我が家のたかちゃんとマキティーのことはさておき、今日は1月17日。15年前のあの日のことを思い出し、泣いてしまった。ちょうど、特番も組まれ、当時のことを思い出し、当時の朝日グラフやらニューズウイークやら、神戸特集の雑誌を買い込んでいたものを見た。あの日、朝、8時ごろ、テレビをつけたときの画像を思い出した。そして、県立兵庫高校のボランティアのこと、一緒にボランティアをやっていた大学の同じゼミの仲間が翌年、神戸新聞の記者になったこと。そして自分が兵庫の銀行に就職したこと。その後、行政機関を目指したこと。ボランティア時代は、当時の神戸市役所、兵庫県庁のお世話になった気がする。
(ハイチの地震。なぜ、こんなに重なるのか、あまりに偶然すぎる。)
日本は地震が多く、仕事でも中越地震に絡む仕事をしたこともあった。福岡とか宮城とか、奥尻とかでも地震はあった。救急医療とか、耐震化工事とか。
神戸地震が起こる直前に神戸に本社がある会社に就職することが決まり、そして地震があって、当時の小里大臣の活躍に魅了され今の会社に就職した気がする。約15年前のこと。
今、思い出したその気持ちが、今後にどう活かされるのかということかな。神戸が復興しかけてから、日本は平和すぎたのかもしれない。戦争もないし。極限の生活の中でも人は生きるために工夫して生きていくということを思い出した。どんな状況にあっても、そのときの最善を目指してがんばるのだと。何があってもがんばるしかないんだと。そのがんばっていく中、最善を尽くすのが人間だって。
このブログを見ている人で、兵庫高校ボランティアの人っていますか。もう当時のメンバー、ばらばらになってしまって。きっと、当時の神戸ボランティアの人の一部はハイチに今向かって、どのルートを通ればハイチに到着できるか、研究しながらがんばっている人がいるはず。極限でがんばっている姿、何かを犠牲にしているかもしれないけど、きっと輝いている気がする。
今日は、どうしてもこれが書きたくなって、ちょっと長くなってしまいまいした。