亡国の坂道

日蓮大聖人の云く、「仏法漸く転動しければ世間も又濁乱せり、仏法は体の如し、世間は影の如し、体曲がれば影斜めなり」と。

同じ邪義を繰り返す坊主と顕正会の誤り

2017年07月17日 05時04分21秒 | 亡国の坂道 
元々本ブログは、富士門流すなわち日蓮正宗がニセ戒壇正本堂の建設以来、「摧破異流義孝」誌に垂れ流してきた邪義を粉砕する目的で始めたものです。この度(P.22~24)記載されている内容も、今まで垂れ流してきた邪義の繰り返しでありますが、堂々巡りのような重複した内容に辟易している方も多くいらっしゃるものと思われますが、それは、掲載内容に沿って論を進める関係からやむを得ない事情があります。その辺の事情をご賢察の上、お付き合い頂ければ幸いであります。なお、注意を要する処は赤文字を使用し、破折箇所については、太文字で表記し、それらの間違いを破折することにしました。

ーーーー浅井昭衛一派の妄説を摧くーーーー

                             昭和六十三年十月『暁鐘』別冊号

      摧破異流義孝

はじめに

宗祖大聖人は、『三大秘法抄』に、「所説の要言の法とは何物ぞや。(中略)実相証得の当初修行し給う処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」(御書1553ページ)

「此の三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として、日蓮慥かに教主大覚世尊より口決せし相承なり

原文は「口決相承せしなり」となっています。可笑しな日本語ですね。御書全集・平成新書が間違っています。坊さん、しっかりしなさい。

今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に介爾計りの相違なき、色も替わらぬ寿量品の事の三大事なり」(御書1595ページ)と仰せられ、三大秘法(本門の本尊と戒壇と題目)が久遠(実相証得のと当初)より常住する法であること、そして、それは大聖人の御一身即本門の本尊の御当体に具備することをお示しである。ゆえに、我が日蓮正宗においては、古来、本門の本尊なかんずく宗祖出世の御本懐たる弘安二年の大御本尊を、「三秘総在」とも「一大秘法」とも申し上げ、信仰の根本として尊崇申し上げているのである。しかるに、浅井昭衛なる増上慢の一在家が(昭和四十九年に日蓮正宗より破門)率いる一派が、この三大秘法総在の深義を弁えず、御先師日達上人・御当代日顕上人猊下の戒壇に関する御指南に異議をはさみ、宗門を誹謗中傷し続けている。彼らの邪義・主張は、すでに日達上人の御代に様々な角度から破されており、付け加えるべき何物もないのであるが、哀れ、彼らの末端は浅井から全てを知らされておらず、浅井らに煽動されるまま、目の色を変えて会員増やしに狂奔しているのが現状である。について

坊主らは、「彼らの邪義・主張は、すでに日達上人の御代に様々な角度から破されており、付け加えるべき何物もないのであるが、等とまことに威勢の良いことを書き連ねていますが果たしてそうなのか、それでは拙者がここで坊主らの重複する邪義を破折することにします。

御本仏日蓮大聖人様の嫡流を誇る日蓮正宗は立宗より七百年の間、宗旨の根本教義であるところの三大秘法の「戒壇義」は、広宣流布の暁に勅宣・御教書を賜わり、富士山天母ヶ原に建立される国立戒壇を、唯一「事の戒壇」と称してきたのであります。ながい歴史の中で、さまざまな法難の風雪に耐えながらも一点の濁りもなく、国立戒壇思想は、清く正しく連綿と伝持されてきました。

ところが、第六十六代目の貫首職を継いだ日達管長の時代になると、日蓮正宗最大の信徒団体であった創価学会の政治進出が発端となり、世間の国立戒壇に対する非難・中傷を和らげる目的から、三大秘法の戒壇義がとんでもない形に歪曲される事になったのであります。すなわち、「戒壇の御本尊のまします所は、いつでも、何処でも、事の戒壇」という邪義であります。

富士門流不世出の中興の祖として仰がれている彼の日寛上人云く、「義理の戒壇とは、本門の本尊の所住の処、即ちこれ義理・事の戒壇にあたるなり。・・・・故に当山は本門戒壇の霊地なり」(法華取要抄文段)と、御教示であります。日寛上人は、義理として事の戒壇、即ち、広宣流布が達成されるまでの間、戒壇の御本尊様のおわします所は、「義の戒壇」と御教示なのであります。

この御教示を受けて、第五十九世日亨上人は、「唯一の国立戒壇、すなわち大本門寺の本門戒壇の一ヶ所だけが事の戒壇でありて、その事は将来に属する。」(富士日興上人詳伝)と仰せであります。

かつての日達上人も、宗門古来の戒壇義の伝承にしたがって、次のような正論を展開していたのであります。

云く、「広宣流布を待ってはじめて本門寺建立、戒壇の大御本尊を安置し奉って事の戒壇建立という事になるのでございます。それまでは戒壇の大御本尊をおしまい申し固く護る。先師方が客殿の後(うしろ)の奥深くに戒壇の御本尊をお護り申すという事を仰せられて居ります。我が本山の先師方のこれが心でございまして、客殿の後に奥深く戒壇の御本尊を蔵し奉る、しまっておく、広宣流布の暁までしまっておくということになる。---- 戒壇の御本尊はどこまでも蔵の中にあるのでございます。ーーーーお出ましは、先ほどから申す所の、いはゆる広宣流布の暁である」(大日蓮 昭和34年9月号)と。

つづけて云く、「真の世界平和は国立戒壇の建設にありと確信して、本年も益々折伏行に徹底邁進されんことを願うものであります。」(大日蓮 昭和35年1月号)と。

また云く、「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は広宣流布の時の国立の戒壇であります。」(大日蓮 昭和36年5月号)と。

ところが日達管長は、信徒団体の創価学会が施す身に余る奢侈に溺れて、昭和47年10月12日の完成を目指して、総本山の境内のはずれに建設することになった、ニセ戒壇正本堂を指して、この建物が広宣流布の「事の戒壇」などという邪義を吹聴し、前代未聞の、とんでもない邪義が広く宣伝されることとなったのであります。

云く、「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります。」(大白蓮華 201号)と。

富士門流七百年の間、今まで聞いたこともない、こうした、「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布」あるいは、「戒壇の御本尊まします所は、いつでも、何処でも、事の戒壇」という邪義に異を唱え、清浄の聖地が大謗法のキリスト教神父の土足で汚され、曲り往く宗門の教義歪曲を糺そうと、身を捨てて大聖人様の御本願たる国立戒壇の御遺命守護に立ち上がったのが、浅井甚兵衛氏の率いる妙信講だったのであります。当時妙信講の本部長を務めていた浅井昭衛氏は、昭和45年3月25日付けで、第一回諫暁書として、「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を著わし、日達管長はじめ、創価学会首脳12人に送付したのであります。

それに驚いた日達管長は4月3日、さっそく妙信講の浅井甚兵衛講頭、浅井昭衛本部長の二人を本山の対面所に招き入れ、緊張のあまり苦笑いともつかない浮かぬ顔を引き攣らせて、諫暁書を片手にかざしながら席に着くやいなや、開口一番次のような発言をしているのであります。以下「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」を引用

日達管長、「よく書けていますね~、誰にもこうは書けないでしょう。この本は宗開両祖の仰せのまま、宗門七百年の伝統のままです。一分の誤りもありません。」

日達管長、「この中の引用の先師の『御宝蔵説法』は日応上人のものですね。あれには略されている部分がある。これがその原本です。大事なものだから人に見せるべきものではないが、この中に、戒壇の御本尊まします所は、『事の戒壇』とあるのです。」

浅井、「甚だしい非礼僭越とは思ったが、ことは重大である。私は敢えて、『お見せいたでかますか』と願い出た。」

浅井、「猊下は、『大事なものだから全部は見せられないが』と、前後の文を両手で隠しつつ、その部分だけを見せて読み上げられた。」さすがに日達管長、やる事が卑劣、せこいですね~

日達管長、「『大御本尊いま眼前に当山に在す事なれば、此の所即ち是れ本門事の戒壇、真の霊山・事の寂光土』とあるでしょう。だから、戒壇の大御本尊まします所は御宝蔵であれ、奉安殿であれ、また正本堂であれ、事の戒壇といっていいのです。」

浅井、「『原本』といって示された毛筆の本は、日応上人の御筆跡ではなかった。いずれにしても、文の全体を拝見しなければ部分の文意はわからない。」

浅井、「本宗では従来、広布の暁に事相に建てられる御遺命戒壇を『事の戒壇』といい、それまで大御本尊のまします御宝蔵・奉安殿を『義の戒壇』と申し上げてきたのではないでしょうか・・・・・」

浅井、「猊下は瞋りの色を面に表し」

日達管長、「あんた、二座の観念文になんてあります。『事の一念三千』とあるでしょう。戒壇の御本尊は事の御本尊です。だから、その御本尊のまします所は事の戒壇なのです。」

浅井、「お言葉ですが、『事の一念三千』の『事』とは、文上脱益の一念三千に対して『事』と仰せられたので、これは法体の上の立て分けかと思われます。したがって、いま戒壇における『事』と『義』の立て分けとは、次元が異なるように思われますが・・・・・」

日達管長、「いや、ここに書かれているように、大御本尊まします所は、いつでもどこでも事の戒壇といっていいのです。」

浅井、「怒気を含む強い調子で、同じ言葉を繰り返された。」

浅井「『しかし、いつでも、どこでも事の戒壇』となれば、御遺命の戒壇と正本堂の区別がつかなくなる。最も重大な核心はここにある。私は詰めてお伺いした。」

浅井、「では、『御遺命の事の戒壇』はどうなるのでしょうか。正本堂は果たして三大秘法抄・一期弘法抄に御遺命された事の戒壇なのでしょうか。」

浅井、「猊下は困惑の色を示してしばしば沈黙されたが、やがて意を決したように『広宣流布の時の戒壇は国立ですよ』と明確に云われた。」

浅井、「重ねて念を押させて頂いた。」「では、正本堂は御遺命の戒壇ではないのですね。」

日達管長、「正本堂は最終の戒壇ではありません。広布の時は国立戒壇で、天母山に建てられるのです。だから私は正本堂について『須弥壇の形にする』と説法したのです。」

浅井、「やはりこれが細井管長の本心であった。だが、この本心を宗門で知る者はいない。全信徒は正本堂を御遺命の戒壇と思い込んでいる。私は申し上げた。」

浅井、「猊下の御本意を伺い、こんなに有難いことはございません。しかし学会員も法華講員も、まだ正本堂を御遺命の戒壇と思いこんでおりますが、これはいかがしたら・・・・・」

日達管長、「いや、私から間違わぬよう、よく伝えておきます。」

軽いですね~、そんなに簡単にやす請負なさって、大丈夫なんですか~、いずれにしても、日達管長が日応上人の毛筆の御宝蔵説法本として、両手で文言の大切な所を隠しながら浅井氏に見せたお書き物は、第六十世日開上人(日顕管長の父)の毛筆による御宝蔵説法本だったのでありますが、それには、「御遺状の如く、事の広宣流布の時、勅宣・御教書を賜わり、本門戒壇建立の勝地は当国富士山なること疑いなし。又其の戒壇堂に安置し奉る大御本尊今眼前に当山に在す事なれば、此の所即ち是れ本門事の戒壇・真の霊山・事の寂光土にして、若し此の霊場に一度も詣でん輩は無始の罪障忽ちに消滅して三業の悪転じて三徳を成ぜん」云々と。南条抄の御文を引用された一節が記されてあったのでありますが、日達管長は、傍線の所を両手で隠して浅井氏に見せていたのであります。

すなわちに日開上人の御意は、広宣流布の暁に天皇陛下から勅宣を賜わり、御教書を申し下して、富士山天母ヶ原に建立される国立戒壇を大前提として、その戒壇の大御本尊様が、今眼前におわしますからには、未だ国立戒壇は建立されていなくても、そこへ参詣する者の功徳は、天母ヶ原の事の戒壇に詣でた時の功徳と全く同じである事を、「此の所即ち是れ本門事の戒壇」と仰せられたのであって、戒壇の大御本尊のおわします所が、直ちに、事の戒壇と仰せられたものではないのであります。

日達管長と浅井氏は4月3日、上記のようなやり取りをした時、浅井氏の正論にねじ伏せられ、邪義を完全に粉砕されているのであります。面談の席で教義歪曲を浅井氏から指摘されて、「いや、私から間違わぬよう、よく伝えておきます。」などと他人ごとのような軽い言葉を返して体裁を繕っていますが、邪義の元凶は日達管長その人だったのであります。あの時、邪義を粉砕された無念の怨みを晴すつもりか、その舌の根も乾かぬうちに、日達管長は、法華講の青年部員をあつめて、国立戒壇と浅井昭衛氏をあしざまに罵った文章を読み上げながら、陰にかくれて浅井氏の悪口を並べ立てていたのであります。

云く、「浅井昭衛は、法主である私の名前を利用し、〝私が浅井親子だけに内意を打ち明けた〟などと宣伝しておるのであります。云うなれば、私がうその訓諭や説法をして全世界の人々をあざむいているということになっています。何も知らない人達を〝国立戒壇こそ法主の内意である〟などとあざむくことは、卑劣この上ないやり方であり、ことは私の名誉にもかかることであり、放置しておけば、宗門のみならず世間までも騒がせる結果になりかねませんので、私は断固措置をとります。」(大日蓮 昭和50年9月号)などと。

断固措置をとる筈の話は口先だけで、その後再び法華講の青年部をあつめて、「大聖人の教えが国立戒壇ならば、その人は世間に向かって言えばいいのです。新しく宗旨を建て、国立戒壇宗というものを建てたんだといって、世間をどんどん折伏して広げて下されば結構だと思います」等と云って、半分投げやりな話に終わっているのであります。

猊座に登られた直後の正論は、次のように変貌したのであります。云く、「国教でもない宗教に国立戒壇なんてあり得ない。」(創価学会第33回本部総会)等と。

また云く、「此の正本堂が完成した時は、大聖人の教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華 201号)と。

追従して阿部教学部長云く、「宗祖大聖人の御遺命である正法広布・事の戒壇建立は、御本懐成就より六百八十数年を経て、現法主日達上人と仏法守護の頭領・総講頭池田先生により、始めてその実現の大洸明を顕わさんとしている」(大日蓮 昭和42年11月号)と。

つづけて云く、「戒壇の本尊のおわします所、直ちに事の戒壇である」(本門事の戒壇の本義 昭和51年2月刊行)と。

此処で坊主らがいう、「三大秘法総在の深義を弁えず」とは、何の事はありません。一大秘法の本門戒壇の大御本尊様を三秘・六秘と開いた場合の戒壇義は、「事」と「事」の戒壇となり、「義」の戒壇は絶対に存在しないという邪義であります。

また、「彼らの邪義・主張は、すでに日達上人の御代に様々な角度から破されており、付け加えるべき何物もない」などと虚勢を張って勝ち誇っていますが、それは真逆な話で、4月3日の日達管長と浅井昭衛氏のやり取りを見るかぎり、日達管長と阿部教学部長の吹聴する、「御本尊のおわします所は、いつでも、何処でも事の戒壇」という邪義は、完全に破折されてしまったのでありますが、日達管長と阿部教学部長の二人は、ニセ戒壇正本堂の建設にかこつけて、前代未聞の邪義を垂れ流しつづけ、宗門古来の伝統教義を完全に破壊してしまったのであります。

いわゆる、「事の戒壇=富士山天母ヶ原の国立戒壇」を「事の戒壇=大石寺境内のニセ戒壇正本堂」とすりかえてしまったのであります。

阿部教学部長云く、「天母山の問題がありますけれども、かえって天母山でなく、この大石寺でいいんだと、大石寺においてこそ、ここに戒壇を建立すべきであると、いう事が現在、御法主上人猊下の御指南であったわけでございます」(大日蓮 昭和49年8月号)と。

日寛上人云く、「未だ時至らざる故に、直ちに事の戒壇これ無し」(寿量品談義)と仰せになられ、何百年も前から彼等の垂れ流す邪義を前もって破折されているのであります。

まさしくこの頃の日達管長は、浅井昭衛氏に会えば宗門古来の正義を取り戻し、池田に会えば池田の邪義に同調して、進んで邪義を垂れ流すという、まさに風にそよぐ芦のようだったと揶揄されています。

亦あるときは国立戒壇を否定して、悪ガキの捨て台詞のような言辞を垂れ流しているのであります。

云く、「今振り返って我々が戒壇を論ずる時、三大秘法抄・一期弘法抄に云う処の戒壇は、理想の大戒壇である。それは望ましい戒壇である。然し今我々は現実に帰り、この戒壇の御本尊在します所は即ち常寂光・真の霊山であるという深い信念の下に御本尊を信じて行かなければならない。もし、現在この戒壇の御本尊在します所が、事の戒壇でなければ、所詮義の戒壇であるならば、ただ理論上のことだけになってしまう。それならば、何も本山まで尊い時間と金を費やしてお参りする必要はないことになる。もしどうしても三大秘法抄のあの立派な戒壇を望んで、それが最高の戒壇として、そこに於いて成仏を遂げようとするならば、それまで本山にも来なければよろしい。それまで成仏しなければ宜しいし、ただいつ来るか判らない未来の世界に耽っておるよりも、現実の世界に於いて我々は信心の誠を捧げていかなければならない」(大日蓮 昭和45年7月号)と。

上記のような言辞を猊座にあったお方が発せられた言葉とは、とうてい信じがたいのでありますが、拙者は、日達管長の大聖人様に仕え奉る信心を疑いたくなるのであります。それと合わせて当時、宗門には約一千名の僧侶がいたにも拘わらず、日達管長のこうした妄論をたしなめる僧侶はみな口を閉ざし、一人として存在しなかったのは、これまた不思議であります。ついでにいえば、日達管長の教義歪曲と独走を許し、宗門の曲りを止められなかった全ての責任は、僧侶ひとり一人が負わなければならないのでありあす。

日達管長のいう、「現在この戒壇の御本尊在します所が、事の戒壇でなければ、所詮義の戒壇であるならば、ただ理論上のことでけになってしまう。」あるいは、「何も本山まで尊い時間と金を費やしてお参りする必要はないことになる。もしどうしても三大秘法抄のあの立派な戒壇を望んで、それが最高の戒壇として、そこに於いて成仏を遂げようとするならば、それまで本山にも来なければよろしい。それまで成仏しなければ宜しい」とは、いったい誰に向かって、こうしたはしたない下卑た言葉を発しているのでしょうか。

日達管長は、御本仏大聖人様が三大秘法抄で仰せの、「事の戒壇」が単なる「理論上のこと・・・・」等という浅ましい発言をしています。これを黙って聞き流すことができますか! これは嗤うべき没論理であり、詭弁、妄論の最たるものであります。また妙信講はこの時期、国立戒壇を捨てないという理由で、五年間に亘り神聖なご登山が禁止されていたのであります。

謗法与同が極に達した日達管長は、年来の心臓病の悪化が高じて、この年の春頃から近くのフジヤマ病院に入院して治療に専念していたところ、昭和54年7月22日の未明、仏罰の故か、誰もいないところで激烈な発差に見舞われ、七転八倒の苦しみの中に多臓器不全を併発し、あっけなく黄泉の国に旅立ってしまったのでありますが、拙者は信徒のはしくれとして、日達管長の余りにも厳しい臨終の最期に、同情の念を禁じ得ないのであります。願わくば、臨終に至る前に、些かなりとも富士門流の正義を取り戻されて、善き臨終を遂げていただきたかったと思っています。

しかも、厚顔無恥といおうか、日蓮正宗から破門されていながら、なお、日蓮正宗を詐称し、勝手に顕正会などと名乗っている。(※平成八年以降は宗教法人を取得し、「冨士大石寺顕正会」と自称している)ため、構成員のほとんど大半は、この一派がすでに即身成仏の血脈の断絶した、異流義の門外漢と成りはてていることに全く気付いていない。これを、このまま放置すれば、彼らのみならず多くの人達が成仏への道に迷う結果となるは自明である。そこで、これまで浅井一派が当方との誌上法論を逃げている経緯(『暁鐘』昭和五十九年一月号にに詳しい)や、浅井と息子の克衛が苦し紛れの讒言を吹聴している現状(顕正会機関誌「顕正新聞」昭和六十三年九月二十五日号に代表される)を鑑みて、この際、彼らの妄説の根源を一気に摧破すべく、小稿を起こすことにした。なお、この内容の大半は、別段、目新しいものではない。すでに何年も前に『暁鐘』誌上に掲載せる小論等を、何も知らぬ浅井一派の末端会員に、一篇に集め、加筆し、まとめ直したものである。について

話は前後しますが、当時の妙信講は、広宣流布の暁の、「国立戒壇」が、大聖人様の終窮究竟の御本願であることを誰よりも固く信じ奉り、御遺命守護に命を懸けて闘う、富士門流唯一の正しい講中だったのでありますが、ニセ戒壇正本堂も完成し、宗門の邪義が一山を覆い尽くす中で、一人妙信講の存在は、目の上のたんこぶのような邪魔な存在になってきたのであります。宗門は池田の意を受けて、妙信講に何かにつけて陰に陽に様々な嫌がらせや妨害の限りを尽くし、昭和49年8月12日、遂に、講中解散処分を内容証明郵便で通告してきたのであります。

解散宣告書には次のように記されていました。

宣告書 講頭 浅井甚兵衛

「主文、講中解散に処する。右妙信講は、数年来「国立戒壇の名称を使用しない」旨の宗門の公式決定に違反し、更にまた昭和四十七年四月二十八日付「訓諭」に対して異議を唱え、数度に及ぶ宗務院の説得、誡告等にも従わず、かえって宗務院並びに他の信徒に対して非難中傷を加え、機関誌の大量配布、デモ行進などをおこなった。これは、宗門の秩序と統制を乱す行為であり、甚だ許しがたいものである。従って、七月三十一日をもって弁疏の提出を求めたところ、八月七日文書の提出があり、その内容を検討したが、右行為を正当とする理由は見当たらず、また情状酌量の余地も全くないものである。よって、宗規第百六十四条(旧第百六十一条ノ三)の二号の処分事由に該当するものと認め、頭書の如く処分する。」 昭和四十九年八月十二日   日蓮正宗管長 細井 日達

それでは此処で、昭和四十七年四月二十八日に発布された彼の有名な訓諭をお改めて拝見することにします。

云く、「さきに法華講総講頭池田大作発願主となって、宗内僧俗一同の純信の供養により、昭和四十二年総本山に建立の工を起こせる正本堂はここに五箇年を経て、その壮大なる雄姿を顕わし、本年十月落成慶讃の大法要を迎うるに至る。日達、この時に当たって正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす。正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。然れども八百万信徒の護借建立は、未来において更に交布への展開を促進し、正本堂はまさにその達成の実現を象徴するものと云うべし。宗門の緇素よろしく此の意義を体し、僧俗一致和衷協力して落成慶讃に全力を注ぎ、もってその万全を期されんことを」と。

ここで猊下の発せられた訓諭に些かもケチを付けるつもりは毛頭ありませんが、それにしても池田大作に対するリップサービスとは言え、酷い訓諭を垂れたものです。大聖人様が一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄で仰せられる事の戒壇について、「三大秘法抄の意義含む現時おける事の戒壇」とか「未来において更に交布への展開を促進」等とされていますが、「事の戒壇」に「現時」あるいは「未来・・・」とかの区別がある筈はないのであって、何とも掴み所のない矛盾だらけの言辞を並べていますが、どこを探せばニセ戒壇正本堂が、三大秘法抄の意義を含んだ建物だというのでしょうか、広宣流布の暁の本門事の戒壇とは、そんないい加減な曖昧なものではありません。更には、「未だ謗法の徒多きが故に」または「八百万信徒の護借建立」などといった訓諭なるものは、未だ広宣流布は達成していないことを自ら認めた事になっています。

それに恥も外聞もなく、「宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす」等と豪語したものの、ニセ戒壇正本堂は、建築からわずか二十六年にして、跡形もなく解体撤去を余儀なくされているのであります。此処で云う後代の誠証とは、後代の誠の証明という意味になりますが、よくぞこんなデタラメな訓諭を発する事ができたものよと思うばかりでありますが、皮肉にも、鳴りもの入りで建てた正本堂なる建物は、ニセ戒壇であることを、後代の誠証とする羽目になってしまいました。

改めて三大秘法抄の事の戒壇義を拝見する事にします。

「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か、時を待つべきのみ事の戒法と申すは是れなり。三国並びに一閻浮堤の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり」と。

また、「七月三十一日をもって弁疏提出を求めたところ、八月七日文書の提出があり、その内容を検討したが、右行為を正当とする理由は見当たらず、また情状酌量の余地も全くないものである」等としていますが、ここで浅井会長の反論を見ることにします。

云く、「文書配布におよんだことは処分に該当するゆえ、弁疏を提出せよとの通告が来た。『弁疏』とは〝云い分け〟である。御遺命を守護する者が、御遺命を破壊する者に云いわけをする必要がどこにあろう。ゆえに私は『弁疏』のかわりに、宗務当局の無道心を強く責め懺悔訂正を迫る書状送った。これで処分は当然と思っていたところ、この書状を見た早瀬総監・阿部教学部長は細井管長に辞表を提出し、いずくかに姿を消してしまった。御本仏の御遺命に背くことの恐ろしさを、肌身に感じたのであろう」(正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む)と。

「辞表を提出して姿をくらました二人は、密かに有馬温泉に逃げこんで身を隠し、ほとぼりの冷める二週間の間、毎日お湯に浸かって酒を飲み、温泉旅行を楽しんでいたとの事でありますが、二週間もの間毎日お温泉に浸かって酒を楽しんでいれば、坊主頭の彼等は、茹でダコそっくりになっていたものだろう。」と会場を笑わせていました。

解散宣告書を受け取った直後の8月20日、ただならぬ緊張感の中で、妙信講は豊島公会堂において急遽臨時幹部会を開催し、浅井昭衛本部長は次のような、歴史的な宣言をしています。云く、「妙信講は断じて解散せず」と。

「今晩は、ついに大きな山場を迎えました。五月の第十六回総会で御遺命守護を誓い、『徹底してその悪を断ち、国立戒壇を宗門の公論とする』と決意して以来、この事あるをすでに覚悟しておりました。いやこのような事態が出て来なければ妙信講の御奉公は本物ではないとすら思っておりました。『徹底して悪を断つ』には、悪をおもてに出さなければなりません。いよいよそれが出てきたのであります。思えば、講中解散ということは、妙信講にとって死罪を意味する。およそ宗門七百年の歴史において、大聖人の御遺命を正しく守って解散させられた講中がどこにありましょうか。

御遺命を曲げ、キリスト教の神父を正本堂に招いた者はほめられ、条理を尽くし身命も財も抛って法を守る者は死罪に処せられる。まさしく、『末法濁悪の未来』との仰せが、まず正系門家の中に現われてきた、いよいよ広宣流布・国立戒壇建立の日近い前兆であります。へらぬ口のようでありますが、御遺命たる国立戒壇の正義を守って死罪に処せられるなら、これに勝る喜びはないと私は思っております。

だが、妙信講は今の腐った宗務院につくってもらったのではない。昭和三十二年八月三日、先代御法主・日淳上人の命により出発した講中であります。日淳上人は『法華講とは墓檀家のことではない、熱原の伝統を継ぐものである。妙信講は闘う法華講となって御奉公せよ』と講頭先生はじめ数名の幹部を本山に招かれ異例の認証式を行ない、自ら辞令をくだされたのであります。

日淳上人は宗門の将来を憂えておれれた。果たして将来、学会の横暴を押さえられるか、今日の宗門になることを深く憂えておられた。妙信講は宗門のかかる時に身命を賭して御奉公すべく、日淳上人によってつくって頂いた講中でありますれば、このように腐った宗務院の命令においては、妙信講は断じて解散いたしません。」(大拍手)と。

浅井本部長は、当時、一万二千の妙信講員との間で、固い固い約束を取り交わしているのであります。

ところが坊主が指摘するとおり、浅井昭衛氏は昭和57年10月9日、講員との固い約束を一方的に破棄し、突如として妙信講名を、「日蓮正宗顕正会」と教団名を改め、外へ飛び出してしまったのであります。日淳上人から信徒団体として講の認証式まで開いて戴き、「熱原の法華講の命を継ぐ闘う法華講となって御奉公せよ。」との懇請にも似た激励を賜わりながら、その名誉ある立場と、尊い名称をドブに捨てて、事実上妙信講は解散し、僧侶の存在しない新興の在家教団として再出発したのでありますが、浅井本部長の最大の誤りは此処にあったのであります。

浅井本部長は臨時幹部会の席で、「妙信講は断じて解散いたしません」等と、一万二千の講員との間で交わした固い約束は完全に破られ、見事に反故にされたのであります。そればかりか、平成8年1月25日には新しい宗教法人資格を取得し、総幹部会の席上、今度はまたまた、「冨士大石寺顕正会」と再び名称を改めて今日に至っているのでありますが、ほとんどの顕正会員は、内の妙信講員の立場と、外の顕正会員の立場の違いがまるで理解できていないのであります。

現在の顕正会員は、妙信講の延長線上にある存在などと確信し、疑念を持っている者は一人もいないようであります。それは、浅井昭衛氏自身が本気でそう思っているのかも知れませんが、それこそが大きな間違いなのであります。その立場の違いを分かり易く説明するならば、妙信講は宗門の中で名誉ある存在として、また、日蓮正宗の信徒として堂々と信心活動ができたのであります。しかし、別法人を作って外の顕正会員となってしまった以上、彼等はその瞬間から日蓮正宗の信徒ではなくなっているのであります。要するに日蓮正宗とは完全に袂を分かちた、別の宗教法人に所属する存在となってしまったという事であります。

これは僧侶の居ない別の宗教法人組織に所属する事になった者が、別法人の御本尊を拝み、別法人の教義を真似て本流は自分達の方だと騒いでいるようなものです。

思い起こせば、ここに至るまでの妙信講の激闘の歴史を振り返れば、宗門内では次のような事が囁かれ、宗内を二分するような動きさえあったのであります。それは、宗門僧侶の中でも、〝妙信講の言っている事が正しい〟と言いだす者が続々と出てきたのであります。

上記に見るように、ニセ戒壇正本堂以来、日達管長・阿部教学部長他数人を除いて、妙信講と宗門僧侶との関係は、決定的な亀裂はなく、むしろ多くの僧侶が妙信仰の主張を高く評価し、陰ながら妙信講に親しみを持って応援していた僧侶も数多くいたのであります。

その動きを敏感に感じ取った日達管長は、全僧侶を集めて、「僧侶の中で未だ『妙信講のほうが正しい』などと云って、若い者を指導している者があるのは、まことに残念だ。」(大日蓮 昭和51年7月号)などと、日達管長を嘆かせているのであります。

つづけて、「今の若い人達の中には妙信仰の宣伝に染まった人もあると聞いております。また『国立戒壇が正しいのであって、宗門が間違ったんだ』というようなことを云ったというひとのことも聞いております。(そのうような人は)どんどんやめて頂いて妙信講へ行って結構です。妙信講でも僧侶が少ないから募集しているでしょう」(大白法 昭和54年6月16日号)と。

教団名を二度も変えて、冨士大石寺顕正会なる宗教法人を設立して会長職に治まった浅井昭衛氏は、会員の志気を鼓舞する時の常套句として、「広宣流布の暁には、天生ヶ原までの四キロの道のりを顕正会全員で涙の行進をしたい。」あるいは、「広宣流布が成就するの日、全顕正会員は富士大石寺に詣で、全員で、光り輝く御生骨を紅涙の中に拝見させて頂こうではありませんか。」(平成28年4月25日顕正新聞)などと叫んでおられますが、果たしてそんな事が可能なのでしょうか? 浅井会長はなにか、大きな勘違いをなされているのではないでしょうか。

拙者は何も数の事を言っているのではありません。そもそも日蓮正宗の信徒でなくなった他門流の者が、御生骨を拝観したり、大石寺に詣でることが可能なのか、何か、悪い夢でも見ているのではないでしょうか。浅井会長が様々な希望を織り交ぜて、会員の夢をかき立てている願望は、日蓮正宗の信徒でなければ実現不可能な事柄なのです。

いま宗門は、顕正会のことを指して二言目には、「富士大石寺を詐称するサル真似集団」などと揶揄し、「国立戒壇しか能がない」等と悪口中傷しているのであります。一方顕正会のほうは宗門を目の敵にして、故日達管長ならびに前日顕管長二人の大謗法をやり玉に挙げ、非難中傷合戦を繰り広げ、双方の争いがいつ収束するとも分からない常態の中では、如何なる願望や夢を語っても、実現性のないはかない夢物語で終わることを知るべきであります。

富士門流の古の言い伝えとして広宣流布の暁には、日本の皇室に、御開山日興上人の後身が、本化聖天子として御出現されて勅宣を発せられて国立戒壇が建立され、宗門には第三祖日目上人が、一閻浮堤の御座主として再誕せられて世界の安寧を御祈願なされると聞きおよんでおりますが、顕正会はその時、如何に対応するつもりなのでしょうか、尊貴なお二方とも依然として反目を繰り広げるつもりなのでしょうか?

いま顕正会は、会員数二百万人は目前、カウントダウンに入ったなどとして、会員獲得に気勢を上げて全国規模で会館を建て、日布上人のお筆による紙副の御本尊を大量に複写し、国立戒壇を目指して日夜奮闘しているようですが、あれ以来、僧侶は一人も存在しない歪な在家集団となってしまいました。

講中解散処分を受けた妙信講が顕正会となって、三大秘法の広宣流布を成し遂げる。果たしてそうした前代未聞の壮大な大事業が、顕正会の手によって実現するのでしょうか、大いに疑問の残るところであります。

過ぎ去った過去を回想しても何も始まりませんが、妙信講は絶対に解散してはならなかったのであります。仮に、不都合があるならば、妙信講は妙信講のまま、宗教法人格を取得し、内に有って諫曉団体として僧侶と学会員を折伏し、妙信講の主張する国立戒壇に賛同する御僧侶に対しては、寺院を建てて御供養に励み、真の僧俗一致を貫けば良かったのであります。

妙信講が内に有って、国立戒壇の旗を高らかに掲げて御遺命守護に闘っていたなら、今日のような、「富士大石寺を詐称するサル真似集団」などといった、恥ずかしい嘲りや非難が巻き起こる事は決してなかった筈であります。かつて妙信講が内に有った時、数多くの僧侶が陰ながら妙信講の主張に耳を傾け大いに賛同の意を示し〝妙信講の言っている事が正しい〟として、本山を二分するような動きに、日達管長を狼狽させ、嘆かせていた事さえあったのであります。

しかしながら顕正会の浅井会長は、宗開両祖あるいは日目上人、日寛上人等の上代の高僧を除いて、現代の僧侶を端から小バカにし、幹部の首を簡単に切りまくる傲慢な性格は性癖の故か、如何ともしがたいものがありますが、浅井会長は残念を通りこして、支部長全員の首を切り、支部制を廃止すると同時に壮年部を廃止して、年老いた壮年を若い男子部組織の中に混在させる等々、再び取り返すことのできない大きな誤りを犯しつづけているのであります。





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