時々雑録

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『外国語として出会う日本語』(読書録)

2012年07月01日 | 読書録
図書館にあったので借りてみました。楽しく読めます。筆者ご自身の体験から説き起こしてあるためか、印象的で、かつ説得力も感じます。日本語教授にかかわる諸問題を網羅するという目的で書かれてはいないので、ハンドブック的には使えませんが、留意すべき基本的な指針を得ることはできました。読み取ったのは以下。

 1. 自分の母語でも研究しないと分からない(2章)
 2. 学習者が創るルールを意識せよ(3章)
 3. 学習者の母語の影響を意識せよ(4章)
 4. ことばの背景にある価値観の差異も考慮に入れよ(5章)
 5. 学習者の「わかりにくい日本語」から発見しよう(6章)

6章のメッセージを承け、「あとがきに」書かれた以下の部分は、おそらくこの本を貫くテーマであり、筆者が研究・教育上大切になさっていることなのだろうと思います。

言語の違いを乗り越えるには、「日本人が外国語を勉強して、上手に話せるようになる」あるいは「外国人が日本語を勉強して、日本語を話せるようになる」という二つの選択肢しかないのでしょうか。「日本人が日本語を勉強して、日本語を客観的にとらえるようになる。それによって、外国人のたとえつたない日本語であってもそれを理解したり、自分の日本語をわかりやすく言い換えたりすることができるようになる」という三つ目の選択肢も、あっていいのではないか。。。

ずいぶん前、杉戸清樹氏の「もう一つの日本語教育を」という論文を読んで以来、引用箇所のような考え方は常に頭にあり、学習者の日本語をできる限り理解する努力は払い続けてきたつもりで、学習者の多様な日本語に対する対応力だけは、多少自信があります。地域の日本語講座のような場で日本語教育ボランティアとして日本語を教えることの一つの意味は、ここにあるのでは。

具体的な記述内容で面白かったことについて、メモ代わりに2点。

日本語の関係詞節は非制限用法と制限用法を区別する仕組みがなく、かつ非制限用法として使われることが多いので、それを制限用法のように感じてしまう他言語の話者には、抵抗が大きい。たとえば次の例。日本語話者の頭にあるのは、通常、非制限用法であって、「集合時刻に遅れなかったその他の山田さん」がいるわけではないと。

 集合時刻に遅れた山田さんは、バスに乗ることができなかった。

個人的な経験の限りでは、米国では制限用法と非制限用法を、thatとwhichで役割分担する傾向が見られるような気がしてます。やっぱり、韻律情報だけではときに不十分、ということでしょうか。

 「この機種、写真が撮れますか?」「動画も撮れますよ」

のように、相手の質問に直接答える代わりに、別の情報を「も」を使って与えることで答えることができる前提には、ケータイの性能について

 「電話がかけられる > 写真が撮れる > 動画が撮れる」

というような下位~上位の序列に関する知識が共有されていることが前提となる。

たとえば、David Harrison氏の本で紹介されているような、西欧言語とは非常に離れた文化背景を持つ集団の言語などだと、この種の前提の共有が期待できないだけでなく、言語でコード化するための仕組みまでかなり本質的な点で異なる可能性もあるでしょう。そう考えていくと、言語類型論の研究でよくみられる、「××階層」のような通言語的なモデル化には慎重になったほうがいい、と思えてきます。

最後に一つだけ気になったこと。31ページで、ある文について「×かどうかは「文法性grammaticality」の問題」「?かどうかは「容認可能性acceptability」の問題」としています。これだと、grammaticalityとacceptabilityは文の違う側面に関する適切性であり、両者は原理的には独立だ、と読めるのですが、これはわたしの理解とは異なります。

わたしの理解では、acceptabilityというのは言語話者から直接得られる言語に対する内省の結果であり、その結果がなんらかの程度でunacceptableだった場合、その原因には、意味的な奇異さ、情報構造の不適切さ、等々さまざまな要因が考えられるが、それ以外に狭義の言語学的意味での文法に対する違反ungrammaticalityが考えられる、と。したがって、両者はオーバーラップしている(だから言語学者は、unacceptabilityからungrammaticalityによる要素を抽出するため、四苦八苦している)、というのが理解なのですが。。。

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