今日は、母の祥月命日である。
17年前の今日は、猛暑であった。当日だけでなく、死の前後の日々は、容赦のない暑さが続いていたことを覚えている。
昨日から読み始めた本、池田晶子著『死とは』のとびらに、
<生(ある)と死(ない)――存在の謎は、果てしなく>
という表現があった。
生と死を、<ある>と<ない>で表現してあり、確かにそうだと納得しながら、一方、生死には、<有><無>だけでは片付けられないものもある、と考えた。
確かに肉体は存在しないが、母は、私の中で生きている。
母の命を受け継いだかのごとく、裏庭には白い花をつける椿の木がある。
それは、Kさんからお見舞いにいただいた椿の小枝を、花の終わった後、私ガ鉢に挿し、十分根付いたものを、庭師に植え替えてもらったものである。
こうして、形として今なお命をつないでいるものもあれば、無形だが、心の中に深く根を下ろしているものもある。
今日はひととき、理屈を超えて、母を偲ぶ日となった。
母の思い出につながる椿は、今年も立派な実(かたし)をつけている。(写真)
贈り主のKさんは、老人ホームで、今もつつがなくお過ごしになっている。
17年前の今日は、猛暑であった。当日だけでなく、死の前後の日々は、容赦のない暑さが続いていたことを覚えている。
昨日から読み始めた本、池田晶子著『死とは』のとびらに、
<生(ある)と死(ない)――存在の謎は、果てしなく>
という表現があった。
生と死を、<ある>と<ない>で表現してあり、確かにそうだと納得しながら、一方、生死には、<有><無>だけでは片付けられないものもある、と考えた。
確かに肉体は存在しないが、母は、私の中で生きている。
母の命を受け継いだかのごとく、裏庭には白い花をつける椿の木がある。
それは、Kさんからお見舞いにいただいた椿の小枝を、花の終わった後、私ガ鉢に挿し、十分根付いたものを、庭師に植え替えてもらったものである。
こうして、形として今なお命をつないでいるものもあれば、無形だが、心の中に深く根を下ろしているものもある。
今日はひととき、理屈を超えて、母を偲ぶ日となった。
母の思い出につながる椿は、今年も立派な実(かたし)をつけている。(写真)
贈り主のKさんは、老人ホームで、今もつつがなくお過ごしになっている。