田舎に居た日本人は続々とこの街に集まってきた。帰国は何時になるか全くわからない。
帰るまで住む所は倉庫や神社・お寺で、それもなくて、軒下でしか寝られない者もいるようになった。
日本人世話会は、何時始まるか判らない帰国まで、借家や間借り先と
食糧の調達斡旋に大忙しであった。
その頃、世話会からの依頼で、家の一間を貸すことになった。
建設中の民間飛行場長であった冬野さんは親子4人で、8月の終わり頃に
今まで居た官舎を朝鮮人に追い出されてわが家に大きなトランクを持ってやって来た。
こちらも他人を住まわせるのは初めてで、物音や話し声に気を遣う日々となった。
決まって3時には「お茶が入りました・・・」という声がした。
奥さんは、何事につけ「姉やにさせていたので何もわかりませんの、ホホホ・・・」と云っていた。
そのうちに、10日足らずで家を見つけたと越していった。
それから1週間ほど経った雨の夜、戸を叩く音で開けると、下着姿でずぶ濡れの
冬野さんが後ろ手を縛られ、二人の保安隊員に連れられて立っていた。
「助けてください・・・」と座り込んだ。赤い腕章をした保安隊員が
「拳銃を隠したというから調べる」と朝鮮語でいうなり入ってきて、
押入れや天井を銃剣で突き始めた。
その間、冬野さんは「拳銃なんか持っていません。苦しいから嘘を言ったのです、
許してくださ」 と何度もいった。
拳銃などあろうはずはなく、保安隊員は見つからないので父を調べると云って、
暗い雨の中を連れて行った。
父のことを翌朝、小作人や、強盗に入られて以来懇意にしている隣の宮田さん(朝鮮人)が
駐在所に掛け合ってくれたお陰で、翌日の昼頃父は帰ってきた。
しかし、冬野さんはその後どうなったか分らない。
このように、官職にあった者は保安隊に拘束された。
特に警察官はその後の消息不明な人が多い。
その頃から日本人は不安が増してきた。夜の外出はできなかった。
若い女性は頭を丸刈りにし、男の服を着て家から出ないような生活になった。
大勢の日本人が居ることで心強いからと、うちでも三世帯に部屋を貸した。
小学校の校長、土木技師と土地測量士で、その人は将棋や囲碁を教えてくれた。
何時帰国できるか分らず、寒い冬に向かって不安はつのるばかりであった。