た・たむ!

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縄文のビーナス

2016年10月14日 | essay

 先ごろ、ネット上で、日本一美しい土器の人気投票なるものがあり、茅野市に出土したいわゆる「縄文のビーナス」がグランプリを獲得したという。はい、はい。数年前から彼女に惚れこんだ私としては、至極当然、何を今更、と言いたいところである。

 彼女は美しい。だがなぜ美しいかを説明するのは難しい。彼女の美に接するには、まず我々の意識に巣食う、リアリティという名の先入観を排除しなければならない。「縄文のビーナス」は当たり前ながら、生身の人間には全く似ていない。太ももは大きすぎるし、おなかの出方は異常であるし、その割に、乳房はついでに付けたように小さい。顔の造作に至っては、小学生の方がもっとリアルに描けるだろう。

 彼女は、お人形さんとして百円均一で籠に山盛りに売られていても、誰も手に取らないような、素朴でへんてこな外観をしている───少なくとも、レプリカでは。レプリカでは駄目だ。複製では、本物の持ついいところが何一つ伝わらない。どんなに精緻に真似しても、本物を目の前にしたときに感じる圧倒的な存在感は出せない。だから彼女のミニサイズ貯金箱とか、彼女の絵入り大学ノートとかは、まったく意味をなさないのだ(そんなものが出回っているかどうかは知らないが)。

 本物の彼女だけが持つ魅力は何か。一つ言えるのは、質感である。じっと、二十分も三十分も眺めていると、その質感がエロティックなまでの魅力を帯びて迫ってくる。思わず触れてみたくなる。優しくそっと撫でてみたくなる。こう書くと変態だと思われるかもしれない(先ほどから使っている「彼女」という呼称もその誤解を招きかねない)が、念のため断っておくと私は変態ではない。しかし、この作品はひょっとして変態が作り上げたのでは、と思われるほどの凄みを感じることは出来る(遠い祖先に失礼な話であるが)。女性性というものに対する執念と言ったらよいか。臀部の滑らかな曲線、胸を張った清楚な佇まい、そして媚びを売らないきりっとした無表情。ある意味、女性の理想像を体現している。

 こうなるとなぜ乳房を極端に小さくしたかが現代人としては気になるところだが、ひょっとして、と想像を逞しくする。この土偶の制作者は、他の土偶と同じく、祭祀に使うものとして、神様を表現しなければならなかった。例えば乳房を大きくすることなどは、ご神体としてはタブーであったのだ。しかし彼は、ただただ形式的な神様像をこね上げるにはあまりに芸術家肌であった。彼は密かに、自分の理想とする女性(それが実在したかどうかはさておき)をその作品に投影させずにはいられなかった。祭祀用として許されるぎりぎりのところまで、彼は自分の表現力を解放させた。あるいは、解放させ過ぎた。出来上がった像を見て、長老に叱られたかも知れない。おいこら、こりゃエロティックすぎるぞ、と。

 こんなことをいろいろ思いながら土器と向き合っていると、楽しくて時間が経つのを忘れてしまう。歴史は謎に満ちている。その謎が当時の人間の息遣いまでも垣間見せるとき、リアリティというものがまったく別の立ち現われ方を始める。

 

 

 

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