ふと先日読んだばかりの本「空と樹と」(詩文・長田弘 画・日高理恵子)を思い出した。その本に載っていた数々の<空と樹>の風景画を……。
ふと先日読んだばかりの本「空と樹と」(詩文・長田弘 画・日高理恵子)を思い出した。その本に載っていた数々の<空と樹>の風景画を……。
名前を尋ねると、「スターフルーツ」とのこと。(写真 21日)
実を輪切りにすると、まるでお星様のような形になるところから名づけられたらしい。
まだ幼木で、花も実も見たことがない。
今は、葉の美しさ、愛らしさを愛でるのみ。
一昨日、草花舎へ行くと、Yさんから、
「あれはヤブジラミではないと思う」
と、言われた。
私も、ヤブジラミにしては、少々しつこ過ぎると思ってはいた。一度くっ付いたら、もう二度と離れません、といった絡まり方だったのだ。取り外しには随分苦労した。少々な数ではなかったので。
コーヒーを飲みながら、草花舎の棚から草花の本を取り出して読んでいると、思いもかけず、この前見たのと似た実をつけた植物が目に留まった。
「アメリカセンダングサ」とある。
<鉤状の刺があり、容易に衣服にくっ付く>とも書いてあった。
私は、早速、Yさんに、この植物ではあるまいかと、本のページを指し示した。
多分、アメリカセンダングサだろうということになった。
まだ実が残っているだろうかと、アケビの木の下にいってみた。三つなっていたアケビは色あせ、一つだけ残っていた。
その下に、先日、スカートにくっ付いた草の実を見つけることができた。こちらも、数日の間に、すっかり末枯れていた。(写真 緑の葉の前側にある実)
帰宅後、インターネットで、「アメリカセンダングサ」を調べていると、<ひっつき虫>という項目でまとめられたブログを見つけた。なるほどと、教えられることが書いてあった。
<ひっつき虫>の前置きとして、次のように記されていた。
「果実の表面に鉤毛などを持ち、動物の毛や人間の衣服にひっついて散布される種子があります。これらの仲間の種子散布形式は「動物散布」と呼ばれます。これらの植物は、冬になっても種子を散布せず、茎の先端などにつけたまま、動物が通りかかるのを待ちかまえています。残念ながら動物に付着することが出来ない場合には、春になって茎の根元が腐敗することによって、ようやく地面に散布されます。」
その種類として、
1.センダングサの仲間
(アメリカセンダングサ・センダングサ・コセンダングサ・コノシロセンダングサ)
2.オナモミの仲間(オオオナモミ)
3.ヤブジラミの仲間(オオヤブジラミ・ヤブジラミ)
4.イネ科のひっつき虫(コチヂミザサ・ケチヂミザサ・チカラシバ)(ノブキ)
5.そのほかのひっつき虫
(ヒナタイノコズチ・イノコズチ・ハエドクソウ・アレチヌスビトハギ)
などの名前が挙げてあった。
聞き覚えのある名前、初めて耳にする名前、いろいろだが、野道を歩くとき、今後は気をつけることにしよう。
アメリカセンダングサの花にも気をつけてみたい。可愛い花らしい。
先日(21日)、草花舎へ出かけた。
昼食をいただくために。
カレーライスの後、デザートに<熟柿入りチーズケーキ>をご馳走になった。
草花舎の庭で取れた熟柿を使った、Yさん手製のケーキである。
熟柿入りと聞かなかったら、そうと分からなかったかもしれない。が、見ると、ケーキの中に熟柿の赤色が潜んでいた。とろけるようにほっかりと柔らかく、上品な味の、美味しいケーキだった。(写真)
Yさんは芸術専攻の方である上に、元来センスもいい。盛り付け一つにも、細やかな神経が感じられ、お皿の上に小さな芸術を感じる。
話は違うが、先週、草花舎に行ったとき、Yさんから<野菜スープの作り方>を教わった。材料中、大根の葉の入手が難しいと話したところ、Yさんはご自分用の大根とその葉を分けてくださった。スープの味見にと、Yさんの作られたスープも小瓶に入れていただいた。
早速、お店で乾燥椎茸や牛蒡を買ってきて、私も作ってみた。
目に見えた効用はまだないが、身体に悪いはずはないと思っている。ただ、怠け者の私に何時まで続けられるかが問題だ。かつて、黒大豆の煮汁が高血圧症にいいと聞いて、それでも二、三か月は続けただろうか。途中で飽きてしまった。現在も、使い残しの黒大豆が、戸棚に入ったままである。
Yさんからいただいた<野菜スープの作り方>のメモ用紙をなくさないうちに、ここにメモを止めておこう。これはよさそうだと、試みてみようと思われる人があるかもしれない。その参考に。
① 大根 四分の一本
② 大根の葉 四分に一
③ 人参 二分の一本
④ 牛蒡 四分の一本
⑤ 乾燥椎茸 (天日ぼし) 一~二個
①~⑤を大きめに切り、ステンレスの鍋に入れ、かさの三倍の水で煮る。
一~二時間くらい。
濾して保存する。
保存はガラス瓶で――。
昨日、近所の畑作りをされる方から、葉付きの大根が届いた。
私が大根の葉を欲しがっていると、Yさんから話を聞いた、と。
今朝、三度目の野菜スープを作った。作ったスープは美味しくいただいている。黒豆の煮汁よりずっと飲みやすい。
昔はよく、「健全なる精神は健全なる身体に宿る」と聞かされた。
『故事 ことわざの辞典』によると、
<からだが健康であれば、精神もそれに伴って健康である。ローマの詩人ユウェナーリスの「風刺詩」から出たことば。詩中の本来の意味は、「健全なる身体に健全なる精神があるように祈るべきである」というもの。>
と、記してある。
本来の詩句の意味とは無関係に、その一部が独り歩きした言葉であることを、先刻、辞典を読んで初めて知った。
私は、最近の世の中を振り返って、身体が健全であっても、健全な精神を宿しえない社会的な状況があるのでは、と考えている。私個人の心身を省みても、健全な体以上に、健全な心を保持することの方が、ずっと困難なように感じる。
その困難な精神の健全こそが、まずは肝心なような気がしている。
精神が健全であることによって、身体の真の健全を保つことが可能なのではないか、とさえ思えるのだ。
ことわざの逆、また真なり、と。
「健全なる精神に健全な身体は宿る」と。
健康であるために、野菜スープを飲んでみたり、その他、随分気を使って栄養剤を補給したりしているが、身体の健全を保つ最高の方途は、精神の健全(心穏やかであること)に勝るものはないような気がする。
精神を健全に保つ方が先決であるのに、それが大変難しい。
ことわざのように、身体が健全であれば、ひとりでに心の健全を保てるものではなさそうだ。それほど、精神の持ち方は簡単ではない気がする。特に現代社会においては。
(書いているうちに、頭の中がごちゃごちゃしてきて、果たしてこの文章は、筋道が通っているのかどうか、怪しくなってきた。また。後日読み返して訂正することになるかもしれない。)