ぶらぶら人生

心の呟き

絵画 <白隠>の世界 その人と絵 (補 タデ科の植物?)

2007-09-19 | 身辺雑記

 今日の知的感動は、白隠の人と絵に接したことだった。
 白隠(1685~1768)は、江戸中期の臨済宗の僧。
 自ら、厳しく禅の思想を究めると同時に、禅の民衆化に貢献した人でもあるようだ。

 「知るを楽しむ この人この世界」<ギョッとする江戸絵画>の三人目として登場する白隠は、<「自己流」の迫力>という題で取り上げられている。
 白隠の描いた絵は、禅画と呼ばれるもののようだ。
 達磨の像がたくさん描かれている。大目玉の迫力のある顔が多い。布教のための方便として描かれた絵も多いようだ。民衆を大切にした白隠ならではのこと。
 絵は自己流だったようだが、なかなか迫真力がある。白隠の人柄が乗り移ったような絵ばかりだ。特に達磨の絵には、それが顕著である。自画像にも。
 趣を異にするものには、「出山釈迦像」や「蛤観音像」がある。
 前者には、憔悴しきって山を下る釈迦の顔が描かれ、悟りにいたる前の、まだ悟りの境地に立てない苦悩の表情が描かれている。白隠自らが修行に励みながら、禅の悟りに至れなかった当時の自分を重ねているのかもしれない。
 後者には、独特なユーモアのセンスが感じられる。中央に大きく、蛤から生れた観音様が描かれ、それを取り巻くようにして、下方には、様々な魚介類が面白い表情で描かれているのだ。

 技巧にとらわれることなく、むしろ技巧を捨て、見方によっては随分素人くさいけれど、その素人画に徹したところに、白隠の白隠らしい特色があるようだ。達磨像を描く線には、天衣無縫の面白ささえ感じた。

 優れた禅僧でありながら、在野精神に徹した生き方が、魅力的である。
 沼津市にある松蔭寺は、別名、白隠寺とも呼ばれ、白隠の絵が多数保存されているという。

 (添付写真の花は、タデ科の植物? 道路脇の少々高手に、群生していた。)

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花期の長い葛の花

2007-09-19 | 散歩道
 葛の花が咲き始めたのは、秋の七草では早い方だった。
 いまだに衰えを知らず、木々に絡まったり、草原を覆ったりして、花盛りである。
 歩いていて、在り処に気づくのは、香りによる場合が多い。以前は花に近寄って、その香を嗅ぐことが多かったのだが、今年はただ歩いていても、芳香が嗅覚を刺激する。見上げると、沢山の花が次々に咲いている、といった具合である。
 道の端に吹きたまった落花の花びら(過日のブログにも書いた)の多いことにも、今年初めて気づいたのである。しかも、花吹雪同様、落花の花びらは、美しい色を保っている。
 葛の花の多さは、今年の特別な現象なのか、毎年そうなのか?
 来年の秋を待って確かめるしかない……。

 最近、花や落花の花びらの多さを見ながら、新たな疑問を抱いた。
 釈迢空の有名な歌、
 <葛の花 踏みしだかれて 色あたらし。 この山道を行きし人あり>
 という歌の中の、踏みしだかれて色が鮮やかなのは、あるいは、落花した花びらだったのだろうか、と。
 今までは、釈迢空が自分より前に、山に分け入った人のあるらしい気配を、踏みしだかれた花穂を見て感じたのだとばかり思っていたのだが……。
 花穂か、花びらか、と考えさせるほど、花びらが道野辺に多いのだ。

 いまひとつ、最近、疑問に思っていることがある。それは花穂の構造についてである。葛の花は花穂の先端まで、花が咲ききるのかどうか? 
 私の観察では、いまだ、花が先端まで咲き上る姿を確認できないでいる。
 房の先端部分は、花の蕾とは異なるものなのだろうか?(写真)
 
 世の中には、もっと真剣に考えなくてはならないことが多いのに、私は、日常身辺の瑣末なことに気を取られてばかりである。
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青紫蘇・赤紫蘇の花

2007-09-19 | 散歩道
 散歩で通る道端の畑から、紫蘇の香が漂ってきた。
 見ると、青紫蘇と赤紫蘇が並んで植えられ、それぞれ花穂をつけていた。(写真)
 紫蘇の<蘇>は、蘇るという字だ。
 確かに、紫蘇の実は風味がよく、食欲を増進させ、身体を蘇らせてくれる食材と言えそうだ。
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ボケの実

2007-09-19 | 身辺雑記

 Oさん宅の庭で、山椒の実を初めて見て、大いに感心しながら、他の木を覗き込んでいると、今度は薄緑色の大きな実を見つけた。(写真)
 あれは何かと尋ねると、「ボケの実」とのこと。私は可憐な花しか知らなかった。
 「こんなに大きな実がなるのですか?!」
 と言いつつ、しげしげ眺めた。
 辞書で調べたところ、<リンゴに似た硬い果実を結ぶ。>とあった。
 また、歳時記には、<果実の切り口が瓜に似ているところからこの名がついた。果実酒などにもなり用途は広い。>と記されていた。
 そう言えば、<ボケ>は<木瓜>と書く。
 瓜に似るという果実の中を覗いてみたくなった。

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山椒の実

2007-09-19 | 身辺雑記
 先日、知人のOさん宅を訪ねたとき、庭に赤い実をたわわにつけた木があった。(写真)
 木の名を尋ねると、「山椒」とのこと。
 言われてみれば、緑の濃い、長けた葉には、山椒の若芽の面影がある。
 山椒には、こんな実がなるのかと、初めて知った。
 <山椒は小粒でもぴりりと辛い>という言葉は知っていても、実際に実を見たことはなかったのだ。この赤い実が裂けて、黒い種子が出てくるとは!
 佃煮などに使われる青山椒の実や粉山椒のことは、実際、食して分かっているのに、奇妙な話だが、私は、木の芽和えに使う、あの若芽の山椒とは、無意識のうちに別物のように思っていたのかもしれない(?)。
 生半可にしかものを知らない場合、バラバラの事実を統合できないまま、矛盾を感じることもなく、意外と平気らしい。
 食生活に大いに関わりのある山椒の実について、無知だったことを恥じながらも、改めて知った喜びは大きい。
 
 私の家の裏にも、山椒の小木がある。
 妹に小さな苗木をもらって植えたのが、年々丈を伸ばしている。しかし、花が咲き、実がなるには、相当な歳月を要するだろう。
 妹の家の山椒も実をつけるのだろうかと、電話で尋ねてみた。古木だが、花も咲かず、実もならないそうだ。どういうことなのだろう?
 大きくなれば、みな実をつけるとは限らないのだろうか。

 今度、Oさん宅にお邪魔するときには、赤い実をひとつもらって、その中に潜む小粒の黒い実を、自分の目で確かめてみることにしよう。
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