ぶらぶら人生

心の呟き

言葉(=人)に遇う

2016-03-13 | 身辺雑記
 私にとって、言葉との出逢いは、人との出逢いである。
 10日、<とみ>で食事をした後、お手洗いを借りた。
 その部屋の、すぐ目につくところに、葉書大の額が置いてあり、処世訓らしき言葉が書かれていた。(写真)

       
   (光線の具合で、写真画面に、私の手やカメラまで写ってしまったので、修正を加えた。)

 私は、心で肯き、<そのとおりだな>と思った。
 読む人に、ふと自分の人生をふり返させる言葉。
 <他人と自分>、<過去と未来>、<変えられるものと変えられないもの>との対比において。
 私は、未来(残生)の短さを感じながら、それでも心の持ち方次第で、余生は自分の意思で変え得るものだなと、瞬時に考えていた。

 これは、だれの言葉かしら?
 文字にも味がある、と思った。

 お店の人に尋ねると、
 「鬼の絵の入った額ですか?」
 と、聞かれた。
 私は、中央にある小さな絵には、全く気を止めていなかった。
 「あれは、鬼?」

 「山口県の人?」
 「日原の方?」
 と、<とみ>の母子お二人の記憶は、曖昧そうであった。

 「家に本があります。読まれますか」
 と尋ねられ、借りることになった。
 「ポストへ入れておきますから…」
 とのことであった。
 そして、10日の夕、本とポストカード5枚が、届けられた。

         ポストカード(5枚のうちの3枚)と本 
      

 翌11日、しの武著 『もう、なげかない』 を読んだ。

 この本 『もう、なげかない』 は、2013年12月1日に、初版が出ている。
 (月刊誌「エデュー」に、2010年12月号~2013年1月号まで連載されたものをもとに、書き下ろしされたもの、とある。)

 著者は、1972年生まれで、まだ若い。
 が、その生い立ちは平坦ではなかった。
 この本は、出生から現在までを、人に語りたくないようなことにも目を背けず、虚飾を排して書かれたものである。
 『もう、なげかない』は、赤裸々な自叙伝である。
 
 ごく平凡に、挫折を挫折とも思わず、のほほんと生きてきた私には、驚きであった。
 不幸をプラスにかえて、このように生きた人もあるのか、と。
 現在は、しっかりした信念と自信に満ちた生き方をなさっているからこそ、この本は書けたともいえるだろう。

 この作者について、私は全く知らなかったが、ご存知の方は多いのかもしれない。
 テレビ出演、講師、<おにの絵展>の開催など、いろいろな場で活躍なさっているという。

 下関市長府には、しの武さんの店「おにの家」があるという。
 私は、この本を読んだ後、しばらくタブレット上で、そのお店を訪問し、たくさんの<おにの絵>と人生訓や名言に出会った。

 考えてみると、<おに>は、誰の心にも、潜んでいる。
 やさしい<おに>より、醜悪な<鬼>が、多いのかもしれない。
 その人が潜ませている<おに>は、それぞれの人柄と無関係ではないだろう。

 <おに>の発想は、面白い。
 作者は若くして<おに>に気づき、描く対象にも、それを選ばれたのだ。

 自伝によれば、著者の人生前半は、確かに紆余曲折があり、不幸せに追っかけられる日々であったようだ。
 にもかかわらず、今の幸せは、どうして得られたのだろう?

 いかなる不幸の中にも、微かな灯(ともしび) は存在する。
 言い換えれば、人生に<僥倖>皆無ということはない。
 彼女は、その<僥倖>を見逃さなかった人である。
 微かな灯を素直に受け止め、心の中で、それを大切に温めることのできた、希有な人である。

 もう一つ、彼女は、独創的な潜在能力に恵まれた方でいらっしゃった。
 その能力を、自らの人生に生かす力にも優れていらっしゃる。
  
 彼女の現在の幸せは、そうした背景があって、築かれたものだろう。
 
 私は、この本から、人の様々な一生に思いを寄せ、また私自身の人生を顧みた。

  ※ 著者は、山口県生まれであり、中3の1年を、日原で過ごしておられる。
    <とみ>の母子が、語っておられたのは、どちらも真である。 
コメント
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