大佐和キリスト教会

千葉県富津市・大佐和キリスト教会ブログ
当教会は正統なプロテスタント教会です

特別伝道礼拝メッセージ 『引きこもりから新しい人生への出発』 (2006・9・10)

2006-09-18 23:37:19 | 今週のメッセージ
メッセージと賛美:米田 浩司 宣教師
聖書箇所:新約聖書ヨハネの福音書12章46節
(金沢フィラデルフィア教会にて)



自分は引きこもりをしていた。16歳の時から家から出られない2年間があった。
原因は野球の挫折であった。私は野球をやっていて甲子園を目指した。
高校に入るまで順調にやっていた。松山市の高校に入り野球をやった。
ところが左目の怪我をし、それが原因で野球ができなくなり、引きこもりが始まった。
朝起きて夜寝るリズムをとることができなくなった。
人と言葉を交わすことができなくなった。その後仕事をしようと始めても
すぐに止めてしまった。引きこもりから6年目にうつ病になった。
悶々としていた。カウンセリングを受けている時、突然心の中がぷちんと切れて、
自傷行為をした。警察に連れて行かれ、精神科の病院に強制入院をさせられた。
もう駄目だと思った。劣等感の塊となり勝手に落ち込んでしまい、
相手のあら捜しをして、嫌われるようになった。
そのような時、宣教師との出会いがあった。初めは幸せそうでカチンときた。
嫉妬もあり攻撃的になった。でも宣教師は、何事も無かったように、
次も会ってくれた。彼のくれた聖書を読むようになった。
ヨハネの福音書を読んだ。「私を信ずる者は死んでも生きるのです」
「私から飲むものは渇くことがありません」「私は世の光であり、私を信ずる者は、
闇の中にとどまらない。」・・・
真っ暗で手探りで歩んでいた私には、この御言葉に深く感じ入った。
こんなふうに生きられたら私も幸せだなと思ったが、クリスチャンの看板を
もって生きるのが嫌だった。宣教師はイザヤ書43:4の「あなたは高価で尊い」
との御言葉で励ましてくれた。ある時高校の友達が甲子園で大活躍をし準優勝した。
テレビを見ながら彼を呪って祈る自分の姿があった。
その後でイェス様に出会い聖書の御言葉を土台にして生きていかねばと
罪を悔い改めてクリスチャンになった。それから15年が経つが、
引きこもりをして良かったと思えるようになった。
同じ体験をする人に御言葉を伝えることが私の使命だ。
(文責:三浦)



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礼拝メッセージ 『自分の分を生きる』 (2006・9・3)

2006-09-11 09:06:45 | 今週のメッセージ
説教者:宮崎 一実 伝道師
説教箇所:新約聖書 マタイの福音書 25章14節~30節

1.与えられたタラント

「タレント」という言葉があるが、教会では賜物、与えられた才能の意味。
(「タラント」とは「タレント」の語源といわれている。)

イェス様はおっしゃられた。
天の御国とはしもべたちをよんで財産を預け旅に出て行く人のようなものです。
このたとえ話のタレントはお金の単位。かなり大きな額である。
主人は旅に出て行った。5タラント預かったしもべは、5タラントもうけた。
2タラント預かったしもべは、2タラントもうけた。ところが1タラント預かったしもべは、何もせず土に埋めて放置しておいた。主人が帰ったときに、増えていなかったしもべは、しかられた。仕事を他の者がしているときに怠けていたから。なぜ土に埋めておくだけにしたのか、銀行に預けておけば利息が入っていたのにと、叱られた。

人はそれぞれ才能を与えられて生まれてきた。人に話をするのが上手な人、いつもニコニコして周りを明るく能力のある人。必ず地上に生まれてきたからには、才能を与えられてきている。しかしどうしても他人の才能に眼がいってしまう。そして自分の才能を磨かず使わず潰してしまう。

2.自分を知る

自分を知ることが大切。自分に与えられた才能を知り、どんなことに向いているか、どんなことは不得手であるかを知るようにする。5タラントを預かった責任と意識そしてやるべき自覚がなければ、5タラントをもうけられなかったはず。

3.与えられた使命を遂行するということ

生まれてきた限り与えられた使命がある。ある方は、結婚しないで医師の仕事をすることかもしれない。あるいは人は一つの仕事をこつこつとやって、一生懸命やることが使命かもしれない。私たちには才能とともに、使命が与えられている。私たちは自分の使命を自覚する必要がある。自分は子どもを育てるだけで、友達は仕事をしていてかっこいいなあと思うかもしれない。友達は医師ですごいなあと思うかもしれない。しかし自分の与えられた使命も大切であり素晴らしいと思うこと。一人の子どもを育てることも、尊い仕事である。そして最後まで使命を果たすことが大切である。小さいことでもこつこつとやっていくことが重要である。先日皇室の番組を見た。そこでは美智子皇后陛下の人柄を紹介していた。皇后は、10年前にタイの日本人学校に学ぶ男の子のところを訪問される予定だった。ところが台風の影響で実際には行けなかった。今回タイに訪問されるにおよび、皇后陛下は訪問できなかった男の人のところへ行きたいとのご意向を表されとのこと。美智子皇后陛下はまたある時、「自分のなすべきことは、陛下のお言葉で自分に与えられた分を祈りつつ、全うすることだけた」と語られたいう。

クリスチャンとして、しっかり覚え見習うべきこと。家族やたくさんの人々に、神様のお話をしていかなければならない。多くの兄弟姉妹とともに、唯一共通した使命。他の大きな使命以上に大切なこと。もし、あなたが福音を伝えることで救われるはずの人が、福音を伝えることを怠ってしまっていたのなら、神様は別の人をたててその人を救おうとされるかもしれない。しかし最短距離でその人を救うべきである。私たちには他の人を救うという使命が与えられている。自分は小さい者だとか、動けないとか、という弁明は聞かれない。与えられた使命を遂行しなければならない。私たちを通して、神様の救いにあずかる人がいることを知る。人々に神様を紹介する。

4.自分の分を生きるーらしさという言葉の重要性

「世界で一つだけの花」の歌に歌われるように、それぞれの個性をもって、すみれはすみれの如く、ぺんぺん草はぺんぺん草の如く、自分に与えられた使命を遂行するならば、神様にお会いすることができる。 

自分の分を生きるとは、自分らしさを生きること。しもべに財産を託し旅にでた主人の厳しさに目が行ってしまうが、主人-神様は、私たちを鍛えようとされている。使命に忠実かどうか、タレントを使っているかどうか、自分に厳しくなければならない。怠けて楽しんでいこうとしたからしかられた。100人でなくても一人であって神様の話をすること。与えられた分を生きるように。その立場からワープして、はじめて生きられるのではない。今の立場にとどまって十二分に頑張ることこそ大切である。
(文責:三浦)
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9月の礼拝予定&お知らせ

2006-09-01 08:35:36 | 今月の礼拝予定&お知らせ
◆2006年9月 主日礼拝予定◆

9月3日 AM11:00~PM12:20 メッセージ:宮崎一実 伝道師

9月10日 横浜・金沢フィラデルフィア教会の特別賛美礼拝に参加。
       メッセージ:米田浩次 牧師
       (AM9:00に当教会を出発します。)

9月17日 AM11:00~PM12:20 賛美と証しの集会。

9月24日 PM15:00~PM17:20 メッセージ:宮崎健男牧師

※教会学校 毎週日曜 AM9:00~AM9:45
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礼拝メッセージ 『夏季聖会のメッセージに学ぶ』 (2006・8・20)

2006-09-01 08:34:39 | 今週のメッセージ
説教者:宮崎 健男 牧師
聖書箇所:新約聖書ヘブル人への手紙 11章6節 

「出発信仰」というテーマの下で夏季聖会がありました。この夏の聖会のことをお証ししたいと思います。聖会は恵まれました。若い講師の方だったので、若い方が増加してきています。ヘブル人への手紙11章6節にあるように、たとえ優れた聖歌隊があっても、立派な教会堂があっても、神様への信仰がなければ、神様に喜ばれませんとあります。それは神様を信ずる人たちが教会にいるということです。神様がおられるという信仰がまず必要。次に神に求める者には、報いてくださることを信ずる信仰も必要です。悪魔、悪霊でさえ神様おられることを信じている、ふるえおののいている。やがて永遠の裁き、滅びに入ることを知っている。そのことだけの信仰では喜ばれない。神様は求める者には報いてくださることの信仰が必要。「神仏を尊び、神仏に頼らず」という信仰のあり方が日本古来の美徳とされてきました。しかし聖書の神様は、勿論神様を尊敬し崇めることは大切だが、神様に全部頼る信仰を喜ばれる。

詩篇23篇はダビデ王が神様への信仰を見事に告白している。神様は私の羊飼いです。どんなときにも乏しいことはありませんという信頼。個人的に神様に信頼を寄せていても、本当に困ったときに神様は頼りにならないという思いが生ずる。それは悪魔の働き。羊は非常に愚かで、迷いやすく従わない動物である。イェス様は、ご自身を良い羊飼いであると自己紹介しておられる。羊は神様から離れ、危険な目に遭うが、羊飼いである神様は、決して見捨てず、守ってくださる。御心を知り、完全に歩むことはできないが、ダビデ王様でも、いろんな経験をもってしても、失敗した。しかし神様は情け深く哀れみ深く、敵の前でも食事を整え、油を注いで、敗北することなく勝利をして乗り越えさせてくださったとある。神様に信頼しておゆだねしていけば、聖霊様のお働きによって、勝利の奇跡を起こしていくことができます。
(文責:三浦)
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礼拝メッセージ 『最初の奇跡』 (2006・8・6)

2006-09-01 08:30:12 | 今週のメッセージ
説教者:宮崎 健男 牧師
説教箇所:新約聖書 マルコの福音書 1章21節~39節

マルコの福音書は、使徒ペテロの口で語ったものを弟子のマルコが書き記した福音書といわれる。場所は迫害さなかのエルサレムで、時期は数年後にローマ軍の攻撃でイスラエル全土が滅ぼされるという頃であった。最初の福音書で、AD1世紀にすでに教会で読まれていた。たくさんの奇跡の記事が記されている。説教よりもイェス・キリストのみ業の記事が多い。ペテロの漁師だったことが反映して、実際的な記事を重視していると考えられる。迫害が切迫している中、クリスチャンを励まし、信仰を保つようにと、福音書が書かれた。

現代の中国のことを思わされる。中国には宣教師によって起こされた教会が多い。ハドソン・テーラーによって起こされ、それ以来たくさんの宣教師が奥地伝道をした。やがて共産主義が起こり、中国の宣教師が日本にやむを得ず来た。トム・ハーランド、カナダ宣教師は大佐和キリスト教会を始められた。大佐和の地で、野外の教会学校もされた。ペンテコステ派の宣教師ヘステキンド先生も、中国から横浜に来られた。共産主義は教会を閉鎖しようとした。キリスト教の完全な抹殺を目論んだ。実際にはそうはならなかった。聖書もない、教会もないという社会。拷問が行われた。しかし中国には、教会が起こされ、本当のクリスチャンがどんどん起こった。神様が、信仰に伴うしるし、驚くべき奇跡を行うようにしてくださった。獄に繋がれても、クリスチャンであることをやめなかった。現在何千万人というクリスチャンがいる。政府の御用聞きの教会があるが、本当の御言葉を伝える教会は、地下にもぐっている。どんどん増えてきた。

マルコの福音書により当時の人々がどれほど励まされたか。イェス様がカペナウムの会堂(シナゴーグ)に入られた。バプテスマのヨハネが捕らえられて後、イェス様は公生涯に入られたが、ここで初めて、説教をされて、奇跡を行われた。「『神の国』が近づいた」といわれた。神のご支配する国が近づいた。外国に行くと、パスポートにより日本人は守られる。そこには政府の依頼が書かれてあり、その権威により守られ、無事に過ごすことができる。クリスチャンになれば神の国に入った者となっている。神の国が近づいたのと、入ったというのでは、違う。イェス様は地上に来られた。30年と公生涯の3年。短い期間(3年間)に働かれた。その前の30年間は準備期間。大工の仕事や弟、妹の世話をされた。父親が早く亡くなられた。それから3年間、公生涯に入られた。本当のイェス様は霊と魂が神様から来ている。天国に全ての栄光をあとにおかれて、人間として誕生された。それにともない地上に神の国が降りてきた。イェス様は、全ての罪を背負って、悪の支配から解放するために、十字架に掛かってくださった。そして黄泉に下り、全ての罰を負ってくださった。信ずる者に対し、正しくない全ての言動全部を帳消しにしてくださり、神の子としての身分にしてくださった。まことの神様であり、御子であり、その方がどんなに愛しておられるか。父なる天の神様もあなたがたを、愛しておられる。父なる神様と聖霊様と、一緒に天地をお創りになった神様である。

私たちの祖先アダムとエバは、神様のおきてを破って、エデンの園を追放された。モーセもアブラハムも神の友と呼ばれた人類の代表だが、イスラエルの人々はシナイ山にモーセとともに、登っていくことができなかった。モーセのみが登っていった。人は生まれながらにしてどんなに罪人であるか。神様ご自身が人となってこられたのがイェス様であるから、福音を信じなさい。わたしたちが正しくないこともやってきたのは滅びの道であることを、悔い改めて救い主を信ずるならば、救われます。

「悔い改め」をどうしたらできるか。人が救われるというのは、罪から救われることである。エデンの園では、悪魔はエバを誘惑することができた。悪魔は神様の言葉を捻じ曲げることで、エバを誘惑することができた。神様のみ言葉は、御言葉として尊んで、分からなくても自分なりの解釈をしてはならない。ヤスヤスと悪魔にスキを突かれる。神様の御言葉は、そのままを語る。聞く人がそのままに受け取るから。曲げるとその人の言葉が届いてしまう。信仰によって受けとめて、書かれている通りに語る。

ニコデモはパリサイ人で指導者であった。イェス様を軽く見ていたパリサイ人の中でも、イェス様の奇跡をみて、教えを請うてきた。ニコデモはイェス様にお会いするや、神様に拠らなければ、あのような奇跡は決してできませんと、告白した。イェス様は言われた。「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることができない」また「水と霊によらねば、神の国に入れません」と。誰でもそうであるように、救われるというのは、受身である。最初宗教と思って入っても、救われるのは、神様によるのであり受身である。人が救われるためには、悪霊の支配から解放されなければならない。解放されなければ救われない。悔い改めなければ、神の国に入れない。自分でなんでもできるという自分中心から、神に頼らなければ、何にもできないと思う方向への転換である。

信じて何年も経っているから、それだけで成長をしているとはいえない。悔い改めることで、悪霊の支配から解放されなければならない。神様の支配へと移されなければならない。

サウロ青年も、神に仕えていると思った。律法を学び学問に進んでいた。それなのにクリスチャン迫害の急先鋒になった。ある時、復活のイェス様に会われた。180度変えられた。迫害者から御言葉をつたえるものに変えられた。クリスチャンは悪魔の支配から神様の支配に移される。イスラエル人も、いろんな苦難を通して、改心してナザレ人のpイェス様が救い主であったと信ずる時がやってくる。

罪が何であるか敏感になっている私たちは、
悔い改めて、清められて、神とともに道を歩む。
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