私たちが愛と瞑想を理解しやすいための講話です ー 名古屋
私は、あなたに一日中リラックスいなさいとは言っていない。あなたの仕事をしなさい、しかし時にはあなた自身のための時間を見つけなさい、そしてそれはリラクゼーションのためにのみあるべきだ。
そして、もし24時間の内から1時間から2時間あなたがリラックスしたらあなたは驚かされるだろう:それはあなた自身に深い洞察をもたらすだろう ー それはあなたの外側えの振る舞いを変えるだろう ー より落ち着き、より静かに。 ー それはあなたのワークの質を変えるだろう。 ー よりアーティスティックにより優雅に ー あなたは以前おかしていたミスより2、3多く犯しているだろう、なぜなら今あなたはより一つに、より中心に根ざしているからだ。リラクゼーションは奇跡的な力を持っている。それは怠惰とはちがう、怠惰な人は外側から見ると,あたかも彼は何も働かないようにみえる、しかし彼のマインドはできうる限り早く動いている、そしてリラックスした人はー彼の身体はリラックスしていて、彼のマインドはリラックスしていて、そして彼のハートはりらっくすしている。ただ3つの層においてリラックスしている ー ボディ、マインド、ソウル ー 2時間のあいだ彼は殆ど不在だ、この2時間の間で彼のボディは回復する、彼のハートは回復する、彼の知性は回復する、そしてあなたは彼のワークの中で全てが回復しているのを見るだろう。
OSHO, 私は自分の愛が臭気を放っているのを知っています。それなのに、なぜその臭いに執着するのでしょう。
あなたが愛の内にいるとき、そのときこそ、あなたは自分のほんとうの顔を見せはじめる。愛は鏡だ。
他者が鏡として機能しはじめる。あらゆる関係性は鏡になる。ひとりだと、あなたは自分自身の臭いを体験することはない――できない。人はそれに免疫になってしまう。あなたは、その臭いとそんなにも長く暮らしてきたのだ。どうやってそれを嗅ぐことができるだろう? 他者といっしょにいてはじめて、あなたは相手が臭うのを感じはじめ、相手もあなたが臭うのを感じはじめる。そして、闘いがはじまる……それが世界中のすべてのカップルのストーリーだ。[…]
もしあなたが愛し、そこに嫉妬がなかったら、あなたは自分が愛しているのかどうか不思議に思いはじめるだろう。
これはいったいどういう種類の愛なんだろう? 嫉妬心がないみたいだなんて! あなたがある男性を愛し、たとえ彼がときどきほかの女性とつき合っても、あなたはそのことで大騒ぎをしたりしない。あなたはそれを当然のことと思う――。それは変化のためにはまったくよいことだ。そして、あなたの彼が幸せなら、彼を幸せにしてあげたらどうかね? あなたは彼を愛しているのだ。もしあなたがほんとうに彼を愛しているなら、あなたは彼の幸せをも尊重するだろう。それに、彼は永久に行ってしまうわけではない。
実際、もしカップルが、ときどきほんの少しの自由を許されたら、彼らは別れないだろう。
世界の離婚率は下がるだろう。離婚が存在するのは、結婚が窮屈すぎるからだ。結婚をもう少しリラックスしたものにすれば、離婚はなくなる。離婚は結婚の副産物にすぎない。結婚制度が窮屈であればあるほど、離婚は絶対に必要になる。そして、もし離婚が許されなかったら、あなたは二重の生活をすることになる――ひとつは対社会の、もうひとつは生きるための。[…]
人間のマインドが理解されればされるほど、結婚はますますリラックスしたものにならなければならない。
結婚生活に2、3日の休暇をとるのは、まったくオーケーだ。女性はボーイフレンドたちをもつのを許されるべきだし、男性はガールフレンドたちをもつのを許されるべきだ――少なくとも、ちょうどあなた方が日曜日だけの宗教をもっているように、日曜日だけの結婚というわけだ! すると、自分の妻がずっとすてきに見えることに驚くだろう。再びハネムーンがはじまる――ミニ・ハネムーンだ。あなたはふたたびイロハからはじめる。それに、多くの女性、多くの男性といるということは、結婚を破壊しはしない――いや、それは絶対にない。それが結婚や家族を破壊するというのは、人類にはびこっているひじょうにナンセンスな考えだ。そうではない――それはひじょうに支えとなるものだ。それは家族がもっと喜びに満ち、争いごとが減るのを助ける。[…]
もしあなたの愛が臭うのなら、正確にはなにが臭うのか、見つけようとしてごらん。それは愛ではない。なにかほかのものだ。愛そのものには香りがある。臭うことなどありえない。
それは蓮の花だ。そのなかには、なにかほかのものがあるにちがいない――嫉妬、所有欲。だが、あなたは嫉妬と所有欲には触れていない。あなたはそれらを隠している。愛はけっして臭わない、それはありえない。それは愛の本性ではない。どうか、その問題をつくりだしているものが正確になんなのか、見てほしい。そして、私はそれを抑圧しろとは言っていない。必要なのは、それについての明晰さだけだ――なんなのかという。
もしそれが嫉妬なら、私はひとつのことだけを示唆しよう。あなたの嫉妬をもっと注意して見なさい。
次にそれが起こるとき、狂ってしまうよりはドアを閉め、静かに坐り、瞑想の内に坐り、自分の嫉妬を見守りなさい。それがなんなのかを正確に見なさい。それはあなたを煙のように、汚れた煙のように取り囲む。あなたは息が詰まりそうになるだろう。外に出て、なにかしたいと思うだろう。だが、なにもしてはいけない。ただ、無為の状態でいなさい。というのは、嫉妬の瞬間になされることは、どんなことでも破壊的になるからだ。ただ見守りなさい……。それがあなたに乗り移るときは、いつでもそれに瞑想しなさい。ゆっくりゆっくりと、瞑想があなたと嫉妬のあいだに距離をつくりだす。そして、距離が大きくなればなるほど、嫉妬が起こるのは少なくなる。
そしてある日、嫉妬がなくなったときに、あなたの愛はどんな花も及ばないほどの香りを放つ。どんな花も、愛が花開くのにくらべたら貧弱だ。
Walking In Zen,Sitting In Zen
Copyright © 2008 Osho International Foundation
OSHO,自然に起こるがままでいることは、なぜ私の中にこれほど恐怖を生み出すのでしょうか。構造が何もないと、まさに死のように感じます。この恐怖を、私はどうすれば手放しに、迎え入れることに、喜びに変えることができるのでしょうか。
おそらく、あなたは、自分が再びもうひとつ別の構造を求めていることに気づいていないのかもしれない。自分が何を求めているのか意識できるように、私があなたの質問を読んでみよう。
「自然に起こるがままでいることは、なぜ私のなかにこれほど恐怖を生み出すのでしょうか」。それは、誰のなかにも恐怖を生み出す。というのも、自然に起こるがままでいることは、それが何であろうと、自分の行動に責任を負っているということだからだ。親から、教師から、教授、聖職者、指導者から与えられた条件づけを頼りに――自然に起こるがままでいるのではなく――自分の過去の条件づけから行動したら、恐怖はない。あなたは、自分が独りではないことを知っているからだ。あなたは、自分の行動が認められていることを知っている。
恐怖が生じるのは、自分は独りだということに気づき、訓練すべてに反している何かをやっている時だ。
あなたは自分が反抗していることを知っている。自分の親を向こうに回そうとしている、人類が受け継いできたすべてのものを向こうに回そうとしている。過去の重荷は山のように大きく重く、まさにヒマラヤのようだが、自分はひじょうに小さな個人としか思えず、それを向こうに回すのは怖い。つぶされてしまうかもしれないのだ。
自然に起こるがままということは、その瞬間に行動しているということだ――反動ではなく、行動。それが、このふたつのことばのちがいだ。反動すると、それは自分の過去の積み重ねられた知識、体験から生じている。だが、応じると、それは自分の現在の意識から生じる純粋な行動だ――過去の記憶からではなく。これは、あなたの内にある、ふたつの異なった源だ。記憶は心地よい。というのも、みな同じ記憶を持っているために、誰もがあなたは正しいことをやっていると誉めてくれるからだ。だが、もしあなたが自分の力で行動したら、危険を冒していることになる。それは合わないだろう。まず間違いなく、あなたのまわりに築かれている構造には合わないだろう。だからこそ、恐怖が生じる。
だが、私はあなたに言おう、あなたがどういう状況にあることになるのか、何ひとつわかっていなかった者たちの奴隷になるよりは、恐怖で苦しんだほうがいい。
彼らはあなたに固定観念を、問いへの答えを与えているが、その問いがあなたの人生でどういう形で生じてくることになるのか、何も知らないのだ。
自分が直面している状況に応じるためには、記憶ではなく、知性が必要だ。過去から受け継いできたものではなく、覚醒が必要だ。だから、たとえ恐怖が生じようとも――それは自然なことだが――その恐怖をかえりみず、自然に起こるがままでいようと決心するがいい。すぐに、こうした恐怖は消える。
それは、もっともっと、自然に起こるがままにあることから行動するということにすぎない。そうすれば、自分はひとりの個人であるということがさらにまとまり、しっかりしたものになり、過去があなたのまわりに掛けたすべての鎖から自由になる。恐怖は消える。が、それには少し時間がかかるだろう。もし恐怖に耳を貸したら、個人としての尊厳を獲得することはけっしてできない。
木々でさえも個としてのありようをもっている。動物はみな、自分の個としてのありようをもっている。人間が自分の個としてのありようを失ったのは、まさに恥ずべきことだ。
だから、すべての恐怖をさしおいて、危険を冒すがいい。勇気を出し、自分の意識に従って行動するがいい。そうすれば、自然に起こるがままに行動している時は、いつでも自分は正しいということがすぐにわかる。あなたは状況に直接答えているからだ。
だが、あなたはたずねている――「構造が何もないなんて、まさに死のように感じます」。害はない。死ぬがいい! あなたの人生にたいした価値はない。死んだ者たち全員の囚われの身になるよりは、自然に起こるがままに死ぬほうがいい。少なくともあなたは、「私は、少なくともひとつの点で、すべての過去から、そして、宗教、国家、人種、肌の色というすべての牢獄から自由になった」と言うだけの尊厳を得る。
さらに、あなたはたずねている――「この恐怖を、私はどうすれば手放しに変えることができるのでしょうか」。わかるかね? 「どうすれば」とは、またしても自分の記憶に新しい構造を詰め込もうとしているということだ。だが、自然に起こるがままでありうる構造など、ひとつもない。次の瞬間に何が起こるのか、知ることはできない。明日が何をもたらすのか、思い描くことはできない。だから、どんな構造を築きあげても、どんな宿題をやっても、状況には当てはまらないことになる。
私はどんな宿題もけっしてしたことがない。学校、カレッジ、大学で、私は担任の教師、教授たち全員に、「私にはどんな宿題も絶対に出さないでほしい」ということを完全にはっきりさせた。
すると、彼らは言った、「しかし、それは変だ。そんなことを言った者はこれまでひとりもいない」
私は言った、「誰かが言ったか言わなかったか、そんなことは私は気にしない。確かなのはひとつのことだけだ。あなたは私に答えてもかまわない、私に聞いてもかまわない、何でもしたいことをしてかまわない――が、私は自然に起こるがままでいるつもりだ。準備などしない」。宿題は準備だ。あなたはあらゆるものをすでに準備している。
あなたは、「この恐怖を、私はどうすれば手放しに変えることができるのでしょうか」とたずねるべきではない。というのも、私があなたに何を言っても、それはまたしてもあなたの構造になってしまうからだ。
ただ単純でいるがいい。状況を見出したら、行動するがいい! 恐怖はわきにおいて、自然に起こるがままの反応を楽しむがいい。問題なのは二、三度だけで、あとは恐怖が消えているのがわかる。というのも、自然に起こるがままの反応は、すばらしい喜び、ハートがすばらしく開くこと、すばらしい新鮮さを与えてくれるからだ……まるでシャワーを浴びたばかりのような。だが、どんな方策も求めてはいけない――「自然に起こるがままでいるには、どうすればいいのか」――というのも、「どうすれば」とは、まさに構造のことだからだ。「どうすれば」とたずねてはいけない。やってみるがいい。何も知らずに、無垢なまま、状況に応じれば、そこから手放しの大いなる体験を学ぶことになる。そして、あなたは楽しむ。あらゆるたぐいの恐怖からの自由を達成したからだ。
あなたの恐怖とは何かね? 何を失う? 失うことができる唯一のものは、あなたの命だ。が、それはあなたのものではない。それは宇宙のものだ。いつの日か、あなたはそれを失うことになる。
だから、どうだと言うのかね? 一週間は七日しかない。月曜日に命を落とそうが、あるいは火曜日に……だから、それは七日間という問題にすぎない。私は、一瞬の間も、何か失うものがあると思ったことなど一度もない。私には失うものは何もない。それが、自然に起こるがままに行動する自由を、どんな恐怖もなく行動し、言いたいことを何でも言う――世界のあらゆる政府を向こうに回し、世界のあらゆる宗教を向こうに回す、途方もない自由を、私に与えてくれた。それで、私のハートに恐怖の影が少しでも生じるとは思わない。
逆に、こうした愚かな者たちを叩けば叩くほど、私は楽しくなる。というのも、私から見れば、彼らは犯罪者だからだ。私から見れば、彼らは人類に起こった最大の災難だ。こうした者たちを恐れることはない。自分たちの墓に葬られている幽霊を恐れることはない。だが、誰もが、まさに最初から恐怖を注入されている。血が恐怖でいっぱいなのはそのためだ。この恐怖漬けが、こうした犯罪者たち全員が、あなたを支配し、あなたを破壊し、あなたに愛と至福の生を生きさせない助けになる。
私のサニヤシンに関するかぎり、恐怖が自分の存在の一部であってはならない。恐怖は、あなたの存在の暗い隅にある――。もっと光を当てるがいい。もっと意識を持ち込むがいい、もっと覚醒を持ち込むがいい。そうすれば、恐怖は消える。
恐れる何が、そこにあるかね? 笑う種はいくらでもあるが、恐れることは何もない。笑いこそ、何世紀にもわたって人類を虐待してきた者たちの頭を切り落とす、私たちの剣でなければならない。
Osho, Om Mani Padme Hum, #20 より抜粋
OSHO,いままで、これほどまでに愛を感じ、これほどまでに自分が独りだと感じたことはありません。OSHO,ありがとうございます。
これは、非常に深く理解すべきこと、非常に重要なことだ。愛はつねに単独性をもたらす。単独性はつねに愛をもたらす。ふたつはけっして分けられることはない。人は、反対だと考える。
「愛しているときに、どうやって独りになることなどできる?」
人は、孤独と単独性というふたつのことばを区別しない。だから、誤解が生まれる。
愛しているときは、孤独ではない。それは正しい。だが、愛しているとき、あなたは独りになるほかはない――それは、さらに真実だ。孤独は否定的な状態だ。孤独とは、あなたが相手を探し求めていることを意味する。孤独とは、あなたが暗くよどんで失望していることを意味する。孤独とは、恐怖を意味する。孤独とは、あなたが独りとり残されていることを意味する。孤独とは、誰ひとりあなたを必要としていないことを意味する。それは傷つく。孤独は傷のようなものだ。
単独性は、花のようなものだ。辞書では、孤独と単独性は同じ意味になっている。それはまちがいだ。ふたつはまったく異なった現象だ。孤独は傷であり、癌に変性することもありえる。孤独が原因で死ぬ人は、ほかのどの病気で死ぬ人よりも多い。世界は孤独な人間であふれている。そして孤独ゆえに、その傷、虚しさ、空虚さ、否定感をなんとか埋めようとして、人はあらゆる愚かなことをつづけている。
孤独な人間は過食する。ただ、その満足感を求めて。孤独な人間は、太りはじめる。孤独な人間は、ソーマからLSDまで、あらゆるドラッグやアルコールを摂取する。
自分を忘れたいからだ。孤独はあまりに醜悪で、死のように恐ろしい。だから、人はそこから逃れようとする。孤独な人は、4、5、6時間もテレビの前の椅子に座って釘づけになっている。アメリカ人は、テレビの前で目を凝らして6時間も座る。ほかに何ができる? どこへ行く? 誰と話しをする?
コミュニケーションはやんでしまった。人びとは語り合っていない。互いに向かってことばを浴びせているだけだ。だが、互いに語りかけてはいない。人は、相手に手を差し伸べることを忘れてしまった。人びとは平行線だ。互いに近づいてはいるが、けっして出会うことはない。夫や妻、友人たち、いわゆる恋人たちでさえ、けっして出会うことのない平行線だ。互いに近づき、明日に出会うことを希望しているが、それは希望にすぎない。それは幻想にすぎない。人びとをなんとかつなぎ止めているにすぎない。
線路を見ればよくわかる。線路は平行だ。遥か遠くで2本の線路は交わっているように見える。だが、けっして交わりはしない。そこへ実際に行ってみれば、線路は交わっていない。そこに近づくと、交点はふたたび遥か彼方に移動してしまう。あなたと見かけの交点の間の距離は同じだ。
世界は非常に孤独だ。だから人びとは、ほんのしばらくでも孤独を忘れるために、ドラッグ、セックス、そのほかどのような娯楽にでも溺れようとする。傷は膿を出している。
私たちは傷をあらゆる方法で隠そうとする――偉大な財産、大きな宮殿、大金――新しい小道具で――だが傷はなくならない。小道具は傷を覆いはしない。世界一大きな邸宅を持ったとしても、小さな小屋に住んでいた頃と同じだけ孤独だ。そこになんの変化もない。財産が内面の孤独を変えることはない。
そこで、人びとは互いにかかわりを持とうとする。だが、ともに孤独な者に関係性は不可能だ。関係性は必要からは生まれない。関係性はあふれるエネルギーからのみ生まれる。けっして必要からではない。ひとりが飢えていて、相手も飢えているなら、互いに相手を搾取しようとするだろう。そのような関係性は、愛でも慈愛でもなく、搾取以外のなにものでもない。それは友愛ではない。それはある種の敵意――非常に苦いが砂糖に覆われている。そして早晩、その砂糖ははげ落ちる。ハネムーンが終る頃には、砂糖がなくなってすべてが苦くなる。そのときは、すでに罠にはまっている。最初は別々に孤独だったふたりが、今度はともに孤独だ――これは前よりももっと痛む。互いに孤独な夫婦が部屋に座っているのを見るがいい。表面では一緒にいるが、奥深くでは孤独だ。夫は自分の孤独のなかで迷い、妻も自分の孤独のなかで迷っている。世界中でもっとも悲しいことは、ふたりの恋人、カップルが互いに孤独であるのを見ることだ。世界中でもっとも悲しい光景だ!
単独性は、それとはまったくちがう。単独性は花だ。ハートに蓮華が開花する。単独性は肯定的だ。単独性は健全だ。それは自分自身になることへの喜びだ。自分自身のスペースを持つことへの喜びだ。
そうだ、愛のなかにあるとき、あなたは独りだと感じる。単独性は美しい。単独性は至福だ。だが、愛する者たちだけがそれを感じることができる。というのは、愛だけが独りになる勇気を与え、愛だけが独りになるための状況を与えることができるからだ。愛だけが深い満足感を与えることができる。だから、もはや相手を必要としない――独りになることができる。
愛はあなたを統合し、あなたは独りでも歓喜することができる。愛はコントラストになる。愛と単独性は同じエネルギーの両極だ。
そして、それを理解するのはよいことだ。恋人たちは、互いに独りになるスペースを与え合えないことがよくあるからだ。互いに独りになるスペースを与え合えなければ、愛は破壊される。独りになることによって、愛は新鮮なエネルギーと豊潤さをえることができるからだ。独りであるとき、エネルギーは満ちあふれるまで蓄積される。
その流れ出るエネルギーが愛になる。そのとき、友人、恋人、誰であれ愛する人のところに行ってそれを分かち合える。あなたは、充分に分かち合うだけのエネルギーを持っている。実際、あまるほどのエネルギーだ――分かち与えるよりほかに道はない。しかも、あなたが相手に強制しているのではない。実際は、あなたの方が相手に強制させられているのだ。雲が水を持ち切れないとき、雨を降らすほかはない。そして、雨を降らすことを許し、水を吸い、客として雨を受け取り、歓待してくれた地上に、雲は感謝するにちがいない。花が開くとき、花は香りを放出するほかはない。花は、香りをあらゆる方向に運んでくれた風に感謝するだろう。
独りでいるときはエネルギーを蓄積することができる。エネルギーは生命だ。エネルギーは喜びだ。エネルギーは愛だ。エネルギーはダンスだ。エネルギーは祝祭だ。エネルギーがあればなんでも可能だ。それは、歌、ダンス、愛になる。そしてエネルギーは、ありあまっているときに初めてオーガズムになる。
多くの人びとが愛を交わすが、オーガズムについてはなにも知らない。なぜなら、彼らはすでに疲れきっているからだ。愛を交わすとき、彼らは虚しい。愛を交わすとき、彼らには分かち合うエネルギーがない。愛を交わすときに満ちあふれることができない。彼らのオーガズムは、良くて性器の周辺に起こるだけだ。そのようなオーガズムは、非常に些細な、ありきたりのできごとだ。なんの霊的な意義もない。くしゃみのようなものだ。もちろん、くしゃみをした後に少しは気分も良くなるだろう。また、背中の痒いところを掻けば、良い気持ちにはちがいない。慰めになる。
オーガズムは慰めではない。オーガズムは祝祭だ。そしてオーガズムは、相手を通して自分自身と、全体と出会うことだ。オーガズムはつねに神聖だ。あなたは、相手という扉を通して神聖なる世界に入って行く。オーガズムはつねに霊的だ。けっして性的ではない。オーガズムを性的だと見なす人びとは、まったく理解していない。彼らはセックスに関して、オーガズム的体験に関してなにも知らない。オーガズムはつねに三昧、歓喜だ。だが、人びとはわかっていない。なぜなら、あふれるエネルギーからではなく、必要から出会うからだ。
だから、愛しているときは、独りになりたいという強い願望が生まれる。覚えておくがいい――愛においてのみ、独りになりたいという強い願望が生まれる。
真の恋人たちは、相手に独りになる自由を与える。彼らはすぐにエネルギーに満ちあふれ、また出会って互いにエネルギーの雨を降らせる。独りになっていると、エネルギーを分かち合いたいという強い願望が生まれる。このリズムを見るがいい。愛しているときは独りになりたい。独りでいるときは、やがて愛したいと思うようになる。恋人たちは近づいては離れ、近づいては離れる。そこには、ある種のリズムがある。離れるのは、愛に反しているわけではない。離れるのは、みずからの単独性をその美しさと喜びとともに取り戻すためだ。だが、自分が喜びにあふれれば、つねにそれを分かち与えたいという内的な避けがたい衝動が起こるものだ。誰ひとり喜びを抑えることはできない――そして、抑えられるような喜びにたいした価値はない。喜びはあなたよりも大きい。だから、あなたの方でそれを抑えることはできない。それは洪水だ! 抑えることはできない。それを分かち合う人びとを探すほかはない。
仏陀にとっては、あなた方の恋愛に起こることがより高いレベルで起こっている。仏陀が光明を得たとき、彼はあまりにエネルギーと喜びに満ちあふれていた。だから、それを分かち与えなければならなかった。42年間、仏陀はみずからの喜びを分かち与えながら村々を旅した。
これこそ、私があなた方とともに行なっていることだ。私は教師ではない。私になにも教えることはない。なにひとつ伝えることもなければ、なんの情報もない……。私は、ただみずからの存在を分かち合うためにここにいる。私はあまりに満ちあふれている。雲は水を含んで重くてしかたがない。そして、あなたに私を受け容れる用意があるなら、私があなたに感謝するだろう。
分かち与えるのは、ありあまっているからだ。光明、仏性、キリストの意識はあなたと神の橋渡しをする。そうすれば、無限のエネルギー源があなたのものになる。無尽蔵の源泉があなたのものだ。あなたは休みなく与えることができる。与えれば、さらに多くがあなたのもとにやって来る。
単独性がその究極の頂点に到達したとき……。師とは、世界中でもっとも孤高とした存在だ。ゆえに、師は世界でもっとも愛ある者だ。仏陀やキリストほど偉大な愛する人を見つけることはできない。だが、その愛の質はあまりにちがっている。いまや、それは友愛と慈愛と共感だ。人物は消滅した。情熱はほとんど姿を消している。慈愛ははかりしれない、巨大だ、途方もない、無限だ。情熱が無限になるとき、それは慈愛だ。
あなたの体験はすばらしい。そして、あなたはその美を理解した。だから、私に感謝の気持ちを感じたのだ。
あなたは言う。
「今まで、これほどまでに愛を感じ、これほどまでに自分が独りだと感じたことはありません」
ふたつは同じコインの両面だ。そして、あなたは言う。「OSHO,ありがとうございます」
あなたは理解した。あなたが愛と単独性をつなげることができて私は嬉しい。ふたつを楽しむがいい。ふたつのうち、どちらかを選んではならない。どちらかを選べば、ふたつとも死滅してしまうだろう。両者がいっしょに起こるにまかせなさい。独りになりたいときは、それに入ってゆくがいい。愛が起こったときは、それに入ってゆくがいい。独りであることは、内側に入ることであり、愛は外側に出ることだ。
単独性は息を吸うことであり、愛は息を吐くことだ。どちらかでも止めれば死んでしまう。息をためておくことはできない。息を吐いたままでいることもできない。呼吸はトータルなプロセスだ。そしてトータルなプロセスのなかでは、吸気は呼気と同じくらいに大切だ。愛は呼気だ。単独性は吸気だ。そして、そのようにして魂は生きてゆく。そのようにして人は魂を獲得する。ふたつを受け容れるがいい。けっして選んではならない! 選択せずにふたつを受け容れるがいい。そして呼吸が誘うところならば、どこにでも従って行くがいい。単独性は内面であり、愛は外面だ。
カール・グスタフ・ユングは、ふたつの用語を世に広めた。ユングは人間を基本的にふたつに分類した。内向的人間と外向的人間だ。これは誤った分類法だ。人間をこのように分類できるものではない。人間はこのように仕切られるものではない。私は内向的でしかない人間に一度も会ったことがない――そのような人間はすぐに死んでしまうだろう。息を吸うことしかできないからだ。私は外向的でしかない人間に一度も会ったことがない――そのような人間もすぐに死んでしまうだろう。人間はその両方だ。
内向的よりも外向的な側面の方が強いことはありえる。そして、その逆もしかりだ。それによって、不均衡が生まれる。人は同時にその両方でなければならない。バランスが取れていなければならない。
私のサニヤシンは、外向的な内向的人間、内向的な外向的人間の両方でなければならない。これは理解すべきもっとも重要なことのひとつだ。
過去に僧侶たちは、ただ内向的でなければならなかった。彼らは別世界の人間と呼ばれた。世間を放棄して僧院へ、山奥へ、砂漠へ赴く人びとだ。彼らは、内向的な人間になることが神とつながる唯一の道だと結論づけた。あたかも神が内面だけに存在し、外面には存在しないかのように考えていた。
そして他方、世俗的な人びとは外向的だ。外向的な人びとは、内向的な側面、瞑想、祈りとは、まったくかかわりがないと思っている。興味は金、権力、名声、人びと、群衆――世間にある。けっして内側を見ることはない。これは、非常に分裂症的な状況だ。
私は、自分のサニヤシンたちに分裂症的にではなく、全体になってもらいたい。世間にあり、しかも世間に属さない。外面と内面の間を、できるかぎりスムーズに簡単に移動するがいい。
家から庭に出るように……、家のなかが冷えすぎているから外に出る。外はまぶしいくらいに明るい。すぐに暖かくなる。すぐに汗が出はじめる。そして、涼しさと日影を求めて家に入る。ちょうど、家のなかと外を移動するように、内と外を移動するがいい――両者はともにあなたのものだ。
古いサニヤシン、古い僧侶たちは内面だけを重視した。彼らは外面を否定した。私のメッセージは、なにも否定してはならない――すべてがあなたに属しているということだ。
私はあなたに全宇宙を与えよう。内面と外面の両方だ。私はあなたに内向的になってもらいたくはない。なぜなら、外向的なものに敵対して内向的になった人びとは、病気に、病的、休眠、沈滞、閉鎖、隔絶状態になり、根を失ってしまったからだ。
彼らは窓のない存在を生きはじめた。彼らは不必要な惨めさのなかで生きはじめた。彼らはけっして単独性とはなにかを知ることはない。単独性は、愛なしには知りえないからだ――彼らが知っているのは孤独だけだ。そして、孤独は非健康的だ。孤独は病気だ。
そして外面のみに生き、内面についてまったく考慮しない人びとは、もう一方の対極だ。彼らは愛について少しは知っているが、その愛は欲望以外のなにものでもない――なぜなら、独りであることが同時に起こらないかぎり、愛は起こらないからだ。彼らの愛は、欲望につけられた美しい名前だ。彼らには相手が必要であり、相手を搾取し、相手を所有する。相手を所有するとき、あなたもまた相手に所有されるのだ。人びとは奴隷に、物になってしまう。もはや人間ではない。
内面を知らずに、外面のみで生きる人は貧しい、非常に貧しい――内なる宝に気づいていない。そして内面のみに生きる人もまた貧しい。けっして存在の美しさに気づかないからだ。星たち、砂浜、太陽、樹々、鳥たち……。
内面と外面はふたつのものではない。内面は外面の内面であり、外面は内面の外面だ。サニヤシンはその両方であるべきだ。私はカール・グスタフ・ユングが分類できない、彼が内向的とも外向的とも呼べない新人類を創造したい。ユングはそのような人間に対して新しい用語を作らなければならないだろう。なぜなら、新人類は全体であり、その両方だからだ。彼は魂であるのと同じだけ肉体だ。彼は唯心論者であると同時に唯物論者だ。彼はあの世界に属するのと同じだけこの世界にも属している。マインドには分裂も選択もない。
なにか、すばらしいことがあなたに起こった――その方向にもっと進んでゆくがいい。道を逸れてはならない。道を逸れるのは簡単なことだ。古い習慣、古い概念が、私たちをつねに古いパターンに引き戻しつづける。マインドは言うだろう。
「これは単独性ではない。孤独だ」 マインドは、それを孤独と呼んで破壊しようとする。気をつけなさい。マインドに気をつけるがいい!――マインドよりも手ごわい敵はない。
私は「マインド」と言って過去を指している。過去に死ぬがいい。そして、新しいことを学びなさい。あなたは非常に価値あることに出会った。まったく新しくて新鮮なことに……。愛は単独性をもたらす。単独性は愛をもたらす。それもまた起こる。
そして、あなたは言う。
「いままで、これほどまでに愛を感じ、これほどまでに自分が独りだと感じたことはありません」
私は、すべてのサニヤシンがあなたのように、単独性と愛を感じることを望んでいる。そして、両者の間にいかなる衝突も作り出さないことだ。このふたつによって交響曲を奏でるがいい。そうすれば、非常に貴重な豊さを手に入れるだろう。
Osho, The Fish in the Sea is Not Thirsty , #2 より抜粋
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臆病や偽善といった否定的な感情もまた美しいということはあり得るのですか?
もしあなたが勇敢な人であろうという考えをもっていたら、臆病者であることは醜く見える。だが、臆病なのは事実であり、理想はただの理想、マインドの幻想だ。
幻想を現実の犠牲にするがいい、すべての理想を落とすがいい。そうすれば、生は統合されはじめる。拒絶されたすべての断片が家に戻って来はじめる。抑圧されたものが表面に現われはじめる。初めて、あなたはある種のまとまりを感じはじめる。もはや、あなたはばらばらではない。
たとえば、私が「親切な」人であろうとしつづけたら、意識の中に怒りの感情がわいてきたとき、それらを認めて受け容れることを自分に許せないだろう。親切な人はただ怒らないからだ。
だから、個人の統一を意識にもたらすために、なにひとつ固定化したり長続きしたりするものはないが、自分は意識にわきおこる、瞬間ごとの体験に基づく現実のみでありつづける、という立場をとらなければならない。
従って、ある瞬間には私は怒っていて、次のある瞬間には私は悲しく、次のある瞬間には私は嫉妬し、次のある瞬間には私は喜んでいる。瞬間から瞬間へ、なにが起ころうともすべて受け容れられる。そうなったら、あなたはひとつになる。そして、この一体感は理解すべきもっとも基本的なことだ。
マスターは、いかなる瞬間であろうとそのときに弟子が実際にそうであるのに拒絶された、これらの体験上の自己の局面に弟子が直面し、それらを統合するように助けなければならない。弟子がそれとは逆の埋め合わせや、自分はこうあるべきだと感じているものや、守ろうとしているもの、強めようとしているもの、あるいは主張しようとしているものを実現するのを助けるのではなく。
私の目的、私の働きは、すべての理想をあなたから取り去ることだ。あなたは理想を抱いてやって来た。あなたは私に自分の理想を高めてほしい。あなたは私に、自分がなりたいものになるのを援助し、助けてほしい。それが、あなたがここに来ているあなたの動機だろう。だが、それは私の仕事ではない。
私の仕事はまさに逆だ。すでに事実であることをあなたが受け容れて、自分の幻想をすべて忘れるのを助けることだ。私はあなたに、もっと現実的で実際的になってほしい。私はあなたに地中の根を与えたい。ところが、あなたは空に憧れ、大地を完全に忘れている。
その通りだ、空もまた手に入る。だが、自分の根が地に深く入った者たちにだけだ。もし樹が空高くそびえ、雲たちとささやき合い、風と戯れ、星々と少し交感したければ、その樹はさらに深い、深い根を地に伸ばさなければならないだろう。第一のことは、地に根を伸ばすことだ。二番目のことは自ずと起こる。根が深く行けば行くほど、樹は高くなる。ほかには何もする必要はない。
私のここでの努力は、あなたの根を真理の土壌に深く伸ばすことだ。そして真理とは、あなたがそうであるものだ。
そうなったら、突然、ものごとが起こりはじめるだろう。あなたは上昇しはじめる。つねに得ようとしてきたが、あなたにはけっして達成できなかった理想が、ひとりで起こりはじめる。
もし人が自分の現実をありのままに受け容れることができたら、その受容そのものの中ですべての緊張が消える。苦悩、不安、絶望――それらはすべて、ただ蒸発する。そして不安がないとき、緊張がないとき、断片化がないとき、分割がないとき、精神の分裂がないとき、そのとき突然、喜びがある、そのとき突然、愛がある、そのとき突然、慈悲がある。これらは理想ではない。これらはとても自然な現象だ。必要なすべては、理想を取り除くことだ。なぜなら、これらの理想が障害物として働いているからだ。理想的な人であればあるほど、その人ははばまれている。
奇妙で矛盾しているように思えるが、安らぎは痛みの真っ只中でのみ見つかり、否定的なものや痛みを伴うとみなされているものと闘ったり、それから逃げたりすることではけっして見つからないことになっている。
その通りだ、臆病はあなたに痛みをもたらす、恐怖はあなたに痛みをもたらす、怒りはあなたに痛みをもたらす――これらは否定的な感情だ。だが、安らぎは、痛みを伴うものを拒絶することによってではなく、それを受け容れて吸収することによってのみ達成され得る。それを拒絶することで、あなたはますます小さく、小さく、小さくなり、力はますます弱くなる。そして、あなたは絶えず内なる戦争、内戦に陥り、そこでは一方の手がもう一方の手と戦い、そこではあなたは自分のエネルギーをただ浪費する。
覚えておくべきひじょうに基本的なこと――心理的な痛みとの交感のみが、その解放と超越のための扉を開く――心理的な痛みとの交感のみが。
痛みを伴うすべてのものが受け容れられなければならない。それとの対話が生み出されなければならない。それは、あなただ。
それを超えていくための方法は他にない。唯一の方法はそれを吸収することだ。
そして、それには途方もない潜在能力がある。怒りはエネルギーだ、恐怖はエネルギーだ、臆病もそうだ。あなたに起こるすべてには、その中に隠されている大きな弾み、大量のエネルギーがある。いったんあなたがそれを受け容れたら、そのエネルギーはあなたのものになる。あなたはもっと強くなる、あなたはもっと広くなる、あなたはもっと広々としてくる。そうなったら、あなたにはさらに大きな内なる世界がある。
Osho, Unio Mystica, より抜粋
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