濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

2017 年頭所感

2017-01-03 20:13:58 | Weblog
年が明けたが、ますます多難にして多忙な一年になりそうである。
そんな中で、今年も細々とブログを書いていきたいと思っている。
ちなみにフェラーリスというイタリアの哲学者が、現代のIT社会の特徴を「ドキュメント性」(だれもがアクセスできる、消滅せずに保存できる、コピーによって拡散できる)という概念で説明している。
だいぶ年季の入った「濃さ日記」だが、そうした「ドキュメント性」を含んでいると考えれば、新たな感慨が生まれてきそうだ。

さて、世界は一大変動期を迎えているようだが、日常の複雑微妙な人間関係において、「ありのままの現実を受け入れよう」という考え方をする人がいる。
何の偏見、先入見もなく、喜怒哀楽の感情をできるだけ抑制して、物事を冷静にバランス良く把握しようということだろう。
だが、「ありのままの現実」を受け入れているつもりでも、案外、現実を歪めていたり、隠蔽していたりすることが多いのも確かだ。
「ありのままの現実」など、本当は掘り下げていけば何が出てくるか知れない生々しいカオスに満ち、地殻で煮えたぎるマグマのようなものなのだろうが、ともすれば、常識や理性によって舗装された地面だけを現実と受け止めてしまいがちではないか。
なるほど、それで地歩を固め、安定した生活は一時的に得られるかもしれないが、その地面もまた実際には年々数センチずつ移動してさえいるのだ。だから、

現実は人をあざむき通しなのであって、人間はこづき回されながらも、現実はあざむかないという基本観念にあざむかれて、自分の方を適応させることで懸命になって、ともかくも、危い人生をぎくしゃくやりながら辻棲を合わせてゆくわけである。(金子光晴「リアルの問題」)

と考え直したほうがいいように思う。
むしろ、「辻棲を合わせて」、「ありのままの現実」だとするやり方に抗い、たとえ嘘いつわり、夢まぼろしであっても信じていこうとすることのほうが、よほど真実に近い生き方になるのではないだろうか。
たとえば、正岡子規の

鶏頭の十四五本もありぬべし

という句も、現実に咲く鶏頭をありのままに写生したものではないはずだ。
多分に「嘘いつわり、夢まぼろし」を含んでいるからこそ、それは現実を超えて真実に達していく力をもつ。

嘘いつわりは、答案用紙のまちがいやコンピューターの計算ちがいや言いちがえと区別される。
ねがいの気持をことばにしたものであって、空無であるが純粋であり、沈黙のなかに嘘いつわりならざるものは何であるかを問いおろしてゆく端緒となる。
未来のほうから差しこまれるかたちをとって嘘いつわりのことばはあらわれるので、現実にたいしてさかだちした言語だということができる。(藤井貞和)


このとき、「現実にたいしてさかだちした言語」でつくられたものは「文学」と呼ばれるのだろうが、「濃さ日記」もそうした言語で書き連ねられたものにしていきたいと思う。


鎌倉稲村ヶ崎
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