ジョギングはシャンパンの味

ジョギング、写真、革クラフト、木工、パンつくり、日本の古代史などを趣味にして楽しんでいます。

小学校の帰り道

2017年10月01日 09時39分30秒 | 思い出

・・・私が小学生の頃、通っていた小学校から、実家までの帰宅に要する時間は大人の足で10分くらいの道を、毎日、寄り道をしながら30分くらいかけて、友達と帰ったことを思い出す。
  幾つかの商店の前を通り、色んな職人の仕事場の前を見物し、近所の草むらの中を探索し、あそびながら帰ったものである。

  今でも覚えている、寄り道していた商店、職人さんの仕事場としては、コンニャク屋、タバコ屋、文房具屋、駄菓子屋、ブリキ屋、パン屋、風呂屋などです。
  特に、私はコンニャク屋さんとブリキ屋さんの職人さんの店先で、度々、作業をじっと見ていた覚えがある。
  今は町中にない商売屋さんです。

  他に、文房具屋さんの店先には、縁台があって、その縁台に、当時で70才くらいのおじいさんが座っていて、私たち小学生のの話相手をしてくれた。
  そのおじいさんは右手の親指の先が無くて、何故ないのか聞くと、日露戦争で、弾が当たって無くなったと聞いて、戦争の怖さを感じたことを、今でも、はっきりと覚えている。

  昔は、日日の生活の場に、小さな子供が触れる大人の仕事場ゃ話をするチャンスがあって、また、色んな大人とかかわれる機会が多く、その中でいろんなことを学んだような覚えがある。

  日露戦争の詳しい事も、その時、小学生の低学年の私が、家に帰って親に質問して知った知識でした。

  テレビなどで知る最近の事情によれば、若い人が自分が物心ついてから知ったこと以外は、ほとんど知らないことが多いように思って不思議だったのですが、こんなところに今の若い人の問題があるのかもしれません。

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大阪弁について

2016年04月21日 06時01分51秒 | 思い出

・・・最近、テレビに出ている外人のタレントで、漢字をネタに笑いを取っている人がいる。
 
  彼が云っているのを聞くと、日本語は面白いと思うことがある。

  例えば、「首を切る」、こうして漢字だけを見るとすごい言葉ですが、会社を止めさせることを「首を切る」と云う。
  命に係わる事ではない事なのに、「首を切る」と云う。

  また、お互いの関係を断つことを「手を切る」と云う。
  文字通りだと、「手を切る」と云う事は、大変な行為であるが、実はそれほどのことではない。

  こんな言葉の言い回しは日本だけではなく、英語を勉強していても、よく出くわす。

  振り返って、私は大阪出身だが、大阪弁にも独特の言い回しがある、
  その中で商売言葉に「値引く」ことを、「まける」と云う言い方がある、
  売る側が損をすることから、売る側からは「負ける」と云ったらしい。
  同じ、値引きの意味で、「勉強する」とも云う言い方もある、
  この方が、「負ける」より、売る側が、頑張っている感があって、私は好きだった。

  テレビなどで、昔の大阪弁などを耳にすると、子どもの頃や家族を、思い出して、懐かしくなる。

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会社の外の幸せ

2016年01月14日 07時11分22秒 | 思い出

・・・勤めしている時は、毎日の仕事で頭がいっぱいで、常に会社の仕事を中心に物事を考えての生活で暮らしていた。

  会社生活もいつも順調とは限らないで、上手くいかないときに、フト我に返って、毎日を振り返り、これからの人生を考える時がある、この経験は誰でも経験することです。
  自分の今の生活を振り返る時に、「このまま会社で働くのは何か違うのではと、考えて、残り少ない人生好きなことをやらなくては」と考えることも良くある。
  そこから、人生を変える人もあれば、そのままの人生を進む人もいる、人それぞれです。

  私も50歳を前に、そんな場面を経験した。
  丁度、サラリーマンのキャリアにとって大事な時でした。
  しかし、50代の年代は仕事としては、専門職の仕事はなく、人を相手にした仕事の時期でした。
  50代の10年間を今までどおりに、仕事にささげるか、其れとも、会社以外の自分の為の人生をそこからスタートするか、考えたことを思い出します。

  その時に、自分で考えて下した判断が、今になって振り返って、正しかったかどうか、よく分かりませんが、その時から、今まで過ごしてきた人生は自分で望んだような満足な人生を過ごせたように思います。 

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この親にして、この子あり

2016年01月04日 07時14分22秒 | 思い出

・・・親になった瞬間はなかなか、この言葉は判らないものであるが、しつけとか言われる期間が過ぎ、子どもが成人した時に、どうにも修正できない自分の子供の行動を見て、「親の子と云う事、知らぬは親ばかり」と云う事を知る。
  子供が小さなときは、其れなりに自分流に、色々と考え教育しているつもりであるが、その結果は、親の習慣や、癖、考え方は、子どもを形作っていく。

  成人した子供と話をしたり、一緒に行動している時に客観的に彼らを見ていて、ふと、自分の癖や習慣を指摘されているようで嫌になる事がある。
  つまりは自分の良くない部分を子供で修正することは無理なことで、今となっては手遅れではあるが、自分を変えなくては、其れは可能にならない。

  しかし、子どもの癖を見ていると、一緒に暮らしていない、私の両親の癖を子供が持っていたりして驚くことがある。
  これも間接的に、知らず知らずに、親の私を通じて、私の親が、私の子供に影響を与えているのである。
  ひょっとして、そうして地域の風習や、もっと大きく云うと、人種の特性などが形作られていくのかもしれない。

  私は子供に伝えたい大切な事があります、それは「我慢」と云う事です。
  特に、わたしたち以降の世代は、物質的に、我慢が必要でない世界で育ってきた人が多い。
  これは戦後の物質不足の厳しい時代に育ってきた我々が、子どもの世代に、しつけとして、残していくべきことかと思う。

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適正な額の年収

2015年06月29日 07時04分02秒 | 思い出

・・・最近の報道なので、日本でも会社経営者の年収が高額になり、ニュースになる事がある。
  年収が一億円を超すような人の懐を考えると、我々貧乏人にはそんな高額の年収をどうやって使っているのであろうかと余計な詮索をしてしまう。

  そんなことを考えていると、昔のことを思い出した。
  その昔、若くて会社で仕事が面白かった頃、直属の課長などが自分の仕事の結果によって、自分より、高額の年収を貰っているのが、腹立たしく思ったことが、あった。
  その後、自分が、若い人に比べて、何倍かの高額の年収を得ていた時は、どういう成果を出せば、胸を張って、その収入の、正当性を言えるのか、時に触れ、考えていたことを思い出しました。

  そういう経験から、自分なりに考えることは、一般社員に比べて、かなりの高額の収入に見合う仕事の成果は、
  日々の日日の目前の作業をこなすだけでは到底、その収入は得られない、少なくとも、一年単位の長いスパンで、会社の業務や売上が変わるような仕事をしなくては、その収入は得られないと考えられる、ほとんどの会社での自分の時間を、会社の売り上げが増える仕事のために頭を使うべきである。
  目の前の自分の職務上の仕事では、純粋にその成果のみを金額換算すれば、若い人の給料の二倍程度までが許される限度額である。

  そう云う考えに立てば、例えば、私なりの計算では、年収一億円と云う額は、一年に会社収入が、その人の成果によって営業利益で少なくとも毎年数億円以上増えるような成果を得ることが要求されるように思う。
  ほんとにそんな仕事をしている人がいるのか、現実問題として、ちょっと疑問に思う。

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家系図

2015年06月03日 07時03分41秒 | 思い出

・・・兄から、貰った、実家の過去帳の写しから、年代を調べたり、その時どんなことがあったかなどを調べながら、私の家系図を作っています。

  私から数えて六代前の1800年ごろの先祖様から始まる「私の家系図」を描くことが出来ました。
  又、その頃の、地域の地図なども、インタネットで探すと、見つけることが出来て、やってみるとなかなか面白い作業です。
  分かったことの一つに、私の家系は江戸時代、明治時代に生きた人も、75歳くらいの長命の家系のようです。

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隣国の未来

2015年01月08日 07時41分15秒 | 思い出

・・・テレビや新聞などの中国や韓国の現状の報道を見ていて、何年か前の日本と何が同じであろうかと考える。 

  平均年収を見ると韓国は日本の二分の一、中国は日本の三分の一らしい。
  従って、ほとんど、生活程度は同じと考えてよいだろう。

  車の所有や住宅の所有もほぼ同じ程度らしい。
  しかし、自由な発言や、報道、出版は日本より遅れているらしい。

  半世紀前の日本と同じ平均年収を考えるとインドネシアやタイなどの場合が同じらしい。
  その時期と云うのは、私たちが、ほぼ学校を卒業した時期である。

  そう考えると、日本が五十年かけて歩んできた、生活水準の向上の努力は、アジアの年収が増えるスピードを考えるとこれから10年くらいで、インドネシアは中国に追いつくと思う。
  従って、これらの国の生活レベル向上速度は、日本が歩んできた給料上昇の速度などの生活レベルに比べて約五倍の速度と計算出来る。
  そうなると、生活レベルは上がるが、社会環境や国の文化などが追い付いていかない状況となる。

  これから、先はどうなるのだろうか。
  人の後を追う時は真似すればよいのですが、近くまで追いつくと基本的には、マネ出来なくなり、日本の過去を見ればわかるが、これ以上、追いつけないと思います。
  ある段階からの国の発展の程度を判断するには、社会の仕組み、国民の基本能力、保有資源などの総合力で決まっていくと思う。

  それらを考えると、中国、韓国は、早急には、日本とは、同じにはならないと思う。

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草抜きをする母の思い出

2014年04月28日 07時29分18秒 | 思い出

・・・今朝、庭の植物の水やりも終わり、ふと気が付くと、暖かくなって勢いよく、でてきた雑草の草抜きを、自然と、している自分に気が付いた。
  かなり以前、母が生きていたころ、我が家に滞在すると、決まって、時間があると、庭で草抜きをしていた姿を思い出した。  年をとると、知らないうちに自分の姿や、行動が、両親に似てくるものである事を、改めて思った。

  私の母は、子どもの頃、自分の母親を早くなくして、下の兄弟の世話をしなくてはならない家庭環境で暮らしていたため、何時も、躰を動かしていないと気が済まない性格でした。 年をとって我が家に来ても、時間があるとテレビを見ているより、草を抜居たりして会居る方が性格にあっていたらしい。
  今になって思うと、いずれ直ぐに夫婦二人だけの生活や、近い将来、訪れる死ぬことなど、を考えると、両親が年老いころに云っていた、自分が今考えている同じこと事を、その時は、なんと冷たく、聞いていたかと、反省しながら思い返す事でしょう。

  今、一緒に生活している、子どもたちにそのことを話しても、その頃の自分と同じ受け止め方だろうと想像するとそのことを話す気にもなれない。
  気持ちを落ち着かすために、そうして、少しづつ人間は進化してきたかと、自分の話の落ちどころを考えてしまう。

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思い出の酒

2014年04月27日 09時20分18秒 | 思い出

・・・私は夕食時にその時の料理と気分に合わせて飲む酒を選ぶ。     家で食事をするが多いので、量は多くないが、白・赤ワイン、色々な焼酎、スコッチ、ビールなどから、毎日、選びながら、いただく。  
 日本酒の在庫が無くなったので、スーパーのイオンに行って銘柄を選んでいた時に、フト目に留まったのが、京都伏見の「玉乃光」です。

     

  昨年亡くなった友達が、彼の友達から毎年いただいて飲んでいる、とブログに書いているのを読んだ記憶がよみがえったので、急に飲んでみたくなって買ってきた。  その友達は、子供のころからの付き合いで、いまだに、なにかにつけて、心に浮かぶ。
  今は、今日の夕食は魚だったら、日本酒に合うので良いのになー、と期待してしまいました。

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勉強の仕方

2013年12月17日 07時04分48秒 | 思い出
・・・私は学生時代、数学、英語などの授業は好きでなく、理科、歴史などは好きでした。  今、考えると私は、現実社会と結びついた学問が好きだったようです。 数学も子供の頃は面白かったのですが、大学時代に習った数学は、現実と関係のない公式を理解することに、抵抗があって、好きになれなかった。  しかし、会社に入って、好き嫌いにかかわらず、仕事をしていく上で、数学の微積分が必要になってきたときは、仕事と対応すると数学がよく理解できるので、その意味を理解できることによる、面白さが出てきました。 また、英語も外国の専門文献を読むには、どうしても必要な道具で、毎日接しているうちにそれなりに嫌いではなくなっていきました。
  今の政府は子どものころから、英語教育をする事が、使える英語教育と考えているようですが、私は、上に書いた経験から、英語教育は、始める時期より、実生活の中と関係することが、使える英語教育の実践だと思う。 外国の人と交流を持つ機会を増やす、とか、英語を使って、他の学問を学ぶなど、英語の必要性を増やす事によることが、より英語に興味を持って勉強する方法であるように思う。
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友達の死

2013年08月15日 08時02分07秒 | 思い出

・・・小学校・中学校と一緒だった友達の奥さんから、「昨日の朝、親友が亡くなった」との知らせがありました。 最初、彼が入院した時は、とても心配したが、一時、病状が安定し、退院したと聞いていたので、少し安心していた。 彼は、病気の程度については、深く触れなかった。 彼の周囲の人と彼が一緒に病気と戦っているので、私は、彼が、負担にならずに気持ち的に楽になる付き合いをしたいと思って、病気になってからも、それまでと同じように、ただ、それまでより、少し頻度を増やして、主にメールと手紙でお互いの近況を知らせ合っていた。  
   彼とは、社会に出てからは深い付き合いもしなかったが、退職して、パソコンのメールやブログで、お互いとよく行き来しているような関係になって、同じ趣味をして、作品の写真を見せあい、それを楽しみながら交流していた。

   この年になると、死と云うのは、身近なものになるのではあるが、彼の死は、少し早すぎたように思う。 私より元気な人と思っていたのに、残念です。 住んでいる場所が、 遠方に、暮らしていて、これまで、パソコンのブログで、私の様子を知らせていたので、亡くなったこれからも、彼がどこかで私のブログを、今も読んでいてくれている気がします。
  そして、出来るのであれば、仲の良い奥さんを遠くから、何時も見守っていてあげてください。
  ご冥福を祈ります。 合掌

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歴史になってしまった記憶

2013年07月15日 05時51分58秒 | 思い出

…今、現在は太平洋戦争(第二次世界大戦)を戦った経験者は、若い人で80歳代、当時責任があったような人は90歳代の年になっている。  後、10年も経つと、戦争経験者はこの世から、ほとんどいなくなってしまう。  今は戦争経験者の口から、戦争のもたらす問題を生活体験として、語られて、聞いた人は実感が湧く。 
  私が小学生のころの、教師のほとんどは戦争経験者でした。  男性教師は兵役を経験していました。  今、話題になっている、体罰は、兵役経験者の教師としては、当時、こぶしで頭を、たたく、くらいは体罰とは考えていなかったように思う。   平手打ちで生徒が倒れるような殴り方を日常教育の中でやっていたように記憶している。   そういう中で、経験として、戦争の悲惨さや間違いを、我々生徒は、教えられていたように思う。 その結果、われわれ世代は高度成長時代を支える社会のモラルも経済も世界では、日本的といわれる特異な形で健全に社会の発展を支えてきた。 

  ここ最近の20年の日本社会は日本的と云う社会の形から、論理的な意味が重要視される西欧化社会に転換し、その結果、以前に比べると、,我々から見ると、何となく、おかしくなってきている。 議論すると論理的で一見正しいように見えるが、昔からの日本的な生き方が、軽んじられる社会になってきた。
 私が小学生の頃は学校の帰りに、雑貨屋さんに寄り道し、軒先で縁台に座る、日露戦争に参戦した老人の話を聞いたり、 母親からは、彼女が子供のころ、近所の年寄りが鳥羽伏見の戦いに参加した老人から、戦争の悲惨さを聞いたりしたことを私がマタギキで聞かされたことを覚えている。
  こういう、近代日本が進んできた戦争の負の道筋についても、われわれは生活の中で見聞きしてきた。  しかし、日本人がもう60年間、戦争を経験しなくなって、戦争経験は、直接、毎日の生活の中では,見聞きしたり、感じられない、歴史の中の出来事になってしまった。
   歴史を考える時は、事は論理的思考の対象になり、生活の経験とは、かけ離れてくる。  そうすると、今の置かれている状況から、論理的に、正しければ軍隊を持つようになり、外国の戦争に派兵するようなことになっていくでしょう。
  昔、日本人が苦しんだ戦争の生活経験は生かされなくなっていく。 肌で感じる痛みを時と共に、忘れる人間は、それを引きおこす間違いを犯してしまう。 そして、過去に反省した同じ過ちを、また繰り返してしまう。

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ヘチマタワシで遠い昔を思い出しました

2012年11月20日 05時51分22秒 | 思い出

・・・当家で収穫したヘチマを使って、ヘチマタワシの作り方をこのブログで紹介した。 作った、へチマタワシは家人は誰も使わないので、捨て置かれていたが、私が入浴の時に使ってみた。

  
  「私が作ったヘチマタワシ」

  入浴した時に、ボディーシャンプーをつけてからだを洗った。予想に反して、擦るとかなり皮膚が痛いことが分かった。 何回か使っているうちに、この痛さから、私が小学生の昔、家の風呂に父と入った時に体を擦られて、肌がとても痛くて、一緒に風呂に入るのが嫌だったことを思い出しました。
  六十年近くも昔の完全に忘れていたことを、ヘチマタワシの痛みから、思い出しました。 何年も思い出したことのない、小学生のころのはっきりした思い出に、その肌の痛みとともに、父と一緒に入った何シーンかの風景を思い出しました。

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小学校の同級生と不思議な出会い

2012年03月22日 07時54分53秒 | 思い出

・・・昨日、所要で実家のある大阪の街に久しぶりに電車に乗って帰省してきた。
  帰省というより、この年に成ると、兄の家の訪問という方がふさわしいかもしれません。

  最寄りの駅に、長兄が車で、迎えに来てくれることになり、、待ち合わせていたのですが、途中の電車の乗り換えの都合で、目的の駅に予定の時間より、三十分早く着ました。

  歩くつもりがなかったのですが、天気も良く、駅も近いので、歩いて兄の家まで、約十分の道のりを歩き始めました。

  その時の思いつきで、小学生の頃、駅に近い小学校に実家から、歩いて通った道を、逆の駅から、小学校に行って、そこから、実家に向かって歩き始めました。

  小学生のころの面影の街は、実際に歩いてみると、面影の三分の一くらいしか残っていませんでしたが、それでも懐かしく、道の両側を見ながら歩いてみました。

  学校の行きかえりに、よく寄って遊んだY君の家のあたりで、家はもう、無くなっていましたが、何となく懐かしく、立ち止って景色をみていた時、自転車に乗った男の人から、「F君と違いますか」と声をかけられました。
  その人の顔を見ると、今まさしく、思い出していた、懐かしいY君の面影のある人でした。
  「Y君ですか」というと、「そうです」という返事がありました。

  小学校卒業以来、五十年以上、会っていなかった昔の友に、その人は引っ越しして、今は住んでいない家の跡地の前で、名古屋に住んでいて、その地にはいない私が、偶然の気まぐれで、通った道で、すれ違って、お互いが小学生の時の友と分かって、声を交わした、と云う事は、本当に不思議な出来事でした。

  道で立ち話を二十分くらいして、分かれましたが、その時間は、いわゆる、小学校の同窓会で出会った時の友とは違って、環境が小学生の時の町並みの環境の中で、小学生の時の友と、話ができたことは、その時に戻れた貴重な時間でした。

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掛け算の九九

2012年02月01日 08時14分24秒 | 思い出

・・・掛け算の九九が云えない芸能人が、そのことを堂々とカミングアウトしているのを聞いた。
  日本人としては小さいころに強制的に覚えさされる掛け算の九九を知らないと云う事はある意味、かなりの物覚えが悪いという証明ではある。
  実のところは覚えられなかった、なんかの理由があったのだとは思うが…・。

  その話はさておき、家人と掛け算の九九について、しばし話題に花が咲いた。

  掛け算の九九は今は小2で覚えるようになっているらしい、昔は小3だったと家人は記憶している。
  ところで、私の場合、掛け算の九九はそろばん塾で覚えた、私の実家の大阪の近辺では小学校に入るとそろばん塾に通うのことが一般だったように思う。
  そろばん塾では掛け算のやり方を教えるのに、掛け算の九九は必須だったので、塾に入るとすぐに掛け算の九九を覚えさされたような記憶がある。
  従って、塾に通っている人は、小学校の算数の時間は計算だけは余裕だったように思う。
  考えてみるに、算数の時間の余裕が大学では理科系を選び、会社では技術者の道を歩む、人生の道を決めたのかもしれません。

  子供のころに好きな道を進ませることが、その道がその人に向いていれば、一生の仕事になり、好きなことをしながら生きていける、人生を歩む手助けになるのかもしれません。
  子供を育てる大事な要点のように感じました。

  話は別ですが、算盤塾似通っていた五年間ほどの間、塾が終わる冬の夜はいつも、家までの五分ほどの道のりを空を見上げながら歩いて、冬空の天の川やオリオン星座などを覚えたことが懐かしい思い出です。

  あのころは、都会の空でも満天の星が普通に見られました。

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