魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

川端康成の手紙 初恋 運命のひと 伊藤初代(5)

2014-07-13 23:24:35 | 論文 川端康成
川端康成の手紙 初恋 運命のひと 伊藤初代(5)

岐阜のみち子

 みち子は、もう寺にはいない、と書いていた。とすると、いったいどこにみち子はいるのだ。岐阜の町のどこかだろうか。それとも汽車に乗って東京に出てくるのか。
 夜汽車に乗っている間にも、「私」は必死でみち子の姿を探した。
 新橋や品川の、明るいプラットフオウムの女たちを一人も見落とすまいと、眼を痛くした。

 そうして翌朝、岐阜につく。

 車に乗り、車を待たして寺に入ると、内庭に面した障子のない部屋で養母が縫い物をひろげている。落ち着いた姿だ。
 「私」は挨拶をする。「東京から今着いたのです」という。
 養母は驚いて、「わざわざ?」

「ええ。お話したいことがありまして参つたのです」
「みち子のことでございますか」
「さうです」
「この頃はみち子を決して家から外へ出さないやうにして居ります」
「え! うちにいらつしやるんですか」
「ええ。使ひにも一人では出してやりません。ちつとも目が放せません」
 ようやく養母は寺に上げてくれる。そして、みち子を呼ぶ。

   「みち子。みち子。」
音がない。私は固くなつた。養母は隣室へ立つて行つた。襖(ふすま)が明いた。
  「いらつしやいまし」
   針金のやうな声で、みち子が両手を突いてゐる。
   一目見て、私の心はさつと白くなつた。その瞬間は怒りでも喜びでも愛でも、失望でもない。私は謝罪の気持で縮かんだの  だ。
   この娘のどこが一月前のみち子なんだ。この姿のどの一点に若い娘があるのだ。これは一個の苦痛のかたまりではないか。

顔は人間の色でなくかさかさに乾いていた。白い粉が吹いていた。干魚の鱗のやうに皮膚が荒れている。
 この姿は、昨日今日の苦痛の結果ではない。この一月の間にみち子は、毎日父母と喧嘩をしている、泣いている、という手紙を十通「私」によこした。みち子には手紙の上ではなく、現実の苦痛だったのだ。

   どんな「非常」があるのかは分らない。しかし、私との婚約がみち子を挽(ひ)きつぶしたのだ。その重荷に堪へられなくてあの手紙か。

   一個の苦痛が私に近づいて、火鉢の向う側に硬く坐つた。

 作品「非常」は、ここで終わっている。「非常」の手紙も衝撃だったが、このみち子の憔悴した姿も、康成には衝撃だったのだ。自分と婚約したという一事が、みち子をこんなに憔悴させている。
 康成には、空しく東京に帰っていくしか方途がなかった。


その後のみち子

その後も、みち子から手紙は来た。しかし最後の手紙は康成をうちのめした。

   私はあなた様のお手紙を拝見いたしましてから、私はあなた様を信じることが出来ません。
   あなた様は私を愛して下さるのではないのです。私をお金の力でままにしようと思つていらつしやるのですね。(中略)
   私はあなた様を恨みます。私は美しき着物もほしくはありませんです。私がいかにあなた様の心を恨むことか。私を忘れていただきませう。私もあなた様を忘れます。
   あなたは私が東京に行つてしまへば、後はどのやうになつてもかまはないと思ふ心なんですね。(中略)
   あなた様がこの手紙を見て岐阜にいらつしやいましても、私はお目にかかりません。
   あなたがどのやうにおつしやいましても、私は東京には行きません。
   手紙下さいましても、私は拝見しません。
   私は自分を忘れ、あなた様を忘れ、真面目に暮すのです。私はあなた様の心を恨みます。私を恨みになるなら沢山恨んで下さい。(中略)
 私は永久にあなたの心を恨みます。さやうなら。
   11月24日                                 「彼女の盛装」『新小説』1926・9・1)

 ところが、それから幾ばくもなく、みち子が東京に現れて、本郷3丁目のカフェ燕楽軒に勤めている、と友人が報せてくれる。康成はその店に行く。とりつく島もないような、みち子の態度であった。そしてまもなく、店を変わってしまう。
 新しい店は、浅草の大カフェ・アメリカだった。また友人が報せてくれて、康成はその店へ行くが、みち子は当てつけのように21歳の学生内藤(仮名)の下宿に泊まったりする。その下宿にまで追いかけた康成であったが――その一段を描いたのが「霰」(あられ)(原題「暴力団の一夜」)である――しかし、ついにみち子は、康成の前から姿を消してしまった。


みち子の幻影

 いったい康成は、みち子のどこにそれほど惹かれたのだろうか。康成の眼に、みち子はどう映ったのだろうか。
 カフェ・エランで見たみち子の姿を、康成の仲間であった鈴木彦次郎は、次のように回想している(「新思潮前後」、『太陽』8月号、1972・7・12)。

   エランは、カフェというよりも、むしろ、喫茶店というほうがふさわしい地味な店だった。マダムは、30をちょいと出たか、大柄な、  目鼻立ちのぱっちりした女性で、いつも、こんな商売とも思えない主婦並みな束髪を結っていた。その養女格に、ちよと呼ぶ14の少女が  いた。

   ちよは、すきとおるような皮膚のうすい色白な小娘であったが、痩せぎすの薄手な胸のあたりは、まだ、ふくらみも見えず、春には程遠  い、かたいつぼみといった感じであった。でも、マダムの好みか、たいていは、やや赤味がかった髪を桃割れに結い上げ、半玉ふうなはで  な柄の着物に、純白なエプロンをつけ、人なつっこく、陽気に歌など唄いながら、卓子のまわりを泳ぎまわっていたが、時折、ふっと押し  だまると、孤独な影が濃く身辺にただよって、さびしげに見えた。(中略)

   マダムは、……私どもは「おばさん」と、呼んでいたが、ちよを実の娘のように可愛がっていて、時たま、酔っぱらいの客が、彼女に悪 ふざけなどすると、たちまち、目に険を見せて、
  「止して下さい。大事な娘をからかうのは!」
   と、きつく極めつけるのであった。

 この印象は、カフェ・エランの雰囲気と、みち子の姿を非常に正確に捉えていると思われる。康成自身もまた、みち子のことを、「篝火」の中で、次のように描写しているからである。

   私は歩いてゐるみち子を見た。体臭の微塵もないやうな娘だと感じた。病気のやうに蒼い。快活が底に沈んで、自分の奥の孤独をしじゆう見つめてゐるやうだ。

 康成たちと初めて出合ったとき、みち子は数え14歳で、鈴木彦次郎がいみじくも表現しているように、「すきとおるように皮膚のうすい色白な」小娘で、「痩せぎすの薄手な胸のあたりは、まだ、ふくらみも見えず、春には程遠い、かたいつぼみといった感じ」であったに違いないのである。

 その、まだ成熟していない少女に、康成は恋した。あれから2年たっているが、数え16歳のみち子はまだ十分には成熟していなかっただろう。その小娘に、「結婚」という重大事を突き付けたのだ。
 その結果が、みち子の落ち着きのない半狂乱状態をみちびきだしたのだった。




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