和歌山城再訪

2017-11-13 00:00:36 | The 城
20年近く前だが、取引先の外資系企業の方(年上)と和歌山県へ出張したことがある。目的地は和歌山市街ではないのだが、その方は南海和歌山市駅につくやいなや、タクシーに乗り、和歌山城に向かったわけだ。ずいぶん駅前にサラ金が多いなと思っているうちに吉宗公も住まわれていた和歌山城に到着。そして直ちにきつい石段を登り始め、天守閣に辿り着いたら即、入城券を買って城内の階段を上り始め、心臓が止まりかける。

これが、私の御城探訪のきっかけなのだが、それ以来、和歌山城には行っていなかった。要するに和歌山に行くのが億劫なのと本物の天守閣は空襲の犠牲になったため再建されたものであるからである。もちろん城は天守閣だけではなく石垣や庭園や水濠や城下町の配置など見るべきものは多いが、そういうものを味わうには逆に再興天守が邪魔になるときも多い。

といっても、オリジナルは城造りのスペシャリストの藤堂高虎であるし、その後、徳川将軍8代目から14代目までが紀州藩の流れである。

今回は、JR和歌山からの出発。不思議なことに市のHPでは、城まではタクシーで行くように強く勧められているが、少し調べるとバスが沢山走っている。普通のバスに5分ほど乗ると門の前に到着。

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そしていつものように堂々と正面から登っていくと、石垣群が見えてくる。やはり藤堂高虎の初期の作品なので、石垣は改良型の野面積で小さめの石が単純に積み重なっている。よくある例だが戦災や合戦で城が焼けた場合、石垣が黒く変色しているのだが、やはり空襲で激しく燃えたことが窺われるように石垣の上部半分程度は表面が黒く汚れている。

ただし、以前来た時はもっと急な坂だった感じがあったのだが錯覚だったのだろうか。天守閣内も階段がきつかった記憶があるが、特にそうは感じない。城を見過ぎたのかもしれない。それによって感動が薄れるというのは困ったものだが。

また藤堂高虎に築城を発注したのは秀吉の弟の豊臣秀長だが、完成した時には別の城に住むことになってしまい、新居は別人の館となり、その後、薩摩藩の海路での東上を防ぐために紀州徳川藩がストッパー役として入城。

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最上層より眼下には一級河川の紀の川が見下ろせる。実は日本地図を見ると、徳島の吉野川と直線状でつながっているのだが、遠く西は熊本から大分を抜け四国を走り、東は茨城県までつながる中央構造線そのものであることがわかるだろう。一億年の歴史を持つ川なのだ。

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城内には、徳川家の記念品はあまりなく、戦火に消えたのだろうと推測がつくが、城とはまったく関係ないが明治初期の郵便配達人が所持していた『郵便保護銃』なるピストルが目を惹いた。郵便物を襲撃する事件が多かったそうだが、明治の初めから為替制度は普及していたのだから札束を郵便で送る人は少なかったはずだし、何を運んだり奪ったりしていたのだろうか。

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帰りは別の坂を下って降りると、そこはかなりの急坂で、20年近く前、急坂と感じたのはこの坂を上ったからに違いないと気付き、私を誘ったお城マニアの魂胆がやっとわかった。

出口の案内はタクシー乗り場に誘導するためのものなので、別の出口から城外に出て、バス停を探すと、城の反対側であって、一汗かくことになった。


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