ぶらぶら人生

心の呟き

島秋人 最終回  得がたき友

2006-06-21 | 身辺雑記

 「遺愛集」のあとがき(島秋人)と、後記・窪田章一郎の文章に挟まれて、「島秋人さんの想い出」という文章が載っている。これを書いたのが、前坂和子である。
 彼女は、高校生の時から大学時代、更には就職後も、島秋人の処刑の前日まで、手紙のやり取りを通し、更に一週に一度の面会、花の差入れなどを通して、島秋人と深い交流のあった人である。そもそもは、島秋人とは歌を媒体とした交友、毎日歌壇に投稿する歌を通しての友達であった。
 「遺愛集」にも、島が前坂和子に宛てた幾通かの手紙が掲載されている。また、窪田章一郎に宛てた最後の手紙(処刑前夜の11月1日夜)には、

 <歌集のあとがきを前坂和子君に今日面会してお願いしました。原稿を持参して先生のお宅に行く事と思います。最後まで僕に接して来た前坂君ですから僕の事をくわしく知っています。
 前坂和子君に歌集出版についてのお手伝いをありましたらさせて下さい。母と父と牧師二人と前坂君と一同集まって楽しいひとときを今日は過ごしました。>

と、記している。また、同じく処刑前夜に記した「『あとがき』に添えて」には、

 <短歌を詠み続けて七年になりました。初めて私の作品をとりあげてくれ批評してくれたのが前坂和子君です。三田高校在学中の事で三年生の文化祭に一冊の小冊子として、出品してくれました。その名を「いあいしゅう」と付してあり、この歌集に「遺愛集」として生かしたのです。これは前坂君への感謝の心と私の作歌を愛(を)しむ心とを合わせたものです。>

とあり、更に後半には、

 <前坂君の花の差入れは処刑の前夜にもありました。花好きの僕は最後までよい花に接し得たことをよろこびます。>

とも、書かれている。二人の交わりの様子が、以上の文面から十分読み取れる。
 歌中、差入れの花を素材とした歌の背景には、前坂和子の面影が潜んでいる場合が多いのだろう。が、表には、あらわには出てこない。
 私が、はっきりと彼女を詠った歌と解したのは、次の二首である。

 教育大受かりましたと告ぐる君の家事に荒れたる指をも見たり (昭和38年)
 稀なるに欠かさず花を差入れくれて君の優しさ六年続く     (昭和42年)

 彼女の書いた「島秋人さんの想い出」の最後には、(都立府中高校教諭・22歳)と付されている。島秋人とは十歳あまり年下ながら、島の心の支えとなり、歌を語り合える、よい友人だったのだと考えられる。死刑囚に対する気まぐれな同情で、六年も文通や面会を続けるなど、普通の人間に出来ることではない。まして若いj前途のある女性に……。
 前坂和子とは、どんな人だったのだろうか。教育大に進学し、高校の教諭になった人だから、人間の生き方には大いに関心を持ち、かくあるべきという信念の持ち主だったかと思える。

 朝日新聞の「折々のうた」で、6月15日の朝、久々に島秋人の歌に接し、すぐ所蔵の「遺愛集」を探した。その中に、一枚の新聞の切り抜きが入っているのに気づいた。
 新聞名の記載はないのだが、文化欄のコラム記事であることは確かだし、「1991(H3)・10・30(水)」と、私が自筆で欄外にメモをしているので、発行日も定かである。
 「緑地帯」というコラム記事は、何新聞のものだろう? 朝日や毎日ではなさそうだと思いながら、インターネットで調べてみた。中国新聞だと分かった。
 コラムの筆者は、植栗彌(エリザベト音楽大学助教授)である。<出会いの刻>というのがシリーズの題で、その①とある。(八話の第一回目ということらしい。)
 <良き人とのめぐり合いは人生の花>との考えに基づいて、このシリーズは書かれたもののようである。
 その第一回は、「歌友は死刑囚」という題で、前坂和子と島秋人の事が記されているのだった。文中では、「カズ子」となっているが、内容からすると、間違いなく前坂和子らしい。しかも、執筆者、植栗彌とカズ子は大学の同期とある。

 <入学時すでに短歌を作る人であった。体格がよく、「ワンゲル」に入って、日本の名勝や名山をよく訪ねていた。>
 
<高校時代から毎日歌壇の愛読者であったカズ子さんは、この歌人の慰問へ。高校三年にして巣鴨刑務所を尋ねた。以来、週に一度は、花を携えつつ、作歌を人生をと、話題を共有し合った。>

 
と、ある。前半の引用文を読んで、私は新しいイメージを得た。それまでは、どちらかというと、一途な文学少女を想像していたのだが、心身ともに健康で、頼もしさのある女性だったようだ。
 いずれにしても、二人にとって、その交友は人生にとって、コラムの筆者の言葉通り、<人生の花>だったに違いない。

 (これは全く余談になるが、新聞の切り抜きをを読んだ後、一瞬、なぜここに、この切り抜きがあるのだろうかと、不審に思った。私は中国新聞の購読者であった記憶はないのだ。15年前の、すでに変色の進んだ切り抜き。私のボールペンで記入した年月日の色もあせている。目を凝らしてみると、右上に鉛筆書きで、「10月31日いただく」と記している。
 ああ、と私は、今この新聞が手元にあるわけをとっさに悟った。切り抜きをくれた人は、私が今なお敬慕し続けている、亡き師に違いない。
 そういえば、島秋人の短歌について、何度か話し合った時期があった、と窓の外に広がる梅雨晴れの空を眺めながら、懐かしさに浸った。日付のある十月三十一日には、会って語らいもしたのであろう、と。
 しかし、みな、過ぎし日の想い出となってしまった。)

 
「遺愛集」の昭和四十二年の説明に、<師父、窪田空穂先生の御逝去。病床の和子を知り愛を結ぶ。>とある。ここに記された「和子」は、前坂和子とは別人なのだろうと思う。
 その年の終わり、処刑の間近い時期の作品に、恋の歌が並んでいる。もしその恋が事実であったら、それは島秋人にとって、一時のはかない恋であっても、喜ばしいことだ思う。
 その歌も引用しておこう。

 君を知り愛告ぐる日の尊くていのち迫る身燃えて愛(いと)ほし
 君の手紙(ふみ)来ぬと思ひて落ちつかず日昏れの迫る獄(ひとや)歩めり
 触れ得ぬも君愛(いと)ほしくこゑひくく呼ぶ夜を獄庭(には)にこほろぎは鳴く
 二日程眠れぬ夜あり愛(いと)ほしく君のわれ欲(ほ)るカナの手紙(ふみ)来て
 神は汝もわれも知らさば許されむ恥かしきほど燃えゆく日々を
 君とわれ触れあふ日なき愛に燃え心添ひつつ清められたり
 燃えるとも濡れるともある盲(めし)ひ病む君の可愛ゆきカナの手紙(ふみ)読む
 むつみあうことなき愛に秘花(はな)濡れて素直に君は妻と云ひ添ふ


 恋人に寄せる思いは切実である。「盲ひ病む君」とか、「カナの手紙」とかの表現に、わずかに恋人の面影を偲ぶことができるが、詳しいことは分からない。

 六回にわたって、随分たくさんの歌を引用してきた。最後に獄中での心情を詠った秀歌を挙げておくことにする。

 被害者に詫びて死刑を受くべしと思ふに空は青く生きたし
 よく生きる事より外に無しとして詫びる日までのいのち愛(かな)しむ
 汚れなきいのちになりて死にたしと乞ふには罪の深き身のわれ
 生かされて得る日尊びかきつばた朝(あした)の風にそよぐを眺(み)たり
 蝶ひくく舞ふ芸ありて戦(いくさ)なき日日の五月さやかなりけり

 以上で、「遺愛集」を暫く閉じることにする。以前から挿んでいた新聞の切り抜きに加え、大岡信の「折々のうた」の切り抜きも、本に挿んでおこう。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 島秋人 その5  文鳥を飼... | トップ | ヤモリと遊ぶ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿