大津バプテスト教会blog

大津バプテスト教会のブログです。

その後のロウバイ、エリヤの2倍

2018-02-19 13:34:42 | 日々のこと

庭のロウバイは、少しずつ開花しています。黄色い花の向こう側には、あざやかな空の色。
桜みたいに、一気に咲くわけではなかったようです。

メッセージは、第2列王記2章9節でした。預言者エリヤ先生が天に引き上げられる前に、
彼の弟子エリシャと交わした会話。

エリヤはエリシャに言った、「わたしが取られて、あなたを離れる前に、あなたのしてほしい事を求めなさい」。
エリシャは言った、「どうぞ、あなたの霊の二つの分をわたしに継がせてください」。(9)

エリシャ、これより前の場所で、エリヤ先生に「ここにとどまっていなさい」と言われていましたが、
その先生の申し出を断りながら、エリヤの最後の地、ヨルダン川のほとりまでついてきました。

そのような場面での、最後のエリシャのお願いは、エリヤ先生の2倍の霊をわたしに継がせてください、とのことでした。

エリシャの強い思いと、遠慮のなさに、おどろきです。



なんとなく、今日のおやつに、

通常の2.5倍の味がついているスナックを買ってしまいましたが・・

・・そういう、人間的なことではなく、

エリシャみたいに、もっと厚かましく、遠慮なく

主に向かって、思いを打ち明けていくことは

大切だな、と思いました。



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今日のお花

2018-02-11 19:17:52 | 日々のこと


今日の礼拝堂のお花。

真紅と藍色のアネモネが真ん中、紫の花が足元に添えられている。

そして、ひとつの支点から、たくさんのお花たち。


アネモネが花婿と花嫁で、紫の花がぶどう酒。

周りに、イエス、弟子たち、母マリヤ、招かれた人々、宴会の世話役、しもべたち・・・

なんだか、今日のメッセージの「カナの婚礼(ヨハネ2:1~11)」みたいでした!


母マリアの、イエス・キリストへの信仰心が、

カナの婚礼で示された。

その後、水がぶどう酒に変えられるという最初の奇跡が、

多くの人々に知らされました。

【今週のみ言葉】
「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。」(ルカ2:11)



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輝く日を仰ぐとき

2018-02-05 14:10:42 | 日々のこと


庭に、ロウバイの木があります。

つぼみの時期がとても長くて、

かれこれ2週間位、つぼみのついた枝を眺めています。

咲くのかな、咲くんだろうけど、いつなのかな。

お願いだから、つぼみのまんま落ちないで。

なんて思いながら、見ています。

**************

さて、子どもの時に、親に何も告げずに姿を消したことがありますか。
わたしはあります。となりの親戚の家に(その当時は珍しかった)ワープロがやって来たので、
私はランドセルだけ玄関に置いて、隣の家に何時間もいりびたってワープロに文字を打ち込んでいました。
もう外は夜で、家に帰ったら、親にめちゃくちゃしかられました。


メッセージは、ルカ福音書2章41~52節、
少年時代のイエス様が途中でいなくなった、ちょっとやんちゃなお話でした。


ガリラヤのナザレで成長した12歳の少年イエスが、過越祭のあと、帰路の途中で見当たらないことに両親が気づきます。

捜しながら神殿のあるエルサレムに引き返すと、三日後に、イエス様が、神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけました。


マリヤ:「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」(48)

イエス:「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(49)


帰路の途中でいなくなって、とても心配だっただろう。
両親はその時は、イエスの言葉の意味が分からなかった(50)とありますが、

いつのまにか一人で行動するまでになっていた息子。それを目の当たりにしたマリヤ。
心配と驚きの中には、子離れの時という切ない気持ちも入り混じっていたかもしれません。


それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。(51)


イエス様は、その後は故郷ナザレで、両親に仕えて青年時代を過ごされたのでした。

マリヤは、すべてを心に納めていたといいます。

すべてって、どこらへんから?想像してみる。


結婚前に、天の御使いがマリヤに現れたこと。

幼子のときに連れて行った神殿での祝福と、啓示のこと。

そして、あの、12歳の神殿での出来事も。


こんな風に、思い出していたかもしれない、

・・・そうそう、祭りのあと、あの子消えちゃったわね。ずっと神殿にいたのよね。あの時、心配極まって、わたし、すごくあわてたけど。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と言っていたこと、今なら分かるわ。だって、この子は、神様の子どもなのですから・・・神殿が実家だったのよね。


神様の約束の時がいつなのか、長い事、マリヤは待っていたことでしょう。
その間も、マリヤは主に信頼をして、イエスが救い主となられることを待っていたのでしょう。


私たちにも、今ここに、救い主イエスさまのまなざしがあるから、何度も立つことができます。
赤ちゃんだった子が、歩き始めた時みたいに、何度も倒れては、起き上がることができます。

変わらないと思われている状況があっても、
神様の時があること、信頼して待つということを、心においていきたい。







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「受けること、これも幸いなり」

2018-01-28 20:54:21 | お昼ご飯


花瓶が仲良く並んでた、礼拝堂のお花。

メッセージの冒頭にありました。イエス様が弟子たちにお与えになった、ひとつの御言葉。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)。」

一緒に何かを成し遂げることのできる関係って、いいですね。

***********



今日のお昼ご飯は「森のクリームパスタ」という名前。

森という言葉に、神様の愛の世界を思った。


明るい日差しを浴びる若葉もあれば、朽ちてひび割れた木々もある。

雨風が吹けば、若葉は飛び散るが、木陰の植物は守られる。

枯葉の下で、ちいさな微生物がたくさん、息をしている。

天候や佇む場所、フォーカスを当てるものによって、いろんな表情を見せる森の被造物は、

一所懸命に生きる人間の営みのようにも見える。


あらゆる被造物をつくられた神様がおられるから、森は森でいることができている。

だから、どんな人間の営みも、神様の愛の内にあるんだということを信じて、受け取っていきたい。


メッセージのテーマは「受けること、これも幸いなり」。

与える方なのか、受ける方なのか、

生きてると、そういったことに、たまに翻弄されたりするかもしれないが・・・いう話。


このお話をお昼ごはんにたとえたなら、

パスタにクリームをかけることもあるが、

クリームの入った鍋の中に、パスタを入れることだってある。

パスタだって、クリームという具が与えられるからクリームパスタなんだけど、

だからといって、パスタに味がないから、具より劣っているとかではない。

クリームも、パスタも、どちらが欠けても、この料理は成立しない。

ということなのかもしれない。



・・パスタだけに、話が絡まったかな・・・



神様が創られた世界で、神様が、人間に望まれることは、

人に対して働きかけることとその働きを受けることのよい関係なのですよ、ということを学んだ。


ソースを上からかけられる、無味なパスタでもいいやん。

その時は、天を仰ぐように、ソースのシャワーを受ければいい。

そして、最後はソースの海を泳ぐように、絡まっておいしくなればいい。

ソースを避けて、皿からこぼれおちることのないようにしたいです。

今週も、愛をもって、やっていきましょう。



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カナンの女の信仰

2018-01-22 12:16:21 | 日々のこと

今週は寒くなるみたいですね、でも、冬の花がきれいに咲いています。

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メッセージは、「カナンの女の信仰」(マタイ15:21~28)

イエスは、そこを出て、ツロとシドンとの地方へ行かれました。
するとそこへ、その地方出身のカナンの女が出てきました。

「主よ。ダビデの子よ。わたしを憐れんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」
と言って叫び続けました。

しかし、イエスはひと言もお答えになりませんでした。

そこで弟子たちが御もとに来て願って言いました。

「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」

するとイエスは答えて言われました。
「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」

しかし、女は近よりイエスを拝して言いました。
「主よ、わたしをお助けください」

イエスは答えて言われました。
「子どもたちのパンを取って子犬に投げてやるのはよろしくない」

すると、女は言いました。
「主よ、お言葉どおりです。でも、子犬もその主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」

そこでイエスは答えて言われました。
「女よ、あなたの信仰は見上げたものである。あなたの願いどおりになるように」

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今風にしてみると、こんな感じだろうか・・・。



しかしながら、神様の沈黙とは、「既読」はつかないものです。

私たちも、せっぱつまった状況に置かれると、沈黙はつらい。

祈りは届いているのだろうか、これでよいのだろうかと思ったりもしてしまう。

かといって、無視されたり、冷たくされてしまったりすると・・・これもまたつらい。


カナンの女はイスラエルの民ではない、そして、イエス様に3回願って、3回冷たくされている。

寒空に薄着で投げ出された気分になりますが、

女は、イエス様のお言葉どおりだと受け止めました。

そして、自分が子犬だということを認識し、子犬だって、主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます、と、

ユーモアをもって返したのでした。


イエス様はその女に

「すべらんなぁ~~」、と言ったかどうか・・(たぶん言ってない)

「あなたの願いどおりになるように」と言われたときに、娘は癒されたのでした。


カナンの女、かなわん。

あきらめない信仰の姿を感じました。

どんな時も、余裕をもって、過ごしたいです。














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