昨夕、甥の子、小学校二年生の女の子が、姪の車でやってきた。
「おばちゃん、大変だったの。魂(たま)が飛び出しそうだった!」
家に上がるなり、そう言った。
<魂が飛び出す>とは、私には聞きなれない言葉だった。が、相当のショックを受けたらしいことは、話しっぷりで理解できた。
説明を聞いてみると、姪が運転を誤って、隣家の門柱に車をぶっつけたらしい。門柱も、自分の車も、傷つけていた。
凄まじい音がしたという。隣家の人が様子を見に出られたというから、相当大きな音だったのだろう。
熊本からひとり運転して益田に帰り、その足で、さらに私の家までやってきたのだ。長距離の運転で、若くても目に見えない疲れがあったのかもしれない。
帰る際、送って出てみると、濃紺の車体なので、擦り傷は目立ちやすかった。帰ったら、すぐ修理に出すと話していた。
今朝、その姪から電話があり、隣家に住まう人の名と電話番号を尋ねてきた。
傷んだ車は益田で修理に出し、門柱の傷みも直してもらうから、とのことだった。
今日は昼過ぎの列車で熊本に帰り、向こうではレンタカーを借りる手はずになっているとの話だった。
幼い子どもを乗せて、何度も熊本、益田間を往復した経験あるドライバーでも、思いがけぬ事故を起こすことがあるから、やはり車は怖い。
その電話がきっかけとなって、昨日、甥っ子の幼い娘の子が言った<魂(たま)が飛び出す>という言葉を思い出した。私なら、そういう時、なんと言うのだろうかと。
<魂が飛び出す>とは、かなり大きな驚愕を表す言葉だろう。
<びっくりした>では弱い。<魂消(たまげ)た>でも、物足りない気がする。
そんなことを考えていると、<魂が飛び出す>とは、心臓が止まるかと思うほどの恐怖感をうまく言い当てているようにも思えるのだった。
私は、一方で音楽を聞きながら、電子辞書を調べてみた。
<魂消る>は、あるいは方言かと思ったが、ちゃんと辞書にある。<(魂が消える意から)非常に驚く。びっくりする。>と説明している。<魂が飛び出す>に匹敵する表現なのかもしれない。
あれこれ調べているうちに、慣用句「魂合う」という言葉に出くわした。<魂がいっしょになる。互いに思い合う心が一致する。>と、その意を説明している。
やや古語めいた言い回しだが、いい言葉だ。
しかし、人間関係において、「魂合う」繋がりというのは、なかなか難しいことなのかもしれない。生涯に、真に「魂会う」人に幾人巡り会えるのだろう?
幼子が残していった言葉から、<魂(たま)>にまつわる言葉を漢語にまで及んで調べ、ひと時、辞書遊びをした。
暇人のなせる業である。
私は昨夜、上手な眠り方ができなかった。就寝したときに、ふっと心臓の異常を感じたのがいけなかった。時々、脈の打ち方が、無気味なほど弱くなる。それを気にしたためであろう。幾度も夢を見ては目覚めた。いい夢は全くなかった。
そのためか否か、朝食の後、すぐ仕事にかかれないまま、BSの、NHKハイビジョンで、バレエ音楽を聞いた。
クリストフ・エッシェンバッハの指揮が大いに気に入った。
ピアニストとしてのエッシェンバッハは知っていたが、卓越した指揮者であることは知らなかったし、その指揮を見るのも初めてだった。
この人の目がすごい。輝きのある素敵な目だ。目が耳の働きもしているのではないかとさえ思ってみていた。
すると、最後に、ラヴェル作曲「ボレロ」の演奏が始まった。
あの独特な、軽快なリズムが、様々な楽器のソロで演奏される間、エッシェンバッハは指揮棒を使わない。目で指揮するのだ。目の玉が左右上下に動き、閉じられたり大きく見開かれたり……。
全楽器が加わって、演奏が盛り上がってきたとき、初めてエッシェンバッハの指揮棒が動き始めた。
なんという楽しい演奏!
たちまちエッシェンバッハのファンになってしまった。
今年もあと二日というのに、音楽三昧というのも、暇人のすることだろう。
先刻、花作り名人のSさんから電話があった。昨日届けたクレマチスの写真に対するお礼の電話であった。写真を気に入ってもらえて嬉しい。
(添付写真は、庭のノボタンがつけている蕾。蕾の色と、命を漲らせた姿がいい。何時まで花を咲かせるつもりだろう?)
「おばちゃん、大変だったの。魂(たま)が飛び出しそうだった!」
家に上がるなり、そう言った。
<魂が飛び出す>とは、私には聞きなれない言葉だった。が、相当のショックを受けたらしいことは、話しっぷりで理解できた。
説明を聞いてみると、姪が運転を誤って、隣家の門柱に車をぶっつけたらしい。門柱も、自分の車も、傷つけていた。
凄まじい音がしたという。隣家の人が様子を見に出られたというから、相当大きな音だったのだろう。
熊本からひとり運転して益田に帰り、その足で、さらに私の家までやってきたのだ。長距離の運転で、若くても目に見えない疲れがあったのかもしれない。
帰る際、送って出てみると、濃紺の車体なので、擦り傷は目立ちやすかった。帰ったら、すぐ修理に出すと話していた。
今朝、その姪から電話があり、隣家に住まう人の名と電話番号を尋ねてきた。
傷んだ車は益田で修理に出し、門柱の傷みも直してもらうから、とのことだった。
今日は昼過ぎの列車で熊本に帰り、向こうではレンタカーを借りる手はずになっているとの話だった。
幼い子どもを乗せて、何度も熊本、益田間を往復した経験あるドライバーでも、思いがけぬ事故を起こすことがあるから、やはり車は怖い。
その電話がきっかけとなって、昨日、甥っ子の幼い娘の子が言った<魂(たま)が飛び出す>という言葉を思い出した。私なら、そういう時、なんと言うのだろうかと。
<魂が飛び出す>とは、かなり大きな驚愕を表す言葉だろう。
<びっくりした>では弱い。<魂消(たまげ)た>でも、物足りない気がする。
そんなことを考えていると、<魂が飛び出す>とは、心臓が止まるかと思うほどの恐怖感をうまく言い当てているようにも思えるのだった。
私は、一方で音楽を聞きながら、電子辞書を調べてみた。
<魂消る>は、あるいは方言かと思ったが、ちゃんと辞書にある。<(魂が消える意から)非常に驚く。びっくりする。>と説明している。<魂が飛び出す>に匹敵する表現なのかもしれない。
あれこれ調べているうちに、慣用句「魂合う」という言葉に出くわした。<魂がいっしょになる。互いに思い合う心が一致する。>と、その意を説明している。
やや古語めいた言い回しだが、いい言葉だ。
しかし、人間関係において、「魂合う」繋がりというのは、なかなか難しいことなのかもしれない。生涯に、真に「魂会う」人に幾人巡り会えるのだろう?
幼子が残していった言葉から、<魂(たま)>にまつわる言葉を漢語にまで及んで調べ、ひと時、辞書遊びをした。
暇人のなせる業である。
私は昨夜、上手な眠り方ができなかった。就寝したときに、ふっと心臓の異常を感じたのがいけなかった。時々、脈の打ち方が、無気味なほど弱くなる。それを気にしたためであろう。幾度も夢を見ては目覚めた。いい夢は全くなかった。
そのためか否か、朝食の後、すぐ仕事にかかれないまま、BSの、NHKハイビジョンで、バレエ音楽を聞いた。
クリストフ・エッシェンバッハの指揮が大いに気に入った。
ピアニストとしてのエッシェンバッハは知っていたが、卓越した指揮者であることは知らなかったし、その指揮を見るのも初めてだった。
この人の目がすごい。輝きのある素敵な目だ。目が耳の働きもしているのではないかとさえ思ってみていた。
すると、最後に、ラヴェル作曲「ボレロ」の演奏が始まった。
あの独特な、軽快なリズムが、様々な楽器のソロで演奏される間、エッシェンバッハは指揮棒を使わない。目で指揮するのだ。目の玉が左右上下に動き、閉じられたり大きく見開かれたり……。
全楽器が加わって、演奏が盛り上がってきたとき、初めてエッシェンバッハの指揮棒が動き始めた。
なんという楽しい演奏!
たちまちエッシェンバッハのファンになってしまった。
今年もあと二日というのに、音楽三昧というのも、暇人のすることだろう。
先刻、花作り名人のSさんから電話があった。昨日届けたクレマチスの写真に対するお礼の電話であった。写真を気に入ってもらえて嬉しい。
(添付写真は、庭のノボタンがつけている蕾。蕾の色と、命を漲らせた姿がいい。何時まで花を咲かせるつもりだろう?)