た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

新郎よ、ブーケを高々と捧げ持て

2016年10月16日 | essay

   結婚式によばれた。齢四十を過ぎるとなかなか周囲に話がなくなり、五、六年ぶりの招待状である。それも私の教え子の挙式ということで、ずいぶん気合を入れて身支度を整え、祝儀には袱紗(ふくさ)まで巻いて会場に乗り込んだ。ただし慣れないことはするものではなく、受付で袱紗に巻いたまま渡そうとして、受付係の若い子を戸惑わせた。袱紗は自分で開いて水引だけを受付に差し出すのですね。

   恩師として招かれた以上、酔いつぶれたり社会の窓が開いてたりはもちろん御法度であり、一定の威厳と品位を最後まで保ち続ける必要があった。ところが普段の生活では威厳も品位もその欠片すら見当たらないのだから、当日は、普段張らない胸を張り、普段の一・五倍はゆっくりと歩き、普段は湛えない上品な笑みを湛えた。気疲れするといえば気疲れするが、それでも普段よりはいい男に見えるのではないかという自惚れと、眼前に広がる華やかさで、それなりに楽しく時を過ごした。ドレスに意匠を凝らす女性陣は、その高揚感たるや男性の比ではないのだろう。

   儀式はいいものである。それは人から自由と勝手気ままを奪うが、言葉で人の道を千語説くよりも、一遍に人をちゃんとした人間にさせてしまう。古来から儀式が複雑さを増したのは、人民を統治するうえで欠かせない手段だったのだろう。ではひるがえって統治者の立場にとってはどうか。自由と勝手気ままを誰よりも享受できる王様としては、儀式なぞない方がずっと過ごしやすくないか。思うに、壮大な儀式を執り行う王様自身の自己満足も多分にあろうが、何より、王様の暴走を抑止するためにも、儀式は案外重要な役割を果たしていたのではなかろうか。王様も儀式の間はきちんとしていなければいけない。無茶な命令や気分次第の行動は自然と慎むことになる。

  儀式とは、統治者、非統治者の双方が、双方に対する抑止として執り行うものであり、それを当事者たちが意識していたか否かはともかく、歴史上それなりに機能していた。その儀式が、自由を手に入れた現代、次々と簡略化され、疎外されてきている。うーん、それが何を意味するかまでは考えが及ばないなあ。

  いろいろなゴタクはともかく、儀式はそれ自体感動するものである。教え子の晴れ姿を見ながら、万感の思いで何度も目頭を熱くした。いい式であった。気が張っていたのでせっかくのシャンパンやワインがさほど喉を通らなかったが、それは致し方ない。

  

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