いするぎ便り

歴史を求めて季節を感じて…
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聖泉寺<「今石動」の地名の由来>

2012-01-13 | 旅行

旧北陸道沿いに建つ朱色の大山門。真宗大谷派の寺院、聖泉寺です。

 

斉明7年(661)、天智天皇が称制した年に大和国三笠山において創建され天台宗聖泉院と称しましたが、後に親鸞に帰依し、浄土真宗となった古刹です。兵乱により何度か移転し、天正元年(1573)に現在地に移転しました。

本堂の工匠は愛宕神社も手がけた井波彫刻の名工 松井角平。

こちらもご覧下さい。→愛宕神社<井波彫刻の粋が見られる社殿>

 

聖泉寺には、本尊の他に市文化財に指定された木造虚空蔵菩薩坐像(室町時代作)があります。

この菩薩像は、もとは能登半島にある石動山 天平寺(注1)の伊須流伎比古命の本地仏で愛宕神社に合祀されていましたが明治二年、神仏分離令で聖泉寺へ移されたものです。

(注1)石動山 天平寺
加賀、能登、越中の山岳信仰の拠点霊場として栄え、石動山に坊院を構えた天平寺は、天皇の御撫物の祈祷をした勅願所である。最盛期の中世には北陸七カ国に勧進地をもち、院坊360余り、衆徒約3,000人の規模を誇ったと伝えられる。祭神は五社権現と呼ばれ、イスルギ修験者たちを通じて北陸から東北にかけて分社して末社は八十を数える。南北朝時代と戦国時代の二度の全山焼き討ちと明治の廃仏毀釈によって衰亡した。
<ウィキペディアより>

 

石動山の言伝え   

「天平寺縁起」によると、能登石動山の由来は―昔天空から星が落ちてきて三個に分かれた。一つは天竺に、一つは中国に、あと一つは天平寺に落ちて大地をゆり動かした。それから天平寺の山号を石動山にした。それから天平寺の山号を石動山にした。今も石動山の伊須流伎比古神社に、動字石といわれる大石があり、異変があるとき、この石が動くという。
<『ふるさとガイド 小矢部』 発行 小矢部市 平成16年>

 
調査の結果、動字石は輝石安山岩で残念ながら隕石ではないとのことです・・・

 

菩薩像にまつわる「今石動・いまいするぎ」の地名の由来については諸説あります。

とつは、「天正10年(1582)前田利家(初代加賀藩主)が天平寺攻略の際、和睦の条件として差し出された本地仏である菩薩像を今石動城の鎮護として祀ったことから、葭原・池田と呼ばれていた土地を今石動というようになった。」とう説。

 しかし、<『小矢部市史 ―おやべ風土記編― 』発行 小矢部市 平成14年>には

「実際のところ、石動山での戦いに和睦は行われず、前田勢の攻撃により一山は焼け落ちたのであり、虚空蔵菩薩の差し出しもあり得なかったといわねばならない。」としたうえで、

亀年間(1570~1573)、たまたま、能登石動山で衆徒の内紛が起き、その際に同山の伊須流伎比古神社より分霊し、この愛宕神社に移したものであるという。こうして石動山の伊須流伎比古神社の本地仏虚空蔵菩薩を合祀した愛宕神社は、同社由緒によれば、「砺波ノ大宮」と唱えられ、宮嶋郷内の今石動町ほか四十九か村の惣社になったという。おそらく、この時点で愛宕神社は「今石動」と呼ばれるようになったと考えられる。前田秀継父子による築城後、城下町が「今石動町」と称されたのは、まさにその神社の名称から採られたものと考えたい。」

としています。

 

また、「石動」を「いするぎ」とする読み方については

<「石動の名のおこり」 京田良志 『ふるさとの石仏 第十一集』小矢部市教育委員会・小矢部市婦人ボランティア育成講座 平成2年>

「今石動」は、新儀の「石動」の意味である。本家の「石動」は能登と越中にまたがる「いするぎ」山であり、そこには、『延喜式』当時すでに伊須流伎比古神社があった。その「いするぎ」に、おそらく語源と音を考慮して「石動」の漢字二字をあてたのである。」

とする説があります。

 

愛宕神社に伊須流岐比古神社の分霊が勧請された元亀年間(1570~1572)には

山岳信仰 石動山信仰は越中において信仰の定着がかなり進んでいたとされています。

その後、大正13年(1577)に発生した推定マグニチュード7.8の内陸型大地震「大正地震」は当地を襲い

木舟城を崩壊し、新しく今石動の城下町をおこしました。     こちらもご覧下さい→前田秀継公夫妻・利秀公御廟<今石動の町立て>

自然に対し畏敬の念をいだき崇拝しながら未来に立ち向かってきた先人たちの歴史です。 

 

 

 



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