森の夕陽

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賑やかな家族 最終章

2011-05-07 17:21:28 | 中編小説
 「死ぬとしても、ですね、自首して死んだ方がいいんじゃないですか?  警察の入り口辺りで力尽きるかもしれないけど、それでも自首しませんか?  でないとここの家族の人たちが浮かばれないんじゃないですか?」
 時間の存在しない空間で今なお暮らす独り独りの想いに芽衣は心を奪われた。
 突然家族を襲った不幸。普通の人が普通に持つ夢を奪い、普通に生きる将来を奪い、普通の喜びを奪い、普通の笑いを奪い、漆黒の闇に封じ込められた魂たちの慟哭の叫びを、芽衣は五感で聴いていた。
 義人は今、芽衣と自分がしようとしていることが、悟と同じことだとはっきりと認識していた。芽衣の将来を奪うことに他ならない行為だと、自分がすべきことはきっとほかにあると、そう確信した。
 何だろう――?  自分がすべきこととはいったい何だろう…?
 突然二階への階段を芽衣が駆け上った。
「あ、芽衣! 危ない、気をつけろ!」
 芽衣は双子の姉妹に導かれるままに、いや、腕を引っ張られるままに二階の部屋へ入った。
 黄金色に輝る木漏れ日が、暖冬に騙されて萌えだした木々の葉っぱを照らしながら、窓全体を彩っている。
 樹の隙間から覗く小さな沼は、その水面が落陽に反射しているからか湖にも思える。
「きれい!!」
 思わず芽衣は呟いた。追いかけてきた義人も茫然と立っている。昨夜の漆黒の森とは思えない光景が目の前に広がっている。  ――ねっ、きれいでしょう。
 ――お風呂も沸いたみたいだよ。
 ――温かいスープもできたから、みんなで一緒にいただきましょうね。
 ――さあさあ、温まって疲れをとってくださいな。
 ――こんな森の中では退屈でしょうけど、みなさんの疲れがとれるまで一緒にお喋りに付き合ってくださいね。   
 この家族の声が義人にもはっきりと聴こえてくる。
「ほんとうね。とてもきれい」
『だから、生きてね』
 えっ?
『生きてね、あなたは、生きてね』
 突然、芽衣の眼から涙が溢れた。今まで身体の中に溜め込んだ涙が一気に放出するかのような号泣に変わった。その姿に義人は寄りつくことさえできなかった。何か言ってあげなければと焦れば焦るほど、義人の口から言葉がどんどん消えていく。
「あ…芽衣…あの…その…」
 くすくすくすっと小さな笑い声が轟いた。
「誰だよ」
 振り向いたが、誰もいない。
『守ってあげなさい。大切な人なら守ってあげなさい。守ってあげることがどんなに幸福なことか、どんなにありがたいことか、きみはまだ知らないんだよ。生きているきみは知らないんだよ。奪われていないきみはまだその価値を知らないんだよ』   
 わかっています、聴こえています。全部、聴こえています。
 義人の中に決心が生まれた。
「芽衣、計画は中止だ。もう山を降りよう」
「おじさんはどうするの?」
「おんぶして降りるよ」
「そんなことできるの?」
「とにかくどこかの家に辿り着くまで」
「そしてどうするの?」
「警察へ連絡する。パトカーと救急車が来る。芽衣は歩けるか?」
「うん。歩ける。これからこの足で人生を歩くんだもの、これくらい大丈夫だよ」
 そっか、と義人は頷いたが、芽衣のなかにも何かしらの決心があることを察知した。少し寂しかったがそれはそれでいいんだと自分にも言い聞かせた。
 芽衣を愛しているなら、今後芽衣が本当の意味で大人になるまでを見守ろうと義人は思っていた。
「おじさん、おんぶするよ」
 無理矢理悟を背中におぶって、意外に軽いことに驚いた。末期癌に侵された悟の身体にもはや肉はついていなかった。
 痛みに気絶しているのか、疲れに眠っているのかわからなかったが、悟の意識は無かった。
 悟の様子を見ていると、自首しても懲役などとてもうけられないだろう。
 自分の過去に脅かされ、逃げ続けながらも結局は逃げ切れずに今日を迎えた殺人者。おそらく悟は自分の死に場所をここに選んでわざわざ訪れたのだろう。初めから記憶はあったに違いない。認める恐怖に脅かされて自分を騙し続け、それでも騙しきれなかった殺人者の十年の歳月、挙句の果てに癌に侵されたことをバチだと受け止める小心で愚かな殺人者の十年の歳月こそが懲役であったに違いないと、義人は漠然と思っていた。
 少なくとも心中という形で人の人生を奪う殺人を犯しながら、それが殺人だと知らずにいる罪、懲役が必要なのはむしろ自分ではないのか。
 それにしても罪なき家族が不幸にも惨殺された理不尽に心は奪われる。
 幼い双子の無垢な笑い声を想う時、守りたい家族を守り切れずに奪われた父親の無念を想うとき、自分はとにかく生きなければと強く想う義人であった。


        *      *      *

 悟の華奢な背中で落陽が燃えているのがわかった。
 自分よりも十も年下の男におんぶされている我が身の姿に苦笑した。女と二人で森に迷い込み、オロオロしていた気の弱そうな義人という男は、意外に長身で胸板の厚い体躯をしていた。自分も痩せる前はこれくらいあったはずだと意地になったが、降ろされても立ちあがる体力が最早残っていないこともわかっていた。
 ちきしょう!!
 降ろされて、あるいは廃屋でくたばっても構わないと思ったが、この男の背中も悪くはなかった。
「お前らに、頼みがある…」
 背中から小声が聞こえた。
「はあ、なんですか?」
「きいてくれるか?」
「聞いてみないとわかりませんよ。できることとできないことがありますから。まあ、なるべく聞いてあげたいですけど。今となっては友達みたいなもんですからね」
「たった何時間しかいなかったのに、友達か…」
「そんなようなもんだと…」
「生まれて初めてできた友達だな…」
「暗っ…! まあ、人のことは言えないですけどね。俺らもめっちゃ暗いことの目的で実はここへ来たわけだし、で、なんですか? 頼みって」
「俺の死後…」
「はあ…」
 義人は自分の背中が震えているのに気付いた。しばらくして、自分の、ではなく、背負っている男の身体が震えているのだと気付いた。
「俺の死後…あの家の住人だった家族の墓を見つけて、スイセンの花を…」
 遠くで何かが壊れる音がした。振りかえると老朽化したあの廃屋がいよいよ限界を超えて倒壊した。一瞬の出来事だった。紅色に輝る山の片隅で、土埃が風に舞った。
「ついに、壊れたな」
「危ないとこだったね」
 けれど本当は危なくはなく、自分たちがいる時にそれは起こらない確信もあった。
 少しの間、廃屋をじっと見続けた。
「こうして観るとちょっと前まで私たちそこに居たのに、本当にあの家はあったのかしらって想えてしまうから不思議だね」
「元々存在していなかったって言われても、なるほどって納得できるし、実際あったよって言われても納得できるし、まじ、不思議だな」
 物言えぬ無口な家族の、賑やかなお喋りに未練を感じながら、義人と芽衣は再び歩き出した。

 湖を見下ろすあの家が倒壊した今、落陽に燃える山よりも、湖の水面で緑からオレンジ色に移り変わる森よりも、その底で錆びついたままの意味を持たない鉈の風化よりも、あの家族がその後どこへ逝ったのかということと、そして、背中でかなり高い熱を帯びたまま眠っている男の体温が、急速に冷めていくのはなぜだろうということが、やたら気になった。

 それでも森の片隅にひっそりと浮かぶように存在する湖の、オレンジ色に反射する水面は、一軒の家をそのまま映し出していた。そのほとりには白いラッパ水仙が所せましと咲き誇っていた。



                            完