た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

無計画な死をめぐる冒険 39

2006年06月21日 | 連続物語
 彼女は私の返事を待たずに急降下し始めた。三秒とためらう時間を要せず、私もその後を追った。何はともあれきゃつは私より現状認識が進んでいる存在であるには違いないのだ。きゃつの言う通り、これ以上昇ったら本当に戻って来れなくなるのかも知れない。いや、あるいは何か見せたくない真実が上空にあって、それを必死で秘匿するために下手な嘘で誤魔化しているのかも知れない。それだったら後ほどまた上昇のチャンスを伺えばよい。今は女に付いていった方が、何かしら真相が明らかになる可能性が高い。それに美人の尻を追いかけるのも悪くない。
 それにしても、支離滅裂な話し振りといい、こちらの言い分を聞かずに勝手に動き始めるところといい、なるほど団子鼻に極似している。ひょっと本人の言うとおり、同一人物だとしてもあながち不思議でない気がしてきた。
 我々二人は下降した。晴れ間から落ちる二つの滴のように。女が先頭であり、その後を私がついて行く。ところが女の進路は東に大きく逸れた。私も彼女を追った。滴二滴は灰色の地表を嫌い、翼を持った。街が去り、海が我々を迎えた。
 大海原である。太平洋。蒼穹と同じ広大さを持つ海。もはや三百六十度見渡す限り陸のないところまで来た。魚眼レンズで覗いたようにぐるり四方が丸く盛り上がった海が迫る。 それにしても、上空から見下ろす海はどうしてこうもどす黒いのか。
 謎の女は速度を落とすことなく、一気に高度を下げ、衣をなびかせて海に潜った。波音一つ立たない。海に消えたと言った方が正確である。存在のないものは決して既存在を波立たせないのである。私は躊躇したが、躊躇している暇はないのである。ここで彼女を見失うわけにはいかない。私も慎ましやかに海に消えた。

 母なる海、生命の宝庫! 暗幕の中は荘厳なるSilent Movieであった。動くものすべては芸術である。鰯らしき小魚の大群が私を出迎えて旋回した。青い魚がいる。黄色い魚がいる。縦縞模様は鯛であろう。海蛇もいる。エイもいる。しかしどの雑魚一匹にも気づかれずに私がいる。私のために鰯が旋回したと思ったのは誤解だった。彼らは暇さえあれば旋回しているのだ。私は海に体一つで潜った。しかし海と一体化したわけではない。私は濡れさえしていない。眼前に広がるコバルトブルーの楽園は、あくまでもよくできたSilent Movieに過ぎないのだ、私にとって。
 女の衣の裾が暗黒の海溝に消えた。あやつどこまで潜る気なのか。

 視界は急激に光を失う。私は速度を落とさざるを得なかった。これでは前も後ろも見えない。これ以上潜り進んだら昇って来れなくなるのではないか。溺死する心配はないにしても、闇はやはり不気味である。
 あの性悪女め、私をからかったな、と思うや否や、私の手を握る者がいた。
 「こちらです」

(つづく)
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