魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

川端康成の恋 伊藤初代のその後 日記に告白された恋情(2)

2014-09-04 16:18:42 | 論文 川端康成
川端康成の恋 伊藤初代のその後 日記に告白された恋情(2)

全集「あとがき」と伊藤初代

 康成は、第一次全集(昭和23年5月から刊行が開始された)に「あとがき」を書きつづけた。
 その最初の方には、茨木中学時代、寄宿舎に入っていたころ、下級生の清野少年と愛し合った日々のことが告白され、当時の日記が掲載された。
 当時の読者もさぞ驚いたことだろうが、康成は、「あとがき」に告白したばかりでなく、このとき見つかった古い日記や手紙を利用して、「少年」という、随筆とも回想録とも小説ともつかぬものを、雑誌『人間』に発表しはじめた。

 そのように、「少年」と並行して「あとがき」を書きつづけていた康成だが、全集はこの昭和23年に、第4巻までが刊行された。
 第3巻と第4巻の「あとがき」は、悲痛な別離に終わった「みち子もの」、すなわち伊藤初代との恋愛の経過、というより一方的な恋に終わった失恋の痛みを、当時の日記を引用するかたちで回想している。
 その失意の深さと、いつまでもつのる恋慕の情については、わたくしも、すでに第2章においてこの日記を引用したが、ここでは、第4巻「あとがき」から、康成が浅草のカフェ・アメリカを訪れた日のことを引用したい。
 みち子(伊藤初代)は、康成に「非常」の手紙を寄越したのち、直後に岐阜を訪れた康成に会うことは会ったが、もう心は戻らなかった。
 岐阜に駆けつけてくれた三明永無(みあけ えいむ)の説得によって、いったん、心はもどったかに見えたのだが、11月末、一方的に「私はあなた様を恨みます」と絶縁を宣言した手紙を寄越したまま、音信を絶った。
 まもなく岐阜を失踪して上京。その後は、あちこちのカフェで女給になった。康成は、みち子が今は浅草のカフェ・アメリカに勤めていると友人から教えられたが、金がないのと、自分の身なりが貧しいこととで、なかなかアメリカに行くことができなかった。
 その日は、友人朝倉(三明永無)のインバネスを借りることができたので、少し雪が降るなか、思い切ってアメリカを訪れたのである。

   遂に、遂にアメリカに到る。来らざること初夏以来。ドキドキす。階下奥まで見渡して、みち子なし。2階に行く。矢張りゐず。石浜、丁寧に信子に問ふ。20日程前、帰国せりと。よく聞けば、都を棄てて、父の懐にかへれるなり。父老いたればとて、父より度々手紙来りし由なり。
 「さうか。」「たうとう。」と心静まる思ひもあれど、失望、落胆、張り合ひ抜けて、呆然(ぼうぜん)たり。千々の思ひす。雪の岩谷堂(いわやどう)を思ふ。戸外降りやみたれど、一面に白し。

   みち子さへなくば、アメリカなぞ天下取つた気分にて、楽なものなり。
   彼女に語るべかりし多くのことあり。日夜よみがへる恋心に、夢を新にし新にすること、幾月ぞや。浅草に来る度、物書かんとする度、女や恋を思ふ度、なににつけかにつけ思ふはみち子なり。(中略)

   ひとり電車に乗れば、感傷胸を洗ひて、憂(うれ)へ清まるが如き涙流れんとす。悲しげに頭を垂れてみち子を思ふ。わが心の通ぜざりしことを、せめてかねがねまたこの頃も思へることを、両方の心を同じ正しき位置に据ゑて、一度十分に語ればよかりし。
  何の故に帰国せるや。何の故ぞや。父恋しとてか。父の言葉に動かされてか。1年ばかりの彼女の東京生活は、悲風惨雨にとざされし月日にあらざりしや。わが心、われに都合よき慰めを見出す。甘きこと限りなきかもしれねど、彼女は遂に心安らかなる場所を見出さざりし。何の故に東京生活は、ああまで荒々しく、白け切つたものなりしや。問うて語らまほし。安住の地、余の傍(かたわら)の他になし。(中略)

   彼女岐阜にありし時、いかに東都にあこがれしや。昨2月一旦(いったん)帰国して、東都に出しもあこがれなり。みち子に東京はいかばかりの魅力なりしぞ。しかも今や傷つきし心を抱きて、遂に都を棄て、老父の愛に帰る。岩谷堂の町のたたずまひ、彼女の家及び暮しのいかなるものか、いかに彼女に味気なきものか、彼女十分にこれを知る。しかも遂に老父と妹の許(もと)に帰る。彼女の如き性格の女ゆゑ一入(ひとしほ)涙す。さすらへる魂、先日見し「漂泊の姉妹」の栗島すみ子がみち子にあんなに似しは、彼女の魂の表象ならずや。帰国せる彼女が余に神秘的に語れるにあらずや。因縁事らしき諸々の暗示を新に思ひ起す。夢に夢を織りて果しもなし。

   彼女の国に帰りしは自然なり。彼女の心のため、魂のため、よきことなり。父のもとに願はくは静かに憩へ。静かなるくつろぎ、安らかなる楽しさ、明るきのびのびしさこそ、みち子によきもの、また余の与へんと夢みしもの。余、みち子の根を流るる、張り切つた、一本気な、美しき魂を信じ居りし。よき心あれ、よき心あれ。よき魂を護りて伸びよ。                            (大12・1・25)

このような、みち子に対する一途の慕情を書き写しながら、康成は何を思ったことであろうか。
 10年後の再会によって、康成のみち子に抱いていた夢想は無惨に打ちくだかれたけれど、青春の時期、そのように必死に想いつづけた日々を康成は思い起こし、自身の真剣で純粋な心と、みち子のその後の人生の転変を、感慨深く、時には涙しながら反芻(はんすう)したのではあるまいか。
 ――「みち子もの」の作品数そのものは、それほど多くはないが、この一連の日々が康成にとって青春期最大の事件であったことに間違いはない。康成はここでも、自身の過去と遭遇し、その詩嚢(しのう)をふくらませたのである。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿