村下孝蔵さんが逝ってしまってから、今年(2011)で十三回忌を迎えていた。亡くなったのが梅雨時だったので、ファンからは「五月雨忌」と呼ばれている。もちろん、この「五月雨」は、村下孝蔵の代表曲である「初恋」から採られている。
五月雨は緑色 悲しくさせたよ一人の午後は
村下孝蔵は、遅咲きだった。この「初恋」は30歳のときの曲。オリコンチャートを駆け上がり、誰もが知る大ヒット曲となった。
好きだよと言えずに初恋は 振り子細工の心
放課後の校庭を走る君がいた 遠くで僕はいつでも君を探してた
「初恋」がヒットするのと時を同じくして村下孝蔵は肝炎を病み、メディアに姿を現すことが出来なかった。残念なことだったと本当に思う。当時、フォークシンガーにはTVに出ない人も多くいたが、村下さんはそうじゃなかっただろう。それ以前にも夜ヒットだったかは忘れたが出演していたし、またそれ以上にファンを大切に思っていた人だったから。惜しいことだった。
村下孝蔵は熊本水俣に生まれた。水泳選手として大会優勝経験も持ち、高校卒業と同時に実業団入り(新日鐵)。しかし芽が出ず退社、実家が広島に越していたため村下孝蔵も広島へ移り住むことになる。
僕はずっと長いこと、村下孝蔵は広島の人だと思っていた。広島フォーク村に居たことはよく知られていたし、後述するが「松山行きフェリー」が僕にとってあまりにも印象が強かったから。だが、実際は広島には19歳のときにやってきている。
もうこの頃自主制作レコードを出している。そしてヤマハにピアノ調律師として在籍しながら音楽活動を続け、デビューのチャンスを掴んだのは27歳のときだった。だから、村下孝蔵のプロ歌手としての歴史は、20年に満たない。
村下孝蔵がいいのは、その紡がれる叙情的な旋律もさることながら、その精緻に綴られた言葉の数々。
長い壁には落書き 頭を垂れ黙り込む空に花吹雪美しく
はらり風に舞った されど寂しき鐘の音が鳴る その紅きくちびるよ (花ざかり)
指切りしてさよならを言った遠い夕暮れに 綿毛の雲が流れた夏の日 覚えていますか
明日もきっと晴れるはずとみんな信じていた …追いかけていた小さな影に今も届かない (かげふみ)
白い壁を染めて草笛が響く丘 菜の花とそして夕月
切れた鼻緒 帰り道の少女が一人 灯りが恋しくて震えてた
あはれ 恋も知らないで睫毛濡らした少女は 悲しき夕焼けの幻か (少女)
完璧な詩人だろ、この人。曲がなくても遜色なく成り立ってる。
そして、何とも声がいい。
歌のうまさというものは相対的な部分もあり、楽曲によっても異なる。声楽における巧さと浪曲における巧さは違うだろう。そういうことを踏まえつつ、村下孝蔵は歌がうまい。さらに声の響きが実に心地いい。この声の心地よさは、小椋佳、さとう宗幸、大塚博堂と並んで僕の中では四天王。
「松山行きフェリー」という曲は、村下孝蔵のデビューシングル「月あかり」のB面であり、デビューアルバム「汽笛がきこえる街」の第一曲目に採用されている。それに、それ以前の自主制作アルバム「それぞれの風」の掉尾を飾る曲ともなっている。
村下孝蔵の代表曲が「初恋」であることに異論はない。ある一定の年齢以上であれば誰もが知っている曲。そして初期の「初恋」を中核とした「春雨」「ゆうこ」「踊り子」などの一群の曲の認知度は高く、ある意味村下孝蔵の黄金期であったとも言える。
そして後期を象徴する曲はアニメ「めぞん一刻」の主題歌となった「陽だまり」だと考えてもいい。この曲によって村下孝蔵を知りファンとなった若い世代もいる。
そうした表立って知られている村下孝蔵の曲たちに対し、「松山行きフェリー」は、もう一面において村下孝蔵を代表する曲だとずっと思っていた。裏の代表作とも言えばいいのか。村下孝蔵自身も、「ロマンスカー」などと並んで思い入れの深い曲であると発言している。だが、ファンの支持は集めてもあまり一般的な認知度は高くない。シングルになっていないので仕方の無いことではあるのだが。
こんなにつらい別れの時が 来るのを知っていたら
君を愛さず友達のままで 僕は送りたかった
なんともせつない。こんなにポップなメロディーなのにどうしてこう哀しいのか。
僕は、全くのところこういう旋律に弱い。何かが揺り動かされてしまう。Without Youに似ているが。
村下孝蔵ホームページの目次から「歴史館」→「村下孝蔵/傷心の旅」と進む。すると、エッセイが出てくる。ご本人が書かれたものかどうかはわからないが、内容から考えても村下孝蔵さん自身だろう。
そこに、
これを読んで、ああ、別れは春だったのだなとあらためて思った。僕は、このうたを始めて知ったときと、また曲調の爽やかさから勝手に夏だと思い込んでいた。そうだな。別れの季節は、春だった。
港に沈む夕陽がとても悲しく見えるのは すべてを乗せた船が遠く消えるから
村下孝蔵という人は、前述したがとても精緻な詩でうたを提示してこられる。それが天賦の才能なのか、それとも努力の賜物であるのかそれはわからない。一切外国の言葉は使わず日本語だけで編み上げてくる。
ところがこの「松山行きフェリー」には、そういう文学的な側面は影を潜めているようにも思う。これは僕だけがそう思っていることかもしれないので異論はあっていいと思うけれども、とても言葉がストレートに感じる。
思うに、このうたは飾れなかったのかな、とも考える。あの日の想いが強すぎるのかもしれない。また飾る必要も、ない。確かにへんな衒いなど邪魔だ。素直な吐露が、強く胸に迫ってくる。
だが、これもまた術中にはまっているのかもしれない、とは思う。前の引用にある「当時の歌詞は今とは違う」という言葉。
「松山行きフェリー」の詩には、変遷があるのだ。
何度、改稿を重ねたのか、それはわからない。だが、僕らがわかる範囲で一度、歌詞はかわっている。メジャーデビュー以前の自主制作盤「それぞれの風」に収められている「松山行きフェリー」の歌詞と、デビュー以後のものは、異なっている。
インディーズ盤である「それぞれの風」は当然ながら入手困難であろうと思われるので(僕もちゃんと持っていない。一部ダビングを繰り返されたカセットテープの音源のみ)、ちょっとここに提示しておいた。
これをみると、単に言葉の調整だけではないことがわかる。
「それぞれの風」盤のほうが、強気にも見える。少なくとも、自分よりも彼女の方を気遣っている。そして「僕がいなくても」君は大丈夫さ。発展的な別れにも、見ようと思えば見られる。
しかし、メジャー盤はがらりと変わる。強い悲しみ。
別れを切り出したのは彼女だったことがわかる。その原因は、もしかしたら村下孝蔵のデビューにあったのかもしれない。ピアノ調律師のままの地道な暮らしを選んでいれば、彼女はついてきてくれたのかもしれない。けれども「そんな事など今の僕に出来はしない」のだ。
想像でしかないけれども、「それぞれ」盤のときは、村下孝蔵は本当にそんな発展的な別れだと思っていたのかもしれない。いや、思い込もうとしていたのかもしれない。そうでなければ、男は別れの悲しみに耐えることが難しい。
しかし、エッセイに書かれているように、一年後「既に婚約している」彼女と逢い、想いが噴出してしまったのかもしれないな、とこっそり思ってみる。
「貴女を乗せた船が遠く消えるから」が「すべてを乗せた船が遠く消えるから」に替わるとき。つまり貴女は僕のすべてだったのだ。そして、港に沈む綺麗な夕陽は悲しみに染まる。
先ほど「文学的ではない」と書いたことを訂正したい。異論は僕自身から出た。言葉は確かにストレートだが、その「想い」を伝えるにはそれが最上の言葉だったのだ。
しばらく前の話だが、高浜の松山港に立ち寄ったことがある。その時は自動車で旅行中であり、ちょっとのぞいてみたくなったのだ。そしてここが「松山行きフェリー」の着岸する港か、と感慨を覚えた。
広島の宇品港には、実は二十歳の時に行ったことがある。そのときは、別府から船で着いた。でもその時僕はまだ「松山行きフェリー」といううたを知らなかった。だから、残念ながら思いに浸ることは出来ずじまい。再訪したいと願っているがまだその機会を得られずにいる。
村下孝蔵さんが亡くなったのは46歳。そして、今年(2011年)とうとう僕もその年齢になった。
村下さんは学生の頃は水泳選手であり、おそらく丈夫な身体を持たれていたのだと思われる。しかし肝炎を病んでしまった。だがそんなこともあってか、体調には人一倍気を遣われていた、との話も聞く。
その村下さんは、あっという間に逝ってしまわれた。死因は脳内出血。リハーサル中に突然「体調がおかしい」と感じられて病院へ。そのまま昏睡状態となり、4日後に死去。
死は、突然にやってくる。しかしこれでは、あまりにも猶予が無い。
僕も、昨年あたりから死を強く意識するようになった。昔は「オレだけは大丈夫」と思い込んでいたし、自負もあった。けれども今はそんなことは微塵も思ってはいない。明日はどうなるかはわからない。村下孝蔵さんもそうだった。
もちろん覚悟なんて全くできないが…村下孝蔵さんはそのときどう思ったのだろう。そんなことを考えるゆとりも無かったのかもしれない。しかし、無念だっただろうことは想像できる。志半ばであったことは間違いない。我々も、今思い返しても無念だ。
でも、村下孝蔵さんはこんなにも惜しまれている。沢田聖子女史のこのうたを聴くと、本当に胸が詰まる。そして志半ばだったとしても、それまでに成し遂げたことは、あまりにも大きい。死後も、若いファンが増え続けていると聞く。
そんなことは、僕らには出来ない。何も成し遂げたものもなく、惜しまれることもおそらく、ない。けれども、遥かなる巨人として、村下孝蔵さんを見上げていきたい、とは思う。
何を書いているのかわからなくなったが、着地点が見つけられないのでこのへんで。
五月雨は緑色 悲しくさせたよ一人の午後は
村下孝蔵は、遅咲きだった。この「初恋」は30歳のときの曲。オリコンチャートを駆け上がり、誰もが知る大ヒット曲となった。
好きだよと言えずに初恋は 振り子細工の心
放課後の校庭を走る君がいた 遠くで僕はいつでも君を探してた
「初恋」がヒットするのと時を同じくして村下孝蔵は肝炎を病み、メディアに姿を現すことが出来なかった。残念なことだったと本当に思う。当時、フォークシンガーにはTVに出ない人も多くいたが、村下さんはそうじゃなかっただろう。それ以前にも夜ヒットだったかは忘れたが出演していたし、またそれ以上にファンを大切に思っていた人だったから。惜しいことだった。
村下孝蔵は熊本水俣に生まれた。水泳選手として大会優勝経験も持ち、高校卒業と同時に実業団入り(新日鐵)。しかし芽が出ず退社、実家が広島に越していたため村下孝蔵も広島へ移り住むことになる。
僕はずっと長いこと、村下孝蔵は広島の人だと思っていた。広島フォーク村に居たことはよく知られていたし、後述するが「松山行きフェリー」が僕にとってあまりにも印象が強かったから。だが、実際は広島には19歳のときにやってきている。
もうこの頃自主制作レコードを出している。そしてヤマハにピアノ調律師として在籍しながら音楽活動を続け、デビューのチャンスを掴んだのは27歳のときだった。だから、村下孝蔵のプロ歌手としての歴史は、20年に満たない。
村下孝蔵がいいのは、その紡がれる叙情的な旋律もさることながら、その精緻に綴られた言葉の数々。
長い壁には落書き 頭を垂れ黙り込む空に花吹雪美しく
はらり風に舞った されど寂しき鐘の音が鳴る その紅きくちびるよ (花ざかり)
指切りしてさよならを言った遠い夕暮れに 綿毛の雲が流れた夏の日 覚えていますか
明日もきっと晴れるはずとみんな信じていた …追いかけていた小さな影に今も届かない (かげふみ)
白い壁を染めて草笛が響く丘 菜の花とそして夕月
切れた鼻緒 帰り道の少女が一人 灯りが恋しくて震えてた
あはれ 恋も知らないで睫毛濡らした少女は 悲しき夕焼けの幻か (少女)
完璧な詩人だろ、この人。曲がなくても遜色なく成り立ってる。
そして、何とも声がいい。
歌のうまさというものは相対的な部分もあり、楽曲によっても異なる。声楽における巧さと浪曲における巧さは違うだろう。そういうことを踏まえつつ、村下孝蔵は歌がうまい。さらに声の響きが実に心地いい。この声の心地よさは、小椋佳、さとう宗幸、大塚博堂と並んで僕の中では四天王。
「松山行きフェリー」という曲は、村下孝蔵のデビューシングル「月あかり」のB面であり、デビューアルバム「汽笛がきこえる街」の第一曲目に採用されている。それに、それ以前の自主制作アルバム「それぞれの風」の掉尾を飾る曲ともなっている。
村下孝蔵の代表曲が「初恋」であることに異論はない。ある一定の年齢以上であれば誰もが知っている曲。そして初期の「初恋」を中核とした「春雨」「ゆうこ」「踊り子」などの一群の曲の認知度は高く、ある意味村下孝蔵の黄金期であったとも言える。
そして後期を象徴する曲はアニメ「めぞん一刻」の主題歌となった「陽だまり」だと考えてもいい。この曲によって村下孝蔵を知りファンとなった若い世代もいる。
そうした表立って知られている村下孝蔵の曲たちに対し、「松山行きフェリー」は、もう一面において村下孝蔵を代表する曲だとずっと思っていた。裏の代表作とも言えばいいのか。村下孝蔵自身も、「ロマンスカー」などと並んで思い入れの深い曲であると発言している。だが、ファンの支持は集めてもあまり一般的な認知度は高くない。シングルになっていないので仕方の無いことではあるのだが。
こんなにつらい別れの時が 来るのを知っていたら
君を愛さず友達のままで 僕は送りたかった
なんともせつない。こんなにポップなメロディーなのにどうしてこう哀しいのか。
僕は、全くのところこういう旋律に弱い。何かが揺り動かされてしまう。Without Youに似ているが。
村下孝蔵ホームページの目次から「歴史館」→「村下孝蔵/傷心の旅」と進む。すると、エッセイが出てくる。ご本人が書かれたものかどうかはわからないが、内容から考えても村下孝蔵さん自身だろう。
そこに、
傷心の旅と、ある。このうたは、つまり実体験に基づいて書かれている。
あの日は「松山行きフェリー」(当時の歌詞は今とは違う)を書いて一年後、3月28日だった。
まだ、あの人を諦め切れないぼくは、あの人のいる松山へ向かった。おそらく、その日が最後になることを予期しながらも。(以下略)
これを読んで、ああ、別れは春だったのだなとあらためて思った。僕は、このうたを始めて知ったときと、また曲調の爽やかさから勝手に夏だと思い込んでいた。そうだな。別れの季節は、春だった。
港に沈む夕陽がとても悲しく見えるのは すべてを乗せた船が遠く消えるから
村下孝蔵という人は、前述したがとても精緻な詩でうたを提示してこられる。それが天賦の才能なのか、それとも努力の賜物であるのかそれはわからない。一切外国の言葉は使わず日本語だけで編み上げてくる。
ところがこの「松山行きフェリー」には、そういう文学的な側面は影を潜めているようにも思う。これは僕だけがそう思っていることかもしれないので異論はあっていいと思うけれども、とても言葉がストレートに感じる。
思うに、このうたは飾れなかったのかな、とも考える。あの日の想いが強すぎるのかもしれない。また飾る必要も、ない。確かにへんな衒いなど邪魔だ。素直な吐露が、強く胸に迫ってくる。
だが、これもまた術中にはまっているのかもしれない、とは思う。前の引用にある「当時の歌詞は今とは違う」という言葉。
「松山行きフェリー」の詩には、変遷があるのだ。
何度、改稿を重ねたのか、それはわからない。だが、僕らがわかる範囲で一度、歌詞はかわっている。メジャーデビュー以前の自主制作盤「それぞれの風」に収められている「松山行きフェリー」の歌詞と、デビュー以後のものは、異なっている。
インディーズ盤である「それぞれの風」は当然ながら入手困難であろうと思われるので(僕もちゃんと持っていない。一部ダビングを繰り返されたカセットテープの音源のみ)、ちょっとここに提示しておいた。
これをみると、単に言葉の調整だけではないことがわかる。
「それぞれの風」盤のほうが、強気にも見える。少なくとも、自分よりも彼女の方を気遣っている。そして「僕がいなくても」君は大丈夫さ。発展的な別れにも、見ようと思えば見られる。
しかし、メジャー盤はがらりと変わる。強い悲しみ。
別れを切り出したのは彼女だったことがわかる。その原因は、もしかしたら村下孝蔵のデビューにあったのかもしれない。ピアノ調律師のままの地道な暮らしを選んでいれば、彼女はついてきてくれたのかもしれない。けれども「そんな事など今の僕に出来はしない」のだ。
想像でしかないけれども、「それぞれ」盤のときは、村下孝蔵は本当にそんな発展的な別れだと思っていたのかもしれない。いや、思い込もうとしていたのかもしれない。そうでなければ、男は別れの悲しみに耐えることが難しい。
しかし、エッセイに書かれているように、一年後「既に婚約している」彼女と逢い、想いが噴出してしまったのかもしれないな、とこっそり思ってみる。
「貴女を乗せた船が遠く消えるから」が「すべてを乗せた船が遠く消えるから」に替わるとき。つまり貴女は僕のすべてだったのだ。そして、港に沈む綺麗な夕陽は悲しみに染まる。
先ほど「文学的ではない」と書いたことを訂正したい。異論は僕自身から出た。言葉は確かにストレートだが、その「想い」を伝えるにはそれが最上の言葉だったのだ。
しばらく前の話だが、高浜の松山港に立ち寄ったことがある。その時は自動車で旅行中であり、ちょっとのぞいてみたくなったのだ。そしてここが「松山行きフェリー」の着岸する港か、と感慨を覚えた。
広島の宇品港には、実は二十歳の時に行ったことがある。そのときは、別府から船で着いた。でもその時僕はまだ「松山行きフェリー」といううたを知らなかった。だから、残念ながら思いに浸ることは出来ずじまい。再訪したいと願っているがまだその機会を得られずにいる。
村下孝蔵さんが亡くなったのは46歳。そして、今年(2011年)とうとう僕もその年齢になった。
村下さんは学生の頃は水泳選手であり、おそらく丈夫な身体を持たれていたのだと思われる。しかし肝炎を病んでしまった。だがそんなこともあってか、体調には人一倍気を遣われていた、との話も聞く。
その村下さんは、あっという間に逝ってしまわれた。死因は脳内出血。リハーサル中に突然「体調がおかしい」と感じられて病院へ。そのまま昏睡状態となり、4日後に死去。
死は、突然にやってくる。しかしこれでは、あまりにも猶予が無い。
僕も、昨年あたりから死を強く意識するようになった。昔は「オレだけは大丈夫」と思い込んでいたし、自負もあった。けれども今はそんなことは微塵も思ってはいない。明日はどうなるかはわからない。村下孝蔵さんもそうだった。
もちろん覚悟なんて全くできないが…村下孝蔵さんはそのときどう思ったのだろう。そんなことを考えるゆとりも無かったのかもしれない。しかし、無念だっただろうことは想像できる。志半ばであったことは間違いない。我々も、今思い返しても無念だ。
でも、村下孝蔵さんはこんなにも惜しまれている。沢田聖子女史のこのうたを聴くと、本当に胸が詰まる。そして志半ばだったとしても、それまでに成し遂げたことは、あまりにも大きい。死後も、若いファンが増え続けていると聞く。
そんなことは、僕らには出来ない。何も成し遂げたものもなく、惜しまれることもおそらく、ない。けれども、遥かなる巨人として、村下孝蔵さんを見上げていきたい、とは思う。
何を書いているのかわからなくなったが、着地点が見つけられないのでこのへんで。
コメント (2) |
トラックバック (0) |
先日アンケート的なもの(曖昧な表現ですみません)をやる機会があった。普通ならそんなの忙しいと言ってシカトするのだが謝礼が少し出るかもしれないので浅ましくも答えた。
その中に「あなたにとっての青春ソングは?」という設問があった。もうこの「青春ソング」という言葉に強烈な違和感を持っている僕は、即座に回答を止め用紙をゴミ箱に投入しようと思ったが謝礼が出るかもしれないと思うと浅ましくもとどまった。
ここしばらく、この「青春ソング」という言葉が懐メロと同義に使用されている。
「懐メロ」という言葉も失礼な言葉だとは思うのだがそれは措いて、以前は(僕が子供の頃は)TV番組で「懐メロ大全集」なんて番組がチラホラあったものだ。出てくる方は田端義夫とか春日八郎とか三橋美智也とか。視聴者層がわかる。そういった類いの番組は今も存在するのだが、登場するうたが演歌ではなくフォークになってきている。うーむ。時代はそこまで来たのか。団塊の世代ターゲットであることはわかるのだが、さすがに「懐メロ」とは言えないのか「青春ソング」という言葉で代替している。ランキング形式にすると、たいていは「なごり雪」か「神田川」が一位になる。
僕は、フォークソングなんか全然懐かしくはない。
もちろん世代が違うということが一番の要因だろうが、もうひとつは「フォークソングが今も好き」ということが大きい。したがって、聴き続けている。昨日も今日も聴いている。こういうふうにしていると懐かしくはならない。
懐かしく思うためには、一旦それと離れなければならないのではないか。時間の経過とともに追憶の海に沈める。そこから、何かのきっかけでそれを浮き上がらせる作業をする、その過程を人は「懐かしい」と呼ぶのではないだろうか。
で、青春ソングなのだが、その言葉の気持ち悪さはさておき、「青春を感じさせるうた」ということを考えると、僕にとってはふたパターンの回答が考えられてしまう。
それは、とにもかくにも自分にとって「青春」の頃を素直に思い出す曲。そして、それに懐かしさを加味するとすれば、ある程度時間に空白が生じてしまっている曲。
そうなると、僕にとっての青春の曲とは、こんなのとかこんなのとか松山隆弘さんの歌とか、そういう系統になってしまう。こういう曲は僕にとっては「青春どストライク」なのだが、知っている人が少なすぎるので困る。しかし懐かしさも加味するならば、ある程度の時間の空白が必要であり、簡単にメディアから流れてくる曲(神田川、なごり雪etc.)は懐かしさの対象にはなかなかなりにくいのである。
もうひとつは「青春」という言葉から連想される曲。青春というイメージを内包した曲を挙げてみようとする。
青春を冠する曲は数多くある。例えば森田公一の「青春時代」。岡田奈々「青春の坂道」。チューリップの「青春の影」。「青春アミーゴ」。
そりゃみんないいうただけど、何か違うな。
人によっては、例えば金八先生の「贈る言葉」なんかを思い出す人がいるかもしれない。僕は金曜8時はプロレスを観ていたので金八っつぁんに何の思い入れもないけれども、その路線はアリかもしれないと思う。
僕は、自分が思春期を迎えてのちはほとんどテレビドラマを観なくなって、金八っつぁんとかイソップとかそういうものには縁がないが、それ以前はよく観ていた。森田健作とかね。まだ子供だった僕は盛大にあこがれ、大きくなったらあんな青春を送りたいと切に願ったものだ。その象徴のような曲が「青春の旅」。ドラマ「飛び出せ!青春」の挿入歌。
昨日の夢に住んでいられずに 明日の愛をもう待ちきれずに
それから10年くらい経って自分が高校生となるが、現実はなかなかドラマのようにはいかない。あこがれは、あこがれ。
結局僕はアンケートには深く考えることはやめて、都倉俊一の「メッセージ」と書き込んだ。
思春期の入り口を中学生くらいだと考えれば、ちょうどこの曲くらいが妥当か、と思った。この曲は、確かに懐かしい。NHK「レッツゴーヤング」のエンディングテーマだった。
五月の光とそよ風とやさしい心 それからあなたの涙
レッツゴーヤングは日曜の午後6時からのオンエアなので、MBSの「ヤング・おー!おー!」とカブる。僕は基本的にはヤングおーおーを観ていたはずなのだが、都倉俊一が司会をしていた2年間はレッツゴーヤングを観ている。なんでかな。それ以前の鈴木ヒロミツ時代、そして後の平尾昌晃時代はほぼ観ていない。別に都倉俊一のファンであったはずもなく、不思議だなと自分でも思う。
「メッセージ」は、僕はレコードを購入していない。子供だもん。テレビからカセットに録音したものが僕の唯一の音源。
しかしありがたい時代になったもので、探したら出てきた。→youtube
これを聴かせていただいて「あれ?」と思った。歌詞が違う。「涙がひと粒あればいいあなたの頬に…」これは聴いたことがない。そうか。EDは2コーラス目を使用していたのか。知らなかった。
貼ってばかりで申し訳ないが、EDバージョンもあった。僕が知っているのはこれだ。
共に司会をしていたキャンディーズ。スーちゃんの訃報からまだそれほど日が経たないので、ちょっと切ない。
愛された想いがあれば 明日からも生きられる
OPもあった。これも懐かしいなあ。
サンデーズもいた。狩人、太川陽介、川崎麻世、黒沢浩(キャロライン洋子の兄ちゃん)、未都由。未都由はその後どうしたんだろうな。me&you。そののちにキャンディーズが降板し、五十嵐夕紀、香坂みゆき、天馬ルミ子が入ってくる。天馬ルミ子さんなんかは僕とあまり歳が違わず、え、この歳でもうデビューかよと驚いた。僕なんかとは比べものにならないくらい大人に見えた。今はどうしているのかな、と思って検索してみたらブログがあった。うわー妖艶!
都倉俊一という人は、もちろんピンクレディーや山口百恵で大儲けをしたはずの人であり、ちょっとした色男なので、もちろんいいイメージは持っていない(わはは)。ただ、作曲家として「ジョニーへの伝言」を書いた人であることは知っている。あれは大好きな歌だ。
当時は、作曲家が歌をうたうことはよくあったような。平尾昌晃、森田公一、中村泰士ら。もちろん平尾昌晃はそもそもが歌手であり、このカテゴリには宇崎竜童や井上大輔を加えてもいいのかもしれない。
都倉俊一は、どっちなんだろうか。歌手から出発した人なのか、作曲家の余技でうたっているのか。その経歴を見ようと思ってHPを覗いた。
「四歳よりバイオリンを始め、小学校、高等学校を過ごしたドイツに於いて基本的な音楽教育を受ける。のち、独学で作曲法を学び、学習院大学在学中に作曲家としてデビュー。」
なるほど。なんとも都倉俊一っぽい経歴だ。エリートと言おうか。そういえば、お父さんが外交官だったと聞いたことがある。この経歴を見れば、これは作曲家の余技だ。
ただ、念のためというわけではないがWikipediaも見てみた。さすれば、ビックリするようなことが書かれていた。
「学習院大学時代には、フォーク・グループ「ザ・パニック・メン」にヴォーカリストとして参加、1968年にレコード・デビューを果たす」
えっ! 都倉俊一ってフォークでデビューしたの? 四歳でバイオリン習ってドイツで勉強した人が?
さらに驚くことが。デビュー曲は「想い出の小径」という曲だが、これはザ・ロックキャンディーズのやはりデビュー曲「どこかに幸せが」とカップリングされて発売されているのだ。へーー。もちろんロッキャンと言えば谷村新司大先生のアリス以前の最初のユニットで「どこかに幸せが」という曲も知っていたが、まさかその裏面が都倉俊一のデビュー曲だったとは。詳細はこちらで見させていただいたのだが、谷村新司と都倉俊一は背中合わせでデビューしたのか。これは知らなかった。当時は、違う歌手同士でAB面でレコードを作ることはよくあった。ジャケットを見ると「若者の唄!カレッジポップス!」と謳われている。時代だなあ。「想い出の小径」という曲は残念ながら聴いたことがない。
その後都倉俊一はジュリアンズというグループに在籍(おそらくザ・パニック・メンの発展系)し、このふたつのグループで2年くらいは活動していたらしい。知らなかった。都倉俊一のデビューがフォーク(カレッジポップス?)だったとは。そういえば、アリスの初期のシングル「青春時代」「二十歳の頃」の作曲は都倉俊一。縁が続いていたのかもしれない。
都倉さんは、時として非常に叙情的な曲を書かれる。そのルーツはフォークにあったのかもしれない、と書くと短絡的にすぎるが、山本リンダの「どうにもとまらない」「狙いうち」などの扇情的な曲、またピンクレディーのヒット曲はじめ数々のアイドルに提供してきた曲のイメージとあまり結びつかない一群の曲がある。そこが職業作曲家の凄さでもあるわけだが、ペドロ&カプリシャスや麻生よう子の「逃避行」、そして「メッセージ」など、なんともいえないやさしい気持ちになる曲を作られる。
もうあなたと逢えないでしょう 愛をこめたメッセージを下さい
この「メッセージ」を聴くと、今にして思えばちょうど少年(つまりガキ)から思春期へと移り行く時代の、例えば人を好きになり初めし頃をふと思い出す。
それが青春を象徴するうたであるかどうかはわからないけれども、懐かしさも加味して、この曲を思い出してみた。
その中に「あなたにとっての青春ソングは?」という設問があった。もうこの「青春ソング」という言葉に強烈な違和感を持っている僕は、即座に回答を止め用紙をゴミ箱に投入しようと思ったが謝礼が出るかもしれないと思うと浅ましくもとどまった。
ここしばらく、この「青春ソング」という言葉が懐メロと同義に使用されている。
「懐メロ」という言葉も失礼な言葉だとは思うのだがそれは措いて、以前は(僕が子供の頃は)TV番組で「懐メロ大全集」なんて番組がチラホラあったものだ。出てくる方は田端義夫とか春日八郎とか三橋美智也とか。視聴者層がわかる。そういった類いの番組は今も存在するのだが、登場するうたが演歌ではなくフォークになってきている。うーむ。時代はそこまで来たのか。団塊の世代ターゲットであることはわかるのだが、さすがに「懐メロ」とは言えないのか「青春ソング」という言葉で代替している。ランキング形式にすると、たいていは「なごり雪」か「神田川」が一位になる。
僕は、フォークソングなんか全然懐かしくはない。
もちろん世代が違うということが一番の要因だろうが、もうひとつは「フォークソングが今も好き」ということが大きい。したがって、聴き続けている。昨日も今日も聴いている。こういうふうにしていると懐かしくはならない。
懐かしく思うためには、一旦それと離れなければならないのではないか。時間の経過とともに追憶の海に沈める。そこから、何かのきっかけでそれを浮き上がらせる作業をする、その過程を人は「懐かしい」と呼ぶのではないだろうか。
で、青春ソングなのだが、その言葉の気持ち悪さはさておき、「青春を感じさせるうた」ということを考えると、僕にとってはふたパターンの回答が考えられてしまう。
それは、とにもかくにも自分にとって「青春」の頃を素直に思い出す曲。そして、それに懐かしさを加味するとすれば、ある程度時間に空白が生じてしまっている曲。
そうなると、僕にとっての青春の曲とは、こんなのとかこんなのとか松山隆弘さんの歌とか、そういう系統になってしまう。こういう曲は僕にとっては「青春どストライク」なのだが、知っている人が少なすぎるので困る。しかし懐かしさも加味するならば、ある程度の時間の空白が必要であり、簡単にメディアから流れてくる曲(神田川、なごり雪etc.)は懐かしさの対象にはなかなかなりにくいのである。
もうひとつは「青春」という言葉から連想される曲。青春というイメージを内包した曲を挙げてみようとする。
青春を冠する曲は数多くある。例えば森田公一の「青春時代」。岡田奈々「青春の坂道」。チューリップの「青春の影」。「青春アミーゴ」。
そりゃみんないいうただけど、何か違うな。
人によっては、例えば金八先生の「贈る言葉」なんかを思い出す人がいるかもしれない。僕は金曜8時はプロレスを観ていたので金八っつぁんに何の思い入れもないけれども、その路線はアリかもしれないと思う。
僕は、自分が思春期を迎えてのちはほとんどテレビドラマを観なくなって、金八っつぁんとかイソップとかそういうものには縁がないが、それ以前はよく観ていた。森田健作とかね。まだ子供だった僕は盛大にあこがれ、大きくなったらあんな青春を送りたいと切に願ったものだ。その象徴のような曲が「青春の旅」。ドラマ「飛び出せ!青春」の挿入歌。
昨日の夢に住んでいられずに 明日の愛をもう待ちきれずに
それから10年くらい経って自分が高校生となるが、現実はなかなかドラマのようにはいかない。あこがれは、あこがれ。
結局僕はアンケートには深く考えることはやめて、都倉俊一の「メッセージ」と書き込んだ。
思春期の入り口を中学生くらいだと考えれば、ちょうどこの曲くらいが妥当か、と思った。この曲は、確かに懐かしい。NHK「レッツゴーヤング」のエンディングテーマだった。
五月の光とそよ風とやさしい心 それからあなたの涙
レッツゴーヤングは日曜の午後6時からのオンエアなので、MBSの「ヤング・おー!おー!」とカブる。僕は基本的にはヤングおーおーを観ていたはずなのだが、都倉俊一が司会をしていた2年間はレッツゴーヤングを観ている。なんでかな。それ以前の鈴木ヒロミツ時代、そして後の平尾昌晃時代はほぼ観ていない。別に都倉俊一のファンであったはずもなく、不思議だなと自分でも思う。
「メッセージ」は、僕はレコードを購入していない。子供だもん。テレビからカセットに録音したものが僕の唯一の音源。
しかしありがたい時代になったもので、探したら出てきた。→youtube
これを聴かせていただいて「あれ?」と思った。歌詞が違う。「涙がひと粒あればいいあなたの頬に…」これは聴いたことがない。そうか。EDは2コーラス目を使用していたのか。知らなかった。
貼ってばかりで申し訳ないが、EDバージョンもあった。僕が知っているのはこれだ。
共に司会をしていたキャンディーズ。スーちゃんの訃報からまだそれほど日が経たないので、ちょっと切ない。
愛された想いがあれば 明日からも生きられる
OPもあった。これも懐かしいなあ。
サンデーズもいた。狩人、太川陽介、川崎麻世、黒沢浩(キャロライン洋子の兄ちゃん)、未都由。未都由はその後どうしたんだろうな。me&you。そののちにキャンディーズが降板し、五十嵐夕紀、香坂みゆき、天馬ルミ子が入ってくる。天馬ルミ子さんなんかは僕とあまり歳が違わず、え、この歳でもうデビューかよと驚いた。僕なんかとは比べものにならないくらい大人に見えた。今はどうしているのかな、と思って検索してみたらブログがあった。うわー妖艶!
都倉俊一という人は、もちろんピンクレディーや山口百恵で大儲けをしたはずの人であり、ちょっとした色男なので、もちろんいいイメージは持っていない(わはは)。ただ、作曲家として「ジョニーへの伝言」を書いた人であることは知っている。あれは大好きな歌だ。
当時は、作曲家が歌をうたうことはよくあったような。平尾昌晃、森田公一、中村泰士ら。もちろん平尾昌晃はそもそもが歌手であり、このカテゴリには宇崎竜童や井上大輔を加えてもいいのかもしれない。
都倉俊一は、どっちなんだろうか。歌手から出発した人なのか、作曲家の余技でうたっているのか。その経歴を見ようと思ってHPを覗いた。
「四歳よりバイオリンを始め、小学校、高等学校を過ごしたドイツに於いて基本的な音楽教育を受ける。のち、独学で作曲法を学び、学習院大学在学中に作曲家としてデビュー。」
なるほど。なんとも都倉俊一っぽい経歴だ。エリートと言おうか。そういえば、お父さんが外交官だったと聞いたことがある。この経歴を見れば、これは作曲家の余技だ。
ただ、念のためというわけではないがWikipediaも見てみた。さすれば、ビックリするようなことが書かれていた。
「学習院大学時代には、フォーク・グループ「ザ・パニック・メン」にヴォーカリストとして参加、1968年にレコード・デビューを果たす」
えっ! 都倉俊一ってフォークでデビューしたの? 四歳でバイオリン習ってドイツで勉強した人が?
さらに驚くことが。デビュー曲は「想い出の小径」という曲だが、これはザ・ロックキャンディーズのやはりデビュー曲「どこかに幸せが」とカップリングされて発売されているのだ。へーー。もちろんロッキャンと言えば谷村新司大先生のアリス以前の最初のユニットで「どこかに幸せが」という曲も知っていたが、まさかその裏面が都倉俊一のデビュー曲だったとは。詳細はこちらで見させていただいたのだが、谷村新司と都倉俊一は背中合わせでデビューしたのか。これは知らなかった。当時は、違う歌手同士でAB面でレコードを作ることはよくあった。ジャケットを見ると「若者の唄!カレッジポップス!」と謳われている。時代だなあ。「想い出の小径」という曲は残念ながら聴いたことがない。
その後都倉俊一はジュリアンズというグループに在籍(おそらくザ・パニック・メンの発展系)し、このふたつのグループで2年くらいは活動していたらしい。知らなかった。都倉俊一のデビューがフォーク(カレッジポップス?)だったとは。そういえば、アリスの初期のシングル「青春時代」「二十歳の頃」の作曲は都倉俊一。縁が続いていたのかもしれない。
都倉さんは、時として非常に叙情的な曲を書かれる。そのルーツはフォークにあったのかもしれない、と書くと短絡的にすぎるが、山本リンダの「どうにもとまらない」「狙いうち」などの扇情的な曲、またピンクレディーのヒット曲はじめ数々のアイドルに提供してきた曲のイメージとあまり結びつかない一群の曲がある。そこが職業作曲家の凄さでもあるわけだが、ペドロ&カプリシャスや麻生よう子の「逃避行」、そして「メッセージ」など、なんともいえないやさしい気持ちになる曲を作られる。
もうあなたと逢えないでしょう 愛をこめたメッセージを下さい
この「メッセージ」を聴くと、今にして思えばちょうど少年(つまりガキ)から思春期へと移り行く時代の、例えば人を好きになり初めし頃をふと思い出す。
それが青春を象徴するうたであるかどうかはわからないけれども、懐かしさも加味して、この曲を思い出してみた。
コメント (2) |
トラックバック (0) |
最近、とんぼちゃんばかり聴いている。特に理由はない。だが強いてあげるなら、郷愁かもしれない。なんかいいんですよね。
とんぼちゃんをちゃんと聴いたのは、実は80年代半ばになる。知ったときには、もう解散していた。正確には「ひと足遅れの春」はラジオのエアチェックにより知っていたけれども、それ以上深入りすることはなく。
ひとつめくり忘れた暦が寒そうに震え柱に貼りついている
冬の間君からの手紙が何故かこないままで季節はめぐるよ
いい歌なのだけれども、そのときはそれ以上広げることは出来なかった。
これは言い訳ではないが無理もないことで、音楽を聴くのにはお金がかかる。「ひと足遅れの春」は僕がまだ小学生の頃であり、レコードなどほいほい買えない。親にねだってやっとのことで小椋佳のあのNHKライブ盤を手に入れたときは嬉しかったが、そこまでである。中学高校くらいでようやく周りに同好の士が現れ所持しているLPの貸し借りなどで底辺を広げ、またアルバイトなども出来るようになり、そして貸しレコード屋があらわれる。それまでは、完全にラジオに頼っていた。もちろんTVもあるけれども、フォークシンガーの多くは当時はTVに出なかった。
とんぼちゃんは、それほどラジオで頻繁にかかるわけでもなく、深められなかった。
さて。
フォークという音楽ジャンルに、男性デュオ、もしくはトリオが多い。何でなのかと思う。もちろん統計があるわけでもなし、僕の感じ方だけで言っているだけかもしれないけれど。
ひとつは、海外の影響か。キングストントリオの存在は大きかったのかも、と考えてみる。しかし、PPMだっていたはずである。日本で最初に世に出たフォークグループは五つの赤い風船なんだろうか。これは、女性ボーカルのフー子さんがいてPPMに近い。次は六文銭かな。これは最初男性ばかりだったけれども、後に女性ボーカルが入る。そもそもPPMフォロワーズがその前身であり、やっぱりPPMかな。
トリオで最初に出てきたのは…よくわからないけれどもフォーククルセイダーズがまず思い浮かぶ。デュオは、ブレッド&バターかビリー・バンバンか。もちろん、それ以前に星の数ほどのグループがいたはずだが、このあたりがごく初期なのかなとも思う。いずれも、吉田拓郎以前の60年代。
結局よくわからないんだけれども、ビリーバンバンを見ると面白いなと思う。構成は、兄ちゃんがベースで進さんがギター。最小限のバンドなのだなと。フォークは歌謡曲と違って、昔はメンバーだけで成立しなくてはいけなかった。フォークルはギター2、ベース1。以降、トリオだとかぐや姫もNSPも、ベースがいる。
昔はウッドベースだったから、運搬が大変だっただろう。よくこうせつおいちゃんが「タクシーが止まってくれないからパンダさんは隠れていて止めてから交渉した」という話をするけれども、電車移動と津々浦々ライブが当たり前だった時代は苦労が絶えなかったのだろうな。アリスなんて極めて特殊な構成のグループは、当然ドラムセットなど持ち運べず、キンちゃんはコンガだったらしい。それだって、移動は骨折りだっただろう。
それはともかく、フォークのデュオ、もしくはトリオというのは、ボーカルとバックバンドという関係でないのがいい。もちろんメインボーカルという存在は居たとしても、たいていはハモってくれる。それが心地いい。
そんなのフォークに限らんだろ、と言われそうだが、実は当時の歌謡曲などでは、案外こういうスタイルは少ない(と、思う)。ハーモニーということで言えばそりゃダークダックスなどのしっかりとしたコーラスグループはいたけれども、歌謡曲では少なかった。
基本、当時の日本の歌手はソロである。演歌のハーモニーなんか聴いたことが無い。こまどり姉妹なんて知っている年代ではない。クールファイブとか居たけれども、ああいうのも完全にメインボーカル制だった。まれにデュエットもあったけれども、ハーモニーという感じではなかった。
ポップスではグループもいた。GSなどはスパイダースみたいにツインボーカルもあったようだけれども、それを詳細に知る年代でもなく。せいぜいフォーリーブスか(スリーファンキーズやジャニーズは昔過ぎる)、女性だとゴールデンハーフかキャンディーズくらい。ザピーナッツはこれまた古すぎる。
だから、ビリーバンバンが少しハモるだけでおおっと思い、赤い鳥なんてのはものすごくきれいに聴こえた。
70年代半ばには、フォークデュオ、また三人組がどっと出てくる印象がある。
NSPがデビューしたのが73年。その翌年に、ふきのとう、グレープ、マイペース、三輪車、とんぼちゃんなどなど。男女デュオだとダカーポもこのあたり。
翌年、「風」が結成される。シグナル、俄などがデビュー。伝書鳩もこの年くらいかな。デビューではないけれども、クラフト、そしてバンバンがいちご白書で売れたのもこの年。古時計もこのくらいかなあ。女性デュオでは、たんほぽもいた。
その中で追いかけられたのは、風と、NSP、ふきのとうくらい。みなあまりTVに出なかったから、小学生だとなかなか耳に入ってこない。
例外的にグレープはよくTVに出ていた。賞レースにも参加していたのではなかったか。中条きよしと新人賞を争っていたような記憶があるぞ。まっさんが歌謡大賞を狙っていたというだけで面白いが、だから「精霊流し」はよく知っている。
当時の僕などは、フォークはTVに出ないものと決めてかかっていたので、こういうのは珍しかった。TVに出ていたのは、ガロと、海援隊とグレープくらいじゃなかっただろうか。あとはたまにかぐや姫。チューリップはフォークと言うにはあまりであるし。
これはもちろん、出ないと宣言されている方もいれば特定の番組だけ出ていた方もいるし、そもそもTV向きじゃないと呼ばれなかった方もいるだろうし、事情は様々だとは思うけれども、とにかく「あんまり」出ていなかった。
そのTVに出ていた数少ないフォークデュオの中に「ちゃんちゃこ」が居た。
ちゃんちゃこの「空飛ぶ鯨」はヒットしたので、ご存知の方は多いと思う。作ったのは、みなみらんぼう氏。
そのちゃんちゃこの鯨を今聴いてみると、「みんなのうた」に出ていてもおかしくないような童謡っぽさも持ち合わせつつ、実にフォークっぽいフォークだとも思える。なにせ、テーマは文明批判である。当時であれば公害問題、今で言えば環境問題を歌っている。反社会的な骨太のフォークに聴こえる。
ところが、当時の小学生の僕はちゃんちゃこを全然フォークだと思っていない。兄貴が購読していた「中一時代」か「中一コース」か何か忘れたけれども、そこにちゃんちゃこの特集が確か組まれていた(記憶による)。「好きな食べ物は何?」とか、そんな質問に答えている。扱いはアイドルや。実際それに並列するようにあいざき進也とか城みちるなんてのも同じ質問を受けて答えていた。知らないけれども、多分明星や平凡にも登場していたのではないか。
ジャンルってのは、わからんな。
結局「〜っぽい」ということしか言えないのであって、それは弾き語りであるとか、自分で曲を書いているとか、編曲の雰囲気とか。そんな要素でしかなくて、そのうた自体は、うたでしかない。「神田川」なんて八代亜紀がうたえば演歌だ。「山谷ブルース」しかり「赤色エレジー」しかり。
そうやって思えば「とんぼちゃん」に郷愁をおぼえるのも無理ないような気がする。どうも70年代の歌謡曲っぽい。これは、何でだろうか。メロディーラインなのか、編曲なのか。以前「俄」の雨のマロニエ通りの話を書いたけれども、あれもそれに近い。NSPも、近い雰囲気を持つ曲が多い。
「ひと足遅れの春」は、曲だけで言えば当時ちょっと寂しそうな雰囲気を持つ、例えば豊川譲や片平なぎさがうたってもそれなりに聴けたような気も、一瞬してしまう。
この「ひと足遅れの春」については、友人のよぴちさんも考察をされていて、「歌謡曲の親しみやすいメロディーライン」とおっしゃる。同世代なので感じ方が近い。この融合が「ニューミュージック」なのかどうかはさておき、とんぼちゃんとちゃんちゃこを対比させると、当時の印象はとんぼちゃんがフォークでちゃんちゃこはアイドル的。しかし今うたを聴けば、ちゃんちゃこがフォークでとんぼちゃんが歌謡曲的。ジャンルって無意味だなと。
ただひとつ言えるのは、とんぼちゃんは(ちゃんちゃこも)デュオだったということ。この味わいは、当時のソロ中心の歌謡曲ではなかなか出せない。強いて言えばジャニーズジュニアスペシャルかな(異論受け付けます)。
いずれにせよ時代のなせる曲調と編曲であって、今では無理だろう。今の日本の音楽界はグループ全盛時代で、Kinkiなどは拓郎先生門下で本当に歌が巧いと思うけれども、やっぱりJ-POPだなあ。
そんなこんなでおっさんは、とんぼちゃんを聴く。たまらん。
名曲が揃っていると思うけれども、中でも「ひなげし」はいい。何度聴いても、いい。ネットで探したらライブ版もあって(これは僕は持ってなかった)、こっちのほうがいいかも。
風に吹かれて散る花びらをまとった君の花嫁衣裳 僕だけが知っている春は
遠い昔になったけれど約束どおりやってきました 汽車に乗り君を迎えに
また詩も哀しいわけで。亡くなっているんだからなぁ…。「微笑はもうかえらないけど」泣けますね。
とんぼちゃんは、秋田出身のデュオで「トヨ」と「ヨンボ」の二人。だから「とんぼ」ちゃん。お元気なのかな。
何か「ラブリーフォーク」とか呼ばれてなかったっけ(記憶です)。全国フォーク音楽祭で準優勝、作曲賞。そして「貝がらの秘密」でデビュー。このころはこういうコンテストはいっぱいあったようで、前年にはふきのとう、その前はみゆきさんが入賞している。初代グランプリはチェリッシュ。
80年代に入って解散されたが、後期の曲はわりにポップだ。もちろんそちらもいい。だが郷愁という点では、やはり初期の曲かもしれない。「ひなげし」はシングル「奥入瀬川」のB面だった。
ひっそりと咲く花の優しさを とても愛した君でした
薄日ざしの静かなお寺も今は 花盛りです
せつない。こういううたを、最近はまた聴き返しては浸っている。
とんぼちゃんをちゃんと聴いたのは、実は80年代半ばになる。知ったときには、もう解散していた。正確には「ひと足遅れの春」はラジオのエアチェックにより知っていたけれども、それ以上深入りすることはなく。
ひとつめくり忘れた暦が寒そうに震え柱に貼りついている
冬の間君からの手紙が何故かこないままで季節はめぐるよ
いい歌なのだけれども、そのときはそれ以上広げることは出来なかった。
これは言い訳ではないが無理もないことで、音楽を聴くのにはお金がかかる。「ひと足遅れの春」は僕がまだ小学生の頃であり、レコードなどほいほい買えない。親にねだってやっとのことで小椋佳のあのNHKライブ盤を手に入れたときは嬉しかったが、そこまでである。中学高校くらいでようやく周りに同好の士が現れ所持しているLPの貸し借りなどで底辺を広げ、またアルバイトなども出来るようになり、そして貸しレコード屋があらわれる。それまでは、完全にラジオに頼っていた。もちろんTVもあるけれども、フォークシンガーの多くは当時はTVに出なかった。
とんぼちゃんは、それほどラジオで頻繁にかかるわけでもなく、深められなかった。
さて。
フォークという音楽ジャンルに、男性デュオ、もしくはトリオが多い。何でなのかと思う。もちろん統計があるわけでもなし、僕の感じ方だけで言っているだけかもしれないけれど。
ひとつは、海外の影響か。キングストントリオの存在は大きかったのかも、と考えてみる。しかし、PPMだっていたはずである。日本で最初に世に出たフォークグループは五つの赤い風船なんだろうか。これは、女性ボーカルのフー子さんがいてPPMに近い。次は六文銭かな。これは最初男性ばかりだったけれども、後に女性ボーカルが入る。そもそもPPMフォロワーズがその前身であり、やっぱりPPMかな。
トリオで最初に出てきたのは…よくわからないけれどもフォーククルセイダーズがまず思い浮かぶ。デュオは、ブレッド&バターかビリー・バンバンか。もちろん、それ以前に星の数ほどのグループがいたはずだが、このあたりがごく初期なのかなとも思う。いずれも、吉田拓郎以前の60年代。
結局よくわからないんだけれども、ビリーバンバンを見ると面白いなと思う。構成は、兄ちゃんがベースで進さんがギター。最小限のバンドなのだなと。フォークは歌謡曲と違って、昔はメンバーだけで成立しなくてはいけなかった。フォークルはギター2、ベース1。以降、トリオだとかぐや姫もNSPも、ベースがいる。
昔はウッドベースだったから、運搬が大変だっただろう。よくこうせつおいちゃんが「タクシーが止まってくれないからパンダさんは隠れていて止めてから交渉した」という話をするけれども、電車移動と津々浦々ライブが当たり前だった時代は苦労が絶えなかったのだろうな。アリスなんて極めて特殊な構成のグループは、当然ドラムセットなど持ち運べず、キンちゃんはコンガだったらしい。それだって、移動は骨折りだっただろう。
それはともかく、フォークのデュオ、もしくはトリオというのは、ボーカルとバックバンドという関係でないのがいい。もちろんメインボーカルという存在は居たとしても、たいていはハモってくれる。それが心地いい。
そんなのフォークに限らんだろ、と言われそうだが、実は当時の歌謡曲などでは、案外こういうスタイルは少ない(と、思う)。ハーモニーということで言えばそりゃダークダックスなどのしっかりとしたコーラスグループはいたけれども、歌謡曲では少なかった。
基本、当時の日本の歌手はソロである。演歌のハーモニーなんか聴いたことが無い。こまどり姉妹なんて知っている年代ではない。クールファイブとか居たけれども、ああいうのも完全にメインボーカル制だった。まれにデュエットもあったけれども、ハーモニーという感じではなかった。
ポップスではグループもいた。GSなどはスパイダースみたいにツインボーカルもあったようだけれども、それを詳細に知る年代でもなく。せいぜいフォーリーブスか(スリーファンキーズやジャニーズは昔過ぎる)、女性だとゴールデンハーフかキャンディーズくらい。ザピーナッツはこれまた古すぎる。
だから、ビリーバンバンが少しハモるだけでおおっと思い、赤い鳥なんてのはものすごくきれいに聴こえた。
70年代半ばには、フォークデュオ、また三人組がどっと出てくる印象がある。
NSPがデビューしたのが73年。その翌年に、ふきのとう、グレープ、マイペース、三輪車、とんぼちゃんなどなど。男女デュオだとダカーポもこのあたり。
翌年、「風」が結成される。シグナル、俄などがデビュー。伝書鳩もこの年くらいかな。デビューではないけれども、クラフト、そしてバンバンがいちご白書で売れたのもこの年。古時計もこのくらいかなあ。女性デュオでは、たんほぽもいた。
その中で追いかけられたのは、風と、NSP、ふきのとうくらい。みなあまりTVに出なかったから、小学生だとなかなか耳に入ってこない。
例外的にグレープはよくTVに出ていた。賞レースにも参加していたのではなかったか。中条きよしと新人賞を争っていたような記憶があるぞ。まっさんが歌謡大賞を狙っていたというだけで面白いが、だから「精霊流し」はよく知っている。
当時の僕などは、フォークはTVに出ないものと決めてかかっていたので、こういうのは珍しかった。TVに出ていたのは、ガロと、海援隊とグレープくらいじゃなかっただろうか。あとはたまにかぐや姫。チューリップはフォークと言うにはあまりであるし。
これはもちろん、出ないと宣言されている方もいれば特定の番組だけ出ていた方もいるし、そもそもTV向きじゃないと呼ばれなかった方もいるだろうし、事情は様々だとは思うけれども、とにかく「あんまり」出ていなかった。
そのTVに出ていた数少ないフォークデュオの中に「ちゃんちゃこ」が居た。
ちゃんちゃこの「空飛ぶ鯨」はヒットしたので、ご存知の方は多いと思う。作ったのは、みなみらんぼう氏。
そのちゃんちゃこの鯨を今聴いてみると、「みんなのうた」に出ていてもおかしくないような童謡っぽさも持ち合わせつつ、実にフォークっぽいフォークだとも思える。なにせ、テーマは文明批判である。当時であれば公害問題、今で言えば環境問題を歌っている。反社会的な骨太のフォークに聴こえる。
ところが、当時の小学生の僕はちゃんちゃこを全然フォークだと思っていない。兄貴が購読していた「中一時代」か「中一コース」か何か忘れたけれども、そこにちゃんちゃこの特集が確か組まれていた(記憶による)。「好きな食べ物は何?」とか、そんな質問に答えている。扱いはアイドルや。実際それに並列するようにあいざき進也とか城みちるなんてのも同じ質問を受けて答えていた。知らないけれども、多分明星や平凡にも登場していたのではないか。
ジャンルってのは、わからんな。
結局「〜っぽい」ということしか言えないのであって、それは弾き語りであるとか、自分で曲を書いているとか、編曲の雰囲気とか。そんな要素でしかなくて、そのうた自体は、うたでしかない。「神田川」なんて八代亜紀がうたえば演歌だ。「山谷ブルース」しかり「赤色エレジー」しかり。
そうやって思えば「とんぼちゃん」に郷愁をおぼえるのも無理ないような気がする。どうも70年代の歌謡曲っぽい。これは、何でだろうか。メロディーラインなのか、編曲なのか。以前「俄」の雨のマロニエ通りの話を書いたけれども、あれもそれに近い。NSPも、近い雰囲気を持つ曲が多い。
「ひと足遅れの春」は、曲だけで言えば当時ちょっと寂しそうな雰囲気を持つ、例えば豊川譲や片平なぎさがうたってもそれなりに聴けたような気も、一瞬してしまう。
この「ひと足遅れの春」については、友人のよぴちさんも考察をされていて、「歌謡曲の親しみやすいメロディーライン」とおっしゃる。同世代なので感じ方が近い。この融合が「ニューミュージック」なのかどうかはさておき、とんぼちゃんとちゃんちゃこを対比させると、当時の印象はとんぼちゃんがフォークでちゃんちゃこはアイドル的。しかし今うたを聴けば、ちゃんちゃこがフォークでとんぼちゃんが歌謡曲的。ジャンルって無意味だなと。
ただひとつ言えるのは、とんぼちゃんは(ちゃんちゃこも)デュオだったということ。この味わいは、当時のソロ中心の歌謡曲ではなかなか出せない。強いて言えばジャニーズジュニアスペシャルかな(異論受け付けます)。
いずれにせよ時代のなせる曲調と編曲であって、今では無理だろう。今の日本の音楽界はグループ全盛時代で、Kinkiなどは拓郎先生門下で本当に歌が巧いと思うけれども、やっぱりJ-POPだなあ。
そんなこんなでおっさんは、とんぼちゃんを聴く。たまらん。
名曲が揃っていると思うけれども、中でも「ひなげし」はいい。何度聴いても、いい。ネットで探したらライブ版もあって(これは僕は持ってなかった)、こっちのほうがいいかも。
風に吹かれて散る花びらをまとった君の花嫁衣裳 僕だけが知っている春は
遠い昔になったけれど約束どおりやってきました 汽車に乗り君を迎えに
また詩も哀しいわけで。亡くなっているんだからなぁ…。「微笑はもうかえらないけど」泣けますね。
とんぼちゃんは、秋田出身のデュオで「トヨ」と「ヨンボ」の二人。だから「とんぼ」ちゃん。お元気なのかな。
何か「ラブリーフォーク」とか呼ばれてなかったっけ(記憶です)。全国フォーク音楽祭で準優勝、作曲賞。そして「貝がらの秘密」でデビュー。このころはこういうコンテストはいっぱいあったようで、前年にはふきのとう、その前はみゆきさんが入賞している。初代グランプリはチェリッシュ。
80年代に入って解散されたが、後期の曲はわりにポップだ。もちろんそちらもいい。だが郷愁という点では、やはり初期の曲かもしれない。「ひなげし」はシングル「奥入瀬川」のB面だった。
ひっそりと咲く花の優しさを とても愛した君でした
薄日ざしの静かなお寺も今は 花盛りです
せつない。こういううたを、最近はまた聴き返しては浸っている。
コメント (2) |
トラックバック (0) |
日本のフォークソングは、最初はやはり洋楽の影響から始まったと聞く。それは、ピーター・ポール&マリーであったりキングストントリオであったり、またジョーン・バエズ、ボブ・ディランなど、プロテストソングの系譜がある。僕はまだ生まれていない。そういった音楽があって、日本のフォークというものが誕生してくる。
僕が生まれた'65年あたりから、関西にフォークの萌芽があらわれる。高石友也や岡林信康、西岡たかし等の大御所が登場し、東京では小室等先生らが活動を始める。僕は言葉もまだ覚えていない頃。
僕が初めてそういう音楽に触れたのは、三歳のときのシューベルツ「風」であり、また意識したのはTVで流れていたガロの「学生街の喫茶店」であることは、以前にも書いたことがある。
ラジオの深夜放送を聴きだしたのは、特に早熟というわけではなかったと思うけれども小学校5年くらいであり、その時に僕の中にフォークソングという音楽がどっと入ってくる。まさしくいちどきに、来た。なので、高石ともやも吉田拓郎もかぐや姫も、NSPもふきのとうもみんな既存であり、横一線。時間に差がない。したがって、時系列を追えない(資料的には追えるけれども)。
だから僕にとってはこの人たち全てが第一世代である。上の世代の人から見れば、高石ともやと山木康世や天野滋が同じくくりとは阿呆かと言われるだろうが、これはもうしょうがない。
そうして、エアチェックを重ねカセットテープのライブラリーを増やしていた少年時代。そういう'70年代後半に、新たにデビューしてくるフォークシンガーがいる。ここからが、僕の中では第二世代になり、頭の中でも時系列を追って登場してくる。
僕がラジオを聴いていた頃、「大型新人」としてまず現れたのは、松山千春だった。「デビューの時から知っている」と言えるのは、この人が僕にとっては最初ではないか。
そういう僕の中のくくりだけで「第二世代」としてしまうのは甚だ恐縮な話ではあるのだが、もうひとつ言えるのは、松山千春は「岡林信康や加川良に影響を受けて音楽を始めた」と公言している。それより上の世代は、だいたいが前述のPPMやボブディラン、またS&Gもあるだろうし当然ビートルズもあるが、やはり洋楽から出でて、自分達で日本のフォークという音楽を作ってきた人たちだろう。そして、そういう「日本発のフォーク」の影響下で音楽を始めた、というのは、やはり第二世代と言ってもいいのではないかと思えてくる(さだまさしが加山雄三の影響を受けた、というのはひとまず措いて)。
このあと、新人がぞくぞくと現れてくる。
ここからは時系列で僕の記憶にあるのだが、その翌年あたり、鹿児島出身の歌手が出てくるのではなかったか(僕はこの吉田拓郎に影響を受けたという、今もカリスマ的人気を誇る歌手を全く受け付けないのだが…公けのブログでこういうことを書いてはいけないとは思うのだけれど、だんだんそういう気遣いが面倒になってきた。あくまで僕の好みだと受け取って欲しい)。
そしてまた翌年くらいに、永井龍雲が出てくる。円広志もそうだったかもしれないが。
永井龍雲を最初に聴いたときは、なんてきれいな声の人だろうと思った。もちろん、松山千春という人も抜群の歌声を持った人だが、チー様が朗々と歌い上げるのに比べ、もっと脆さを内包した、少年が胸を遠慮がちに張りつつ歌う声。チー様はもう既に老成していたかのような完成した歌声だが、永井龍雲の歌声はまだ途上の、みずみずしさあふれる叫び。
当時、まだ20歳だったんだな。永井龍雲は。
そしてその曲が、また不思議な魅力を持っていた。デビュー曲の「想い」。
どうしたらこの苦しみを逃れることができるのか
なんでデビュー曲の詞の冒頭が、こんな「一握の砂」みたいに辛いのか。ところが曲調は「永井節」とも言える晴れやかかつ伸びやかなメロディ。しかしこの曲が徐々に進行するにしたがい、まるでグレープの曲のように寂しく終わる。あまりこういう曲調をしらなかったので、少年の僕にはとても印象深かった。
当時、僕が便宜的にそう書いた「第二世代」は、やはり「○○二世」的な評価のされ方もしていた。マスコミというのはすぐにそんなふうに例えたがるのだが、松山千春が岡林二世だとすれば、あの鹿児島出身の歌手(ゴメンナサイ検索避けです)は拓郎二世、そして永井龍雲は「井上陽水二世」だと言われたのを聞いたことがある。なんだそれは。
共通項は、同じ福岡出身だったということと、名が「陽水」「龍雲」とまるで僧侶か書道家のような名前であったこと、そして、髪型が似ていたくらいだっただろう。音楽性は僕の判断で申し訳ないが、異なると思う。ただ、陽水になぞらえられるほど嘱望されていたのは確かだ。
永井龍雲は翌年「つまさき坂」を経て、「道標ない旅」がヒットする。この曲は、グリコアーモンドチョコのCMソングになったから、僕と同世代、もしくは上であれば知っている人が多いと思う。
大空に群なす鳥達よ 君の声を見失うなよ
青春を旅する若者よ 君が歩けば そこに必ず道はできる
名曲の誉れ高い「道標ない旅」。希望に満ち溢れている。青春とは何と素晴らしきものか。
話がずれるが、今もそうかもしれないけれど、当時はCMソングってすごかったなぁということを思い出す。CM使用曲はヒットが約束されていた。このグリコのCMも、前年に使用された曲は松山千春の「季節の中で」だ。これがチー様の大変な出世作になったのはいうまでもない。
その「季節の中で」に劣るとは思えない「道標ない旅」だけれども、そこまでは売れなかった。これは、流されていた期間の問題だった、とも言われている。
この永井龍雲の曲が採用されたCMがオンエアされていた時、山口百恵・三浦友和が恋人宣言。グリコはこの話題を逃さず、「道標ない旅」CMを打ち切って百恵友和が共演していた過去のCMに切り替えた。よって、「道標ない旅」はオンエア期間が短い。
この曲がずっと茶の間に流れ続けていたら、とifを考える。そうすれば「季節の中で」や「愛のメモリー」みたいな認知度になっていたかもしれない。であれば、この青春賛歌は、例えば合唱コンクールの課題曲になったり、卒業式で歌われたり…もっと違う残り方をしたかもしれない。永井龍雲その人も、また違った道が出来ただろう。
永井龍雲は、この「道標ない旅」に続くシングルとして「悲しい時代に」をリリースする。
僕はこの曲を聴いたときに「道標ない旅」を超えた、と思った。これはいい曲だと思った。しかし予想に反して、それほど話題にはのぼることがなかった。そういうもんなんかな。
なんて悲しい時代に生まれて来たんだろう 目に見えぬ物に怯えつつ生きている
せめてお前だけは惑う事なく 僕と歩いてほしい
この曲には確かに、朗々と青春を賛美した「道標ない旅」とは違う「影」がある。その影が何に起因するのかは、わからない。「人の流れの中で僕たちは同じ型に個性(いろ)を無くした」というその悲しい時代の中でなんとか主人公は希望を見出そうとするけれども、それは「せめてお前だけは裏切らないで」という痛切な叫びとなっている。
以後、永井龍雲は鮮烈なスポットライトを浴びることはないけれども、音楽活動を今でも続けていってくれている。先日、偶然TVで龍雲さんを観た。年齢を重ね、味わいを増している。今は沖縄在住らしい。なんと羨ましい。そういえば龍雲さんのご母堂は、確か奄美の方だったはず。
当時僕が好きだった曲に、「問わず語り」という曲がある。3枚目のアルバム「暖寒」所収。
向かい風に逆らうようにして今日まで俺は生きてきた
道の小石に足をとられても黙って埃を掃った
この曲が、なんだか歳を重ねた自分に妙に沁みいる。
そもそもおっさん対象のうたなのかなとも思うけれど、永井龍雲が当時21歳であったことに気付き愕然とする。まだ「今日まで俺は生きてきた」というほど生きてないだろ。でも、ミュージシャンってそんな感性くらいは持ってるんだな。そういえば河島英五が「酒と泪と男と女」を作ったのも19歳だったというからね。
そうやって思えば、これは演歌だな。演歌とフォークの違いなんて、編曲と歌唱法くらいだから。
言い訳じみた強がり吐いてはこっそり震えているのさ
問わず語りで独り言みたいにこれでいいんだとそっと呟く
酒をガソリン代わりに呑む、なんてのはさすが九州男児だなと思うけれど。僕にはそんな呑み方は無理かなあ。
それはともかく、だいたい男なんてのは、こういうものだと推測。観測範囲は、自分を含む狭い範囲だが、多くはこっそり震えていると思われる。ブログ書くのも「問わず語り」であるのは、間違いない。
コートの襟を立て隠れるように今は風に追い立てられてる
追い立てられても、なんとか生きていけるよ。そう自分に言い聞かせながら、今日もぽつりぽつりと歩いている。
僕が生まれた'65年あたりから、関西にフォークの萌芽があらわれる。高石友也や岡林信康、西岡たかし等の大御所が登場し、東京では小室等先生らが活動を始める。僕は言葉もまだ覚えていない頃。
僕が初めてそういう音楽に触れたのは、三歳のときのシューベルツ「風」であり、また意識したのはTVで流れていたガロの「学生街の喫茶店」であることは、以前にも書いたことがある。
ラジオの深夜放送を聴きだしたのは、特に早熟というわけではなかったと思うけれども小学校5年くらいであり、その時に僕の中にフォークソングという音楽がどっと入ってくる。まさしくいちどきに、来た。なので、高石ともやも吉田拓郎もかぐや姫も、NSPもふきのとうもみんな既存であり、横一線。時間に差がない。したがって、時系列を追えない(資料的には追えるけれども)。
だから僕にとってはこの人たち全てが第一世代である。上の世代の人から見れば、高石ともやと山木康世や天野滋が同じくくりとは阿呆かと言われるだろうが、これはもうしょうがない。
そうして、エアチェックを重ねカセットテープのライブラリーを増やしていた少年時代。そういう'70年代後半に、新たにデビューしてくるフォークシンガーがいる。ここからが、僕の中では第二世代になり、頭の中でも時系列を追って登場してくる。
僕がラジオを聴いていた頃、「大型新人」としてまず現れたのは、松山千春だった。「デビューの時から知っている」と言えるのは、この人が僕にとっては最初ではないか。
そういう僕の中のくくりだけで「第二世代」としてしまうのは甚だ恐縮な話ではあるのだが、もうひとつ言えるのは、松山千春は「岡林信康や加川良に影響を受けて音楽を始めた」と公言している。それより上の世代は、だいたいが前述のPPMやボブディラン、またS&Gもあるだろうし当然ビートルズもあるが、やはり洋楽から出でて、自分達で日本のフォークという音楽を作ってきた人たちだろう。そして、そういう「日本発のフォーク」の影響下で音楽を始めた、というのは、やはり第二世代と言ってもいいのではないかと思えてくる(さだまさしが加山雄三の影響を受けた、というのはひとまず措いて)。
このあと、新人がぞくぞくと現れてくる。
ここからは時系列で僕の記憶にあるのだが、その翌年あたり、鹿児島出身の歌手が出てくるのではなかったか(僕はこの吉田拓郎に影響を受けたという、今もカリスマ的人気を誇る歌手を全く受け付けないのだが…公けのブログでこういうことを書いてはいけないとは思うのだけれど、だんだんそういう気遣いが面倒になってきた。あくまで僕の好みだと受け取って欲しい)。
そしてまた翌年くらいに、永井龍雲が出てくる。円広志もそうだったかもしれないが。
永井龍雲を最初に聴いたときは、なんてきれいな声の人だろうと思った。もちろん、松山千春という人も抜群の歌声を持った人だが、チー様が朗々と歌い上げるのに比べ、もっと脆さを内包した、少年が胸を遠慮がちに張りつつ歌う声。チー様はもう既に老成していたかのような完成した歌声だが、永井龍雲の歌声はまだ途上の、みずみずしさあふれる叫び。
当時、まだ20歳だったんだな。永井龍雲は。
そしてその曲が、また不思議な魅力を持っていた。デビュー曲の「想い」。
どうしたらこの苦しみを逃れることができるのか
なんでデビュー曲の詞の冒頭が、こんな「一握の砂」みたいに辛いのか。ところが曲調は「永井節」とも言える晴れやかかつ伸びやかなメロディ。しかしこの曲が徐々に進行するにしたがい、まるでグレープの曲のように寂しく終わる。あまりこういう曲調をしらなかったので、少年の僕にはとても印象深かった。
当時、僕が便宜的にそう書いた「第二世代」は、やはり「○○二世」的な評価のされ方もしていた。マスコミというのはすぐにそんなふうに例えたがるのだが、松山千春が岡林二世だとすれば、あの鹿児島出身の歌手(ゴメンナサイ検索避けです)は拓郎二世、そして永井龍雲は「井上陽水二世」だと言われたのを聞いたことがある。なんだそれは。
共通項は、同じ福岡出身だったということと、名が「陽水」「龍雲」とまるで僧侶か書道家のような名前であったこと、そして、髪型が似ていたくらいだっただろう。音楽性は僕の判断で申し訳ないが、異なると思う。ただ、陽水になぞらえられるほど嘱望されていたのは確かだ。
永井龍雲は翌年「つまさき坂」を経て、「道標ない旅」がヒットする。この曲は、グリコアーモンドチョコのCMソングになったから、僕と同世代、もしくは上であれば知っている人が多いと思う。
大空に群なす鳥達よ 君の声を見失うなよ
青春を旅する若者よ 君が歩けば そこに必ず道はできる
名曲の誉れ高い「道標ない旅」。希望に満ち溢れている。青春とは何と素晴らしきものか。
話がずれるが、今もそうかもしれないけれど、当時はCMソングってすごかったなぁということを思い出す。CM使用曲はヒットが約束されていた。このグリコのCMも、前年に使用された曲は松山千春の「季節の中で」だ。これがチー様の大変な出世作になったのはいうまでもない。
その「季節の中で」に劣るとは思えない「道標ない旅」だけれども、そこまでは売れなかった。これは、流されていた期間の問題だった、とも言われている。
この永井龍雲の曲が採用されたCMがオンエアされていた時、山口百恵・三浦友和が恋人宣言。グリコはこの話題を逃さず、「道標ない旅」CMを打ち切って百恵友和が共演していた過去のCMに切り替えた。よって、「道標ない旅」はオンエア期間が短い。
この曲がずっと茶の間に流れ続けていたら、とifを考える。そうすれば「季節の中で」や「愛のメモリー」みたいな認知度になっていたかもしれない。であれば、この青春賛歌は、例えば合唱コンクールの課題曲になったり、卒業式で歌われたり…もっと違う残り方をしたかもしれない。永井龍雲その人も、また違った道が出来ただろう。
永井龍雲は、この「道標ない旅」に続くシングルとして「悲しい時代に」をリリースする。
僕はこの曲を聴いたときに「道標ない旅」を超えた、と思った。これはいい曲だと思った。しかし予想に反して、それほど話題にはのぼることがなかった。そういうもんなんかな。
なんて悲しい時代に生まれて来たんだろう 目に見えぬ物に怯えつつ生きている
せめてお前だけは惑う事なく 僕と歩いてほしい
この曲には確かに、朗々と青春を賛美した「道標ない旅」とは違う「影」がある。その影が何に起因するのかは、わからない。「人の流れの中で僕たちは同じ型に個性(いろ)を無くした」というその悲しい時代の中でなんとか主人公は希望を見出そうとするけれども、それは「せめてお前だけは裏切らないで」という痛切な叫びとなっている。
以後、永井龍雲は鮮烈なスポットライトを浴びることはないけれども、音楽活動を今でも続けていってくれている。先日、偶然TVで龍雲さんを観た。年齢を重ね、味わいを増している。今は沖縄在住らしい。なんと羨ましい。そういえば龍雲さんのご母堂は、確か奄美の方だったはず。
当時僕が好きだった曲に、「問わず語り」という曲がある。3枚目のアルバム「暖寒」所収。
向かい風に逆らうようにして今日まで俺は生きてきた
道の小石に足をとられても黙って埃を掃った
この曲が、なんだか歳を重ねた自分に妙に沁みいる。
そもそもおっさん対象のうたなのかなとも思うけれど、永井龍雲が当時21歳であったことに気付き愕然とする。まだ「今日まで俺は生きてきた」というほど生きてないだろ。でも、ミュージシャンってそんな感性くらいは持ってるんだな。そういえば河島英五が「酒と泪と男と女」を作ったのも19歳だったというからね。
そうやって思えば、これは演歌だな。演歌とフォークの違いなんて、編曲と歌唱法くらいだから。
言い訳じみた強がり吐いてはこっそり震えているのさ
問わず語りで独り言みたいにこれでいいんだとそっと呟く
酒をガソリン代わりに呑む、なんてのはさすが九州男児だなと思うけれど。僕にはそんな呑み方は無理かなあ。
それはともかく、だいたい男なんてのは、こういうものだと推測。観測範囲は、自分を含む狭い範囲だが、多くはこっそり震えていると思われる。ブログ書くのも「問わず語り」であるのは、間違いない。
コートの襟を立て隠れるように今は風に追い立てられてる
追い立てられても、なんとか生きていけるよ。そう自分に言い聞かせながら、今日もぽつりぽつりと歩いている。
コメント (2) |
トラックバック (0) |
あの3.11。僕は、とある場所の応接室に座って人待ちをしていた。考え事をしていた。
突然眩暈を感じた。あ、これは脳に異常が出た、と思った。三半規管がやられている。座っていても何か平衡感覚がとれない。
それが「地震」と気付くまでに本当にしばらくかかった。関西では、そんな揺れだった。大きな、しかし静かな長い揺れ。
「今、地震来ましたよね」「ええ、なんだか東京のほうで大変な揺れだったみたいですよ」
その時、そんな会話をした。大変な揺れだったのはもっと北のほうだったということをその時は知らなかった。
帰宅。妻が、青森の両親と連絡がとれない、と泣きそうな顔で言う。それまでに僕も多少の情報を得ていたので、未曾有の規模の地震であったことは知っている。この状況では電話が通じないのはしょうがない。問題は、皆があのときどこに居たか、だ。
義父母はおそらく家に居ただろうから大丈夫だろう。かなり揺れただろうが、地域的にも家が壊れるほどの場所ではない。楽観も出来ないが、命に関わることは多分、あるまい。気がかりは、義兄だ。仕事で八戸あたりに居た可能性も高い。
電話は、我が家にはじゃんじゃん掛かってくる。殆どが、僕の身内だ。「奥さんのご実家は大丈夫だったの?」そんなこと言われてもこっちだって連絡がとれてないんだよ。「だって心配でいてもたってもいられなくて」有難い話なんですけど、うちの女房はもっと心配してます。「何とか方法はないの?」だからぁ…。お願いだからこれ以上我が家の電話回線を塞がないで。うちはキャッチホンとかつけてません。この瞬間に向こうから電話があったらどうするの。
結局その夜は連絡がつかず。眠ることは出来なかった。義父母と連絡がついたのは翌日の夕刻、義兄と連絡がついたのは夜半過ぎとなった。
無事が確認できれば、いい。電気水道に障害が出ているらしいが、そこは田舎の強み。薪ストーブがあるので凍えることもない。水も、水道に頼らなくても確保できる。農家なので食べ物の備蓄もあるはず。
身内のことはさておき、TV報道を視聴していると、胸が苦しくなる。
最初は報道も「○○市では死者が2名出た模様です」などと言っている。そんな規模ではないはずなのだが、必ず報道はそう言う。これが、日を追うごとに数字が増える。そういえば阪神大震災の時も「死者が若干名出た模様です」などと最初は言っていた。阪神高速が横倒しになっている映像が映っているのに、である。その様な物申しをしなくてはいけない理由があるのだろうが、現実との乖離が激しすぎる。
なんとか身内の安否は確認できたものの、妻の友人たちは東北に散らばって住んでいる。久慈にも、仙台にも、相馬にも居る。連絡などつけられるはずもない。妻は安否情報を必死で追っている。
我が家も、当日翌日は電話を掛けすぎたなと思って反省している。心配ではあったものの、電話回線パンクの一翼を担ってしまったと思う。こういうときには、冷静さを失う。ちょっと落ち着いて考えればわかることなのだが。しかし、普段あまり行き来の無い親戚まで「あんたの奥さん確か東北だったよな」みたいな感じで連絡してくる。身内の恥を晒すようだが、もう少し気遣いも必要だろう。「ところで、久しぶりだけどあんた元気か」なんて会話をこんなときにしなくてもいい。
以下も、とりとめもないままに。
僕の携帯にも、例のチェーンメールがやってきた。「関西電力で働いている友達からのお願いなのですが、本日18時以降関東の電気の備蓄が底をつくらしく…」。「このメールをできるだけ多くの方に送信をお願いします」という文言にやたら憤りをおぼえる。ご承知の通り、関電はそんなことを要求していない。ネットで調べると、やたらブログなどでも「拡散希望」と書いている人が多い。
これはいったい何が目的なのか。単純に考えれば、愉快犯の仕業だ。回線をパンクさせようと目論んでのことか。それとも情報弱者を笑う目的か。
チェーンメールなど、不幸の手紙と同じ。僕はいつもそう思っている。僕は、おそらく一般的な人より「善意」というものが欠けている冷たい人間なのでこういうものにはすぐ疑いを持ってしまうが、世の中には「何か自分に出来ることを」と真っ直ぐに考える善意の人々が溢れている。そういう人たちを狙ったとしたら、許しがたい。
関東では、もっと流言飛語が飛び交ったそうな。
あの阪神大震災の時でも、流言飛語はやはりあったらしい。しかしながら、それは口伝えであり狭い範囲で止まっていると思われる。今回の場合、阪神の時とは比較にならないほど「ネット」というものが拡大している。みんな、メールで送る。ブログに書く。twitterでつぶやく。そして、拡散する。
阪神大震災なんて、ついこの間のことだ。その短い間に、ネットワークのシステムが急激に進化した。それに対し、使用する側の技量が追いついていないのではないのか。自分のことを省みつつそう思う。
「被災地に何か出来ることは」ということがやはり話題になっている。
こういうときにやはりネットの力が凄く、福井や米子で善意の人が呼びかけたらあっという間に支援物資が集まった、と新聞紙上で見た。だが、輸送手段が無い。
気持ちは、わかる。しかしこの未曾有の事態に、素人が出来ることは限られている。僕は震災を知らない西宮市民だが、周りには被災経験者が山ほどいる。
ボランティアは、自衛隊と違い自己完結していない。そこを経験者は言う。被災者や支援者がボランティアの世話をせねばならないようでは本末転倒となる。
今、西日本に居る素人が出来ることは、募金と、あとは献血くらいしかないのではないか。しかしまたここでも、募金詐欺が現れていると聞く。
報道は、原発の様子を伝える以外は、だんだんワイドショーと化してきたように見える。避難所から中継し、被災者にインタビューしてまわっている。TVは大衆の鏡なので、これは視聴者のニーズがそうさせているのだと理解している。好奇心を満たすため、とはさすがに思わないが。
まだ震災は収束していない。継続中である。それは、わかっている。だが全てのチャンネルが、被災者以外の人々に発信する内容でなくてもいいだろうとは、思う。
ラジオ関西のことをまた、思い出す。あの神戸の放送局は、自らが被災したにも関わらず、震災からわずか14分後に放送を開始、被災者に対して必要な情報だけをずっと流し続けた。
電源の無い現地で、今回、どれだけの情報が被災者側に届けられているのか、それは気になる。
そしてまた、放送局の役割はそれだけでもないと思う。不謹慎だと言われるだろうが、笑点や水戸黄門などは放送してもよかったのではないだろうか、とも思う。こんなときだからこそ。
独立U局は、キー局がないため翌日夜には一部通常放送に切り替え始めた。僕の住むところには、神戸のサンテレビがある。津波の悲惨な映像の視聴に苦しくなっていた僕は、ついザッピングの合間にそちらを観た。TVは森脇健児の「走る男F」を放送している。もちろん、津波情報等の外枠付きだったが。
この「走る男」というTVシリーズは、初回から観られるときはいつも観ている。もう3年目に入った。現在は企画番組になっているが、最初の一年は森脇健児が北海道から沖縄までを自分の足で走りきるという内容で、その日本縦断の風景が、かつて僕が若い頃やった自転車旅行に重なり、毎回楽しみにしていた。
その初回シリーズの番組のテーマソングは、河島翔馬が歌う「ジョギング」だった。
夕日に染まるグラウンド 息を切らせ走った日々 いつも何かを追いかけて たどり着けず傷付いたね
この曲を歌う河島翔馬は、もちろん河島英五の息子である。
かつて東京のキー局で冠番組まで持つ売れっ子だった森脇健児は、そのうちに時が移ってしまい東京から京都に戻ってきた。そして自らの原点である陸上部出身というアイデンティティを基盤に、「走る」ということを主眼に置いた企画を立ち上げ、東郷Pとようやく実現にこぎつけた番組が「走る男」である。その主題歌を、森脇は河島翔馬に依頼した。
河島翔馬は苦悩したと聞く。なかなかいい曲が出来なくて悩む翔馬に、翔馬のおかあさん(つまり英五さんの奥さん)が、「そういえばお父さんが書き残している日記がある」とノートを出してきた。その中に、この「ジョギング」の原型となる詩があったという。
この詩を歌にすべく、姉の河島あみる、河島アナムが協力し、言わば河島英五の子供たちが総力を結集して作ったのがこの曲だ。なので作詞は「河島英五」となっている。
番組を観ていたこともあり、僕は今でもこのうたを聴くたびジンとくる。
英五さんが亡くなって、ちょうど10年になる。あのときは、まさに急逝だった。
「走る男F」を観つつ、思った。そうか、もう英五さんはいないのか、と。
こういう時にもっとも相応しい歌い手は、もっとも人々を勇気づけられるうたを、まっすぐに目を見て力の限り歌ってくれる人は、河島英五だったのに。
河島英五は、男の典型を絵に描いたような人だった。いつも大きな身体で、めいっぱいの声で人たちを歌で励まし続けた。あの震災のときも。神戸で毎年チャリティコンサート「復興の詩」を開き、元気出していこうぜと呼びかけ続けていた。
まだ、今度の震災は継続している。けれども、かならず復興の烽火が上がるときは、来る。そのときに必要になるのが、英五さんのうただったはず。英五さんはもういないけれども、そのうたは今も生きている。
元気出してゆこう! 声掛け合ってゆこう!
英五さんの「元気出してゆこう」がみんなで歌える、そんな日が早く来るように。誰に願えばいいのかもわからないけれど、とにかく祈念してやまない。
震災救助・支援にあたられているみなさん。お疲れ様です。ありがとうございます。本当によろしくお願いします。僕たちは今、みなさんに託すしか手段を持ちません。どうか、頑張ってください。
被災されている皆さんに心よりお見舞い申し上げます。折悪しくまた寒さに厳しさが増すとか。天候を恨みますが、何とか元気でいて下さい。
そして志半ばにして亡くなられた方々に、慎んで追悼の意を表します。
いったい何だよあの津波はよ! 神様もひでぇことをしてくれるもんだな! 馬鹿野郎!
突然眩暈を感じた。あ、これは脳に異常が出た、と思った。三半規管がやられている。座っていても何か平衡感覚がとれない。
それが「地震」と気付くまでに本当にしばらくかかった。関西では、そんな揺れだった。大きな、しかし静かな長い揺れ。
「今、地震来ましたよね」「ええ、なんだか東京のほうで大変な揺れだったみたいですよ」
その時、そんな会話をした。大変な揺れだったのはもっと北のほうだったということをその時は知らなかった。
帰宅。妻が、青森の両親と連絡がとれない、と泣きそうな顔で言う。それまでに僕も多少の情報を得ていたので、未曾有の規模の地震であったことは知っている。この状況では電話が通じないのはしょうがない。問題は、皆があのときどこに居たか、だ。
義父母はおそらく家に居ただろうから大丈夫だろう。かなり揺れただろうが、地域的にも家が壊れるほどの場所ではない。楽観も出来ないが、命に関わることは多分、あるまい。気がかりは、義兄だ。仕事で八戸あたりに居た可能性も高い。
電話は、我が家にはじゃんじゃん掛かってくる。殆どが、僕の身内だ。「奥さんのご実家は大丈夫だったの?」そんなこと言われてもこっちだって連絡がとれてないんだよ。「だって心配でいてもたってもいられなくて」有難い話なんですけど、うちの女房はもっと心配してます。「何とか方法はないの?」だからぁ…。お願いだからこれ以上我が家の電話回線を塞がないで。うちはキャッチホンとかつけてません。この瞬間に向こうから電話があったらどうするの。
結局その夜は連絡がつかず。眠ることは出来なかった。義父母と連絡がついたのは翌日の夕刻、義兄と連絡がついたのは夜半過ぎとなった。
無事が確認できれば、いい。電気水道に障害が出ているらしいが、そこは田舎の強み。薪ストーブがあるので凍えることもない。水も、水道に頼らなくても確保できる。農家なので食べ物の備蓄もあるはず。
身内のことはさておき、TV報道を視聴していると、胸が苦しくなる。
最初は報道も「○○市では死者が2名出た模様です」などと言っている。そんな規模ではないはずなのだが、必ず報道はそう言う。これが、日を追うごとに数字が増える。そういえば阪神大震災の時も「死者が若干名出た模様です」などと最初は言っていた。阪神高速が横倒しになっている映像が映っているのに、である。その様な物申しをしなくてはいけない理由があるのだろうが、現実との乖離が激しすぎる。
なんとか身内の安否は確認できたものの、妻の友人たちは東北に散らばって住んでいる。久慈にも、仙台にも、相馬にも居る。連絡などつけられるはずもない。妻は安否情報を必死で追っている。
我が家も、当日翌日は電話を掛けすぎたなと思って反省している。心配ではあったものの、電話回線パンクの一翼を担ってしまったと思う。こういうときには、冷静さを失う。ちょっと落ち着いて考えればわかることなのだが。しかし、普段あまり行き来の無い親戚まで「あんたの奥さん確か東北だったよな」みたいな感じで連絡してくる。身内の恥を晒すようだが、もう少し気遣いも必要だろう。「ところで、久しぶりだけどあんた元気か」なんて会話をこんなときにしなくてもいい。
以下も、とりとめもないままに。
僕の携帯にも、例のチェーンメールがやってきた。「関西電力で働いている友達からのお願いなのですが、本日18時以降関東の電気の備蓄が底をつくらしく…」。「このメールをできるだけ多くの方に送信をお願いします」という文言にやたら憤りをおぼえる。ご承知の通り、関電はそんなことを要求していない。ネットで調べると、やたらブログなどでも「拡散希望」と書いている人が多い。
これはいったい何が目的なのか。単純に考えれば、愉快犯の仕業だ。回線をパンクさせようと目論んでのことか。それとも情報弱者を笑う目的か。
チェーンメールなど、不幸の手紙と同じ。僕はいつもそう思っている。僕は、おそらく一般的な人より「善意」というものが欠けている冷たい人間なのでこういうものにはすぐ疑いを持ってしまうが、世の中には「何か自分に出来ることを」と真っ直ぐに考える善意の人々が溢れている。そういう人たちを狙ったとしたら、許しがたい。
関東では、もっと流言飛語が飛び交ったそうな。
あの阪神大震災の時でも、流言飛語はやはりあったらしい。しかしながら、それは口伝えであり狭い範囲で止まっていると思われる。今回の場合、阪神の時とは比較にならないほど「ネット」というものが拡大している。みんな、メールで送る。ブログに書く。twitterでつぶやく。そして、拡散する。
阪神大震災なんて、ついこの間のことだ。その短い間に、ネットワークのシステムが急激に進化した。それに対し、使用する側の技量が追いついていないのではないのか。自分のことを省みつつそう思う。
「被災地に何か出来ることは」ということがやはり話題になっている。
こういうときにやはりネットの力が凄く、福井や米子で善意の人が呼びかけたらあっという間に支援物資が集まった、と新聞紙上で見た。だが、輸送手段が無い。
気持ちは、わかる。しかしこの未曾有の事態に、素人が出来ることは限られている。僕は震災を知らない西宮市民だが、周りには被災経験者が山ほどいる。
ボランティアは、自衛隊と違い自己完結していない。そこを経験者は言う。被災者や支援者がボランティアの世話をせねばならないようでは本末転倒となる。
今、西日本に居る素人が出来ることは、募金と、あとは献血くらいしかないのではないか。しかしまたここでも、募金詐欺が現れていると聞く。
報道は、原発の様子を伝える以外は、だんだんワイドショーと化してきたように見える。避難所から中継し、被災者にインタビューしてまわっている。TVは大衆の鏡なので、これは視聴者のニーズがそうさせているのだと理解している。好奇心を満たすため、とはさすがに思わないが。
まだ震災は収束していない。継続中である。それは、わかっている。だが全てのチャンネルが、被災者以外の人々に発信する内容でなくてもいいだろうとは、思う。
ラジオ関西のことをまた、思い出す。あの神戸の放送局は、自らが被災したにも関わらず、震災からわずか14分後に放送を開始、被災者に対して必要な情報だけをずっと流し続けた。
電源の無い現地で、今回、どれだけの情報が被災者側に届けられているのか、それは気になる。
そしてまた、放送局の役割はそれだけでもないと思う。不謹慎だと言われるだろうが、笑点や水戸黄門などは放送してもよかったのではないだろうか、とも思う。こんなときだからこそ。
独立U局は、キー局がないため翌日夜には一部通常放送に切り替え始めた。僕の住むところには、神戸のサンテレビがある。津波の悲惨な映像の視聴に苦しくなっていた僕は、ついザッピングの合間にそちらを観た。TVは森脇健児の「走る男F」を放送している。もちろん、津波情報等の外枠付きだったが。
この「走る男」というTVシリーズは、初回から観られるときはいつも観ている。もう3年目に入った。現在は企画番組になっているが、最初の一年は森脇健児が北海道から沖縄までを自分の足で走りきるという内容で、その日本縦断の風景が、かつて僕が若い頃やった自転車旅行に重なり、毎回楽しみにしていた。
その初回シリーズの番組のテーマソングは、河島翔馬が歌う「ジョギング」だった。
夕日に染まるグラウンド 息を切らせ走った日々 いつも何かを追いかけて たどり着けず傷付いたね
この曲を歌う河島翔馬は、もちろん河島英五の息子である。
かつて東京のキー局で冠番組まで持つ売れっ子だった森脇健児は、そのうちに時が移ってしまい東京から京都に戻ってきた。そして自らの原点である陸上部出身というアイデンティティを基盤に、「走る」ということを主眼に置いた企画を立ち上げ、東郷Pとようやく実現にこぎつけた番組が「走る男」である。その主題歌を、森脇は河島翔馬に依頼した。
河島翔馬は苦悩したと聞く。なかなかいい曲が出来なくて悩む翔馬に、翔馬のおかあさん(つまり英五さんの奥さん)が、「そういえばお父さんが書き残している日記がある」とノートを出してきた。その中に、この「ジョギング」の原型となる詩があったという。
この詩を歌にすべく、姉の河島あみる、河島アナムが協力し、言わば河島英五の子供たちが総力を結集して作ったのがこの曲だ。なので作詞は「河島英五」となっている。
番組を観ていたこともあり、僕は今でもこのうたを聴くたびジンとくる。
英五さんが亡くなって、ちょうど10年になる。あのときは、まさに急逝だった。
「走る男F」を観つつ、思った。そうか、もう英五さんはいないのか、と。
こういう時にもっとも相応しい歌い手は、もっとも人々を勇気づけられるうたを、まっすぐに目を見て力の限り歌ってくれる人は、河島英五だったのに。
河島英五は、男の典型を絵に描いたような人だった。いつも大きな身体で、めいっぱいの声で人たちを歌で励まし続けた。あの震災のときも。神戸で毎年チャリティコンサート「復興の詩」を開き、元気出していこうぜと呼びかけ続けていた。
まだ、今度の震災は継続している。けれども、かならず復興の烽火が上がるときは、来る。そのときに必要になるのが、英五さんのうただったはず。英五さんはもういないけれども、そのうたは今も生きている。
元気出してゆこう! 声掛け合ってゆこう!
英五さんの「元気出してゆこう」がみんなで歌える、そんな日が早く来るように。誰に願えばいいのかもわからないけれど、とにかく祈念してやまない。
震災救助・支援にあたられているみなさん。お疲れ様です。ありがとうございます。本当によろしくお願いします。僕たちは今、みなさんに託すしか手段を持ちません。どうか、頑張ってください。
被災されている皆さんに心よりお見舞い申し上げます。折悪しくまた寒さに厳しさが増すとか。天候を恨みますが、何とか元気でいて下さい。
そして志半ばにして亡くなられた方々に、慎んで追悼の意を表します。
いったい何だよあの津波はよ! 神様もひでぇことをしてくれるもんだな! 馬鹿野郎!
コメント (11) |
トラックバック (0) |
なぜか、50代の人ふたりと、おじさん3人でカラオケボックスに行くことになってしまった。この年代はスナック世代であって、こういう若い人ばかりの場所など場違いも甚だしいのだが、そのときはそうなってしまったもの、仕方が無い。
最も若いのは僕で、僕が仕切らねばならない。が、実は僕もシステムが分かっていないので苦労してしまった。どうやって曲を入力すればいいんだ。半音上げたいのだがどうすれば? その経緯については、別ブログで書いたので参照してもらえれば有難い。
で、その場の最も年長の人が「今日は甲斐バンドだけでいこう」と提案した。
その人は僕より9歳上だが、筋金入りの甲斐バンドファンである。頭部に髪はないが、それでも甲斐よしひろよりは若く、若い頃から頻繁にライブに足を運んでいたそうな。曰く「オレはデビューからずっと応援してきた」。なるほどね。
普通なら「そんな理不尽な」と年長者の横暴に対しひとこと言うところだが、まあよかろう。甲斐バンドだけ歌うのも悪くは、ない。
まず「かりそめのスウィング」を入力して、その人がマイクを持った。
ジングルベルに街が浮き足立った夜 人の声と車の音が飛び交ってる
うまい。さすがに年季が入っている。歌い続けてきた人なのだ。
その歌の最中に、もう一人の人がこっそりと僕に言った。
「HIROと安奈だけは歌うなよ。俺の持ち歌だからな」
はいはいわかりました。おそらく、この人は「HIRO」と「安奈」しか知らないのだろう。「かりそめのスウィング」を知らないと言った段階で予想してますよ。
僕はその人の「HIRO」を入力し、そして自分のために「LADY」を入れた。
人はいつも僕を嘲って あの街の角を通り過ぎていった だから…
とは言うものの僕だって、実は甲斐バンドのことはあまり知らない。「HIRO」と「安奈」しか知らない、ということはないけれども、いいリスナーだったとはとても言えない。いやむしろ、避けていたと言えるかもしれない。
甲斐バンドのデビュー時、僕はまだ小学生だった。なので「筋金入りの甲斐バンドファン」の人のようにリアルタイムで、というわけにはいかない。けれども、生意気にもその当時から深夜放送ファンだったせいで、その存在と「裏切りの街角」という歌くらいは知っていた。でもあまり興味はなかったかもしれない。
あるとき「吟遊詩人の歌」を聴いた。とてもいい曲だと思った。当時、フォークばかり聴いていた僕に、しっくりとはまった。甲斐バンド、いいじゃないか。
(小学生から中学にあがろうとする頃のガキの感想である。生意気なのは勘弁して欲しい)
そう。僕がランドセル背負った小学生から中学に進級しようとする時代。中古のギターを4800円で買い、雑誌に載る小林雄二さん考案の「YUMIN譜」を手がかりにアルペジオだのスリーフィンガーだのを練習しだした時期。ラジオでナターシャセブンの深夜放送を聴き続け、フォークにどっぷりと浸かった頃。つまり、'77年から'78年。
その頃世の中に「ニューミュージック」なる言葉が頻繁に登場する。
実にヘンなマスコミ用語で、どういう音楽を指すのかも明確でない。そもそも音楽にジャンル分けは不毛なことだが、それでも「フォーク」「ロック」「クラシック」などと言い分けるのは便利ではある。しかしニューミュージックとは。早晩死語になったが、シンガーソングライターたちの作る楽曲は、みなこのようにひと括りであらわされていた。
そのニューミュージックの旗頭として、アリスが「冬の稲妻」でブレイクする。天才・原田真二が颯爽と現われる。世良正則と渡辺真知子が新人賞を独占する。サザンオールスターズがデビューする。松山千春が「一夜限り」とベストテンで歌う。
これらみな「ニューミュージック」と呼ばれた。全く意味がわからないのだが、今も昔もマスコミとはこういうものなのかもしれない。
そんな中、甲斐よしひろが雑誌のインタビューに答えているのを読んだ。
以下は、その雑誌を所持していないので(立ち読みだったかもしれない)、出典が明確でないということをまず申し上げておきたい。僕の記憶違いがあるかもしれないし、資料性は全く無く、気分を害される方がいたら誠に申し訳ない。
甲斐よしひろは「今年はアリス、矢沢永吉が翔んだ。来年は甲斐バンドが翔ぶ」と宣言していた。次代ニューミュージックシーンは俺たちのもの、なんて煽り文句が付いていたような気もする(繰り返すが僕の記憶であり信用はしないで欲しい)。
その言葉どおり甲斐バンドは'79年に「HERO」を大ヒットさせ有言実行を証明するのだが、そのインタビュー内で甲斐よしひろは「男と女のことが一番大きい」と答えていた。どういう歌を作っていくのか、という話の中で。
これに、中学一年の僕は強烈な違和感を覚えた。そんなことがいちばん大きなことじゃないだろう、と。高石ともやや、また岡林信康を聴いていた僕は、「男と女のこと」なんて小さなこと、音楽はもっとメッセージを発信して世の中を変革すべし、と思っていた。
全くのところ、笑止である。だいたい、ついこの間までランドセルを背負っていた少年である。本格的な恋愛など経験もしていない。そんな子供が何故「男と女のこと」を小さいと思うのか。阿呆だと言える。
さらに、甲斐よしひろが言ったのは一種の比喩だろうとも今にしては思える。結局、人の生き様を歌いたい、ということを「男と女」という言葉で抽出したのだろう。ただ表層でとらえればいいというものではない。
だが、僕はそれ以降、甲斐バンドを積極的には聴いていない。せっかく「吟遊詩人の歌」という入り口もあったのに、みすみす逃してしまった。
筋金入りの年長者が次に「きんぽうげ」を歌う。
こぼれたテーブルの酒 指でたどって 口ぐせのようにお前は何度もつぶやく
これもいい曲である。切ない若者の心情。初期の名曲なのだが、僕はずっとこの曲を知らずにきた。知ったのは20歳もずいぶん過ぎてからのこと。
次に「安奈」を入れ、もうひとりのおじさんがひとしきり盛り上がったそのあと、僕は「氷のくちびる」を歌う。
抱かれてもひとつになりはしない心で 君は僕の腕の中に嘘の涙流してた
呑み放題プランにしたせいで、何杯も酒を呑んだ。昨今とみに、酒に弱い。酩酊してきた。それは僕より年上のおじさんたちも同じだろう。そろそろ潮時かもしれない。だいいち、ひとりはもう持ち歌が無くなってしまった。年長の人が言う。
「最後にオレが"翼あるもの"を歌うから、あんたその前に一曲歌いなさい」
わかりました。じゃ「ポップコーンをほおばって」でもいいですか? 僕がやったなら役者として不足であるのは重々承知ですけど、すみません。
そうして、入力、転送。短いイントロダクションが流れる。
映画を見るならフランス映画さ 若かった頃の君と僕の想い出話は
君が手を振り切った二十歳の時 埋もれ陽の道にすべては消えうせた
このうたは、音楽家甲斐よしひろのルーツのような歌であり、世に出るきっかけとなった曲であることは、ファンなら誰でもが知っているに違いない。彼がまだバンドを組む前に、フォークコンテストにこの「ポップコーンをほおばって」を引っさげ出場し、全国大会で優勝したのは、歌詞と同じ二十歳の時だった。その後、博多の伝説のライブ喫茶「照和」に集う大森信和、長岡和弘、そして松藤英男を加え甲斐バンドを結成し、'74年に「バス通り」でデビューすることになる。
どうして「ポップコーンをほおばって」がデビューシングルとならなかったのかは知らない。この名曲はなぜか「かりそめのスウィング」のB面としてひっそりと世に出る。
僕等は飛べない鳥じゃなかったはず 翼を広げたらきっと飛べたんだ
僕等は飛べない鳥じゃなかったはず 君は翼がある事を知って恐かったんでしょう
正直に言うが、僕がこの曲を知ったのも、実はカラオケにおいてである。23歳か24歳の頃。
当時は、やたら忙しかった。解放されるのはいつも夜も更けたころ。それでも、若かったのだろう、身体は休息よりも発散を望んでいた。居酒屋で酒を呑み、日付も変わる頃、いつものスナックへと向かう。ボトルキープしてあるI.W.ハーパーをロックで呑み、青筋を立てて歌う。そんなのが、日課だった。午前様が続いても、平気だった。
あるとき、常連客の一人が「ポップコーンをほおばって」を歌い始めた。
なんと格好いい曲か、とそのとき思った。誰の曲だ。甲斐バンド?
その常連の人(いつも顔をあわせるのでもう馴染みになっている)に、いい歌ですね。また巧い、と伝えた。するとその人は、本物はこんなもんじゃない、俺の歌で判断しちゃいかんぞ、と。その人も甲斐バンドが大好きな人だった。
その人とは、帰る方向が同じなのでよくタクシーに同乗した。ある日、その人はわざわざウォークマンを持ってきていて「これが本物だ」とタクシーの中で聴かせてくれた。そして、この曲は甲斐バンドのルーツのような曲で…と僕に懇々と教えてくれた。
その人は、いつ遭遇するかわからない僕と出会うまでずっと、ウォークマンを鞄にしのばせ続けてくれたのだ。若造に本物の甲斐バンドを聴かせるために。
あれから20年以上経つ。僕は後に結婚し、少しづつ酒場に入り浸らなくなった。また、体力も落ちた。午前様ではもう持たなくなった。そして、転勤しそのスナックがあった街から去った。何年か前に一度訪れてみたら、もう店は無くなっていた。
みんな元気でいるだろうか。
君の最後の言葉をおとしていく バスを追っかけて 追っかけて
鼻の奥に何か熱いものが走った。いかん、泣きそうだ。酩酊して、感情の起伏が大きくなってきたんだろう。いろんなものがこみ上げ、声が震えてきた。
教会の鐘が聞こえるかい 天使の賛美歌は 聞こえるかい
年長の筋金入りのファンも、一緒に歌ってくれている。あの親切だったスナックの常連客の人も、たしかこの人と同年輩だ。あのときは30歳そこそこだったけれど。
みんな甲斐バンドが好きだったんだ。
ポップコーンをほおばって
ポップコーンをほおばって
天使達の声に 耳を傾けている
最後には声も涸れ果てたが、ただひたすらに懐かしかった。このうたも、歌うのはやっぱり20年ぶりくらいだったのではないか。
歌う場所も、スナックの時代からカラオケボックスというものにかわり、また我々も老けた。けれども、変わらぬものは変わらない。いろんなことを思い出しながらの帰路だった。
最も若いのは僕で、僕が仕切らねばならない。が、実は僕もシステムが分かっていないので苦労してしまった。どうやって曲を入力すればいいんだ。半音上げたいのだがどうすれば? その経緯については、別ブログで書いたので参照してもらえれば有難い。
で、その場の最も年長の人が「今日は甲斐バンドだけでいこう」と提案した。
その人は僕より9歳上だが、筋金入りの甲斐バンドファンである。頭部に髪はないが、それでも甲斐よしひろよりは若く、若い頃から頻繁にライブに足を運んでいたそうな。曰く「オレはデビューからずっと応援してきた」。なるほどね。
普通なら「そんな理不尽な」と年長者の横暴に対しひとこと言うところだが、まあよかろう。甲斐バンドだけ歌うのも悪くは、ない。
まず「かりそめのスウィング」を入力して、その人がマイクを持った。
ジングルベルに街が浮き足立った夜 人の声と車の音が飛び交ってる
うまい。さすがに年季が入っている。歌い続けてきた人なのだ。
その歌の最中に、もう一人の人がこっそりと僕に言った。
「HIROと安奈だけは歌うなよ。俺の持ち歌だからな」
はいはいわかりました。おそらく、この人は「HIRO」と「安奈」しか知らないのだろう。「かりそめのスウィング」を知らないと言った段階で予想してますよ。
僕はその人の「HIRO」を入力し、そして自分のために「LADY」を入れた。
人はいつも僕を嘲って あの街の角を通り過ぎていった だから…
とは言うものの僕だって、実は甲斐バンドのことはあまり知らない。「HIRO」と「安奈」しか知らない、ということはないけれども、いいリスナーだったとはとても言えない。いやむしろ、避けていたと言えるかもしれない。
甲斐バンドのデビュー時、僕はまだ小学生だった。なので「筋金入りの甲斐バンドファン」の人のようにリアルタイムで、というわけにはいかない。けれども、生意気にもその当時から深夜放送ファンだったせいで、その存在と「裏切りの街角」という歌くらいは知っていた。でもあまり興味はなかったかもしれない。
あるとき「吟遊詩人の歌」を聴いた。とてもいい曲だと思った。当時、フォークばかり聴いていた僕に、しっくりとはまった。甲斐バンド、いいじゃないか。
(小学生から中学にあがろうとする頃のガキの感想である。生意気なのは勘弁して欲しい)
そう。僕がランドセル背負った小学生から中学に進級しようとする時代。中古のギターを4800円で買い、雑誌に載る小林雄二さん考案の「YUMIN譜」を手がかりにアルペジオだのスリーフィンガーだのを練習しだした時期。ラジオでナターシャセブンの深夜放送を聴き続け、フォークにどっぷりと浸かった頃。つまり、'77年から'78年。
その頃世の中に「ニューミュージック」なる言葉が頻繁に登場する。
実にヘンなマスコミ用語で、どういう音楽を指すのかも明確でない。そもそも音楽にジャンル分けは不毛なことだが、それでも「フォーク」「ロック」「クラシック」などと言い分けるのは便利ではある。しかしニューミュージックとは。早晩死語になったが、シンガーソングライターたちの作る楽曲は、みなこのようにひと括りであらわされていた。
そのニューミュージックの旗頭として、アリスが「冬の稲妻」でブレイクする。天才・原田真二が颯爽と現われる。世良正則と渡辺真知子が新人賞を独占する。サザンオールスターズがデビューする。松山千春が「一夜限り」とベストテンで歌う。
これらみな「ニューミュージック」と呼ばれた。全く意味がわからないのだが、今も昔もマスコミとはこういうものなのかもしれない。
そんな中、甲斐よしひろが雑誌のインタビューに答えているのを読んだ。
以下は、その雑誌を所持していないので(立ち読みだったかもしれない)、出典が明確でないということをまず申し上げておきたい。僕の記憶違いがあるかもしれないし、資料性は全く無く、気分を害される方がいたら誠に申し訳ない。
甲斐よしひろは「今年はアリス、矢沢永吉が翔んだ。来年は甲斐バンドが翔ぶ」と宣言していた。次代ニューミュージックシーンは俺たちのもの、なんて煽り文句が付いていたような気もする(繰り返すが僕の記憶であり信用はしないで欲しい)。
その言葉どおり甲斐バンドは'79年に「HERO」を大ヒットさせ有言実行を証明するのだが、そのインタビュー内で甲斐よしひろは「男と女のことが一番大きい」と答えていた。どういう歌を作っていくのか、という話の中で。
これに、中学一年の僕は強烈な違和感を覚えた。そんなことがいちばん大きなことじゃないだろう、と。高石ともやや、また岡林信康を聴いていた僕は、「男と女のこと」なんて小さなこと、音楽はもっとメッセージを発信して世の中を変革すべし、と思っていた。
全くのところ、笑止である。だいたい、ついこの間までランドセルを背負っていた少年である。本格的な恋愛など経験もしていない。そんな子供が何故「男と女のこと」を小さいと思うのか。阿呆だと言える。
さらに、甲斐よしひろが言ったのは一種の比喩だろうとも今にしては思える。結局、人の生き様を歌いたい、ということを「男と女」という言葉で抽出したのだろう。ただ表層でとらえればいいというものではない。
だが、僕はそれ以降、甲斐バンドを積極的には聴いていない。せっかく「吟遊詩人の歌」という入り口もあったのに、みすみす逃してしまった。
筋金入りの年長者が次に「きんぽうげ」を歌う。
こぼれたテーブルの酒 指でたどって 口ぐせのようにお前は何度もつぶやく
これもいい曲である。切ない若者の心情。初期の名曲なのだが、僕はずっとこの曲を知らずにきた。知ったのは20歳もずいぶん過ぎてからのこと。
次に「安奈」を入れ、もうひとりのおじさんがひとしきり盛り上がったそのあと、僕は「氷のくちびる」を歌う。
抱かれてもひとつになりはしない心で 君は僕の腕の中に嘘の涙流してた
呑み放題プランにしたせいで、何杯も酒を呑んだ。昨今とみに、酒に弱い。酩酊してきた。それは僕より年上のおじさんたちも同じだろう。そろそろ潮時かもしれない。だいいち、ひとりはもう持ち歌が無くなってしまった。年長の人が言う。
「最後にオレが"翼あるもの"を歌うから、あんたその前に一曲歌いなさい」
わかりました。じゃ「ポップコーンをほおばって」でもいいですか? 僕がやったなら役者として不足であるのは重々承知ですけど、すみません。
そうして、入力、転送。短いイントロダクションが流れる。
映画を見るならフランス映画さ 若かった頃の君と僕の想い出話は
君が手を振り切った二十歳の時 埋もれ陽の道にすべては消えうせた
このうたは、音楽家甲斐よしひろのルーツのような歌であり、世に出るきっかけとなった曲であることは、ファンなら誰でもが知っているに違いない。彼がまだバンドを組む前に、フォークコンテストにこの「ポップコーンをほおばって」を引っさげ出場し、全国大会で優勝したのは、歌詞と同じ二十歳の時だった。その後、博多の伝説のライブ喫茶「照和」に集う大森信和、長岡和弘、そして松藤英男を加え甲斐バンドを結成し、'74年に「バス通り」でデビューすることになる。
どうして「ポップコーンをほおばって」がデビューシングルとならなかったのかは知らない。この名曲はなぜか「かりそめのスウィング」のB面としてひっそりと世に出る。
僕等は飛べない鳥じゃなかったはず 翼を広げたらきっと飛べたんだ
僕等は飛べない鳥じゃなかったはず 君は翼がある事を知って恐かったんでしょう
正直に言うが、僕がこの曲を知ったのも、実はカラオケにおいてである。23歳か24歳の頃。
当時は、やたら忙しかった。解放されるのはいつも夜も更けたころ。それでも、若かったのだろう、身体は休息よりも発散を望んでいた。居酒屋で酒を呑み、日付も変わる頃、いつものスナックへと向かう。ボトルキープしてあるI.W.ハーパーをロックで呑み、青筋を立てて歌う。そんなのが、日課だった。午前様が続いても、平気だった。
あるとき、常連客の一人が「ポップコーンをほおばって」を歌い始めた。
なんと格好いい曲か、とそのとき思った。誰の曲だ。甲斐バンド?
その常連の人(いつも顔をあわせるのでもう馴染みになっている)に、いい歌ですね。また巧い、と伝えた。するとその人は、本物はこんなもんじゃない、俺の歌で判断しちゃいかんぞ、と。その人も甲斐バンドが大好きな人だった。
その人とは、帰る方向が同じなのでよくタクシーに同乗した。ある日、その人はわざわざウォークマンを持ってきていて「これが本物だ」とタクシーの中で聴かせてくれた。そして、この曲は甲斐バンドのルーツのような曲で…と僕に懇々と教えてくれた。
その人は、いつ遭遇するかわからない僕と出会うまでずっと、ウォークマンを鞄にしのばせ続けてくれたのだ。若造に本物の甲斐バンドを聴かせるために。
あれから20年以上経つ。僕は後に結婚し、少しづつ酒場に入り浸らなくなった。また、体力も落ちた。午前様ではもう持たなくなった。そして、転勤しそのスナックがあった街から去った。何年か前に一度訪れてみたら、もう店は無くなっていた。
みんな元気でいるだろうか。
君の最後の言葉をおとしていく バスを追っかけて 追っかけて
鼻の奥に何か熱いものが走った。いかん、泣きそうだ。酩酊して、感情の起伏が大きくなってきたんだろう。いろんなものがこみ上げ、声が震えてきた。
教会の鐘が聞こえるかい 天使の賛美歌は 聞こえるかい
年長の筋金入りのファンも、一緒に歌ってくれている。あの親切だったスナックの常連客の人も、たしかこの人と同年輩だ。あのときは30歳そこそこだったけれど。
みんな甲斐バンドが好きだったんだ。
ポップコーンをほおばって
ポップコーンをほおばって
天使達の声に 耳を傾けている
最後には声も涸れ果てたが、ただひたすらに懐かしかった。このうたも、歌うのはやっぱり20年ぶりくらいだったのではないか。
歌う場所も、スナックの時代からカラオケボックスというものにかわり、また我々も老けた。けれども、変わらぬものは変わらない。いろんなことを思い出しながらの帰路だった。
コメント (15) |
トラックバック (0) |
佐野元春が30周年なのだそうだ。デビューは1980年だから、今年(2011年)で、丸30年という計算か。そんなこんなで、よくマスコミに登場している。そして、30周年記念のセルフカバーアルバムが発売されたらしい(「月と専制君主」2011/1/26リリース)。
「YOUNG BLOODS」も入っているらしいので聴いてみたいと思っていたところ、先にTVで披露してくれた。とても楽しみにして聴いたのだが、完全に別の楽曲になっていた。
アルバムを未だ購入もしていないのにこういうことを上っ面で書くことはよくないと思うし、生意気なことだと思う。だいいち、僕は佐野元春さんを最近とんと聴いていない。最近どころか、僕が所持しているアルバムは「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」までである。30年の、最初の10年くらいなのだ。20年も離れていた。
そして誤解があってはいけないので書くが「別の楽曲になった」というのは僕の独りよがりな感想であり、さらに、悪くなったとも良くなったとも書いていない。実際、悪くなったとは思っていない。
「セルフカバー」というのは、かつて自らが表現したものと同じものを提供することではなく、またそうであってはいけないと思っている。そして、今の佐野さんが歌う「YOUNG BLOODS」は、見事に現在の佐野元春のうたになっている。50も半ばの、髪も白くなり声質も変わり、それでも第一線を張りつづけている素敵で格好いいおじさんのYOUNG BLOODS。アレンジが変わりなんと言うかジャズっぽくなり、気だるい雰囲気もあり、「Morning Light」を「朝の光」と日本語に替えた。優しく、つつみこむように。そんな突っ張らかしていられるか。
だから、あの「YOUNG BLOODS」とは、違う。
僕は、振り返ればそんなに初期からの熱心な佐野元春のファンじゃなかった。「アンジェリーナ」でデビューした頃は、僕はまだ中学生であり、高石ともやとナターシャセブンを聴き吉田拓郎を聴きブリティッシュハードロックに夢中になる少年だった。佐野元春という人のことは、よく知らなかった。
出会いは「ナイアガラ・トライアングルVol.2」。Vol.1は大滝詠一・山下達郎・伊藤銀次のあの伝説の三人であり、ナイアガラおじさんこと大滝詠一がその第二弾を作成するということで、かなり話題になった。ただ、佐野元春はむろん杉真理という人も、その当時あまり聴いたことがない。
そのVol.2は、申し訳ないが高校1年の僕には、さほどインパクトは無かった。大滝詠一のアルバム、という印象(ゴメンなさいホントガキでした)。
その前後から、友人たちが佐野元春を聴き出す。軽音楽部の連中は「アンジェリーナ」「ガラスのジェネレーション」をレパートリーに入れる。僕はそういう友人たちを通じて、佐野元春という音楽を知ることになる。ただ、高校生レベルの演奏では真価が分かろうはずも無い。
「SOMEDAY」という曲は、その頃から耳には入っていた。いい曲だなと思った。そして、その曲をタイトルに冠したアルバムが発売されたので、とりあえず友人に借りて聴いた。
びっくりした。「Sugertime」「Happy Man」「Down Town Boy」全てが疾走していく。
その当時の僕には、どう表現したらいいのか言葉が見つからなかった。センスがいいなぁというくらいのもので。「sophisticated」という覚えたての言葉もあったのだけれども、そういう言葉よりももっと違う何ものかがあるような気がした。で、今もって適切な言葉が浮かばないが、サザンオールスターズが急に泥臭く感じた。
一般的には「都会的」なのだろう。だが、この言葉には少し抵抗がある。
今、このアルバムを聴けば、そこはかとない郷愁を感じる。ただそれは、以来30年近く過ごした僕の思いというものも加味されているので、これまた適切ではない。
表題作の「SOMEDAY」。佐野元春の代表曲でもあり、知らない人を探すほうが難しい。この曲については言い尽くされてもいて、またそれぞれのリスナーに思い入れがあるとは思う。よく、都会へ出てきた若者の「群集の孤独」をこれほど表現した楽曲はない、とも言われるが、その「都会」とはどういう場所なのだろうか。東京のことなのか。
何だかよくわからないが、イントロにかぶさる車のクラクションを聞くだけで胸が締め付けられる思いがする。俺は人ごみに紛れながら何とか頑張ってんだよ。
とにかく、このアルバムが欲しくなった。手元に置いておきたい。だが、当時はそんなにホイホイとアルバムを買うほどの金持ちではない。僕は友人に、スコーピオンズのアルバムを示しこれと交換せよと迫った。そういう入手方法で、なんとか「SOMEDAY」を手に入れた。今でもこのLPは我が家にある。
時は流れ僕は大学生になった。
実家から自転車で通える距離にある大学である。その空気感は、高校のときとさほど変わりは無い。
大学一回生の冬。僕は一度、東京に行ってみようと思った。東京という日本の首都には、行ったことがないわけではない。ただ、いずれも子供のときであり、家族旅行だった。20歳になる前に、今の自分の感性で、いつもTVに映る街を見てみよう。そうして、京都発の夜行バスに乗った。東京には、一人だけ高校時代の友人が暮らしている。そこに転がり込んだ。
僕の生まれた街は大学が多く、わざわざ東京の大学に入ろうというやつはいない。就職した連中はなおのこと。その友人も紆余曲折あって東京に出た。けれども、一人暮らしというのは何だか羨ましい。
1985年の初冬。当時、佐野元春の「YOUNG BLOODS」がヒットしていた。
静かな冬のブルースに眠るこの街のニューイヤーズディ 大地に果てしなく降るモーニングライト
いつの頃か忘れかけていた荒ぶる胸の想い アクセルためてルーズな空見上げる
このうたは、アルバムの人だった佐野元春としては、例外的に売れたシングルだった。もちろん、曲の素晴らしさが要因であることは自明だが、何でそんなにシングルとして売れたのかの記憶があいまいだったので調べてみたら、「国際青年年」のテーマソングだった由。なるほど。それで、普段佐野元春を知らない人にまで広がったのか。
そんなこんなで、この時の東京での日々に、「YOUNG BLOODS」が表裏一体の思い出となっている。
東京は、面白かった。
もちろん、僕は旅行に来たのであって、都会への憧れなんてものもなく、また関西人独特のいわゆる敵愾心を持っていたわけでもない。単に観光旅行だった。だから、訪れるところは史跡などが中心だったが、いわゆる「おのぼりさん」的な場所にも出かけた。見聞は広めたい。つまり、ここが新宿か、ここが銀座か、ここが六本木かetc. TVでよく見かける風景が目前に現れるのは面白かった。渋谷のハチ公というのはこういう場所に居るのか、なんて。とにかく、人の多さに驚いた。
代々木公園にも、行ってみた。「YOUNG BLOODS」のPVが撮影された、その場所である。
このPVは、本当に秀逸だったと思う。早朝にゲリラ的に撮影されたと聞くが、佐野元春の血のたぎるような歌声に三々五々人々が集まり、最後にはひとつの野外ライブ会場がそこに生じる。
冷たい夜にさよなら その乾いた心窓辺に横たえて
ひとりだけの夜にさよなら 木枯らしの時も月に凍える時も
今そのPVを見返すと、「時代」が如実にあらわれている。今にして思えば昭和の末期。バブルというかりそめの時代が始まろうとしていた。
もっとも、学生の分際ではそういう経済状況など何の関係も無い。ただ、もうすぐ二十歳を迎えようとする自分の、若さゆえの衝動的な心の高鳴りと、それを形に出来ない鬱屈した気持ちは常に持ち合わせていた。そんな胸の内が、代々木公園の冬のぬけるような青空に拳を突き出してうたう佐野元春の、若き血の飛沫が吹き出るような声に昇華されていった。Let's stay together!
以来、四半世紀が過ぎた。僕は髪に白いものが増え、また佐野さんも成熟した。そして、再び佐野元春は「YOUNG BLOODS」をうたう。もはや共に、若くはない。
新しいYOUNG BLOODSには、他にも以前と異なるところがある。TVでは、字幕スーパーで画面に歌詞が映じていた。
鋼鉄のような意思 輝き続ける自由
「Morning Light」を「朝の光」と歌い換えた佐野さんだが、この部分は「Wisdom」「Freedom」と原曲どおりに歌っていた。だが、それはメロディーに乗らないのでそう歌ったが、本当は「意思」「自由」と置き換えたかったのではないだろうか。賢明であること。自由であること。それを、もっと我々に伝えたかったのではないだろうか。偽りに沈むこの世界で、願いをこめて。
いつの頃か忘れかけてた 荒ぶる胸の想い
この叫びが、今胸に迫る。僕たちは、あれから月落ち星流れ、その荒ぶる魂を忘れかけてたどころか、本当に忘れてしまったんじゃないか。
佐野元春は、「YOUNG BLOODS」を違う形で我々に提供した。それは、荒ぶる魂がまだ健在であることを示すためであったのかもしれない。50歳代になって、同じ表現方法はとれない。代々木公園の青空に拳突き上げ歌えば、「劣化」を感じられてしまう可能性すらある。だから、優しくうたう。けれども、魂は失っちゃったわけじゃない。それが、強き意思を持ち続けることそして自由であることへの願いを感じさせる今回のカバーとなったのではないだろうか。
そして、あの1985年の「YOUNG BLOODS」もまた、永遠になった。そんなふうに思っている。
「YOUNG BLOODS」も入っているらしいので聴いてみたいと思っていたところ、先にTVで披露してくれた。とても楽しみにして聴いたのだが、完全に別の楽曲になっていた。
アルバムを未だ購入もしていないのにこういうことを上っ面で書くことはよくないと思うし、生意気なことだと思う。だいいち、僕は佐野元春さんを最近とんと聴いていない。最近どころか、僕が所持しているアルバムは「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」までである。30年の、最初の10年くらいなのだ。20年も離れていた。
そして誤解があってはいけないので書くが「別の楽曲になった」というのは僕の独りよがりな感想であり、さらに、悪くなったとも良くなったとも書いていない。実際、悪くなったとは思っていない。
「セルフカバー」というのは、かつて自らが表現したものと同じものを提供することではなく、またそうであってはいけないと思っている。そして、今の佐野さんが歌う「YOUNG BLOODS」は、見事に現在の佐野元春のうたになっている。50も半ばの、髪も白くなり声質も変わり、それでも第一線を張りつづけている素敵で格好いいおじさんのYOUNG BLOODS。アレンジが変わりなんと言うかジャズっぽくなり、気だるい雰囲気もあり、「Morning Light」を「朝の光」と日本語に替えた。優しく、つつみこむように。そんな突っ張らかしていられるか。
だから、あの「YOUNG BLOODS」とは、違う。
僕は、振り返ればそんなに初期からの熱心な佐野元春のファンじゃなかった。「アンジェリーナ」でデビューした頃は、僕はまだ中学生であり、高石ともやとナターシャセブンを聴き吉田拓郎を聴きブリティッシュハードロックに夢中になる少年だった。佐野元春という人のことは、よく知らなかった。
出会いは「ナイアガラ・トライアングルVol.2」。Vol.1は大滝詠一・山下達郎・伊藤銀次のあの伝説の三人であり、ナイアガラおじさんこと大滝詠一がその第二弾を作成するということで、かなり話題になった。ただ、佐野元春はむろん杉真理という人も、その当時あまり聴いたことがない。
そのVol.2は、申し訳ないが高校1年の僕には、さほどインパクトは無かった。大滝詠一のアルバム、という印象(ゴメンなさいホントガキでした)。
その前後から、友人たちが佐野元春を聴き出す。軽音楽部の連中は「アンジェリーナ」「ガラスのジェネレーション」をレパートリーに入れる。僕はそういう友人たちを通じて、佐野元春という音楽を知ることになる。ただ、高校生レベルの演奏では真価が分かろうはずも無い。
「SOMEDAY」という曲は、その頃から耳には入っていた。いい曲だなと思った。そして、その曲をタイトルに冠したアルバムが発売されたので、とりあえず友人に借りて聴いた。
びっくりした。「Sugertime」「Happy Man」「Down Town Boy」全てが疾走していく。
その当時の僕には、どう表現したらいいのか言葉が見つからなかった。センスがいいなぁというくらいのもので。「sophisticated」という覚えたての言葉もあったのだけれども、そういう言葉よりももっと違う何ものかがあるような気がした。で、今もって適切な言葉が浮かばないが、サザンオールスターズが急に泥臭く感じた。
一般的には「都会的」なのだろう。だが、この言葉には少し抵抗がある。
今、このアルバムを聴けば、そこはかとない郷愁を感じる。ただそれは、以来30年近く過ごした僕の思いというものも加味されているので、これまた適切ではない。
表題作の「SOMEDAY」。佐野元春の代表曲でもあり、知らない人を探すほうが難しい。この曲については言い尽くされてもいて、またそれぞれのリスナーに思い入れがあるとは思う。よく、都会へ出てきた若者の「群集の孤独」をこれほど表現した楽曲はない、とも言われるが、その「都会」とはどういう場所なのだろうか。東京のことなのか。
何だかよくわからないが、イントロにかぶさる車のクラクションを聞くだけで胸が締め付けられる思いがする。俺は人ごみに紛れながら何とか頑張ってんだよ。
とにかく、このアルバムが欲しくなった。手元に置いておきたい。だが、当時はそんなにホイホイとアルバムを買うほどの金持ちではない。僕は友人に、スコーピオンズのアルバムを示しこれと交換せよと迫った。そういう入手方法で、なんとか「SOMEDAY」を手に入れた。今でもこのLPは我が家にある。
時は流れ僕は大学生になった。
実家から自転車で通える距離にある大学である。その空気感は、高校のときとさほど変わりは無い。
大学一回生の冬。僕は一度、東京に行ってみようと思った。東京という日本の首都には、行ったことがないわけではない。ただ、いずれも子供のときであり、家族旅行だった。20歳になる前に、今の自分の感性で、いつもTVに映る街を見てみよう。そうして、京都発の夜行バスに乗った。東京には、一人だけ高校時代の友人が暮らしている。そこに転がり込んだ。
僕の生まれた街は大学が多く、わざわざ東京の大学に入ろうというやつはいない。就職した連中はなおのこと。その友人も紆余曲折あって東京に出た。けれども、一人暮らしというのは何だか羨ましい。
1985年の初冬。当時、佐野元春の「YOUNG BLOODS」がヒットしていた。
静かな冬のブルースに眠るこの街のニューイヤーズディ 大地に果てしなく降るモーニングライト
いつの頃か忘れかけていた荒ぶる胸の想い アクセルためてルーズな空見上げる
このうたは、アルバムの人だった佐野元春としては、例外的に売れたシングルだった。もちろん、曲の素晴らしさが要因であることは自明だが、何でそんなにシングルとして売れたのかの記憶があいまいだったので調べてみたら、「国際青年年」のテーマソングだった由。なるほど。それで、普段佐野元春を知らない人にまで広がったのか。
そんなこんなで、この時の東京での日々に、「YOUNG BLOODS」が表裏一体の思い出となっている。
東京は、面白かった。
もちろん、僕は旅行に来たのであって、都会への憧れなんてものもなく、また関西人独特のいわゆる敵愾心を持っていたわけでもない。単に観光旅行だった。だから、訪れるところは史跡などが中心だったが、いわゆる「おのぼりさん」的な場所にも出かけた。見聞は広めたい。つまり、ここが新宿か、ここが銀座か、ここが六本木かetc. TVでよく見かける風景が目前に現れるのは面白かった。渋谷のハチ公というのはこういう場所に居るのか、なんて。とにかく、人の多さに驚いた。
代々木公園にも、行ってみた。「YOUNG BLOODS」のPVが撮影された、その場所である。
このPVは、本当に秀逸だったと思う。早朝にゲリラ的に撮影されたと聞くが、佐野元春の血のたぎるような歌声に三々五々人々が集まり、最後にはひとつの野外ライブ会場がそこに生じる。
冷たい夜にさよなら その乾いた心窓辺に横たえて
ひとりだけの夜にさよなら 木枯らしの時も月に凍える時も
今そのPVを見返すと、「時代」が如実にあらわれている。今にして思えば昭和の末期。バブルというかりそめの時代が始まろうとしていた。
もっとも、学生の分際ではそういう経済状況など何の関係も無い。ただ、もうすぐ二十歳を迎えようとする自分の、若さゆえの衝動的な心の高鳴りと、それを形に出来ない鬱屈した気持ちは常に持ち合わせていた。そんな胸の内が、代々木公園の冬のぬけるような青空に拳を突き出してうたう佐野元春の、若き血の飛沫が吹き出るような声に昇華されていった。Let's stay together!
以来、四半世紀が過ぎた。僕は髪に白いものが増え、また佐野さんも成熟した。そして、再び佐野元春は「YOUNG BLOODS」をうたう。もはや共に、若くはない。
新しいYOUNG BLOODSには、他にも以前と異なるところがある。TVでは、字幕スーパーで画面に歌詞が映じていた。
鋼鉄のような意思 輝き続ける自由
「Morning Light」を「朝の光」と歌い換えた佐野さんだが、この部分は「Wisdom」「Freedom」と原曲どおりに歌っていた。だが、それはメロディーに乗らないのでそう歌ったが、本当は「意思」「自由」と置き換えたかったのではないだろうか。賢明であること。自由であること。それを、もっと我々に伝えたかったのではないだろうか。偽りに沈むこの世界で、願いをこめて。
いつの頃か忘れかけてた 荒ぶる胸の想い
この叫びが、今胸に迫る。僕たちは、あれから月落ち星流れ、その荒ぶる魂を忘れかけてたどころか、本当に忘れてしまったんじゃないか。
佐野元春は、「YOUNG BLOODS」を違う形で我々に提供した。それは、荒ぶる魂がまだ健在であることを示すためであったのかもしれない。50歳代になって、同じ表現方法はとれない。代々木公園の青空に拳突き上げ歌えば、「劣化」を感じられてしまう可能性すらある。だから、優しくうたう。けれども、魂は失っちゃったわけじゃない。それが、強き意思を持ち続けることそして自由であることへの願いを感じさせる今回のカバーとなったのではないだろうか。
そして、あの1985年の「YOUNG BLOODS」もまた、永遠になった。そんなふうに思っている。
コメント (2) |
トラックバック (0) |
明日出来ることは今日しない。そんな、ギリギリでしか物事をやらない癖は今この歳になっても直らない。子供の頃、夏休みの宿題を31日になっても大半抱えていて泣いた教訓を全く生かせていないこの人生。
あのときもやっぱりそうだった。
大学生活が終わろうとしていた4回生の年の暮れ。僕は卒業論文の締め切りを目前にして焦っていた。提出期限は12/15。何日かは夜を徹した。そして、15日の午前中にようやく教授に手渡した。なんでもっと早く出来なかったのだろう。
その提出した翌日12/16、僕は運転教習所に向かった。免許を取りに通いだしてから半年が経とうとしていた。明日になれば失効してしまう。そんなギリギリの日程で卒検を受けた。落ちれば大変なことになってしまう。なんでもっと早くに受けなかったのだろうか。
教官のお情けもあり、なんとかパスすることが出来た。その足で僕は卒業コンパへ向かった。何度目のコンパか。こんなことばかりしているから全てがギリギリのスケジュールになるのだ。
コンパも終わり、いいかげん酔っ払って深夜に帰宅。しかし眠るわけにはいかない。僕は年賀状作りに着手した。子供の頃から年賀状は木版画を作成している。図案を考え、彫刻刀で板に刻みつけ、刷る。夜が明け、昼過ぎにようやく70枚の年賀状が刷り終った。一睡もしていない。
その年賀状の束と住所録を持ち、僕は12/17の夕刻、家を出た。駅に着いて東北ワイド周遊券を購入。東海道線の鈍行列車に身をゆだねた。このあと、大垣発の東京行き夜行列車に乗る予定である。冬の東北旅行が始まった。
別に何か予約をしていたわけでもなく、何をそんなに急いで旅立つのだ。一日くらいゆっくりしてから出てもいいだろうと家族に言われた。しかし、寸刻を惜しんで旅立ってしまった。
祝祭が終わる。そう僕は感じていた。あと何ヶ月かで、こんな自由な時間もなくなってしまう。そんな焦りが、長い夏休みでも春休みでもないこの時期に僕を駆り立てた。
早暁、東京に着いた。まだ夜は明けていない。
そこで僕は、持参のウォークマンに電池が入っていないことに気がついた。京都の家を出てからもうずいぶんと経っているのに、音楽を全く聴いていなかったのでわからなかったのだ。車中はずっと泥のように眠って過ごしていた。僕は単三電池を二本買い、ようやくイヤホンを耳にした。
いつも旅行には、カセットテープを二本だけ持参する。荷物になるから多くは持ってこない。その説明は以前書いたことがある。いつもお気に入りを念入りに編集していくのだが、今回はその時間がなかった。なので、年賀状作成作業中にながら作業で適当に120分のテープにコピーした。
一本の一つの面にはバッハを、もうひとつの面にはイングヴェイ・マルムスティーンとハロウィンをざっと入れた。そしてもう一本の片面には小泉今日子と太田裕美を乱暴に詰め込んだ。残った最後の一面には「風」を。2ndアルバム「時は流れて…」の全曲と3rdアルバム「WINDLESS BLUE」の半分。そして最後に恒例の「風と落ち葉と旅人」を入れて、急いで旅立った。何のポリシーもなかった。
東京から、常磐線に乗って北に向かった。そしてようやく僕は再生ボタンを押した。耳にはフォークsideに録音した「風」の調べが流れてきた。冒頭の一曲は当然「北国列車」である。
僕が 君を追いかけてる夢から目覚めたときは
汽車は夜を走り続け 朝の駅に着いたところ
今の時代には多分こんなイントロダクションはないだろう。編曲は瀬尾一三氏だが、郷愁そのものである。冬の東北に向かうのに相応しく思えた。風の2ndをダビングしたのはたまたまだったのだけれど、その幕開けにこれ以上シンクロする曲は無かったかもしれない。
去年の今頃汽車にのり 二人で旅した北国の
あの雪の白さが 何故か忘れられずに
旅行シーズンではない東北は、ずっと静かだった。日本海側は雪。太平洋側はとにかく冷たい風がいつも吹いていた。
花巻へ宮沢賢治を訪ねて。農業高校の「下ノ畑ニ居リマス 賢治」の黒板。
高村光太郎が晩年を過ごした太田村の山荘。山荘は閉まっていたが、その場所に来られたことで満足していた。
「おれは自己流謫のこの山に根を張つて/おれの錬金術を究尽する。/おれは半文明の都会と手を切つて/この辺陬を太極とする。」
当時、高村光太郎が好きだった。その頃は、あまり未来を信じられなかった。ただ、この痛切な何ものかが去っていこうとする時代に喘ぎ、光太郎の詩集を繰り返し読んでいた。
高村光太郎が造形した十和田湖畔の「乙女の像」を見に行った。あまりにも雪深い十和田に、人は誰もいなかった。ただひたすらに寒かった。行きも帰りも、バスの乗客は僕一人だった。
渋民へ石川啄木を訪ねて。ここにも人の気配はなかった。
「やはらかに柳あをめる北上の 岸邊目に見ゆ 泣けとごとくに」
河畔に立つ啄木の歌碑を見てこっちも泣きそうになった。岩手山も早池峰山も姫神山も、神々しいまでに美しい。
夏に下北半島は細かに歩いたことがあったが、津軽半島はまだ未踏だった。三厩まで汽車でゆき、バスに乗り換えて竜飛を目指す。
横殴りの吹雪。その先に、荒涼とした竜飛岬が。
「この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ」
太宰治の言葉が刻まれている。まだ青函トンネルが工事中だった時代。夏は観光客でにぎわうであろうこの地も、そのとき訪れていた人は誰も居なかった。
五所川原に戻り、ストーブ列車に乗り金木へ。
太宰治の斜陽館は当時、まだ旅館として営業していた。喫茶店が併設されている。そこに座り込み僕は持参した年賀状をせっせと書いていた。来年はおそらく、この年賀状の宛先がガラリとかわる。そんなことを考え鬱になりながら、太宰の町でひねもす過ごした。
人と話す機会が少なかった。YHに泊まってもこの時期、宿泊者はごく少数か、僕一人。18切符も所持していたので、青函連絡船の夜行便にも乗ってホテル代わりともした。朝日に輝く大沼駒ヶ岳は息を呑むほどだったが、そんな光景を見ていたのも僕だけだった。また周遊券を持っているので、区間内の自由席のある夜行急行列車(八甲田と津軽)で夜を明かすことも数度。
ぼくの他にあと少しの人を降しただけで
汽車はすぐに まだ暗い朝に消えて行った
こんなことを僕も何度繰り返しただろう。あの「北国列車」の主人公は、やはり冬の一人旅だった。汽車はすぐに消えていったのだから、終点まで彼は乗っていない。となると行き先は青森ではなく、岩手かどこかの駅かもしれない。
おもいきり背伸びをした 薄暗い空に君の星座がまだ光ってる
星が見えるのだから晴れている。おそらくは太平洋側か。東北本線の夜行だろう。
そんなことを考えながら、クリスマスも過ぎていた。僕は遠野へ行った。
実はその頃、まだ柳田國男は読んでいない。この旅はどちらかと言えば愛読書の文学散歩的な色彩もあったのだが、予備知識のない場所も訪ねてみたい。
その遠野で、3日間ほどを過ごしてしまった。ちょっと気候が変わり少し日が差して暖かな遠野を、僕はずっと歩いた。ときにはコンセイ様のおやしろに上がりこんで昼寝も。うららかな日差し。しかし3時にはもう日が傾くのがわかる。その斜光線が刈り終わった冬枯れの田に反射し黄金色に輝く。キラキラした水路。あの美しさは生涯忘れないだろう。
もう大晦日が近づいた。仙台には、何度も訪れた宿がある。知り合いも集まっていることだろう。そこで年を越そうと思った。あまりに人と話さない旅を続け、少し人恋しくなっていた。
ひなびたところばかりを巡っていた旅だったので、仙台は大都会に見えた。定禅寺通りのイルミネーションが眩い。
本当は、年内にうちに帰ろうとも思っていた。来年は、家を出て他県で一人暮らしをすることがもう決まっている。最後の正月くらいは、家族と過ごすべきだろう。しかしながら、ずるずると旅を続けてしまった。
家に電話をした。年が明けてしばらくしたら帰る、と。
母親は「そう言うと思っていた」と笑っていたが、この歳になっていろいろわかる事がある。あのとき、母親は寂しかったに違いない。少しの後悔が残る。以来、今に至るまで元旦に家に帰ったことは、無い。
大晦日には寒波が戻ったのか、雪がまたちらつき始めた。北国の、あまりにも細やかに降りつむ雪。輪王寺で除夜の鐘が響いている。この雪の白さもまた、たぶん忘れることはなかろう。いろんな思いが去来する中、僕は学生最後の新年を迎えようとしていた。
あのときもやっぱりそうだった。
大学生活が終わろうとしていた4回生の年の暮れ。僕は卒業論文の締め切りを目前にして焦っていた。提出期限は12/15。何日かは夜を徹した。そして、15日の午前中にようやく教授に手渡した。なんでもっと早く出来なかったのだろう。
その提出した翌日12/16、僕は運転教習所に向かった。免許を取りに通いだしてから半年が経とうとしていた。明日になれば失効してしまう。そんなギリギリの日程で卒検を受けた。落ちれば大変なことになってしまう。なんでもっと早くに受けなかったのだろうか。
教官のお情けもあり、なんとかパスすることが出来た。その足で僕は卒業コンパへ向かった。何度目のコンパか。こんなことばかりしているから全てがギリギリのスケジュールになるのだ。
コンパも終わり、いいかげん酔っ払って深夜に帰宅。しかし眠るわけにはいかない。僕は年賀状作りに着手した。子供の頃から年賀状は木版画を作成している。図案を考え、彫刻刀で板に刻みつけ、刷る。夜が明け、昼過ぎにようやく70枚の年賀状が刷り終った。一睡もしていない。
その年賀状の束と住所録を持ち、僕は12/17の夕刻、家を出た。駅に着いて東北ワイド周遊券を購入。東海道線の鈍行列車に身をゆだねた。このあと、大垣発の東京行き夜行列車に乗る予定である。冬の東北旅行が始まった。
別に何か予約をしていたわけでもなく、何をそんなに急いで旅立つのだ。一日くらいゆっくりしてから出てもいいだろうと家族に言われた。しかし、寸刻を惜しんで旅立ってしまった。
祝祭が終わる。そう僕は感じていた。あと何ヶ月かで、こんな自由な時間もなくなってしまう。そんな焦りが、長い夏休みでも春休みでもないこの時期に僕を駆り立てた。
早暁、東京に着いた。まだ夜は明けていない。
そこで僕は、持参のウォークマンに電池が入っていないことに気がついた。京都の家を出てからもうずいぶんと経っているのに、音楽を全く聴いていなかったのでわからなかったのだ。車中はずっと泥のように眠って過ごしていた。僕は単三電池を二本買い、ようやくイヤホンを耳にした。
いつも旅行には、カセットテープを二本だけ持参する。荷物になるから多くは持ってこない。その説明は以前書いたことがある。いつもお気に入りを念入りに編集していくのだが、今回はその時間がなかった。なので、年賀状作成作業中にながら作業で適当に120分のテープにコピーした。
一本の一つの面にはバッハを、もうひとつの面にはイングヴェイ・マルムスティーンとハロウィンをざっと入れた。そしてもう一本の片面には小泉今日子と太田裕美を乱暴に詰め込んだ。残った最後の一面には「風」を。2ndアルバム「時は流れて…」の全曲と3rdアルバム「WINDLESS BLUE」の半分。そして最後に恒例の「風と落ち葉と旅人」を入れて、急いで旅立った。何のポリシーもなかった。
東京から、常磐線に乗って北に向かった。そしてようやく僕は再生ボタンを押した。耳にはフォークsideに録音した「風」の調べが流れてきた。冒頭の一曲は当然「北国列車」である。
僕が 君を追いかけてる夢から目覚めたときは
汽車は夜を走り続け 朝の駅に着いたところ
今の時代には多分こんなイントロダクションはないだろう。編曲は瀬尾一三氏だが、郷愁そのものである。冬の東北に向かうのに相応しく思えた。風の2ndをダビングしたのはたまたまだったのだけれど、その幕開けにこれ以上シンクロする曲は無かったかもしれない。
去年の今頃汽車にのり 二人で旅した北国の
あの雪の白さが 何故か忘れられずに
旅行シーズンではない東北は、ずっと静かだった。日本海側は雪。太平洋側はとにかく冷たい風がいつも吹いていた。
花巻へ宮沢賢治を訪ねて。農業高校の「下ノ畑ニ居リマス 賢治」の黒板。
高村光太郎が晩年を過ごした太田村の山荘。山荘は閉まっていたが、その場所に来られたことで満足していた。
「おれは自己流謫のこの山に根を張つて/おれの錬金術を究尽する。/おれは半文明の都会と手を切つて/この辺陬を太極とする。」
当時、高村光太郎が好きだった。その頃は、あまり未来を信じられなかった。ただ、この痛切な何ものかが去っていこうとする時代に喘ぎ、光太郎の詩集を繰り返し読んでいた。
高村光太郎が造形した十和田湖畔の「乙女の像」を見に行った。あまりにも雪深い十和田に、人は誰もいなかった。ただひたすらに寒かった。行きも帰りも、バスの乗客は僕一人だった。
渋民へ石川啄木を訪ねて。ここにも人の気配はなかった。
「やはらかに柳あをめる北上の 岸邊目に見ゆ 泣けとごとくに」
河畔に立つ啄木の歌碑を見てこっちも泣きそうになった。岩手山も早池峰山も姫神山も、神々しいまでに美しい。
夏に下北半島は細かに歩いたことがあったが、津軽半島はまだ未踏だった。三厩まで汽車でゆき、バスに乗り換えて竜飛を目指す。
横殴りの吹雪。その先に、荒涼とした竜飛岬が。
「この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ」
太宰治の言葉が刻まれている。まだ青函トンネルが工事中だった時代。夏は観光客でにぎわうであろうこの地も、そのとき訪れていた人は誰も居なかった。
五所川原に戻り、ストーブ列車に乗り金木へ。
太宰治の斜陽館は当時、まだ旅館として営業していた。喫茶店が併設されている。そこに座り込み僕は持参した年賀状をせっせと書いていた。来年はおそらく、この年賀状の宛先がガラリとかわる。そんなことを考え鬱になりながら、太宰の町でひねもす過ごした。
人と話す機会が少なかった。YHに泊まってもこの時期、宿泊者はごく少数か、僕一人。18切符も所持していたので、青函連絡船の夜行便にも乗ってホテル代わりともした。朝日に輝く大沼駒ヶ岳は息を呑むほどだったが、そんな光景を見ていたのも僕だけだった。また周遊券を持っているので、区間内の自由席のある夜行急行列車(八甲田と津軽)で夜を明かすことも数度。
ぼくの他にあと少しの人を降しただけで
汽車はすぐに まだ暗い朝に消えて行った
こんなことを僕も何度繰り返しただろう。あの「北国列車」の主人公は、やはり冬の一人旅だった。汽車はすぐに消えていったのだから、終点まで彼は乗っていない。となると行き先は青森ではなく、岩手かどこかの駅かもしれない。
おもいきり背伸びをした 薄暗い空に君の星座がまだ光ってる
星が見えるのだから晴れている。おそらくは太平洋側か。東北本線の夜行だろう。
そんなことを考えながら、クリスマスも過ぎていた。僕は遠野へ行った。
実はその頃、まだ柳田國男は読んでいない。この旅はどちらかと言えば愛読書の文学散歩的な色彩もあったのだが、予備知識のない場所も訪ねてみたい。
その遠野で、3日間ほどを過ごしてしまった。ちょっと気候が変わり少し日が差して暖かな遠野を、僕はずっと歩いた。ときにはコンセイ様のおやしろに上がりこんで昼寝も。うららかな日差し。しかし3時にはもう日が傾くのがわかる。その斜光線が刈り終わった冬枯れの田に反射し黄金色に輝く。キラキラした水路。あの美しさは生涯忘れないだろう。
もう大晦日が近づいた。仙台には、何度も訪れた宿がある。知り合いも集まっていることだろう。そこで年を越そうと思った。あまりに人と話さない旅を続け、少し人恋しくなっていた。
ひなびたところばかりを巡っていた旅だったので、仙台は大都会に見えた。定禅寺通りのイルミネーションが眩い。
本当は、年内にうちに帰ろうとも思っていた。来年は、家を出て他県で一人暮らしをすることがもう決まっている。最後の正月くらいは、家族と過ごすべきだろう。しかしながら、ずるずると旅を続けてしまった。
家に電話をした。年が明けてしばらくしたら帰る、と。
母親は「そう言うと思っていた」と笑っていたが、この歳になっていろいろわかる事がある。あのとき、母親は寂しかったに違いない。少しの後悔が残る。以来、今に至るまで元旦に家に帰ったことは、無い。
大晦日には寒波が戻ったのか、雪がまたちらつき始めた。北国の、あまりにも細やかに降りつむ雪。輪王寺で除夜の鐘が響いている。この雪の白さもまた、たぶん忘れることはなかろう。いろんな思いが去来する中、僕は学生最後の新年を迎えようとしていた。
コメント (2) |
トラックバック (0) |
プロレス技の話として書いていいかは迷うが、ナックルパンチ、或いはナックルパート。正拳、パンチングのことである。もちろん、プロレスにおいては反則である。
なんでもありのプロレスの中で、パンチングが禁じ手になっているのは実に象徴的である気がする。この制約によってプロレスが面白くなっていると感じるからだ。というのも、人間の肉体の中でどこが最も威力を持つ部分かと考えれば、それは「拳」ではないかと思えるからである。
衝突力そのものは、蹴りの方があるだろう。ただ、拳はスピードで勝る。喧嘩をするときはまず殴るだろう。蹴りを出させる前に勝敗を決する力が拳にはある。
だからパンチングだけの格闘技(ボクシング)があり、そしてパンチングを許している他の格闘技(キックボクシングや総合格闘技)も、素手でのパンチングは禁じてグローブを装着させる。それほどパンチは危険なのだ。
したがって、素手で勝負するプロレスの場合、パンチングは禁止しなくてはいけない。もちろん「危険である」という部分が最も大きいが、プロレス技に拳を開放してしまうと、これに勝る技がないため、全てのレスラーがまず拳で相手と立ち向かう。試合時間は短くなり、投げ技、関節技などのバリエーション豊かなプロレス技が消え、ただ殴って試合を終わらせ、結果間違いなくプロレスは衰退する。肘打ち、頭突きは許してもパンチングは許さない。この制約が面白いプロレスを成立させている。
だったらプロレスに「ナックル」なんて技はないはずなのだが、それがあるのがまたプロレスの奥深さと言っては自己弁護に過ぎるか。
プロレスは、5秒以内であれば反則は行ってもよい。そして、一発殴るのに5秒を費やすはずもなく、レスラーは頻繁に相手を殴っている。
しかし、5秒以内でも反則は反則。したがって、僕はナックルという技を積極的に肯定する気になれない。
それはひとえに「ずるい」と思うからである。目潰しや急所打ち、凶器攻撃と同じ範疇。殴ればそりゃ勝てるよ。殴れば簡単なのに、殴らずに我慢してみんな技を仕掛けてるんじゃないか。近道通ろうとするな。悪者め。
こういう考え方は、もう過去のプロレスの見方である。
昔のプロレスというのは、悪玉と善玉がはっきりと分かれていた。ベビーフェイスとヒール。リンピオとルード。そして、善玉が悪玉を懲らしめることによって観客がカタルシスを得るのである。
で、悪玉の条件とは何か。それは、反則である。
相手に凶器で攻撃を仕掛ける。ブッチャーはフォークを持ち、タイガージェットシンはサーベルを振り回す。そんなので攻撃されたら「正々堂々」と戦う馬場さんや猪木ら善玉がやられる。そしてやられてやられて後半盛り返す。観客は卑怯な反則攻撃によるストレスが溜まっているので一気にそれが発散される、という寸法。
この「善玉・悪玉」というアングルは、ハンセンやブロディの登場で消えた。しかしアニメ「タイガーマスク」を観、ブッチャーやシーク、シンや上田馬之助の暴れっぷりを知る世代の僕らには「反則」というのは悪玉がやるものだという概念がまだ残っている。
しかし「善玉・悪玉」というアングルを作りにくい正統派レスラーが相手だとどうするか。馬場さんや猪木は、もうそういう見方を捨て、ファンクスやロビンソン、バックランドと対戦していた。肉体のぶつかり合う凄さで「vs悪者」という視点を凌駕しようとした。だが、僕が生まれる前の力道山の時代は、やはり"正義の味方"力道山を演出せねばならなかったようだ。じゃどうするか。どうして相手を「卑怯な悪いヤツ」に見せるか。
ひとつは、タッグ戦におけるチームワークである。力道山・木村組に対するシャープ兄弟は、頻繁にタッチを繰り返し、木村政彦を集中攻撃した。こういうのはタッグワークとして当然だが、観客側には「シャープ兄弟が二人がかりで木村を苛めている」ように見えたのである(当時は)。で、堪忍袋の緒が切れた力道山が空手チョップ、という寸法。全然悪くないシャープ兄弟がヒールに見える錯覚。
もうひとつは、ちょっとした反則である。
鉄人ルーテーズといえば、パックドロップを切り札にして936連勝のチャンピオン。悪の要素などない。しかし日本で力道山と対戦する場合はそうはいかない。ここで、パンチングが出てくる。
ルーテーズはヘッドロックが得意技である。ぐいぐい締め付ける。これはバックドロップの伏線になっていることは有名であって、強いヘッドロックによって相手も仕返しにヘッドロックを掛けたくなり、仕掛けたとたんテーズのバックドロップに沈む、という寸法。
そして、テーズがヘッドロックを仕掛けるとき、テーズはよく相手の頭部、あるいは鼻っ柱にパンチを打ち込むのである。
これはさほど強いパンチではない。挑発だろう。相手にヘッドロックを掛けさせるための。全てがバックドロップへの伏線になる。だが、パンチは反則であり、テーズはヘッドロックを掛けつつレフェリーに背を向け、ブラインドを突いてパンチを入れる。
これは「卑怯」に見えますな。時代劇を見慣れている日本人観客には。テーズはチャンピオンで強いはずなのにあんな審判に隠れて反則をする。ずるい。そしてテーズですら日本では悪玉となるのだ。
この遺伝子が僕にも残っていると言っていい。だからパンチングは、嫌いだ(笑)。
したがって、正統派レスラーは拳を使うことを恥と思って欲しい。これは、僕の持論である。
ナックルと言って有名なのは、もちろん猪木の鉄拳制裁というやつである。相手の頭をつかんで大きく腕を引いて放つので、古館伊知郎はこれを「ナックルアロー」と呼んだ。僕は猪木教に入信しているが、それでもこれはいただけなかった。しかも、拳の中指を鋭角的に出して殴っている。こんなの卑怯だと思う。
しかし、さすがに猪木だって最終的に拳で勝負は決めない。卍固めや延髄斬りで勝つ。ただ、一度だけ「疑惑の一戦」があった。UWFとの抗争での猪木vs藤原喜明。この試合のフィニッシュは魔性のスリーパーだったが、その直前に猪木の藤原への下腹部への蹴り(急所か?)と、顎へのナックルがあった。試合後、猪木なら何をしてもいいのか、と激昂した前田日明が猪木にハイキックを見舞った。
しかしこの「ナックル」と見られた技は、後日プロレス誌の写真によってナックルではなくエルボーであったことが判明した。この写真は、あの昭和44年の日本シリーズ読売Gvs阪急で、誰もが本塁封殺だと思った土井が実は捕手をかいくぐりホームを踏んでいて、岡田主審の正しさが証明されたあの一枚と同等の価値があると思うのだがどうだろう。
閑話休題。
さすがに「反則」のパンチで試合が決まることなどないと思っていたら、それを覆すレスラーが現れた。ジェリー・ローラーである。
しかも「世界のプロレス」で見たローラーは、完全にベビーフェイスで観客の声援を受けていた。悪役ならともかくそんなベビーフェイスが、パンチングをフィニッシュホールドとしているのだ。当時の僕は訳がわからなくなった。その技は「フィストドロップ」である。
マットに仰向けに倒れた相手に対し、コーナーでロープを二段くらい上がりそこからジャンプ、そしてなんと拳を相手に叩き込む。これがローラーのフィストドロップだった。反則じゃないか!
観客は拍手喝采である。しかし、僕はこういう技は嫌いだ。というか、何故これが成立するのかがわからない。カウントを入れてはいかんのではないか。
このローラーの「フィストドロップ」と相似形の技を、ザ・グレート・カブキがフィニッシュにしていた。トラースキックで相手を倒し、セカンドロープ上から振りかぶって相手の喉笛を正拳で突く。カブキはそのまま「正拳突き」と呼んでいたがローラーのフィストドロップと同じだ。ただ、反則でカウントをとることに抵抗はあるものの、カブキの正拳突きを僕は容認していた。それはカブキがヒールだったからだ。
ヒールがやってこその「反則」である。ベビーフェイスが反則をやれば、観客の気持ちの持って行き所がなくなる。もうベビーフェイスとヒールという枠組みなどない日本プロレス界だが、だから余計に「パンチング」などという反則は慎んでもらいたい。
フィストドロップは、ロープ上から飛ばなくても倒れこむ方式のものもある。テッド・デビアスやウォリアーズのホークなどが得意としていた。何度も言うがあれは、反則である。グーパンチって何だよ。天山が「ボクシングの練習をしてきた」とリングに上がりパンチを出したとき、オマエはレスラーのプライドがないのか、と憤慨した。あんなのプロレスへの冒涜だ。レスラーはレスラーの矜持を持って、頭突きとモンゴリアンチョップで勝負しろ。何故ボクシングの風下に立とうとするのか。
さて、そのパンチングであるが、どこまでが反則でどこまでがOKなのか、というのは難しい。プロレスは「正拳」で殴ってはいけない、と定めているだけである。
チョップ、張り手はOK。突っ張りもOK(そんなのやるのは天龍以外見たことないが)。そして掌打・掌底突きもいい。これは拳が使えないプロレスでは非常に効果的な技である。ライガーは今でも打ち、ときにフィニッシュにしている。
問題は、拳を握ったときだ。握ればみんなダメ、といえばそうなのだが、ダークゾーンにある技もある。
握りながらも実際に打つのは掌側の場合。あの維新軍の「太鼓の乱れ打ち」てのはそうだろう。拳を握ってはいたが拳を使っていない。あれはセーフかなとも思う(しかし複数で乱れ打ってるのでルール的にはアウトだが)
中西学がよくやる野人ハンマーというのはどうなのだろう。両手を組んで相手に叩き付けるやつ。ダブルアックスハンドルとかスレッジハンマーとか呼ばれるが、あれもパンチの一種だとみることは出来る。「殴り倒す」という言葉が実にピッタリくる豪快な技。これもセーフにしたいな。
もっと微妙なのが「裏拳」だ。これはアジャコングがフィニッシュにしているので余計ややこしい。これは相当にグレーゾーンであると思うのだが…野人ハンマーを片手でやってるだけ、とも見える。
結局「正拳突き」がダメだということか。ストレート、ジャブ、アッパー、フック。拳の先端(指の第二関節あたり)が相手に当たる殴り方、と考えていいだろうか。
そのナックル(パンチでも正拳突きでもいいが)が、プロレス技では反則であるということは何度も言った。そして、その「反則」という部分を超えて、僕は好きではない技だということも言った。その理由は、試合が成立しにくくなるとかボクシングの下風に立つからとかいろんな理由もあるが、やはり「ずるい」の一言に尽きるかと。結局そこに立ち戻る。だから悪役がやれば憎悪感が出るし、善玉のやる技ではない。
だが、一人だけ善玉であるのに「パンチ」をやっても許されるレスラーがいた。僕もこの選手がパンチを出すと「いいぞいいぞ」と叫んだ。「ずるい・卑怯だ」という感情は全く湧かなかった。
そのレスラーとは、星野勘太郎である。
「突貫小僧」の異名を持つ突撃ファイター。負けん気は誰よりも強く、心意気が強く浮かび上がるファイトスタイル。「セメントでやれば最強は星野勘太郎」という伝説もある。少なくとも、気迫で星野勘太郎に勝るレスラーはいなかったと言っていいのではないか。
その星野勘太郎は、山本小鉄とヤマハ・ブラザーズを結成し一世を風靡したが、僕はそのヤマハブラザーズの全盛期は知らない。僕が最もよくプロレスを観ていた時代は、小鉄さんが引退し、星野勘太郎はもうベテランの域に入っていた。
星野勘太郎に、一度だけ握手してもらったことがある。「握手してください」と頼んだとき、ふっとこちらを振り向いたその星野の顔の怖さはいまだに忘れられない。ちょっと眉をひそめ「うるせぇな」と言わんばかりの表情。しかし、別に怒鳴られることもなく普通に握手をしてもらった。それならサインも貰えばよかったのだが、そのときはその勇気が出なかった。
力強い手だったが、身長はもしかしたら僕よりも低いのではないか、とそのとき思った。公称170cmだが、レスラーってのはたいてい多めに申告するものだ。160cm台の可能性もある。
その身体で、星野勘太郎はヘビー級だったのだ。信じられない。じゃどんなデブか、どんな筋肉か、と言われても困る。確かに若い頃の星野の写真を見るとはちきれんばかりの身体つきをしているが、僕の知る、握手をして貰った頃のベテラン星野は、そんなに横幅はなかった。まず95kg以下だろう。それでも、ヘビー級として戦っていたのだ。
これは、当時の事情がそうさせたのだろう。星野勘太郎のデビューは昭和36年。まだJr.ヘビー級なんてのは、一般的ではなかった。プロレスはほぼ無差別級だったのだ。Jr.ヘビーという階級は、藤波辰巳が発掘したようなものである。のちに日本はタイガーマスクや大仁田といった世界チャンピオンを輩出する国となったが、星野の時代はJr.ヘビーでは商売にならなかった。なので、グラン浜田はメキシコに行かざるを得ず、星野、山本小鉄はヘビー級としては上背が決定的に足らないにも関わらずヘビー級としてしか生きる道はなかったのだ。もう15年若ければ、おそらく佐山聡とJr.ヘビーでライバル物語をつくっていたのではないだろうか。
しかし、時代はそうじゃなかった。星野勘太郎は、その身体で2mもありそうな、また130kgもありそうな外国人レスラーとも当たっていく。その気迫で圧倒するようなファイトは決して見劣りすることなど無かったが、体格差はいかんともしがたい。そんなときに、星野勘太郎は一発パンチを相手にお見舞いするのだ。
そもそも星野は、高校時代はボクサーだったのだが「腕が短い」ことでボクシングを断念した経緯もある。拳には自信あり、だ。さらに相手をヘッドロックにとらえ、連続パンチを叩き込む。ルーテーズはブラインドに隠れて一発だったが、星野は堂々と連続パンチをぶちかます。
なんで星野勘太郎のパンチ攻撃が卑怯な感じが全くしないか、お分かりだろうと思う。小兵レスラーがヘビー級の土俵で気迫満点で立ち向かっているのだ。感情的には「パンチのひとつも入れてもまだハンデは埋まらない」のである。大型レスラーの方が体躯のぶん既に「ずるい」のである(これは理不尽な物申しだと承知しているが、あくまで感情論)。
UWFとの抗争時には、星野はとうに40を過ぎていた。しかし、長州らの大量離脱で対抗戦のコマが足りず、星野も前線に出て戦った。むしろ星野が牽引した部分もあったのではないか。坂口とタッグを組めばそれはもう大人と子供だったが、その子供が誰の気迫をも凌駕していたと僕は思う。前田に反則のパンチでも何でもかましたれ。だって前田は192cmもあるんだ。年齢もうんと前田は若い。それだけでもう、前田はずるいじゃないか。
以上のようなことで、僕は星野勘太郎のパンチだけは、反則であろうと何であろうと容認していた。いやむしろ、好きだった。
その星野勘太郎さんが逝くとは思っていなかった。脳梗塞で倒れて約2年経つが、リハビリは順調であると聞いていたので。
先だって、小鉄さんの追悼記事を書いたばかりだ。こんなところまでタッグの息を合わせる必要など無いのに。義理堅さも過ぎるよ。
星野さんは、引退後はプロモーターとして神戸で活躍する傍ら、「魔界倶楽部総裁」として人気が出た。星野さんにそういう若松さんのような役割は似合わない、と思っていたのだが、気迫と度胸で見事にこなしていた。すごいな。「ビッシビシ行くからな!」という台詞まで流行った。痩せてしまったが、あのパンチはずっと健在だった。
好きなレスラーが次々と逝く。もうたくさんだ。合掌。
なんでもありのプロレスの中で、パンチングが禁じ手になっているのは実に象徴的である気がする。この制約によってプロレスが面白くなっていると感じるからだ。というのも、人間の肉体の中でどこが最も威力を持つ部分かと考えれば、それは「拳」ではないかと思えるからである。
衝突力そのものは、蹴りの方があるだろう。ただ、拳はスピードで勝る。喧嘩をするときはまず殴るだろう。蹴りを出させる前に勝敗を決する力が拳にはある。
だからパンチングだけの格闘技(ボクシング)があり、そしてパンチングを許している他の格闘技(キックボクシングや総合格闘技)も、素手でのパンチングは禁じてグローブを装着させる。それほどパンチは危険なのだ。
したがって、素手で勝負するプロレスの場合、パンチングは禁止しなくてはいけない。もちろん「危険である」という部分が最も大きいが、プロレス技に拳を開放してしまうと、これに勝る技がないため、全てのレスラーがまず拳で相手と立ち向かう。試合時間は短くなり、投げ技、関節技などのバリエーション豊かなプロレス技が消え、ただ殴って試合を終わらせ、結果間違いなくプロレスは衰退する。肘打ち、頭突きは許してもパンチングは許さない。この制約が面白いプロレスを成立させている。
だったらプロレスに「ナックル」なんて技はないはずなのだが、それがあるのがまたプロレスの奥深さと言っては自己弁護に過ぎるか。
プロレスは、5秒以内であれば反則は行ってもよい。そして、一発殴るのに5秒を費やすはずもなく、レスラーは頻繁に相手を殴っている。
しかし、5秒以内でも反則は反則。したがって、僕はナックルという技を積極的に肯定する気になれない。
それはひとえに「ずるい」と思うからである。目潰しや急所打ち、凶器攻撃と同じ範疇。殴ればそりゃ勝てるよ。殴れば簡単なのに、殴らずに我慢してみんな技を仕掛けてるんじゃないか。近道通ろうとするな。悪者め。
こういう考え方は、もう過去のプロレスの見方である。
昔のプロレスというのは、悪玉と善玉がはっきりと分かれていた。ベビーフェイスとヒール。リンピオとルード。そして、善玉が悪玉を懲らしめることによって観客がカタルシスを得るのである。
で、悪玉の条件とは何か。それは、反則である。
相手に凶器で攻撃を仕掛ける。ブッチャーはフォークを持ち、タイガージェットシンはサーベルを振り回す。そんなので攻撃されたら「正々堂々」と戦う馬場さんや猪木ら善玉がやられる。そしてやられてやられて後半盛り返す。観客は卑怯な反則攻撃によるストレスが溜まっているので一気にそれが発散される、という寸法。
この「善玉・悪玉」というアングルは、ハンセンやブロディの登場で消えた。しかしアニメ「タイガーマスク」を観、ブッチャーやシーク、シンや上田馬之助の暴れっぷりを知る世代の僕らには「反則」というのは悪玉がやるものだという概念がまだ残っている。
しかし「善玉・悪玉」というアングルを作りにくい正統派レスラーが相手だとどうするか。馬場さんや猪木は、もうそういう見方を捨て、ファンクスやロビンソン、バックランドと対戦していた。肉体のぶつかり合う凄さで「vs悪者」という視点を凌駕しようとした。だが、僕が生まれる前の力道山の時代は、やはり"正義の味方"力道山を演出せねばならなかったようだ。じゃどうするか。どうして相手を「卑怯な悪いヤツ」に見せるか。
ひとつは、タッグ戦におけるチームワークである。力道山・木村組に対するシャープ兄弟は、頻繁にタッチを繰り返し、木村政彦を集中攻撃した。こういうのはタッグワークとして当然だが、観客側には「シャープ兄弟が二人がかりで木村を苛めている」ように見えたのである(当時は)。で、堪忍袋の緒が切れた力道山が空手チョップ、という寸法。全然悪くないシャープ兄弟がヒールに見える錯覚。
もうひとつは、ちょっとした反則である。
鉄人ルーテーズといえば、パックドロップを切り札にして936連勝のチャンピオン。悪の要素などない。しかし日本で力道山と対戦する場合はそうはいかない。ここで、パンチングが出てくる。
ルーテーズはヘッドロックが得意技である。ぐいぐい締め付ける。これはバックドロップの伏線になっていることは有名であって、強いヘッドロックによって相手も仕返しにヘッドロックを掛けたくなり、仕掛けたとたんテーズのバックドロップに沈む、という寸法。
そして、テーズがヘッドロックを仕掛けるとき、テーズはよく相手の頭部、あるいは鼻っ柱にパンチを打ち込むのである。
これはさほど強いパンチではない。挑発だろう。相手にヘッドロックを掛けさせるための。全てがバックドロップへの伏線になる。だが、パンチは反則であり、テーズはヘッドロックを掛けつつレフェリーに背を向け、ブラインドを突いてパンチを入れる。
これは「卑怯」に見えますな。時代劇を見慣れている日本人観客には。テーズはチャンピオンで強いはずなのにあんな審判に隠れて反則をする。ずるい。そしてテーズですら日本では悪玉となるのだ。
この遺伝子が僕にも残っていると言っていい。だからパンチングは、嫌いだ(笑)。
したがって、正統派レスラーは拳を使うことを恥と思って欲しい。これは、僕の持論である。
ナックルと言って有名なのは、もちろん猪木の鉄拳制裁というやつである。相手の頭をつかんで大きく腕を引いて放つので、古館伊知郎はこれを「ナックルアロー」と呼んだ。僕は猪木教に入信しているが、それでもこれはいただけなかった。しかも、拳の中指を鋭角的に出して殴っている。こんなの卑怯だと思う。
しかし、さすがに猪木だって最終的に拳で勝負は決めない。卍固めや延髄斬りで勝つ。ただ、一度だけ「疑惑の一戦」があった。UWFとの抗争での猪木vs藤原喜明。この試合のフィニッシュは魔性のスリーパーだったが、その直前に猪木の藤原への下腹部への蹴り(急所か?)と、顎へのナックルがあった。試合後、猪木なら何をしてもいいのか、と激昂した前田日明が猪木にハイキックを見舞った。
しかしこの「ナックル」と見られた技は、後日プロレス誌の写真によってナックルではなくエルボーであったことが判明した。この写真は、あの昭和44年の日本シリーズ読売Gvs阪急で、誰もが本塁封殺だと思った土井が実は捕手をかいくぐりホームを踏んでいて、岡田主審の正しさが証明されたあの一枚と同等の価値があると思うのだがどうだろう。
閑話休題。
さすがに「反則」のパンチで試合が決まることなどないと思っていたら、それを覆すレスラーが現れた。ジェリー・ローラーである。
しかも「世界のプロレス」で見たローラーは、完全にベビーフェイスで観客の声援を受けていた。悪役ならともかくそんなベビーフェイスが、パンチングをフィニッシュホールドとしているのだ。当時の僕は訳がわからなくなった。その技は「フィストドロップ」である。
マットに仰向けに倒れた相手に対し、コーナーでロープを二段くらい上がりそこからジャンプ、そしてなんと拳を相手に叩き込む。これがローラーのフィストドロップだった。反則じゃないか!
観客は拍手喝采である。しかし、僕はこういう技は嫌いだ。というか、何故これが成立するのかがわからない。カウントを入れてはいかんのではないか。
このローラーの「フィストドロップ」と相似形の技を、ザ・グレート・カブキがフィニッシュにしていた。トラースキックで相手を倒し、セカンドロープ上から振りかぶって相手の喉笛を正拳で突く。カブキはそのまま「正拳突き」と呼んでいたがローラーのフィストドロップと同じだ。ただ、反則でカウントをとることに抵抗はあるものの、カブキの正拳突きを僕は容認していた。それはカブキがヒールだったからだ。
ヒールがやってこその「反則」である。ベビーフェイスが反則をやれば、観客の気持ちの持って行き所がなくなる。もうベビーフェイスとヒールという枠組みなどない日本プロレス界だが、だから余計に「パンチング」などという反則は慎んでもらいたい。
フィストドロップは、ロープ上から飛ばなくても倒れこむ方式のものもある。テッド・デビアスやウォリアーズのホークなどが得意としていた。何度も言うがあれは、反則である。グーパンチって何だよ。天山が「ボクシングの練習をしてきた」とリングに上がりパンチを出したとき、オマエはレスラーのプライドがないのか、と憤慨した。あんなのプロレスへの冒涜だ。レスラーはレスラーの矜持を持って、頭突きとモンゴリアンチョップで勝負しろ。何故ボクシングの風下に立とうとするのか。
さて、そのパンチングであるが、どこまでが反則でどこまでがOKなのか、というのは難しい。プロレスは「正拳」で殴ってはいけない、と定めているだけである。
チョップ、張り手はOK。突っ張りもOK(そんなのやるのは天龍以外見たことないが)。そして掌打・掌底突きもいい。これは拳が使えないプロレスでは非常に効果的な技である。ライガーは今でも打ち、ときにフィニッシュにしている。
問題は、拳を握ったときだ。握ればみんなダメ、といえばそうなのだが、ダークゾーンにある技もある。
握りながらも実際に打つのは掌側の場合。あの維新軍の「太鼓の乱れ打ち」てのはそうだろう。拳を握ってはいたが拳を使っていない。あれはセーフかなとも思う(しかし複数で乱れ打ってるのでルール的にはアウトだが)
中西学がよくやる野人ハンマーというのはどうなのだろう。両手を組んで相手に叩き付けるやつ。ダブルアックスハンドルとかスレッジハンマーとか呼ばれるが、あれもパンチの一種だとみることは出来る。「殴り倒す」という言葉が実にピッタリくる豪快な技。これもセーフにしたいな。
もっと微妙なのが「裏拳」だ。これはアジャコングがフィニッシュにしているので余計ややこしい。これは相当にグレーゾーンであると思うのだが…野人ハンマーを片手でやってるだけ、とも見える。
結局「正拳突き」がダメだということか。ストレート、ジャブ、アッパー、フック。拳の先端(指の第二関節あたり)が相手に当たる殴り方、と考えていいだろうか。
そのナックル(パンチでも正拳突きでもいいが)が、プロレス技では反則であるということは何度も言った。そして、その「反則」という部分を超えて、僕は好きではない技だということも言った。その理由は、試合が成立しにくくなるとかボクシングの下風に立つからとかいろんな理由もあるが、やはり「ずるい」の一言に尽きるかと。結局そこに立ち戻る。だから悪役がやれば憎悪感が出るし、善玉のやる技ではない。
だが、一人だけ善玉であるのに「パンチ」をやっても許されるレスラーがいた。僕もこの選手がパンチを出すと「いいぞいいぞ」と叫んだ。「ずるい・卑怯だ」という感情は全く湧かなかった。
そのレスラーとは、星野勘太郎である。
「突貫小僧」の異名を持つ突撃ファイター。負けん気は誰よりも強く、心意気が強く浮かび上がるファイトスタイル。「セメントでやれば最強は星野勘太郎」という伝説もある。少なくとも、気迫で星野勘太郎に勝るレスラーはいなかったと言っていいのではないか。
その星野勘太郎は、山本小鉄とヤマハ・ブラザーズを結成し一世を風靡したが、僕はそのヤマハブラザーズの全盛期は知らない。僕が最もよくプロレスを観ていた時代は、小鉄さんが引退し、星野勘太郎はもうベテランの域に入っていた。
星野勘太郎に、一度だけ握手してもらったことがある。「握手してください」と頼んだとき、ふっとこちらを振り向いたその星野の顔の怖さはいまだに忘れられない。ちょっと眉をひそめ「うるせぇな」と言わんばかりの表情。しかし、別に怒鳴られることもなく普通に握手をしてもらった。それならサインも貰えばよかったのだが、そのときはその勇気が出なかった。
力強い手だったが、身長はもしかしたら僕よりも低いのではないか、とそのとき思った。公称170cmだが、レスラーってのはたいてい多めに申告するものだ。160cm台の可能性もある。
その身体で、星野勘太郎はヘビー級だったのだ。信じられない。じゃどんなデブか、どんな筋肉か、と言われても困る。確かに若い頃の星野の写真を見るとはちきれんばかりの身体つきをしているが、僕の知る、握手をして貰った頃のベテラン星野は、そんなに横幅はなかった。まず95kg以下だろう。それでも、ヘビー級として戦っていたのだ。
これは、当時の事情がそうさせたのだろう。星野勘太郎のデビューは昭和36年。まだJr.ヘビー級なんてのは、一般的ではなかった。プロレスはほぼ無差別級だったのだ。Jr.ヘビーという階級は、藤波辰巳が発掘したようなものである。のちに日本はタイガーマスクや大仁田といった世界チャンピオンを輩出する国となったが、星野の時代はJr.ヘビーでは商売にならなかった。なので、グラン浜田はメキシコに行かざるを得ず、星野、山本小鉄はヘビー級としては上背が決定的に足らないにも関わらずヘビー級としてしか生きる道はなかったのだ。もう15年若ければ、おそらく佐山聡とJr.ヘビーでライバル物語をつくっていたのではないだろうか。
しかし、時代はそうじゃなかった。星野勘太郎は、その身体で2mもありそうな、また130kgもありそうな外国人レスラーとも当たっていく。その気迫で圧倒するようなファイトは決して見劣りすることなど無かったが、体格差はいかんともしがたい。そんなときに、星野勘太郎は一発パンチを相手にお見舞いするのだ。
そもそも星野は、高校時代はボクサーだったのだが「腕が短い」ことでボクシングを断念した経緯もある。拳には自信あり、だ。さらに相手をヘッドロックにとらえ、連続パンチを叩き込む。ルーテーズはブラインドに隠れて一発だったが、星野は堂々と連続パンチをぶちかます。
なんで星野勘太郎のパンチ攻撃が卑怯な感じが全くしないか、お分かりだろうと思う。小兵レスラーがヘビー級の土俵で気迫満点で立ち向かっているのだ。感情的には「パンチのひとつも入れてもまだハンデは埋まらない」のである。大型レスラーの方が体躯のぶん既に「ずるい」のである(これは理不尽な物申しだと承知しているが、あくまで感情論)。
UWFとの抗争時には、星野はとうに40を過ぎていた。しかし、長州らの大量離脱で対抗戦のコマが足りず、星野も前線に出て戦った。むしろ星野が牽引した部分もあったのではないか。坂口とタッグを組めばそれはもう大人と子供だったが、その子供が誰の気迫をも凌駕していたと僕は思う。前田に反則のパンチでも何でもかましたれ。だって前田は192cmもあるんだ。年齢もうんと前田は若い。それだけでもう、前田はずるいじゃないか。
以上のようなことで、僕は星野勘太郎のパンチだけは、反則であろうと何であろうと容認していた。いやむしろ、好きだった。
その星野勘太郎さんが逝くとは思っていなかった。脳梗塞で倒れて約2年経つが、リハビリは順調であると聞いていたので。
先だって、小鉄さんの追悼記事を書いたばかりだ。こんなところまでタッグの息を合わせる必要など無いのに。義理堅さも過ぎるよ。
星野さんは、引退後はプロモーターとして神戸で活躍する傍ら、「魔界倶楽部総裁」として人気が出た。星野さんにそういう若松さんのような役割は似合わない、と思っていたのだが、気迫と度胸で見事にこなしていた。すごいな。「ビッシビシ行くからな!」という台詞まで流行った。痩せてしまったが、あのパンチはずっと健在だった。
好きなレスラーが次々と逝く。もうたくさんだ。合掌。
コメント (4) |
トラックバック (0) |
前回の続き。
昔、若い頃は自転車で旅行をした。体力のあった若い頃が懐かしい。
以前にも書いたことがあるけれども、最初に自転車旅行を試みたときには、そりゃ大層な荷物を持っていた。着替えなどの通常の旅行に必要なものはもちろんのこと、テントまで積んでいた。それも、山用の三角テントである。これは重かった。
なんせ、金ペグである。ペグって知らない人も多いだろう。 テントを地面に固定するための金具のこと。こんなのを何本も自転車に積んでいたら重くてしょうがない。そして支柱、ロープなど。まとめるとずしりとくる。
さらには、コッフェルやバーナー。バーナーも、旧式のポンピングが必要なコンロである。だからガソリンも持っていた。こういうテントや器具は、親戚や知人の不用品をかき集めたものであり(新調するだけの金銭力が無かった)、みな相当に古い。古いものはたいてい、重い。
これらを自転車にくくりつけ、えっちらおっちらと坂道を登る。若かったから出来たことだと思うが、大いに反省したことも事実。ムダな体力を消耗するだけだった。次からは止めよう。
まずキャンプ道具を全て削った。ユースホステルなどの宿泊施設も併用するため、そんなに野営ばかりしているわけじゃない。僕は寝袋だけをキャリアにくくりつけた。屋根はどこにでもある。駅でもバス停でも公園でも寝られる。ポンピング式コンロなども放棄した。もう調理は止めた。前回の旅行だって、せいぜいお湯を沸かしてラーメン食べるくらいだったんだ。必要ない。適当に買い食いすればよかろう。食器はごく軽いシェラカップをひとつだけ。アーミーナイフなんてワイン買ってコルクを抜く時にしか使わなかったからこれもナシ。ワイン飲みたければコルク式ではないやつを買えばいい(結局、ワインはラッパ飲みしたのでシェラカップも必要なかった)。
スリム化すれば、峠が楽になった。サイクリングの楽しさが増した。
社会人になって、自転車だけで旅をすることが時間的に困難になり輪行(自転車を畳んで小荷物として列車その他に持ち込んで現地で組み立てて走ること)をやるようになり、チャリンコをランドナーからロードレーサーに替えた。さすれば、さらにスリム化した。もう野宿などはしないので、荷物は数日分の着替えと洗面具、雨合羽、カメラくらいで事足りるようになる。僕は全てそういうものを小さなデイパックに詰めて背負った。自転車には、サドルの後ろに輪行袋とタイヤチューブの替え数本、簡単な工具だけをぶら下げ、あとは水筒と空気入れをセットするだけ。日帰りツーリングふうの、自転車旅行とは思えない軽装になり、機動力が増した。坂道など屁の河童になった。
そんなふうに、前回書いた汽車旅と同様に荷物を削ることばかりずっと考えていたのだが、自転車を引退し(原因はいろいろあるが太ったというのもある)、軟弱にも自家用車で旅行をするようになり、さらに所帯を持ってキャンプを中心とした旅行を始め、旅行の装備がガラリとかわった。
まず、テントを新調。あんな旧式三角テントなど張るのに時間がかかってしょうがない。当然、ドーム型テント。10分で設営ができる。あとは断熱マットと寝袋。寒いと困るのでさらに毛布も。車だから何でも積める。さらに折り畳み椅子と簡易テーブル。
昔は山用のコッフェルなどを持っていたが、あれはコンパクトだけれども使いにくいものである。なので、ヤカンと鍋とフライパンを持ち込んだ。食器も瀬戸物などはさすがに避けたが、最初はグラスを積んだ。ビールにはやっぱりタンブラー欲しいよね。
さらに、七輪を持っていたときもある。キャンプと言えば焚き火が憧れだったのだが、なかなか焚き火可のキャンプ場が少なく、代替品として七輪を使おうと企んだのだ。
もう何でも積めるので、ありとあらゆるものを積んだ。
だが、そこに落とし穴があった。車で移動すると荷物は無制限に詰めるが、それを出し入れするのが大変なのである。
僕らは、値が張るのでオートキャンプ場などは使わない。出来るだけ入場料の安いキャンプ場を探す(オートキャンプ場なんてビジネスホテル泊と同じくらいの料金をとられる場合もある)。さすれば、多くは駐車場とキャンプサイトが離れたところにある。
なので、荷物をそこに運び込まねばならない。これは結構重労働なのだ。リアカーなどを貸してくれるところもあったが、多くはそんなもの無いので車とテントサイトを汗かきつつ何度も往復しなくてはいけない。なんだそりゃ。
僕らは、鍋釜机椅子を持ったキャンプは見直さねばならなかった。
最終的な僕らのキャンプでの所持品は以下の如くである。
テントと断熱マット、寝袋は一応必需品である。さらにガスランタン。明かりは欲しい。テーブル椅子はやめた。養生シート一枚で足りる(遠足みたいだが)。火器は、カセットコンロである。ただ、普通の家庭用のやつではなく焼肉仕様。こういうやつですね。うちのは折り畳みの足がついている。ちゃぶ台みたいになる感じ。これはすぐれもので、もちろんBBQもできるが、魚も焼ける。アルミホイルを持っていれば様々に調理の幅が広がる。鍋釜ヤカンは止め、コッフェルに戻した。そのコッフェルを焼肉コンロにも置くと味噌汁も作れる。火器はこれひとつで十分だった。
小さな包丁とまな板。まな板はベニヤ板の小切れで代用。シェラカップ適宜。食器は全てこれでまかなう。調味料箱(醤油、塩、胡椒などをコンパクトに詰める)。クーラーボックスはかさばるので保冷バッグ(生ものとビール用)。樹脂製の小さいバケツ(これ重宝する)。蚊取線香。
これに衣類、洗面具などをプラス。断熱マットを除いては、大きなトートバッグふたつで全て入る。結局、車だもの何でも積めると思っても、コンパクトにしたほうが便利だった。準備と後片付けを伴うことなので。いざというときのために様々なものを積んでおくのは一応いいのだが、出し入れするものは限られたものとなる。
そんなふうにして、僕らのキャンプ仕様は確立していった。
さて、年齢を重ねると徐々にキャンプが億劫になった。面倒くさい。自家用車を買い換えたのをきっかけに、僕らはパーキングキャンプに移行していった。テントや寝袋は押入れにしまわれ、車に布団を積んで寝るようになった。
こうなると、キャンプ場での荷物の出し入れなどはなくなるのだが、なにぶん軽自動車でありスペースも限られているため、さらに荷物は簡略化していった。だいたい、ものぐさになり料理などしなくなった。
寝るためには、後部座席を畳み断熱シートを敷いて、その上に布団を敷く。エアマットを使うと快適になるが、堅い寝床が好きな人はなくてもいい(僕も今は使っていない)。それから、枕と毛布。以上は、常に車に積んである(出し入れが面倒なので)。だから、旅に出るときにはシーツだけ持って入ればいい。布団は時々干すが、基本は入れっぱなし。照明も車内灯を蛍光灯にしたので必要なし。
料理をしないので鍋釜は必要ない。ただ、湯は沸かすのでバーナーと小型のヤカンは積んである。バーナーも昔のようなポンピング式ではなくカートリッジ式のやつ。お手軽だ。
料理はほぼしないが、テイクアウトはする。なので多少の食器。これはシェラカップとホーローのマグくらい。調味料も以前は箱に詰めて各種取り揃えていたが、今は醤油と塩と七味唐辛子くらいか。刺身買ったりするので醤油は必携。さらに、夜明けのコーヒーも飲みたいが凝った事はできないのでインスタントを持ち込む。重要なのは車内で飲み食いするので粗相をすると大変である。なので縁の高いトレイを使用する。こぼしても大丈夫。あとは、キャンプ場のように水場があるところでは泊まらないので、一応水は何リットルか積んでおく。ただ、迷惑なので食器を洗ったりはしない。ウエットティッシュとトイレットペーパーがあると便利。
もちろん衣類や洗面具などは当然だが。また車で旅をすると必ずどこかで温泉に入るので、風呂用のキットはまとめて積む(銭湯に行くのと同じ用意)。
これくらいかなあ。迷ったらなんでも積めばいいのだが、今はあまり迷わなくなった。あとは、書籍と音楽。
そして、時間がとれればバタバタと荷物を積み込んで出かける。ああ旅行に行きたい。
昔、若い頃は自転車で旅行をした。体力のあった若い頃が懐かしい。
以前にも書いたことがあるけれども、最初に自転車旅行を試みたときには、そりゃ大層な荷物を持っていた。着替えなどの通常の旅行に必要なものはもちろんのこと、テントまで積んでいた。それも、山用の三角テントである。これは重かった。
なんせ、金ペグである。ペグって知らない人も多いだろう。 テントを地面に固定するための金具のこと。こんなのを何本も自転車に積んでいたら重くてしょうがない。そして支柱、ロープなど。まとめるとずしりとくる。
さらには、コッフェルやバーナー。バーナーも、旧式のポンピングが必要なコンロである。だからガソリンも持っていた。こういうテントや器具は、親戚や知人の不用品をかき集めたものであり(新調するだけの金銭力が無かった)、みな相当に古い。古いものはたいてい、重い。
これらを自転車にくくりつけ、えっちらおっちらと坂道を登る。若かったから出来たことだと思うが、大いに反省したことも事実。ムダな体力を消耗するだけだった。次からは止めよう。
まずキャンプ道具を全て削った。ユースホステルなどの宿泊施設も併用するため、そんなに野営ばかりしているわけじゃない。僕は寝袋だけをキャリアにくくりつけた。屋根はどこにでもある。駅でもバス停でも公園でも寝られる。ポンピング式コンロなども放棄した。もう調理は止めた。前回の旅行だって、せいぜいお湯を沸かしてラーメン食べるくらいだったんだ。必要ない。適当に買い食いすればよかろう。食器はごく軽いシェラカップをひとつだけ。アーミーナイフなんてワイン買ってコルクを抜く時にしか使わなかったからこれもナシ。ワイン飲みたければコルク式ではないやつを買えばいい(結局、ワインはラッパ飲みしたのでシェラカップも必要なかった)。
スリム化すれば、峠が楽になった。サイクリングの楽しさが増した。
社会人になって、自転車だけで旅をすることが時間的に困難になり輪行(自転車を畳んで小荷物として列車その他に持ち込んで現地で組み立てて走ること)をやるようになり、チャリンコをランドナーからロードレーサーに替えた。さすれば、さらにスリム化した。もう野宿などはしないので、荷物は数日分の着替えと洗面具、雨合羽、カメラくらいで事足りるようになる。僕は全てそういうものを小さなデイパックに詰めて背負った。自転車には、サドルの後ろに輪行袋とタイヤチューブの替え数本、簡単な工具だけをぶら下げ、あとは水筒と空気入れをセットするだけ。日帰りツーリングふうの、自転車旅行とは思えない軽装になり、機動力が増した。坂道など屁の河童になった。
そんなふうに、前回書いた汽車旅と同様に荷物を削ることばかりずっと考えていたのだが、自転車を引退し(原因はいろいろあるが太ったというのもある)、軟弱にも自家用車で旅行をするようになり、さらに所帯を持ってキャンプを中心とした旅行を始め、旅行の装備がガラリとかわった。
まず、テントを新調。あんな旧式三角テントなど張るのに時間がかかってしょうがない。当然、ドーム型テント。10分で設営ができる。あとは断熱マットと寝袋。寒いと困るのでさらに毛布も。車だから何でも積める。さらに折り畳み椅子と簡易テーブル。
昔は山用のコッフェルなどを持っていたが、あれはコンパクトだけれども使いにくいものである。なので、ヤカンと鍋とフライパンを持ち込んだ。食器も瀬戸物などはさすがに避けたが、最初はグラスを積んだ。ビールにはやっぱりタンブラー欲しいよね。
さらに、七輪を持っていたときもある。キャンプと言えば焚き火が憧れだったのだが、なかなか焚き火可のキャンプ場が少なく、代替品として七輪を使おうと企んだのだ。
もう何でも積めるので、ありとあらゆるものを積んだ。
だが、そこに落とし穴があった。車で移動すると荷物は無制限に詰めるが、それを出し入れするのが大変なのである。
僕らは、値が張るのでオートキャンプ場などは使わない。出来るだけ入場料の安いキャンプ場を探す(オートキャンプ場なんてビジネスホテル泊と同じくらいの料金をとられる場合もある)。さすれば、多くは駐車場とキャンプサイトが離れたところにある。
なので、荷物をそこに運び込まねばならない。これは結構重労働なのだ。リアカーなどを貸してくれるところもあったが、多くはそんなもの無いので車とテントサイトを汗かきつつ何度も往復しなくてはいけない。なんだそりゃ。
僕らは、鍋釜机椅子を持ったキャンプは見直さねばならなかった。
最終的な僕らのキャンプでの所持品は以下の如くである。
テントと断熱マット、寝袋は一応必需品である。さらにガスランタン。明かりは欲しい。テーブル椅子はやめた。養生シート一枚で足りる(遠足みたいだが)。火器は、カセットコンロである。ただ、普通の家庭用のやつではなく焼肉仕様。こういうやつですね。うちのは折り畳みの足がついている。ちゃぶ台みたいになる感じ。これはすぐれもので、もちろんBBQもできるが、魚も焼ける。アルミホイルを持っていれば様々に調理の幅が広がる。鍋釜ヤカンは止め、コッフェルに戻した。そのコッフェルを焼肉コンロにも置くと味噌汁も作れる。火器はこれひとつで十分だった。
小さな包丁とまな板。まな板はベニヤ板の小切れで代用。シェラカップ適宜。食器は全てこれでまかなう。調味料箱(醤油、塩、胡椒などをコンパクトに詰める)。クーラーボックスはかさばるので保冷バッグ(生ものとビール用)。樹脂製の小さいバケツ(これ重宝する)。蚊取線香。
これに衣類、洗面具などをプラス。断熱マットを除いては、大きなトートバッグふたつで全て入る。結局、車だもの何でも積めると思っても、コンパクトにしたほうが便利だった。準備と後片付けを伴うことなので。いざというときのために様々なものを積んでおくのは一応いいのだが、出し入れするものは限られたものとなる。
そんなふうにして、僕らのキャンプ仕様は確立していった。
さて、年齢を重ねると徐々にキャンプが億劫になった。面倒くさい。自家用車を買い換えたのをきっかけに、僕らはパーキングキャンプに移行していった。テントや寝袋は押入れにしまわれ、車に布団を積んで寝るようになった。
こうなると、キャンプ場での荷物の出し入れなどはなくなるのだが、なにぶん軽自動車でありスペースも限られているため、さらに荷物は簡略化していった。だいたい、ものぐさになり料理などしなくなった。
寝るためには、後部座席を畳み断熱シートを敷いて、その上に布団を敷く。エアマットを使うと快適になるが、堅い寝床が好きな人はなくてもいい(僕も今は使っていない)。それから、枕と毛布。以上は、常に車に積んである(出し入れが面倒なので)。だから、旅に出るときにはシーツだけ持って入ればいい。布団は時々干すが、基本は入れっぱなし。照明も車内灯を蛍光灯にしたので必要なし。
料理をしないので鍋釜は必要ない。ただ、湯は沸かすのでバーナーと小型のヤカンは積んである。バーナーも昔のようなポンピング式ではなくカートリッジ式のやつ。お手軽だ。
料理はほぼしないが、テイクアウトはする。なので多少の食器。これはシェラカップとホーローのマグくらい。調味料も以前は箱に詰めて各種取り揃えていたが、今は醤油と塩と七味唐辛子くらいか。刺身買ったりするので醤油は必携。さらに、夜明けのコーヒーも飲みたいが凝った事はできないのでインスタントを持ち込む。重要なのは車内で飲み食いするので粗相をすると大変である。なので縁の高いトレイを使用する。こぼしても大丈夫。あとは、キャンプ場のように水場があるところでは泊まらないので、一応水は何リットルか積んでおく。ただ、迷惑なので食器を洗ったりはしない。ウエットティッシュとトイレットペーパーがあると便利。
もちろん衣類や洗面具などは当然だが。また車で旅をすると必ずどこかで温泉に入るので、風呂用のキットはまとめて積む(銭湯に行くのと同じ用意)。
これくらいかなあ。迷ったらなんでも積めばいいのだが、今はあまり迷わなくなった。あとは、書籍と音楽。
そして、時間がとれればバタバタと荷物を積み込んで出かける。ああ旅行に行きたい。
コメント (0) |
トラックバック (0) |
クリックで各カテゴリの










