今日の知的感動は、白隠の人と絵に接したことだった。
白隠(1685~1768)は、江戸中期の臨済宗の僧。
自ら、厳しく禅の思想を究めると同時に、禅の民衆化に貢献した人でもあるようだ。
「知るを楽しむ この人この世界」<ギョッとする江戸絵画>の三人目として登場する白隠は、<「自己流」の迫力>という題で取り上げられている。
白隠の描いた絵は、禅画と呼ばれるもののようだ。
達磨の像がたくさん描かれている。大目玉の迫力のある顔が多い。布教のための方便として描かれた絵も多いようだ。民衆を大切にした白隠ならではのこと。
絵は自己流だったようだが、なかなか迫真力がある。白隠の人柄が乗り移ったような絵ばかりだ。特に達磨の絵には、それが顕著である。自画像にも。
趣を異にするものには、「出山釈迦像」や「蛤観音像」がある。
前者には、憔悴しきって山を下る釈迦の顔が描かれ、悟りにいたる前の、まだ悟りの境地に立てない苦悩の表情が描かれている。白隠自らが修行に励みながら、禅の悟りに至れなかった当時の自分を重ねているのかもしれない。
後者には、独特なユーモアのセンスが感じられる。中央に大きく、蛤から生れた観音様が描かれ、それを取り巻くようにして、下方には、様々な魚介類が面白い表情で描かれているのだ。
技巧にとらわれることなく、むしろ技巧を捨て、見方によっては随分素人くさいけれど、その素人画に徹したところに、白隠の白隠らしい特色があるようだ。達磨像を描く線には、天衣無縫の面白ささえ感じた。
優れた禅僧でありながら、在野精神に徹した生き方が、魅力的である。
沼津市にある松蔭寺は、別名、白隠寺とも呼ばれ、白隠の絵が多数保存されているという。
(添付写真の花は、タデ科の植物? 道路脇の少々高手に、群生していた。)
葛の花が咲き始めたのは、秋の七草では早い方だった。
いまだに衰えを知らず、木々に絡まったり、草原を覆ったりして、花盛りである。
歩いていて、在り処に気づくのは、香りによる場合が多い。以前は花に近寄って、その香を嗅ぐことが多かったのだが、今年はただ歩いていても、芳香が嗅覚を刺激する。見上げると、沢山の花が次々に咲いている、といった具合である。
道の端に吹きたまった落花の花びら(過日のブログにも書いた)の多いことにも、今年初めて気づいたのである。しかも、花吹雪同様、落花の花びらは、美しい色を保っている。
葛の花の多さは、今年の特別な現象なのか、毎年そうなのか?
来年の秋を待って確かめるしかない……。
最近、花や落花の花びらの多さを見ながら、新たな疑問を抱いた。
釈迢空の有名な歌、
<葛の花 踏みしだかれて 色あたらし。 この山道を行きし人あり>
という歌の中の、踏みしだかれて色が鮮やかなのは、あるいは、落花した花びらだったのだろうか、と。
今までは、釈迢空が自分より前に、山に分け入った人のあるらしい気配を、踏みしだかれた花穂を見て感じたのだとばかり思っていたのだが……。
花穂か、花びらか、と考えさせるほど、花びらが道野辺に多いのだ。
いまひとつ、最近、疑問に思っていることがある。それは花穂の構造についてである。葛の花は花穂の先端まで、花が咲ききるのかどうか?
私の観察では、いまだ、花が先端まで咲き上る姿を確認できないでいる。
房の先端部分は、花の蕾とは異なるものなのだろうか?(写真)
世の中には、もっと真剣に考えなくてはならないことが多いのに、私は、日常身辺の瑣末なことに気を取られてばかりである。
いまだに衰えを知らず、木々に絡まったり、草原を覆ったりして、花盛りである。
歩いていて、在り処に気づくのは、香りによる場合が多い。以前は花に近寄って、その香を嗅ぐことが多かったのだが、今年はただ歩いていても、芳香が嗅覚を刺激する。見上げると、沢山の花が次々に咲いている、といった具合である。
道の端に吹きたまった落花の花びら(過日のブログにも書いた)の多いことにも、今年初めて気づいたのである。しかも、花吹雪同様、落花の花びらは、美しい色を保っている。
葛の花の多さは、今年の特別な現象なのか、毎年そうなのか?
来年の秋を待って確かめるしかない……。
最近、花や落花の花びらの多さを見ながら、新たな疑問を抱いた。
釈迢空の有名な歌、
<葛の花 踏みしだかれて 色あたらし。 この山道を行きし人あり>
という歌の中の、踏みしだかれて色が鮮やかなのは、あるいは、落花した花びらだったのだろうか、と。
今までは、釈迢空が自分より前に、山に分け入った人のあるらしい気配を、踏みしだかれた花穂を見て感じたのだとばかり思っていたのだが……。
花穂か、花びらか、と考えさせるほど、花びらが道野辺に多いのだ。
いまひとつ、最近、疑問に思っていることがある。それは花穂の構造についてである。葛の花は花穂の先端まで、花が咲ききるのかどうか?
私の観察では、いまだ、花が先端まで咲き上る姿を確認できないでいる。
房の先端部分は、花の蕾とは異なるものなのだろうか?(写真)
世の中には、もっと真剣に考えなくてはならないことが多いのに、私は、日常身辺の瑣末なことに気を取られてばかりである。
散歩で通る道端の畑から、紫蘇の香が漂ってきた。
見ると、青紫蘇と赤紫蘇が並んで植えられ、それぞれ花穂をつけていた。(写真)
紫蘇の<蘇>は、蘇るという字だ。
確かに、紫蘇の実は風味がよく、食欲を増進させ、身体を蘇らせてくれる食材と言えそうだ。
見ると、青紫蘇と赤紫蘇が並んで植えられ、それぞれ花穂をつけていた。(写真)
紫蘇の<蘇>は、蘇るという字だ。
確かに、紫蘇の実は風味がよく、食欲を増進させ、身体を蘇らせてくれる食材と言えそうだ。
Oさん宅の庭で、山椒の実を初めて見て、大いに感心しながら、他の木を覗き込んでいると、今度は薄緑色の大きな実を見つけた。(写真)
あれは何かと尋ねると、「ボケの実」とのこと。私は可憐な花しか知らなかった。
「こんなに大きな実がなるのですか?!」
と言いつつ、しげしげ眺めた。
辞書で調べたところ、<リンゴに似た硬い果実を結ぶ。>とあった。
また、歳時記には、<果実の切り口が瓜に似ているところからこの名がついた。果実酒などにもなり用途は広い。>と記されていた。
そう言えば、<ボケ>は<木瓜>と書く。
瓜に似るという果実の中を覗いてみたくなった。
先日、知人のOさん宅を訪ねたとき、庭に赤い実をたわわにつけた木があった。(写真)
木の名を尋ねると、「山椒」とのこと。
言われてみれば、緑の濃い、長けた葉には、山椒の若芽の面影がある。
山椒には、こんな実がなるのかと、初めて知った。
<山椒は小粒でもぴりりと辛い>という言葉は知っていても、実際に実を見たことはなかったのだ。この赤い実が裂けて、黒い種子が出てくるとは!
佃煮などに使われる青山椒の実や粉山椒のことは、実際、食して分かっているのに、奇妙な話だが、私は、木の芽和えに使う、あの若芽の山椒とは、無意識のうちに別物のように思っていたのかもしれない(?)。
生半可にしかものを知らない場合、バラバラの事実を統合できないまま、矛盾を感じることもなく、意外と平気らしい。
食生活に大いに関わりのある山椒の実について、無知だったことを恥じながらも、改めて知った喜びは大きい。
私の家の裏にも、山椒の小木がある。
妹に小さな苗木をもらって植えたのが、年々丈を伸ばしている。しかし、花が咲き、実がなるには、相当な歳月を要するだろう。
妹の家の山椒も実をつけるのだろうかと、電話で尋ねてみた。古木だが、花も咲かず、実もならないそうだ。どういうことなのだろう?
大きくなれば、みな実をつけるとは限らないのだろうか。
今度、Oさん宅にお邪魔するときには、赤い実をひとつもらって、その中に潜む小粒の黒い実を、自分の目で確かめてみることにしよう。
木の名を尋ねると、「山椒」とのこと。
言われてみれば、緑の濃い、長けた葉には、山椒の若芽の面影がある。
山椒には、こんな実がなるのかと、初めて知った。
<山椒は小粒でもぴりりと辛い>という言葉は知っていても、実際に実を見たことはなかったのだ。この赤い実が裂けて、黒い種子が出てくるとは!
佃煮などに使われる青山椒の実や粉山椒のことは、実際、食して分かっているのに、奇妙な話だが、私は、木の芽和えに使う、あの若芽の山椒とは、無意識のうちに別物のように思っていたのかもしれない(?)。
生半可にしかものを知らない場合、バラバラの事実を統合できないまま、矛盾を感じることもなく、意外と平気らしい。
食生活に大いに関わりのある山椒の実について、無知だったことを恥じながらも、改めて知った喜びは大きい。
私の家の裏にも、山椒の小木がある。
妹に小さな苗木をもらって植えたのが、年々丈を伸ばしている。しかし、花が咲き、実がなるには、相当な歳月を要するだろう。
妹の家の山椒も実をつけるのだろうかと、電話で尋ねてみた。古木だが、花も咲かず、実もならないそうだ。どういうことなのだろう?
大きくなれば、みな実をつけるとは限らないのだろうか。
今度、Oさん宅にお邪魔するときには、赤い実をひとつもらって、その中に潜む小粒の黒い実を、自分の目で確かめてみることにしよう。