夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

那須与一 伝松村呉春筆

2013-03-29 05:16:18 | 掛け軸
ついつい出来がいいので購入した作品です。購入した時の説明は「西村呉春」・・??

西村呉春という画家は聞いたことがありません。おそらく松村呉春という大家と間違えているのでしょう。題名は「那須与一」にしましたが仮題です。

那須与一 伝松村呉春筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先樹脂 
全体サイズ:横458*縦1830 画サイズ:横342*縦1003



軸先は樹脂、表具もいいものではありません。贋作と諦めながら参考資料として購入した作品です。知識を必要とする場合、こういうことも必要なことがあります。未知の画家の知識を得る為には手元に調べる対象が必要だからです。



那須与一がたしかに俳画風とはかなり違い写実的過ぎるきらいがあります。



でもけっして嫌味の有る描き方ではなくよく描けています。




那須与一:生年: 生没年不詳 。鎌倉前期の武士。実名は宗高(宗隆)。下野国那須荘を所領とした資隆(資高)の11男とされ,余一とも書く。弓矢にすぐれ,文治1(1185)年の屋島合戦の際,海上に浮かぶ平家の船に立てられた扇の的を馬上から一矢で射とめて敵味方から喝采をあびた話は『平家物語』の名場面として有名。この話は幸若舞曲や浄瑠璃に脚色されて与一の名は広く人々に親しまれた。しかし,『吾妻鏡』はもとより,確実な史料にその名はみえず,伝説上の人物としての側面が強い。

松村呉春は当初、与謝蕪村に師事し俳画のように簡略された絵画を中心のとした製作活動であった。その後、円山応挙と交流し写生にも力を注ぎ、南画と円山派の融合した画風となりました。

本作品はちょうどその画風が確立した寛政中期から後期にかけての作品と推察されますが、ここまで写実性のある作品を描いたかかどうかも含めてその真贋は微妙です。

まずは文献と落款と印章の比較を行います。

本作品の落款と印章は下記の写真の通りです。落款と印章の組み合わせから寛政後期の作品であると推察されます。寛政年間は松村呉春が47歳~59歳ですから、後期となると55歳以降の頃の作品であろうと思います。この頃の落款を大仏落款というらしい。

寛政年間:寛政は日本元号天明の後、享和の前。1789年から1801年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉。



文献は思文閣墨蹟資料目録 第459号から引用させていただきます。




拡大して落款と資料を比較してみます。本職は重ねてみるとのこと・・。
まずは落款です。

 

寛政後期と比較しましたが、寛政中期との間のような落款です。

  

次に印章を比較します。左の本作品の印章は絹本に押印され、参考資料は紙本のようです。

一致しているような、していないような・・、かなり難しいです。

  

ここまでの資料と知識が得られると次は失敗しない
とりあえず「伝松村呉春」としておきます。

以前に投稿した下記の作品は資料とはすべて一致します。

二見ノ浦 松村呉春筆絹本水墨淡彩金泥絹装軸二重箱 
画サイズ:横362*縦1018


松村呉春:宝暦2年生まれ天保14年没(1742年~1811年)、享年70歳。名は豊昌、字は裕甫、伯望、允伯、号は月渓。大西酔月に学び、ついで与謝蕪村について蕪村風の南画を描き、天明元年(1781年)に摂津の池田に滞在して、同地の古名の呉服里に因んで姓を呉、名を春と改めたので、一般に呉春と呼ばれるようになった。したがって松村呉春は姓が重複するのである。蕪村没後、円山応挙に私淑して写生体に転じ、円山派と南画とを統合した抒情的な形式をもった南画を創めた。その弟に松村景文、また岡本豊彦をはじめ多くの門弟がいて一門が栄えた。京都の四条東洞院に住したので、呉春の流派を四条派と呼ぶ。


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