らない。知らない暗い道を走るのは危険を伴い、だいたい楽しくない。なので、日のあるうちにその日の走行は終えるようにする。
 しかしながら旅に出始めた最初の頃は、ペース配分がよくわかっていなかったのか、宿への到着時間が夕刻にかかってしまうことがあった。こういうときは、焦る。日が暮れれば、宿を探すのも一苦労になる。
 19歳の僕は、自転車で日本海側を北上していた。その日は新潟市泊りの予定で既に宿も予約していて、新潟市内には午後4時頃には着いた。
 家を出て5日目、着替えの予備が尽きていた。まだ時間も早く、街中にちょうどコインランドリーがあったので、洗濯をしてから宿に入ろうと思った。ところが、僕はコインランドリーというものを使用するのは、そのときが初めてだったのである。だいたい、実家暮らしのため洗濯というものもほとんどしたことがなかった。
 手間取っているうちに、時間が経ってしまった。ようようのことで洗濯機が回り始めたが、約40分かかると説明書に書いてある。えっそんなに時間がかかるのか。ふと外を見ると、少しづつではあるが日が傾いてきている。洗濯が終われば、乾燥させねばならない。今日風呂に入って履き替えるパンツもないのだ。乾燥機に洗濯物を入れ、最小時間でも10分。うわどうしよう。しかし自分の力ではもうどうしようもない。10分が経ち、なんだか生乾きのような気がしたがかまわずビニール袋に入れ、一路宿を目指した。海岸近くの日和山というところに、予約した宿がある。
 ところが焦ったのか、道を間違えてしまった。海岸をただ目指せば着くと思ったのだが、どうやら信濃川の東側を走っていたようだ。海岸は西側である。ところが、河口近くに川を渡る橋がない。
 今にして思えば、子供だったなとつくづく思う。オマエもっと落ち着けよ。19歳の経験浅いガキというものは、こういうものか。薄暗くなった頃、ようやく宿を見つけた。
 宿は、ほぼ海の家のような立地だった。ふと海を見れば、日本海の向うに佐渡島が大きく広がっている。そこへ、夕陽が沈む直前だった。
 なんと美しい夕陽だろうと思った。
 間抜けな状況でみた夕陽だったのだが、心を動かされた。新潟の人、日本海側に住む人にとっては見慣れた夕陽なのだろうけれども、盆地に生まれ育った僕にとっては、海に沈む夕陽というのはそのときが初めてだったのだ。紅色にみなもが染まり、ゴウと音を立てるように日が沈む。あまりにも、大きい。僕はカメラを向けることも忘れ、見入ってしまっていた。
 強烈に印象に残った。その後僕は日本海側に住むことになって、海に沈む夕陽を何度も見たけれども、そのときの感動を凌駕することがなかなか出来ずにいる。生乾きのパンツとともに、旅の思い出として鮮明に今も残る。

 TVなどの青春ドラマでは、若者は夕陽に向かって走る。演出としては古典的なものになっていて、今はパロディとしてしか使われないかもしれない。
 実際に、夕陽を追いかけて走った人はいるだろうか。僕は走ったことがある。
 以前に人力移動の旅3で書いた話だが、出雲→萩の行程約200kmを一日で走ったことがある。なんでそんなことをしたのかと言えばそれは書いたように実に粗忽なことなのだが、それだけではなく、自己挑戦的意味合いもあったらしい。
 らしい、というのは、昔の旅日記を見ているとどうもそんなことが書いてある。前日の日記。
 「朝5時発はムリ。YHの朝食は7時から。いくら早くても7時半発。向かい風。砂つぶて。アップダウンキビしい。これで、おれは落陽より早く走り抜けられるだろうか。でもやるんだ。ここで絶対に200kmを超えておきたい」
 まあ恥ずかしい文章だが(だって日記やもん 汗)、このあたり、少し記憶がある。
 それまでも旅の話題として「一日何km走るの?」とよく聞かれた。そんなときはまず「100km平均ですねー」と答える。これはそんなに間違っていない。一応その数字を目途にしている。ただそのあとたいてい「最高どれだけ走った?」と続けられる。
 どうして人はそんなことに興味があるのかよくわからないのだが、だいたいそう続く。僕はそういう記録的なことは意識していなかったので即答できない。多分距離が伸びるのは旅の初日だよなー。夜明けとともに家を出発するから。でも何kmだろう?
 こういう話のとき、他にサイクリストがいるとすぐに答えている。「230kmかな?」とか。それを聞いて女の子たちは「すごーい」とか言う。うーん、即物的に示せるのは距離なんだな。
 もちろん、僕は距離をかせぐために自転車に乗っているのではない。それはスポーツだろう。僕は旅行をしているつもり。なので、あちこち観光もする。寄り道多し。しかし世間のイメージとしては、ひたすら突き進むサイクリストの方がどうも格好いいらしい。
 ひとつの旅を終えて、家に帰って地図に載る数字で計算をしてみると、一日の最高距離は142kmしかなかった。旅の初日である。うーんそんなもんなのか。これでは「一日最高どれだけ走った?」の答えとしてはちょっと物足りない。やっぱり「すごーい」と言われたいじゃないですか。それには、200kmを超える必要がある。
 20歳のその旅の初日は、京都から兵庫県浜坂まで。張り切って走った。ところがこれが、182kmにしかならない。山を越えてゆくため、ルート的にしんどかったのである。うーん。どっかで200kmを超えなくては。
 そんなこんなの出雲~萩だったように記憶している。女の子を追いかけて走るのが一義だったかもしれないが、距離も一度出しておきたかった。

 ただ、これは結構大変な距離だった。山陰の海岸線というのは、結構リアス式なのである。道のアップダウンが実に多く、体力を消耗する。海岸線なので風も強い。
 その日は、ただひたすら走った。夏のことであり、暑さも敵である。そしてこれは、日没との戦いでもあった。何とか日のあるうちに到達したい。僕は、ずっと太陽を見ながら走り続けた。
 益田市あたりで、日が傾きだした。いかん。まだ萩には60kmくらいある。僕はずっと太陽を見ながら走った。そのため、日が徐々に赤く染まっていくその行程を見た。そんなこと初めてだった。ちょっと待ってくれ。昔平清盛が厳島神社を建築するときに日没を扇で防止したという逸話があるが、そんなことが出来るならやりたいと思った。道は、海岸線。目前に夕陽が沈む。それに向かって僕はひたすら走った。厳しかったが、夕陽に向かって走る青春ドラマを地でやっている気もそのときはしていた。気持ちも高揚した。アドレナリンが出ていたと思う。
 その夕陽が沈む風景は、実に美しかった。空の色も海の色も刻々と変わってゆく。それをずっと見ながら走ったことは、強い思い出となっている。結局間に合わなかったのだが、黄昏時、萩に到着した。
 この話は、先のリンクでも書いたとおりネタにしやすい。その後も僕は「一日最高どれだけ走ったことがあるの?」と問われ続けたが、「いやー旅行だから観光も寄り道もするしいつも移動は100kmくらいを目途にしてるよ。そうでないと面白くないし。けど一度だけ210km走ったことがあるんよ。何でかというとかわいい女の子を…」てな話をすると、たいていは「すごーい」と同時に笑いもとれる。実際は地図上で計算すると203kmくらいだったのだが、ゲタを履かせて210kmといつも言っていた。まあそのくらいは誤差としていいでしょう。
 ちなみに、現在はいろんなサイトがあって、二点間の距離など簡単に表示してくれる。試みにMapFanで測ってみると、なんと出雲の宿~萩の宿間は194kmしかない(笑)。これは、あれから30年経って初めて知る真実である。うーん、あのときは手持ちの地図に記載されていた距離を単純に足したつもりだったのだけど、何か間違いがあったか。しかし今さら訂正はできない。まあいいか。わはは。
 夕陽を追いかけて走った話を書こうと思ったのだが、何の話かわからなくなった。

 朝日も夕日も、風景としては似たようなものである。山際や水平線に太陽が接する時間帯。色合いも同じ。どちらも美しい。
 朝日にも思い出は多く、機会を改めて書きたいとは思うけれども、sunsetというのは、日が昇るときよりも何故か感傷を伴う。それは、一日のフィナーレということもあるし、そのあと漆黒の闇がやってくるから、ということもあるだろう。
 旅先で見る夕陽と都会で見る夕陽の何が違うのか、と言えば、その闇にかかわる部分もあるような気がする。街は、日が沈んでも明るい。なので感傷を伴いにくいのかもしれない。もちろん旅先が都会である場合も多く、人によっては地元のほうが暗い、という人もいるだろうから、あくまでこれは主観的なことではあるのだが。
 人によっては、都会の夕陽のほうが美しい、と言う。それは空気がクリアでないために、陽の光がいろいろな大気の汚れや塵に乱反射して想像を超えた色彩を生み出すことがある、と。
 確かに、紫色の西の空なんてのを見たことが何度もある。見方によってはあれは不気味なものであるが、美しいといえば美しいかもしれない。しかし僕にとっては旅先の夕陽を凌駕することはない。やはり、それを見る気持ちの問題もあるだろう。
 僕が見た夕陽の中でベスト5に入る光景を考えると、その中にある日の大阪南港の夕陽がどうしても入る。あれは、本当に美しかった。都会の、しかも「悲しい色」と言われる大阪湾に沈む陽なのに、どうしてあの日はあんなに美しく映えたのか。
 それは沖縄からの帰りのフェリーが接岸するときに見た夕陽だったからであるかもしれない。何十日かの長旅が今終わる。そのセンチメンタルな気持ちが、思い出とともにどっと押し寄せた結果、感動を呼んだのだろうと振り返れば思う。
 日が暮れる、という状況は、どこであっても同じなのだ。もちろんとりまく自然環境によって見え方は全然違うものであるし、だから夕日の名所というものが存在するのだが、やはり見る側の気持ちという部分も大きく影響することは否めない。

 思い出に残るいくつもの夕陽がある。
 例えば、与那国島の夕陽。この日本最西端の島で見た夕陽は、旅の者にとってはどうしても感動を伴う。この夕陽は、日本で一番最後に沈む夕陽。そして沈む先は、もう日本じゃないのだ。
 そうした付加価値もあって、さらに天候に恵まれ、海と空の色が刻々と変わってゆく光景を間近にしたあの日の夕陽を忘れることは出来ない。
 また、潮岬の夕陽。御前崎の夕陽。知床の夕陽。みんなで見たクッチャロ湖の夕陽。全てが、宝物として心の中にある。
 その中で一番を決めるのはまことに難しい話なのだが、僕は北海道の日本海側の町である羽幌から見た夕陽を、どうしても忘れることができない。

 最北端宗谷岬を目指した旅は、僕にとって最初の長旅だった。最初に書いた新潟の佐渡に沈む夕陽を見てからも僕は自転車を漕ぎ続け、北の端まで到達し、そしてその帰路だった。もう幾日かで旅も終わる。そんな中で、僕は羽幌という町で投宿した。
 その日は早いうちに宿に入り、風呂に入ってくつろいでいた。三々五々、いろんなところから旅人が集まってくる。談話室にギターが一本置いてあり、みんなで歌をうたったりして楽しく過ごしていた。
 外にいた誰かが叫んだ。「陽が沈むぞ!」と。
 夕陽か。見に行こうぜ。僕たちは外へ駆け出した。
 ここに来るまでも、いくつもの忘れがたい夕陽を見てきた。それらは決して色褪せない思い出である。そんな夕陽の記憶を反芻しつつ、宿の前の広場へと出た。宿は高台にあり、西側に海が広がっている。
 そこで見た夕陽は、ちょっと信じられないほど美しかった。
 羽幌の沖には、天売島と焼尻島という小さな島が浮かんでいる。羽幌からは並んで見えるのだが、その島の間にわずかに隙間がある。その短い水平線に向けて、太陽がじりじりと音をたてながら沈んでゆく光景が目前に広がった。
 太陽がなぜ沈むときに大きく見えるのか。それは、比べる対象物があるからだと聞く。真昼間の太陽と夕陽の大きさは全く変わらないはずなのに、何かが隣にあると普段は気付かないその大きさが実感できるのだという。
 島と島の間に沈む夕陽は、巨大だった。そして、真っ赤に染まっていた。その大きな夕陽が、じわりじわりと短い水平線に没してゆく。僕は、息を呑んだ。陽は半分隠れ、そしてそこからはスピードを上げるようにして、最後のひとかけらまで鮮明に輝きつつ沈んだ。あとには、夕映えが残った。
 まわりを見ると、泣いている人もいた。こんな夕陽は見たことがない、とみな口々に言った。僕らはそのまま立ち尽くしていた。徐々に、夜の帳があたりを覆ってきた。
 
 今までで見た最高の夕陽が、これだ。言葉ではなかなか書きつくせないが、今もその光景は鮮やかに脳裏によみがえる。
 それから何年も経って。
 僕は旅行で、再び羽幌へとやってきた。今度は妻が横にいる。時期も、あの日と同じ頃。これは狙ってきたのだ。ちょうど晴れてくれている。日没前に僕らはキャンプ場にテントを張り、そして高台に上った。
 同じように、あの日と同じように陽は島の間をめがけて沈んできた。これを見せたかったんだ。最高の夕陽を。
 わざと大きな前振りをせず連れてきたため、妻は感動してくれたようだ。こういうのは、共有したいじゃないですか。
 陽が落ちた後、二人で飲んだビールのうまかったことも記憶に残る。いつかまた行けるだろうか。そんなことを今ぼんやりと考えている。
 
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夜汽車を待つ時間

2014年02月28日 | 旅のアングル
 夜行列車が、現在(2014/2)壊滅状態となっている。
 これは、もうしょうがないとしか言いようが無い。新幹線網が発達し、飛行機便も充実し、夜行列車に乗る必然性がなくなった。ここ20年は、もう夜行列車は飛行機が怖い人たちと一部の愛好家のためのものになっていて、採算がとれない存在になっていた。最後まで頑張っていた「あけぼの」ももうすぐ消える。
 列車に乗ること自体を目的とした、いわゆる贅沢列車なら存続の可能性もあったが、北斗星も臨時扱いになり、カシオペア、トワイライトエクスプレスも廃止の報が入っている。あとは出雲と、はまなすくらいか。これもどうなるかはもうわからない。
 とにかく、18きっぷで乗れるムーンライトだけは、臨時でもなんとか存続してほしいと願うのだが、これも採算はおそらく取れまい。
 新しい可能性として九州で「ななつ星」という観光寝台列車が運行され始めたが、僕などはこういうのに何の興味も無い。結局トワイライトも北斗星も乗ったことが無い。そういうのは、求めていない。僕が近年乗っているのは、もうムーンライトだけである。
 僕個人としては、夜行列車の良さは廉価でしかも夜のうちに移動できることにある。寝台など無くても良い。かといってバスはしんどいし旅情に欠け、しかも繋がりが無い。まあそんなことは個人の繰言であってどうでもいいのだけれど。

 夜行列車には、昔はよく乗った。
 夜汽車に乗ること自体も楽しいのだが、その夜汽車を待つ時間、というのがまた楽しかったおぼえがある。
 若い頃は、ブルトレなど滅多なことでは乗らなかった。たいていは、座席である。よく乗った「ちくま」などは、そもそも寝台が繋がっていないものもあったのではなかったか(記憶)。
 その「ちくま」や「能登」「きたぐに」などは乗車頻度が高かったと思うが、寝台ではないものの指定座席券を持っていれば、列車には直前に乗り込めばいい。なので、待ち時間は自由に使える。その時間をどう使うか。
 もちろん駅前で一杯やる、というのが常道だろう。ことに夜汽車に乗る場合は、旅の始まりか或いはフィナーレであることも多い。当然、気分も高揚している。旅への期待、また楽しかった旅を振り返りながらのむ。これはこたえられない。
 だが、僕は酒場では長っ尻なので、発車まで一時間くらいしかないと腰が浮いてしまう。せわしない。頼んだ湯豆腐がなかなか出てこないとイラついてしまう。こういうのは、せっかくの愉悦の時間がもったいない。
 そんなとき、もうひとつの手段もある。買出しをして車内へ持ち込むのだ。
 もちろん、時間がないときは駅で雑誌と駅弁とビールとウイスキーのポケット瓶を購入してすぐに、ということもあったが、小一時間あればターミナルをうろつく。
 まず本屋へ行って、旅の友となる文庫本を求め(これも慎重に選ぶ)、そして地下の食料品売り場へ。まずこのシューマイでビール、次は焼き鳥でワンカップにするか。〆にはこの折り詰め寿司を…楽しい。実に楽しい。
 夜行バスだと、こうはいかない。バスはすぐに消灯してしまうし、何よりあの密閉空間で酒をのみ肴をつまみ出せば周りに迷惑なのはいかに厚顔の僕でも承知している。その点列車は、完全消灯しないし、何より広い。多少の飲み食いはみんなやっている。また軌道で揺れが安定しているのも好都合である。
 列車の良さだ。そうして、街の灯りがちらほらする車窓を見つつ酒をのむ。
 
 さらに、奮発して寝台を確保していたら。
 カーテンを下ろせば、自分だけの空間がそこにあるのだ。さらに、食べ物を広げる場所もあり誰にも文句は言われない。意気揚々とデパ地下にゆく。
 まだ「日本海」の発車には一時間ある。余裕だ。さー何を食べようか。この専門店の揚げたての天ぷらは実にうまそうだ。これ食べたいな。さすれば、酒か。ちょっとくらい奮発してしまえ、居酒屋でのむより安いぞ、と銘酒を思わず買ってしまう。この山廃純米の四合瓶を買うから、その試飲用のプラコップちょうだい。
 さらに…この穴子の押し寿司もなんとも魅力的。しかし海鮮丼も食べたい。どうしよう。おっと明日の朝食も仕入れておかなくては。最後に冷えたビールを買って…楽しい。実に楽しい。
 この悦楽感は、飛行機やバスなどでは味わえない。強いて言えば、長距離フェリーに乗る前には近い感覚になる。

 しかしもっと若い頃は、ブルトレに乗るなんてことは無かった。もちろん相応の料金がかかるからであるが、寝台はおろか座席指定券ですら全然縁がなかった。夜汽車に乗る機会は、たいていは周遊券や18きっぷを手にしているときだからだ。
 例えばワイド周遊券のルールとして、当該区域に行くまでは急行が使え、区域内では特急も乗れる。ただし、自由席に限る。寝台に乗るならもちろん、座席指定も別料金で、さらに自由席なら無料のはずの急行(特急)料金も上乗せされてしまう。もちろん余分な予算は無く、夜行列車に身を投じるのは宿に泊まるのを節約するためという要素もあったくらいだから、そんなところに余分なお金は使わないし使えない。
 つまり乗れるのは夜行快速自由席と、周遊区間内での夜行急行自由席のみである。すなわち大垣発鈍行夜行(ガキドン)、上諏訪夜行などと、「日南」「かいもん」「八甲田」「津軽」「利尻」「大雪」「まりも」など。フリー切符で追加料金無しで乗れるのは、自由席車両を繋いでいるこういう列車だ。
 当然のことながら、自由席は取りあい必至。並ばなければならない。
 若い頃は、夏は自転車で旅をしていたので、列車の旅の多くは冬だった。北海道などでは、ホームはそれは寒い。しかし、並ばないと席はない。昔はこうして周遊券で旅していた若者が本当に多かったのだ。
 稚内や網走から乗り込む場合はまだ席に余裕があったが、札幌発の場合はやはり混む。それは、札幌で泊まると高いから。地方だとYHや民宿などの安い宿泊施設が結構あったが、札幌は大都会なのでなかなか廉価な宿が少ない。そしてやっぱり札幌だと夜の街で遊びたい。だがそういう安い宿は門限があったり飲酒して宿に入ることを禁じている場合があったために宿泊が難しい。だから、夜行に乗る。移動目的ではなく、ねぐらを求めて夜行列車を選んでいるのだ。

 まあしかし、これが辛いだけかといえばそうでもない。
 並んでいると、必ず知った顔の一人や二人はいる。旅も長いと、袖摺りあう旅人も多くなる。そりゃそうかも。道内広しといえ、同じ周遊券で行ったり来たりしてるんだもの、どこかでまた出逢う。どころか、一年や二年前に出逢ったヤツが前に並んでる。毎年来てるんだな(ワシもだけど)。久しぶりだな。まだ汽車が来るまで時間あるよ。そうか、ウイスキーなら持ってるぜ。じゃ少しだけやるか。
 そうしてザックを降ろしてその上に腰掛け、とりあえずの乾杯。あれからどうしてた? 何だ夏は沖縄に行ってたのか? オマエそりゃ逆じゃないのか(笑)。
 話は尽きない。気温は氷点下だと思うけれども、なんとなしに温かくなる。そんなことを、何度もしたような気がする。女性でもいれば、氷点下の宴はいっそう華やかになる。そのまま列車に乗り込み隣り合わせの席に座って、カップルになったヤツらを僕は知っている(残念ながら僕ではない)。
 北海道に限らない。郡山の駅で八甲田を待ちながら、振り返ると知った顔。なんだ何でこんなところにいるんだよ(笑)。
 2月の上野駅というのは、さながら同窓会と化す。そんな話は、前にも書いたことがあった。

 夜汽車を待つのは、楽しい。
 それは、一人であっても仲間がいても。夏であっても冬であっても。また、懐ろが暖かくても寒くても。
 何度も書いたことがあるような気がするが、僕は北海道の旅では、北の果ての浜頓別という小さな町を最後にすることが多かった。それにはいろいろな理由もあり、まず楽しいことが多かったというのが一番にあるのは間違いないが、ギリギリまで遊んでいられる場所だということも要因としてあった。
 周遊券の期限が切れる日。僕はまだ浜頓別に居て、雪で遊んでいる。クロカンやったりかまくらつくったり。そして、宿でみんなで夕食を食べて、さあ消灯時間だというころに「じゃさよなら」と言って宿を出る。周遊券の期限が切れるまであと2時間くらいしかない。しかし、これで帰れるのだ。
 周遊券は、期限が切れるその日のうちに改札を通りさえすれば、あとは駅構内を出なければ乗り継ぎを続けることが可能。したがって、浜頓別の駅を22時半くらいの列車に乗って天北線で宗谷本線の音威子府駅に出る。そこで、稚内発の夜行列車「利尻」に乗り継いで翌朝札幌。札幌から特急自由席で函館、函館から青函連絡船に乗れば青森発上野行の夜行急行「八甲田」に間に合う。翌朝東京、そこから昼の普通、快速を乗り継いで夕刻京都へ。駅構内から出ずに、帰り着くことが出来るのだ。
 その年もそうやって帰るつもりだった。だが、天候が少しややこしくなってきた。かなり吹雪いている。情報によれば、天北線はここより北方面へはもう列車は行けず、浜頓別~音威子府間で折り返し運行になっているという。そして今なんとか動いている浜頓別~音威子府間も、次の列車が出たらもうその後は運休になる可能性が高いとか。
 運休になったら、万事休すである。翌日にはこの周遊券はもう使えない。新しく切符を買う金など無く、帰れなくなる。僕はいたしかたなく、遊びを途中で切り上げて15時過ぎのまだ動いている天北線にとにかく乗った。
 音威子府駅には、17時前に着いた。
 ここからまだ旭川方面へ向かう列車はあるのだが、周遊券の期限は今日までである。中途半端に札幌へ向かっても、札幌から函館へ向かう夜行便が無い(当時は「ミッドナイト」も「はまなす」も無かった)。札幌駅の構内では夜を明かさせてはくれまい。しかし駅構内から出たら、切符は無効となってしまう。
 一案として、このあとすぐに音威子府に来る旭川行の急行「礼文」に乗り、旭川で特急「ライラック」で札幌、そこから釧路行夜行下り「まりも」に乗り、途中駅で降りて上りの札幌行き「まりも」に乗り換え(いわゆる「新得返し」)、早朝にまた札幌に戻るという手もある。しかし、乗り継ぎ時間が2分くらいしかないところもあり、雪で少し遅れたら作戦は水泡に帰す。あまりにも危険だ。
 幸いにして宗谷本線はさすがに本線だけあって除雪もしっかりしていて、間違いなくこの後も運行するらしい。僕はハラをくくり、音威子府で札幌行の夜行「利尻」を待つことにした。
 今からだと、約7時間待ちになる。これが、僕が夜行列車を待った最長時間である。

 この「オトイネップ」というかわいい名前の駅には、なんとなしに縁がある。
 夏に、この駅で泊まったことがある。しかも二回。小樽札幌方面から自転車で最北稚内を目指せば、旭川で一泊、そしてこのあたりで一泊すればちょうどいい距離になるため。
 一度は、駅前にテントを張っていたライダーに誘われてその中で寝たが、もう一度は構内だった。夜行が通るために夜通し駅舎を開けているので、駅員の方が親切にも「中で寝ていいよ」と言ってくれたのだ。待合が畳敷きになっていて、そこに寝袋を敷いて寝た。好意で言ってくださったことだが、本当はいけないのだろう。あれから30年経ったので、もう時効だと思い書いている。
 そのときの駅員さんに会いたかったが、もういらっしゃらなかった。

 音威子府駅は、駅蕎麦が有名である。色の黒い、香りの強い蕎麦だ。しかし構内の立ち食い蕎麦屋さんは、閉店準備をしている。こっちは時間がたっぷりあるので、もう少しゆっくりとしたかったのだがしょうがない。とり急ぎ食べた。やはり美味い。しかし、それを食べてしまえばもうやることはない。まだ駅に着いてから10分くらいしか経っていない。
 まだ少し陽がある。風が強いけれども、僕は雪の中を歩き出した。駅から国道に出て、北へゆけば天塩川の河畔に着く。この天塩川の風景には、思い出があった(僕の旅北海道 2004/12/9)。
 あのときとは季節が違う。その冬の天塩川を見ておきたいと思った。
 河畔に着いた。僕は、思わず声を上げた。
 あの大きくうねり流れていた川が、白一色になっている。みなもが結氷し、その上に積雪しているのだ。なんと荘厳な光景であることか。僕はしばし動けなくなった。
 やはり、北海道はすごい。自然と自然がせめぎあって息をのむ姿を生み出している。
 
 陽も落ちた。そのまま佇んでいては遭難するので、駅に戻った。
 しかし駅に居てもやることもないので、町をぶらついてみる。しかし音威子府の駅前は、こう言っては失礼だが何も無い。今はどうかは知らないが、もう相当昔の話なのだ。Aコープが一軒だけあるが、そこももう閉店するという。当時はコンビニもないので、そこが閉まれば買い物も出来なくなる。僕は焦って、安いワインを一本と、魚肉ソーセージとチーズとパンを買った。これで、夜汽車を待とう。
 駅前食堂も閉まった。あとは、明かりがついているのはスナックが一軒。遠めに見ていると、店のママさんが雪かきをしている。入りたかったが、当時はまだ学生でそんな場所に出入りしたこともなく怖い。僕は駅の待合室に戻り、ワインを開けた。
 夜行列車が来るまでまだずいぶんとあるのだが、駅に客はいない。2度ほど列車が着いて、降りてきた人がいたが足早に帰宅してゆく。駅のストーブが僕だけのために焚かれているようで、誠に申し訳ない。そうしているうちに、だんだん陶然としてきた。
 ふらふらとまた駅前に出てみる。町の明かりは、数えるほどしか点いていない。まだ細かな雪が舞っているが、それほど寒さは感じない。酔っているのだろう。漆黒の空を見上げると、なんだか吸い込まれていきそうに思えた。
 ああ僕は旅に出ているんだな。もうそれも終わるんだな。妙に感傷的になってきた。
 ワインも空いて、少しうたたねをしてしまっただろうか。夜も更け、僕は改札を通った。札幌行の夜行急行「利尻」は定刻どおり23時57分に、音威子府駅に滑り込んできた。発車まで5分ある。その待ち時間の間に、周遊券の期限が切れた。
 
 それから5年くらい経った夏。世は平成にかわっていた。
 その夏も、僕は再び浜頓別に居た。夏なので自転車だが、もう学生ではなく無限に時間はない。月曜日の朝にはそのとき住んでいた金沢に居なくてはいけないのだが、土曜の夜にまだ僕はやっばりそこに居て、夕食を食べていた。
 このあと、あのときのように乗り継いで帰ろうと思っている。だが、もう浜頓別から音威子府に向かう天北線は、廃止されていた。僕は前よりもちょっと早く、午後8時半に宿を出た。バスターミナルまで走り、そこで自転車を解体して輪行袋に入れ、音威子府行きのバスに乗った。
 スケジュールは、このあと音威子府駅から札幌行き夜行急行「利尻」に乗って札幌に出るのは昔と同じ。だが、そこからは列車を乗り継ぎ青森までゆく。もう青函連絡船はない。そしてブルトレ「日本海」で金沢へ。早暁5時頃に到着する。家へ帰りシャワーを浴びて出社する。
 バスは、音威子府駅に着いた。
 駅舎が、建て替わっていた。とても綺麗で広い。もう僕が寝たり長く居座ったりした待合も、ない。
 ただ駅前は、以前とあまり変わらない風景であり、灯りの点いている店もあまりない。待ち時間をどう過ごそうかと思ったが、あの時に怖くて入れなかったスナックの灯りはついている。扉を開けてみた。
 店には、ママさんが一人。客はいない。こういうところは常連さんばかりだろうから、空いているのは有難い。「旅のものですがいいですか?」
 そこで、ママさんと馬鹿話をして過ごした。実は駅で2度ほど寝たことがあるんですよ。夜行を7時間待ちしたことも。あのときは、この店には怖くて入れませんでしたよ。何よ鬼が出てくるわけじゃなし、若いヒトには優しいのよ。食べちゃうこともあるわよ。それ逆に鬼っぽくないですか。あらそうかしら。
 勘定は、思ったより安かった。確かに怖くはないわな。僕はほろ酔い気分で、夜行急行「利尻」に乗り込んだ。

 今は、「利尻」はもう無い。「日本海」も事実上廃止となっている。隔世の感がある。
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初詣のことなど

2014年01月13日 | 旅のアングル
 僕は、信心深くない人間である。呆れるほどに。
 日本各地の神社仏閣には、かなり出入りしているほうだと思う。観光的に有名なところ、歴史的に意義あるところから、そうでないささやかなところまで。さらに、いま自分が住む市域の神社には、全て足を運んでいる。
 ところが、訪れた目的である史跡や古い石造物などを見たり確認するだけで、柏手も打たずに出てきてしまうことすらある。もちろん社叢や神木、磐座などには畏敬の念も感じるのだが、ビルの谷間の神社などでは「ほほうこれが谷崎潤一郎が奉納した鳥居か」などと観光して何枚か写真を撮り、満足してそのままうっかり出てしまう。「あっお参りしてないや」しかし引き返したりはしない。
 全くひどいものだが、そんな僕でも初詣くらいは行ったりする。そして今年一年無事であれと祈願する。

 初詣の参拝者数ランキングというものがあって、正月を過ぎるとベスト5くらいはニュースになる。どうやって数えているのかとも思うが、おそらくは主催者側発表というやつだろう。
 毎年トップは明治神宮で、そのあとだいたい成田山新勝寺、川崎大師平間寺、伏見稲荷と続く。他に上位に並ぶのは熱田神宮、住吉大社、氷川神社、太宰府天満宮、鶴岡八幡宮といったところ。当然人口密集地が参拝者も多くなる。名高い伊勢神宮や出雲大社はランキングしない。
 初詣といえば神社だという認識を僕個人は持っているが、寺へゆく人も多い。前述の成田さんや川崎大師、また浅草寺などの寺院は全国でもトップクラスの参拝者数を誇り、他に西新井大師總持寺や佐野厄除大師惣宗寺なども人出は相当に多いらしい。ことに関東に寺院が目立つのは、神仏習合の歴史がそれだけ色濃かったからだろうか。
 関東以外では善光寺、また豊川稲荷妙厳寺などが人を集めているのだろう。今住むうちの近所では清荒神や中山寺、門戸厄神なども多そうだ。

 初詣の最古の記憶を辿ってみると、京都出身の僕はやはり伏見稲荷だった。
 祖父と父が毎年、元旦は伏見稲荷に参拝していた。家の神棚が稲荷社であり、新年に御神符をいただくためであったらしい。まだ小学校にあがるかあがらないかくらいの子供だった僕は、それに「連れて行け」とせがんだ。父は幼児を連れて行くのは面倒だったらしいが、祖父は喜んだとか。
 出発は、夜明け前である。京都の冬は寒い。母は、僕をかなり着膨れさせた。そのときの写真が残っているが、自分がまるで小さい達磨のように見える。
 まだバスの運行時間前で、少し離れた市電の停留所まで歩く。2kmもないのだが、相当に歩かされた気がした。もうこの最初の段階で、僕は愚図ったらしい。後々まで父にそのことを言われる。市電に乗って三条京阪駅へ。そこから京阪電車で伏見稲荷へ。ようやく空も白んでくる時刻。
 現在でも参拝者数が全国ランクインするくらいの伏見稲荷の人出だが、それは昭和40年代でも同じ。あれほどの人の波を見たのは、そのときが初めてだったような気がする。
 本殿にお参りして神札を受け取り、奥の院までゆく。その道は、あの鳥居が連なる稲荷道。当然年賀の参拝客でごったがえし渋滞も生じていたが、初めて見るなんとも神秘的な鳥居のトンネルは強く印象に残った。
 奥の院の茶店で、甘酒をのませてもらう。甘酒をのむのも、そのときが初めてだったような気もする。
 以来、元旦に伏見稲荷へ参るならわしとなった。最初の頃は甘酒が楽しみだったためもあるが、そのうちに自分の中で正月の行事として完全に定着していった。早朝から初詣にゆき、帰ればそれなりに晴れ着に着替えて屠蘇を祝い、雑煮を食べる。僕にとってはその一連の出来事が「ザ・正月」だった。
 祖父が亡くなり、その行事は途絶えた。
 父親もそれほど信心深いほうではなく、伏見稲荷への初詣は祖父の付き添いという面が強かったのだろう。また僕も思春期にさしかかり、祖父や父と初詣にゆくなどということが恥ずかしくなっていた頃と重なっていた。
 その後、神棚の御札はどうしていたのだろうか。よく知らない。今は父母も京都から引っ越して久しく、神棚ももう無い。

 以後しばらく、元旦に初詣には行かなくなった。子供の頃と違って大晦日はたいてい紅白歌合戦を最後まで見て、除夜の鐘を聴いてから寝る。早朝には起きない。京都であり、近くに神社はいくらでもあるのだが、面倒だったのだろう。前述したように信心深くなく、それは家族全員同じだった。せいぜい出かけたついでにどこかに寄る程度。「ちょっとここで参っとこか」「そやな」
 たいていは、元日ではない。
 それすらも無い年もあった。正月休みも明け、登校した帰りに友人らと神社に立ち寄る。中高の通学路には、やすらい祭りで有名な今宮神社があった。そこで手を合わせる。「考えたらこれ初詣やわ」「え、お前初詣まだやったんか」「正月に神社くらい参れや」そうやって揶揄され、いつものように門前の茶屋であぶり餅を食べて駄弁って帰った。
 そういえば一度だけ、高校のとき友人達と上賀茂神社へ行ったことがある。京都の一の宮であり現在は世界遺産としても知られる高名な神社なのだが、僕にとっては近くの神社であり、誘われたから行っただけで、そのグループの中に好きな女の子が居たからということ以外には理由はない。
 元日に初詣に再びゆくようになるのは、正月に旅をするようになってからである。
 
 初めて旅先で正月を迎えたのは、仙台だった。
 その年、12月半ばから周遊券を使って東北を旅していた。乗り放題切符を所持しているので夜行列車等で夜を明かしたりすることも多かったのだが、大晦日にそれではあまりにも寂しいため、仙台の宿に電話を入れた。「正月は空いてますか?」「うんやってるよおいで」
 以前に何度も泊まって気心の知れた宿だったので、僕はそのとき居た岩出山(伊達政宗が仙台に移るまでに拠ったところ)で地酒を一升買い、イルミネーションきらめく仙台へやってきた。
 大晦日の夜。日本中あちこちから(いや海外からのバックパッカーもいたので世界中からか)集まった旅人たちが、自己紹介をしつつ宴会。「どっから来たの?」「いつまで休み?」「○○には行った?」宿に集う旅人の会話は最初は定番化しているが、旅行好きという共通点があるのですぐにうちとける。僕が持ってきた一升瓶も瞬く間にカラになった。
 宴席もひと段落して宿の人が用意してくれた年越しそばをすすっていると、「出かけようぜ」と何人かが立ち上がった。「どこいくんや?」「お参りだよ」年もあと一時間くらいで明けようとしていた。
 宿は「北山五山」と称される寺町に近い。除夜の鐘があちこちから鳴りはじめている。そんな寺をいくつか歩く。東北の師走の夜は冷たく、粉雪も舞っているが、あちこちの寺には屋台も出ていて、温かいものを食べたり酒ものんだり、何より気分も高揚しているのでさほど寒さを感じない。鐘をつかせてもらったりしているうちに、時計が0時を指した。
 「A Happy New Year!」
 一緒に来ていたオーストラリアの旅人とハイタッチ。そのままみんなで青葉神社へ向かう。
 普段なら真夜中の時間。だが、人通りは多い。正月なのだな。僕は忘れかけていた「ザ・正月」の気分を思い出していた。柏手をうち、晴れやかな思いでこの年の安寧を祈願した。

 以来、正月にはだいたい旅の空の下で初詣にゆく。例えば函館なら函館八幡宮へ。博多なら櫛田神社へ。松山なら伊佐爾波神社へ。例外は幾度か沖縄で正月を過ごした年で、たいてい元旦は離島に居たので神社がなく(ウタキによそ者が行くのはさすがにちょっと気が引ける)、本島に戻って波上宮へ行ったり、或いは地元へ戻ってから、ということになったが(尾山神社が多い)。しかし離島ではだいたい初日の出を見ていたので、気分的には同じだった。暗いうちから動くハレの行事としては。

 結婚して後は、妻の実家で元旦を迎えるようになった。雪深い北東北の田舎の村。
 何度も書いているが、津軽の正月は大晦日の昼から始まる。ご馳走を並べ酒を酌み交わし年越しの行事とする。もう日が暮れるころには僕はベロベロになっていて、ストーブの横でぶっ倒れて寝ている。
 夜も更けた頃、紅白歌合戦を見終わった義母に「起きねば」と揺すられて起きる。年が明けるまであと十数分だ。初めてのときはちょっと驚いた。
 長靴を履いて、外に出る。たいていは身が切れるほど寒い。酔いも一瞬でどこかへ飛ぶ。歩いてちょうど0時頃に、神社に着く。小さな村の鎮守さまだ。
 さすが雪国であり、拝殿が完全に密閉されていて、あかりが煌々と灯され中ではストーブが焚かれている。神主さんがいる大きな神社ではなく、氏子総代が参拝者を迎えるために毎年交代で詰めているらしい。
 そこへ、村中から人が集まってくる。拝殿はちょっとした集会所だ。僕も、靴を脱いで上がりこむ。周りで話されている会話は津軽弁なので僕にはさっぱり分からない。そして、お参りをする。お参りも、一人づつローソクを灯したりお供え物をしたり、非常に興味深い。神仏習合が今でも息づいている気配がする。境内には地蔵や、馬頭観音板碑、南無阿弥陀仏の名号碑、また各種の講の碑(二十三夜塔など)などがあり、そういうのにもひとつづつお参りし酒をかけたりする。初めてのときは何とも不可思議であり、僕はあとから民俗学の本などをずいぶんと読んだ。

 そんな初詣をするようになってから、ずいぶん経った。そうしているうちに、少しづつ言葉も理解できるようになってくる。「○○さんちの婿さんか。今年は去年よりいいセーター着てるな」うわぁそんなことまで見られて話題になっていたのか。田舎というところは、怖い。
 なお、これが初詣なのだが、昼に第二弾でもうひとつ神社へゆく。村の鎮守さまではお守りや御札が売っていないから大きなところへゆくのだ。かつては参る神社も決まっていたのだが、僕が来てからはわがままを言ってあちこちいろんなところへ行くようにしてもらっている。今年は岩木山神社だ、今年は猿賀神社だ、今年は善知鳥神社だ、などと。そうやって、少しだけ旅行気分を味わっている。
 
 
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吉田拓郎「春を待つ手紙」

2013年12月28日 | 好きな歌・心に残る歌
 子供の頃は、正月が待ち遠しかった。正確には、クリスマスに始まる年末年始というものに、心が躍った。
 いや、今もまとまった休暇があって、愉しいには違いない。だが、それだけの時間を確保するために、様々な皺寄せがあるのも事実で、ポカンとイベントを待つ気持ちにはなれない。大人になるということは、ある意味つまらないとも言える。
 クリスマスは、僕が子供の頃はケーキを食べてサンタさんにプレゼントをもらう日だった。特に裕福な家庭ではなかったために、高価なものをもらった記憶は無い。菓子とか、トランプなどの遊具だったと思うが、それも嬉しかった。今は若者同士で贈り物をしてセックスをする日になったことを思うと、隔世の感がある。
 そして年の瀬。正月を迎えるためにさまざまなイベントがある。大掃除。年賀状作成。また、もちつき。臼や杵の時代ではなく僕の時にはもう「餅つき機」というものがあったが、家族総出でそれを行い、つきたての餅を食べる。大晦日になれば、母はお節をつくり、紅白歌合戦を見ながら年越し蕎麦を食べる。この日だけは、子供も夜更かしをしていい。

 紅白歌合戦というものを観なくなって、どれくらい経っただろうか。あれを皆で観るのも、ひとつのイベントだったような気がする。
 僕にとって年末年始が旅の季節となって久しい。旅に出てしまえば、TVはほぼ観ない。もちろん冬だから宿に泊まっているが、年越しのパーティーをしたりただ呑んでいたりで、あまりTVが介在することがない。
 確か西表島で、ポールサイモンが出ていたのを観た。紅白にサイモン先生が?と驚いたがそれはニューヨークからの中継で来日していたわけではなく、しかも歌ったのが「Bridge over Troubled Water」なので拍子抜けした記憶がある。テロップに「ポール・サイモン(初)」とありなんだこれはと思った。次に吉幾三が登場してTVは消された。
 結婚してからは、旅はするけれども大晦日は妻の実家に滞在している。ただ津軽の正月というのは、31日がメインだ(→正月の過ごし方)。昼から盛大に呑んでいて、僕なんぞもうそんな紅白の時間には潰れている。お義母さんらは観ているようだが、僕はイビキをかいている。若くないとつくづく思う。
 最後に紅白を観たのはたぶん、吉田拓郎が出たときだ。今検索したら、1994年となっている。20年くらい前か。僕はまだ20歳代だったのだな。もう結婚していたので、妻の実家で観たんだろう。若かったから大酒のあとも持ちこたえられたのかと思う。
 動画があった。(youtube)
 スーパーバンドで出ている。石川鷹彦さんがいるのはまあそうだろうと思ったが渡辺香津美氏がリードをとっているのでほほぅと思った記憶がある。NHKも気を使ったのだろう。吉田建さんが若いな。宮川さんはもう亡くなった。コーラスの演歌の人は不必要だったが(女性コーラスで十分)、日野皓正、大西順子他一流のバックで、やっぱりポケットに手を突っ込んで歌っている。レコ大の「襟裳岬」の授賞式のときもそうだった。吉田拓郎を知らない人が観るような場面では、こんなことをしてしまう。
 なんで「外は白い雪の夜」だったのだろう。単純に、冬のうただったからだろうか。それとも、この曲のテイストが受け入れられやすいとの判断だったのだろうか。まさか「雪」とか「襟裳岬」を歌うわけにもいかないし。
 ただ「外は白い雪の夜」は、いい曲だ。不遜だと言われるかもしれないが誤解を恐れずに言えば、実に細密に気を遣って作られている。松本隆作詞ということもあるだろう。作りこまれた感がある。
 その松本隆の詞は、別れがテーマだが男女の掛け合いとなっている。最初は、「大事な話が君にあるんだ」と別れを切り出す男。そして次に、その別れを受ける哀しい女の心。

 このうたは1978年、LP「ローリング30」の一曲として発表された。それから約10年後に、僕も同じような経験をしてしまったことがある。もちろんなぞったわけではないが。その話はまだ熟成されていないので書けないけれども、そのときは、自分はなんという身勝手な人間かという嫌悪感を抱くとともに、松本さんは巧みに表現するなとも思った。
 こういう別れの場面で、男と女の両方から語るやりかたは、デュエット曲には数多いのではないかと思うが、ソロだと表現が難しいのではないか。ただ松本さんは以前からやっている。代表は「木綿のハンカチーフ」だろう。
 そして、拓郎も同様のうたをかいている。「春を待つ手紙」。

 このうたは1979年、シングルで発表されたが、そのB面は実は「外は白い雪の夜」である。つまり、両面とも男女の別れのそれぞれを書いている。そして拓郎作詞作曲の「春を待つ手紙」は、何と往復書簡の体裁をとっている。
 僕は「春を待つ手紙」のシングルは、発売時には入手していない。最初はラジオからのエアチェックだった。だから、往復書簡であることに気づかなかった。
 歌詞カードを見ると、まず「直子より」と差出人が明記されている。

  追いかけましたあなたの姿だけ 幼いあの頃の想い出あたためて
  あれから幾年 友さえ嫁ぎ行き その日を待つように父母も逝きました

 これは、直子さんの手紙である。そして次に「俊一より」として、彼の手紙が二番となっている。三番はまた直子さんの返信、そして四番は俊一の返信となっている。だが歌詞には、俊一も直子も登場しない。だから、歌詞カードを見ないとわからない仕掛けになっている。
 男が別れを切り出しているのは「外は白い雪の夜」と同じ。だが松本さんの「外は白い雪」がその別れの場面を具体的に、目に浮かぶように描写しているのに対して、「春を待つ手紙」は心情をより抽象的に(拓郎流に)、さらに哲学的に複雑な言葉で綴っている。
 だから、わかりにくい。往復書簡ということも聴いただけではピンとこないし、「外は白い雪の夜」とは対照的とも思える。
 ただ、言葉のひとつひとつは、沁み入る。

  人間だから求めてしまうけど それこそ悲しみと知ってもいるけれど (直子)

  待つ身の辛さがわかるから急ぎすぎ 気づいた時には月日だけ年をとり (俊一)

 非常に印象的な歌詞がある。

  約束なんて 破られるから美しい 誰かの言葉が身体をかすめます (直子)

 たぶん、そんな誰かの言葉は無い。聞いたことがない。「約束は破られるためにある」という言葉ならあるが。
 これを最初に聴いたときにはまだ少年だったから、そんな言葉があるのか、と素直に思ったが、この歳になっても「約束は破られるから美しいのだ」なんて言葉は未だに耳にしていない。
 つまりこれは、何かの格言ではなく、もしや俊一が言ったということなのか。
 そして、こんなことばが言えるということは、相当に辛辣な思いをしているからではないか。約束を破られても、それを美化しないと生きていけない経験があったから絞りだされた言葉ではないのか。
 だから「男の意気地なし」である俊一をただ責めることはできないし、僕も約束が破られるたびに、この言葉が身体をかすめる。この辛い拓郎の言葉が。
 「春を待つ手紙」の心象風景は、冬だ。寒い心。具体的に、外には白い雪が降っているわけではないが、その寒さは僕らを押し潰す。

 今年もまた寒い冬になっている。
 それは、ただ体感温度のことだけではない。あの頃は、ただ「年を越す」ということだけで愉しかった。そんな時代があった。だが今は。

  傷つく事に慣れてはいないけど ましてや他人など傷つけられましょか (直子)

 拓郎は「春を待つ手紙」をライブでほぼ歌っていないはず。それは、やはり前述したように、歌うことが難しいからではないのか、と思っていた。「外は白い雪」を紅白歌合戦に持ってきたのとは、本当に対照的に。
 実際ライブで歌ったことがあるのかどうかを調べようと思って少し検索してみたら、こちらの方のサイトに出逢った。→泣きたい気持ちで冬を越えてきた人
 拓郎は、震災復興チャリティで「春を待つ手紙」を生で歌ったらしい。知らなかった。詳しく書かれているので是非一読していただきたい。音源もあった。

 胸に迫った。
 このうたは、朗らかな曲調、そして明るいリードギターが救いでもある。だがこのライブVer.は、生ギターとブルースハープの弾き語り。
 うたは、一番から四番までは、直子と俊一の手紙のやりとり。そして、五番がある。それは、拓郎の言葉だ。
 
  誰もが誰かを恋しているんだね それはあてのない遙かな旅なんだね
  旅する人には人生の文字似合うけど 人生だからこそひとりになるんだね

 力強い。
 そして次の言葉があるからこそ、拓郎は震災復興のライブでこのうたを選んだのだろう。
 
  ここでも春を待つ人々に逢えるでしょう 泣きたい気持ちで冬を越えてきた人

 二年前も、寒い冬だった。そして、この冬も寒い。
 行き場を失った人もいるだろう。追い詰められている人もいるだろう。明日が見えない人もいるだろう。
 深い悲しみの中にただよう人もいるだろう。何かを失ってしまった人もいるだろう。
 もがいても、もうしょうがないんだ。待つ。
 春が必ず来ると信じていなければ、この冬は越えられない。
 そんなことを自分に言いきかせつつ、先へ進もうと思う。
 辛い思いを抱えた多くの人々にも、春が訪れますように。
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酒呑み初めし頃

2013年11月30日 | 酒についての話
 初めて酒をのんだのはいつか、という話をすれば、それはおそらく正月の屠蘇である。何歳のときだったかは記憶にない。
 それ以外、となればどうか。これは語ると必然的に未成年者飲酒禁止法違反の話となってしまう(屠蘇ももちろんそうだが)。自分勝手な言い分だが大目にみてもらうことにしよう(匿名で書いていて良かった)。

 しかし、僕は少年時代、酒の経験はそれほど多くなかったといえる。それは、なにより両親が下戸だったからだ。したがって、家に酒がない。せいぜい貰い物の梅酒か、親父が趣味で作った果実酒、さらには親戚の集まりなどでビールをひとくち飲まされた、くらいのものである。これでは習慣性など生じないし、うまいとは思わなかった。ビールはおきまりの如く「何て苦いものだろう」という感想しか持ち得なかったし、赤玉ポートワインはそこそこうまいと思ったがやはりジュースのほうが望ましかった。
 こういう人間が、のちに酒のみになるのだから、大人になるということは摩訶不思議だ。
 親の監視下を離れて酒を口にするのは、高校時代くらいだったか。友人の家などで「背伸びをして」「いきがって」酒をのむようになる。のむ酒は、極めて廉価なウイスキー(トリスなどではない。Qとか21とかNEWSとかコブラとか…懐かしい)をコーラで割ってのむ。所謂コークハイだ。口当たりがよくのみやすい。
 もうコークハイなどは30年ものんでいない。子供だったと思う。あんなのは、ただ酔うためだけのシロモノであり、酒のうまさなど全く考慮されていない。しかしこの頃が、酒を酔うためにのんだ嚆矢だろうと思う。最初は、酒はやはり麻薬だったのだ。味わうためではなくただ酔うためにのんだ。

 これは、大学へ行ってもかわらない。大学生になれば、酒をのむ機会が飛躍的に増える。何人かで集まれば、まず酒だ。そしてコンパなどで「居酒屋」に入ることも多くなった。
 酒をのませる店に入るというのは、新鮮だった。のめば楽しくなり放吟する。人との垣根も取っ払われる。だが、とくに酒をうまいと思ってのんでいたわけではなかったと思う。ビールの苦味には抵抗がなくなっていたけれど、だからと言って「今日は暑いな、こういうときにはビールだ」なんて考えにはまだ至らない。あくまで、皆で騒ぐ手段であり、味わいは二の次だった。

 いつから酒をうまいと思ってのみはじめたのだろうか。そんなことをぼんやりと思い出しながら書いている。
 
 これはうまい、と思って酒をのんだ最初の記憶は、ある。
 まず清酒だが、これは初詣のときにある神社で振舞われたお神酒である。まだ大学へ行く前で、少年時代と言ってもいい。巫女さんが銚子でかわらけに少し注いでくれたものを口にしたときに驚いた。うまい。樽酒だったのだろう。ほのかな木の香りがしみわたった。
 また、大学に入ってのち、教授の家に遊びに行って、そこで無銘の瓶に入ったよく冷えた清酒をのんだ。品評会用のものだと先生は言っていたが、これもまた驚いた。非常に上質の吟醸酒だったのだろう。香りが全然違う。
 しかしこういうのは、特例である。これをもって、清酒に目覚めたというわけではない。樽酒や吟醸酒だけしかのまない大人になったのでもない。
 同様に、ビールは札幌の出来立てのビールであろうし、ワインはまた大人に少しだけのませてもらった貴腐ワインだろう。ウイスキーやブランデーにも、同様の経験がある。だが、やはりこういうのは特例。酒が嫌いな人だって、うまいと思うはずだ。
 ただ味わいだけではない。極めて上質のものから大衆的なものまで「酒」というそのものを愛するようになったのは、いつだったか。 

 酒をのむという場合。最初は、常にまわりに人が居た。皆でのむのが楽しいからのんでいた。そうやって酒に慣らされてきたのだけれども、人を介さずとも自発的に酒をのむようになったときは、いつだったろうか。背伸びやいきがり、また潤滑剤としての役割ではなく、純粋に酒をのみたいと思ってのんだときは。そのときが、酒との人生が始まったときではないかと仮定してみる。
 そうすると、いくつか思い出せる場面がある。 

 高校を卒業してのち飛躍的に酒をのむことが増えたけれども、それでも自宅でのんでいたわけではない。親が下戸のため、父親の晩酌に付き合うという場面もない。また、そこまで僕が酒を必要としていたわけでもなかった。あくまで酒は、友人等と機会を設けてのむものだった。
 同時期に僕は、旅をするようになった。交通手段は自転車。
 最初は、大学一回生のときに北海道の宗谷岬を目指して自宅から走り始めた。初めての一人旅だったが、思い返してもほとんど酒をのんでいない。
 もちろん日のあるうちは自転車を漕いでいるわけで、酒をのむはずもない。また夜は、宿泊施設としてはユースホステルが主であり、基本的に飲酒ご法度の場所だった。野宿をすることもあったが、ひとりで酒をのむ習慣がないため、単純にめしを食べて寝袋にくるまって寝るだけ。酒が介在する機会がない。
 京都を出発して青森まで到着したのが10日後。本州最後の日ということで、今の僕なら当然乾杯をしていただろう。だが、のむ予定は全くなかった。思いもしなかった。
 だが、青森市に着いた夕刻。その日は、ねぶたまつりの最終日だった。予定していたことではなく、偶然だった。僕は初めて遭遇する熱狂の祭りに、思わず飛び込んだ。ラッセラー・ラッセラーと激しく踊るはねと(ねぶたの踊り手)の姿を見て、観客だけでは我慢できなくなったのだ。そして、あるはねと集団に紛れ込んで一緒に跳ねた。こっちは衣装など持ってないので上半身裸だ。有難いことに受け入れてくれて、見ず知らずの同世代の若者達と一緒に跳ねた。
 「どっから来た?!」「京都や!」「おう、鈴つけねばまね(ダメだ)、これ腰に!」鈴までもらった。
 そして、振舞い酒。僕はガブのみし、踊って跳ねて、知らない人たちと肩を叩きあい、酩酊した。記憶を失ったわけではなかったが、べろべろだった。そのあと、よくフェリー埠頭まで行けたなと自分でも思う。青函の深夜便に乗って、函館へ渡った。

 酒がのめる人間で良かったと思った。
 けれどもその後、酒をのむようになったのかと言えばそうではない。札幌で帰省中の大学の友人と会ってのんだくらいで、目的地だった日本最北端宗谷岬に到達したときですら、乾杯もしなかった。そういう発想すらなかった。
 だいたい貧乏旅行で、余剰の予算が無かったということもある。結局その旅でのんだのは、ねぶた酒と札幌酒、そして旅の終盤で同宿の人に奢ってもらった缶ビールくらいのものだ。
 ただ、夢のように楽しい旅だった。いつまでもこんな時間が続いたらいいのにと思っていた。美しい山河、峠の汗と感動的な風景、抜けてゆく空とそよぐ風、燃える夕陽と煌く星、そしてたくさんの人々との出会い。
 小樽から船に乗って北海道を離れなければならないとき、僕は無性にのみたくなった。それは祝祭を終えなければならない寂寥感ももちろんあっただろう。町のスーパーでワインを一本買い、船上の人となった。
 そして、出航するデッキで、遠ざかる風景を見つつ、のんだ。
 それが、僕がひとりきりでのんだ最初の酒だった。そのときの酒は、旅の余韻を彩るにも、思い出を反芻するにも、寂しさを紛らわすにも格好の相方となった。もちろん、うまかった。

 振り返れば、以来酒を友と思うようになったと思う。

 それでも、いつも酒ばかりのむようになったわけではない。学生時代は、基本的に懐が寒い。もちろん様々な場面場面で酒をのんできたが、やはり基本的に「皆でのむ酒」の範疇を超えることはなかったし、自宅ではのまない。
 けれども、旅の空の下ではのむようになった。貧乏旅行には違いないが、宿泊する予算を削っても一杯の酒を選ぶことがあった。その頃には僕も成人し、誰にも見咎められることもない。
 各地でのんだ。それは主として野宿を伴うものだった。田舎の無人駅で終電が過ぎたあと。ワインが多かったが、月を見ながらシェラカップに注いだ酒をひとりのむ。旅では気分が高揚している。酒はそれをさらに助長させてくれる。ときに蚊に悩まされながら、煌々と照る月の下での一杯。ほろ酔いとなって、寝袋に入る。
 ときに桂浜で大酒したりということもあったが、概して一人でのむ酒はおとなしいものである。じんわりと酔いに身をまかせる心地よさ。
 自転車だけでなく、汽車旅も始めるようになった。さすれば、車窓を見つつのむ。傾けるのはウイスキーの小瓶
 だが、居酒屋には入らなかった。それは予算も心配だったし、一人で居酒屋というものも経験が無く、なかなか知らない店ののれんをくぐることが怖くて出来ない。

 結局、はじめて居酒屋に一人で入ったのも、旅の途中だった。冬の青森。
 この町は、夏のねぶたでの思い出が鮮烈に残る。だが季節は冬。吹雪いてこそいないものの、雪深く寒かった。駅前にほとんど人が居ない。その日僕は、やっぱり青函連絡船で北へ向かう予定である。しかし、あのときのような熱狂は今は無い。しんしんと冷え込む冬空。
 出航は夜中の12時。それまでまだ5時間もある。青函の待合室で暖をとりつつ待つのが貧乏旅行の常道だが、なんだか猛烈に寂しくなってきた。夏の楽しかったあの日を思い出したからだろう。
 どこかで酒を買おうか。けれども寒いな。
 今夜は宿に泊まらないので、少しくらいはいいか、と思い、駅近くの安そうな店に思い切って足を踏み入れた。もつ焼きを中心とした店だ。
 店の中は、暖かかった。その暖かさが有難かったが、お客さんは少ない。僕はまごつきながら「ここいいですか?」と聞いて、頷かれたのでカウンターに座った。こんな飲み屋のカウンターに一人で座るのも、また初めてのことだ。
 今でこそ初めての居酒屋だろうが何だろうがバリアフリーのようにすっと入り込みさも常連のような顔で酒をのむのが得意な厚顔人間だが、当時は緊張した記憶がある。入る前は「お酒ちょんだい、せから適当に焼いて」という漫画か何かで読んだ台詞を言おうと思っていたが、萎縮してとてもそんなことは言えない。お酒下さい、というのがせいいっぱいだった。
 まだまだ昭和の時代。お酒、と言えば自動的に燗酒である。冷蔵庫から出してくる吟醸酒などは一般的ではない。ましてや寒い冬。
 「で…カシラとレバーとタンを焼いてください」
 実は、僕は焼き鳥屋の経験はあるがもつ焼きの店に入ったのは初めてだ。当時、あまり関西ではもつ焼きを出す店は少なかったと記憶している。その頃からグルメエッセイなどを読むのが好きだったのである程度承知していたが「カシラ」などもちろん見たことも無い。
 酒が来た。
 少し熱めに燗がしてある。そりゃ当然だろう。それを一杯のんで、ようやく落ち着いた。ただ、まだまだ経験不足の若僧で酒さえのめば天下無敵になるほどヒネてはいない。やがて来たもつ焼きをかじりつつ、間の持たなさを実感した。今では一人酒も慣れたものだが、当時はゆったりとする余裕も無くただのみ食べるしかやることがない。酒もなくなり、もう一本と追加した。
 やがて「どこから来たの」という声がかかった。店の人だったかお客だったか記憶があいまいなのだが、駅近くなのでよそ者も来る店なのだろう。ただ、青森である。聞き取りづらい。今では津軽出身の妻がいてヒアリングには多少の自信もあるが、あの頃は戸惑った。
 しかし、徐々に慣れてきたのか、話も出来るようになってきた。「夏はねぶたに飛び入りして跳ねました。楽しかった」「おおそうか!」話題もある。そうして、約3時間くらいいただろうか。結構のみ食いしたのだが、勘定は1440円(当時の日記にそう書いてある)。店を出るときには、すっかり満ち足りた気持ちになっていた。
 以来、一人居酒屋が全く問題ではなくなった。
 
 こんなふうに酒に親しんでこれたのは、幸いだったと思う。失恋で酒をのみはじめたり、社会人のストレスで酒に逃げるようなのみはじめであったなら、酒は辛いものになっていたかもしれない。
 つらいときも楽しいときも、のむ。そんな人生となったことに、乾杯したい思いでいる。
 今は、病気などにならない限りは、365日のんでいる。酒なくてなんの己が桜かな。往時に比べ酒量は圧倒的に減ったが、それでものめることに感謝しつつ、今日ものもうと思っている。
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