2009年6月号(通巻446号):目次

《V時評》
漂流するボランティア
 ボランティアの兼業と越境の勧め
 ・・・牧里毎治(大阪ボランティア協会 副理事長、
          関西学院大学 人間福祉学部)

《特集》
「見る」戦争体験
 その市民的活用法
 ・・・川井田祥子、杉浦健、千葉有紀子、村岡正司
   乾淑子(東海大学教授)

《ぼいす&シャウト!大阪ボランティア協会・事務局スタッフの仕事場から》
ひとつの相談の背後世界を想像する
 ・・・影浦弘司(大阪ボランティア協会)

《うぉろ君の気にな~る☆ゼミナ~ル》
心身障害者用低料第三種郵便物
 ・・・ラッキー植松&青木千帆子

《トピックス》
「見た目問題」で悩まない
 ・・・外川浩子(マイフェイス・マイスタイル)

《ゆき@》
デンマーク平らな国からのご報告ですp(^-^)q
 ・・・大熊由紀子(福祉と医療、現場と政策をつなぐ「えにし」ネット)

《この人に》
柴田昌平さん(記録映画作家)
 ・・・村岡正司

《ファンドレイジングが社会を変える》
ファンドレイジングから「会員」を考える。
 ・・・鵜尾雅隆(日本ファンドレイジング協会)

《コーディネートの現場から・現場は語る》
社会を映すボランティア活動の動機
 2008年度の相談統計からみえること
 ・・・白井恭子(大阪ボランティア協会) 

《ウォロ・バルーン》
新歓さんいらっしゃーい!
 学生ボランティアサークルに、人集めのコツを聞きました【後編】
 ・・・久保友美

《リレーエッセイ 昼の月》
「忘れる」ことの価値

《わたしのライブラリー》
戦争とさまざまな画像の関係について考えるための本
 ・・・小笠原慶彰

《おしゃべりアゴラ》
旅のカフェ・高島市新旭水鳥観察センター
 ・・・千葉有紀子

《レポートR》
人と/自然と/世界とつながる
 “ここからつながるマーケットin Nara”
 ・・・久保友美

《レポートL》
「チェルノブイリ23年京都のつどい」に参加して
 ・・・千葉有紀子

《市民活動で知っておきたい労務》
雇用保険の適用範囲の拡大
 ・・・石田信隆

《パラボラ・NEWS》
「やってみよう!エコ地蔵盆」冊子発行!

《某覧提案》
 ・・・浅石ようじ
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2009年6月号(通巻446号):V時評

漂流するボランティア


 ボランティアの兼業と越境の勧め

大阪ボランティア協会 副理事長
関西学院大学 人間福祉学部
牧里 毎治

■ボランティアの大衆化現象

 いまから40年前は、ボランティア・センターといえば全国的にも大阪と東京くらいにしか無かったので、高校生や大学生の若い人たちはボランティアといえば大阪ボランティア協会(以下、協会)に来るしかなかった。その後、全国社会福祉協議会にボランティア振興センターができ、全国各地に社会福祉協議会を中心に設立されて、ボランティア・センターのすそ野が広がった。主だった大学にも学生ボランティア・センターが置かれるようになった。ボランティア・センター以外にも男女参画協働センターだとか国際交流センターの設置が相次ぎ、ボランティア活動をはじめとする市民活動センターがふえた。協会の相対的地位は低下したのかグレードアップしたのか判断しにくいところがあるが、ずいぶんボランティア世界も様変わりしたというべきだろう。そうなのだ、若者は、社会貢献の志を実現したいと思えば、それらしきセンターは今どこにでもあるのだ。
 阪神・淡路大震災を契機にボランティア元年とまでうたわれ、確かに災害救援ボランティアや防災ボランティアの潮流は定まってきたようにも思うが、あの大騒ぎのボランティア盛り上がりはどこへ消えたのだろう。地方分権の波にのった介護保険制度化やNPO法の制定などなど、めまぐるしいほどの時代の変化は、ボランティアのイメージを大きく変容させたように思うし、なによりもボランティアの多様化、多元化をもたらした。このような状況は、ボランティアの大衆化現象ともいえるが、歪んで広がってきた日本のボランティア観を変えるには必要なことだった。また、活動が多岐にわたることよってボランティア・イメージの拡散化と、どこに行き着くのかわからないボランティアの漂流化も始まった。

■日本の歪んだボランティア観

 ここにいう歪んだボランティア観とは、一歩距離をおいてみられるボランティア・イメージのことである。さすがにボランティア活動は、お金持ちで血筋が良くて教養があって人格高潔で優しい心をもった天使のような人が行う善行だなんて信じている人はいなくなったと思うが、見返りを求めないで支援をするとか、会ったこともない海外の困窮者に寄付をするとか、損得抜きに行動できるのはどこか特別な人ではないのか、自分とは違う人種なのだとか、若者に身を引かせてしまっていることはないだろうか。
 ボランティア行為が浮いてしまう現状では日本社会で特異に形成されてきたボランティア観がまだ根強く残っているようにも思う。歪んだボランティア観に変形してしまったのは、ボランティアが福祉世界に長く閉じこめられて育てられたからではないか。ボランティアといえば病院で看護師さんの下でシーツ交換やタオル、ガーゼの整理などをする病院ボランティアとか、福祉施設への慰問や入所者との話し相手、遊び相手くらいにしか受け止めてもらえなかった時代もあった。少しボランティア観が流動化し始めたのは、在宅生活者の家事・介護・育児支援に取り組む在宅福祉ボランティアの登場からだろうか。少しずつだが市民運動をしたり、当事者の解放運動とボランティア活動のコラボが広がり始めてはいたが、ボランティア活動が市民権を得たのは、やはり阪神・淡路大震災後のボランティアの盛り上がり以後なんだろう。

■若い世代のボランティア

 若者ボランティアが少なくなってきたというのは福祉界だけでなくて、自治会・町内会でも後継者がいないとか、婦人会もPTAも若い世代が入会してこないと高齢の役員たちが嘆いている。環境問題とか農村再生とか人権問題とかの市民活動も似たりよったりで若い後継者問題は日に日に深刻さを増しているのが実情だろう。少子高齢化の時代なのだから若者の参加が減少するのは当然だとしても、高校生・大学生のみならず勤労青年も忙しすぎてボランティア活動、市民活動に関心が薄いというのはどういうことなのだろうと考え込んでしまう。今どきの若者は幼稚園や小中学校から塾だ、習い事だと忙しすぎて、若い親も子どもの学資やら貯蓄やらで収入を得ることに余念がないし、気持に余裕のない家庭では高校・大学に進学させてもらっても早く就職しなくてはならない。勤労青年(こういう人はもういないのかも)もやはり人生にゆとりが無くなってきたんだろうか。
 よく考えてみたら、昔の町内会や自治会も自営業の人か専業主婦の人たちが地域活動やボランティア活動を主に担っていたわけだから、そういう種類の人間が姿を消せば、次の若い担い手が育ってこないのも自然の道理だ。商店街はスーパーとコンビニに営業圏を奪われてしまうし、農業は若い者が都会に出て継いでくれないし、職住接近どころか遠距離通勤で地域活動や市民活動に関心がもてなくなるし、ボランティア活動をしようと思ったらフリーターになるかパートタイマーになるしかない。正規雇用か非正規雇用か違いはあるにせよ、性差も年齢も超えて庶民はみんな働きに出ているのだ。ということは、昔の人は兼業でボランティア活動し、また助け合い活動をしていたのだ。

■兼業+越境のボランティア

 アルバイトもフリーターも含め国民総勤労時代なのだから、ボランティア活動を広めようとするなら職場空間をボランティア広場にしないと定着できない時代になったのである。企業にボランティア活動の理解と協力を求めるのではなくて企業のオフィス、工場、倉庫をボランティア劇場にしないと少子高齢化社会は乗り切れないのだ。本業の場でボランティア活動を兼業にする智恵と工夫が必要なのだ。
 ついでに言うと企業も国際的になってきているのだから、ボランティアも国を超えてグローバル化しなくてはいけない。国際化は金融や情報だけではない。人材も野球選手やサッカー選手、音楽家や芸術家だけでなくボランティアも越境して活動する時代なのだ。なんだか、ますますボランティアを漂流化させる勧めという思いがけない結論になってしまった。
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2009年6月号(通巻446号):特集

《特集》「見る」戦争体験
 その市民的活用法



川井田祥子、杉浦健、千葉有紀子、村岡正司
乾淑子(東海大学教授)

■特集「こぼらばなし」 ウォロ編集委員・談

・今回取材した「いろはに」の周辺には、素敵なスペースがたくさんある。長屋ギャラリー&茶店「ろおじ」、町屋を改装した休憩所兼住民交流の場「鳳翔館」など。まちの記憶を伝えていこうとする市民の想いが感じられる。大阪「天王寺」からチン電(阪堺電車)で「高須神社」までゴトゴトと……旅気分を満喫できますよ~。(祥)

・今特集の寄稿者、乾淑子さんの師は、柳宗悦の次男で美術史家の柳やなぎむねもと宗玄さん。奇縁なことに、ぼくが愛聴するアルト歌手、柳兼子のご子息だ。乾さんの結婚祝いに手織りのマフラーを贈られた思い出など、手仕事にたけ、料理も堪能な柳先生。その手わざはすべて母親ゆずりだそう。「ジェンダーフリー」な明治の母だ。(村)

・戦争紙芝居の取材をさせていただいた古橋理絵さん。何足も「わらじ」を履いていますと笑う顔がチャーミングだ。大型連休直前、次の日から各地で紙芝居だと言う。駅まで帰る間に話が弾み、今時の子どもと紙芝居の話に。世は移り変わってもこんなアナログな(失礼?)ものに興味を示すのが驚きだ。人柄のなせる技かな。(千)

・プロパガンダとは恐ろしい。GW前後から流行した新型インフルエンザは、瞬く間に日本中を震撼。ニュースは分刻みで状況を伝える。人々はそこから目が離せない。そして、そのさなかの、民主党の代表選、裁判員制度のスタート、そして北朝鮮の核実験……。伝えるべきことのプライオリティは? その見極めは? 今も昔も重要なポイント。(ケン)
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2009年6月号(通巻446号):この人に

「怒りは神様が返してくれる」。
平和へのキーワードは、
この感性にあるんじゃないのかな。

記録映画作家
 柴田昌平さん

13年間にわたって記録した証言は22人、約100時間。やさしい目線で回されるカメラ。荒崎の海岸(注1)で、そしてアブチラガマ(注2)で、まるで幼子が親の話を聞くように、ひたすら受け手となり、“言葉のシャワー”を浴びながら、じっと、じっと、聴き入った日々。そうして世に問うた映像は、60余年の歳月を飛び越え、今を生きる人びとに、いのちの輝きをやさしく語りかけた。『ひめゆり』……決して平坦ではなかった道程の先に射した、温かな光だ。

■沖縄の土を初めて踏んだのは、NHKへ入られてからだとお聞きしました。なぜ沖縄に?

 人が暮らしていく実質、みたいなのを知りたかったんです。学生時代から、人間の営みの原点になってる土地を訪ねるチャンスを探してて、NHKに入るとき、東北、九州、沖縄など、都市生活から離れられるような地域に配属してほしいと希望を出したんです。それと、文化人類学やってた影響で、大学3年のころから民映研(民族文化映像研究所)(注3)のアチック・フォーラム(注4)にもずっと参加してました。すごい好きで毎週通って。姫田忠義さん(注5)に憧れて、作品もほとんど観尽くしました。でも、アチック・フォーラムでは、上映が終わったあと製作者と観客とがディスカッションをするのですが、意見を求められるのがイヤで、いつも隅っこのほうにいて姫田さんと視線が合わないようにしてたんです(笑)。自分に自信がなかったんですね。

■入社当時から、沖縄戦をテーマにした番組をつくられたんですか?

 いや、避けてたんです、最初は。沖縄に配属されたのは希望通りだったけど、右も左もわからない土地でしょ。ここですごいことがあった、という知識はもちろんありました。でも手強ごわくて、果たして僕なんかが受けとめられるテーマなのか。やはりちょっと大きすぎる、こわい、ずっとそういう思いがしてて。もうひとつは、今までいろんな方々が戦争関係のドキュメンタリーを作られてましたが、僕の心に響く作品にはなかなか出会えていなかった。でも、じゃあ自分が作るとしたらどうやるんだ、ということも皆目見当がつかない。ちゃんと向き合う自信がない。そんな何とも情けない自分だったんですね。

■では、とうとう機会はなかったんですか?

 作ったんですよ、結局。ディレクター3年生のときです。それで大失敗。 当時、沖縄戦をテーマにした番組を制作するのが、3年目の新人の“通過儀礼”でした。NHK沖縄局では90年代初め、市民のみなさんにスタジオを開いていこうと、毎週木曜日の夜8時に「ゆんたく(注6)テレビ」という生放送のトーク番組をやってたんですね。その枠でたしか6月23日に、沖縄戦を特集した90分の特番を組んで、僕が担当したんです。ちょうどベルリンの壁が崩れ、冷戦構造がなくなる一方で、嘉手納基地(注7)が世界の地域紛争への出撃拠点となるなど、沖縄の基地の役割はより大きくなろうとしていました。そこで僕は、今起こってる戦争が沖縄とどう関係してるのか、自由に語ってもらう場を企画したんです。沖縄戦だけで終わらせず、次世代に続く広がりを求めようと。
 番組では、沖縄出身の写真家や歴史学者をゲストに、戦跡めぐりに参加した高校生、沖縄戦の研究をしている大学生など、若い世代にも集まってもらいました。ところが、沖縄戦だけ研究する、考える、ってのはどうなんだろう、戦争は沖縄戦だけじゃないんだから……みたいな状態で議論が尻切れトンボになり、時間切れでそのまま番組が終わってしまったんです。沖縄戦のことを大事に勉強してきた人たちにとっては侮辱的な印象を残してしまいました。 ディレクターとして、事前に番組の議論の流れをシミュレーションをする力が足りなかったと思います。収録したものを後で編集できたら良かったのですが、このときは生放送でした。視聴者からのクレームもものすごかったし、出演した皆さんからも非常に強く批判されました。おそらくこれまでNHKがつくった沖縄戦の番組では、とりわけひどいものになったと思います。
 入社3年目、まだまだナイーブなころです。ひとつひとつの取材がこわくてこわくて、人と向き合うってこわいじゃないですか。いきなり重要な番組を任され、そのあげくの大失敗。もうすごいショックでした。その後NHKをやめることになるんですが、このトラウマから立ち直れなかったというのが理由のひとつです。

■それで民映研へ?

 中途半端な取材は絶対やっちゃいけない、ひとたび世に出してしまえばもう取り返しがつかない。失敗を通して学んだことです。自分の能力に限界を感じながら、「やめる」という選択もこわく、その後ずるずる1年。実はこの頃に一度辞表書いたんだけれど慰留され、東京の報道局というところへ異動しました。でも全然ついていけなくって。もうこれは挽回するチャンスも来ない、と、自分から見切りをつけてしまったんです。
 で、この先どうしょうどうしょう、と考えあぐねた末、やはり人と出会って人と学ぶ、ってことはやりたかったんで、一から映像の勉強をし直そう、と姫田さんに頼み込みました。「民映研に入れてください。給料タダでいいので」「NHKだろう、やめないほうがいい」「もう辞表出してきたんです」「じゃあしょうがない」(笑)。
 3年いましたが、本当に勉強になりました。「映像で記録していく」という、ごく当たり前のことをごく普通にやる。「犬も歩けば棒に当たる、当たった出会いを大事にしろ。見下しもしないかわりに“ヨイショ”もしない。同じ目線に立て」。姫田さんによく言われましたね。カメラワークひとつにしても、こういう付き合い方って意外と難しいんですよ。姫田さんがずっとそれをやってるのを、横で見て覚える毎日でした。

■『ひめゆり』を撮るきっかけ、出会いにもなったんですね。

 94年頃、自分たちの記録がないので、短編のビデオ作品を作れないか、あるひめゆりの方からNHK沖縄局に相談があったんですね。それでフリーになっていた僕が紹介されたんです。
 独り善がりでNHKを離れてしまった僕を見放すことなく気に掛けてくれてた、かつての同僚や先輩。彼らからの心遣いのおかげでした。話をいただいたとき、かつての大失敗の記憶が頭をよぎり、ややためらいましたが、民映研で学んできた、伝えたいけれど受けてくれる場のない庶民たちの語りをしっかりと受けとめ、映像で記録していく仕事。僕にもできるかも、と思い始めてた時期でもあり、ぜひやってみたいとお請けしました。そして全力投球し、ひめゆりの方々10人が戦争体験を語る25分のドキュメンタリー、『平和への祈り―ひめゆり学徒の証言』を、その年のうちに完成させたんです。みなさんとても喜んでくださいました。その後も撮影を続けたのは、僕自身の思いとして、この人たちはどういう生い立ちで、どうして戦争に巻き込まれて、そしてどんな戦後を歩んだんだ、ということをもっと聞きたい。そんな気持ちがだんだん強くなってきたからです。ひめゆりのみなさん一人ひとりが実に個性的で、また人間的魅力にあふれた人たちだったことに突き動かされたんですね。

■ひめゆりのみなさんに対する柴田さんの温かな思いが、2時間10分の証言映像に投影されていますね。

 みなさんの心のなかには、今でも戦場で亡くなった16、7歳のお友達がいて、彼女たちといつも話をしながら、長い戦後を過ごしてこられたんだろう。だからみなさんの証言は、実際戦場になった場所、昔のお友達に会える場所で聞こう。カメラを担当してくれることになった澤幡さん(注8)と、そう話をしました。また、澤幡さんからの「テープは何本ですか」との問いに、50本だと答えると、彼は「ひめゆりのみなさんが、もうこれ以上語ることはないと思うまで、とことんカメラを回し続けたい。そのために、テープは100本(注9)用意してほしい」と言ってきたんですね。姫田さんとともに数々の作品を生み出してきた、この民映研のベテランカメラマンは、僕に「記録することの性根」を据えつけてくれたように思います。
 100本のテープを用意し、撮影が始まりました。「生き残ってすまなかった……」。数十年の間、封じ込めてきた記憶の箱を開ける瞬間。私たちが語り、伝えるしかない、と重く閉ざしていた心を開いてくれたみなさんから発せられた、ほとばしるような語り。「まるで“言葉のシャワー”を浴びてるようだった……」。傍らでヘッドホンをつけ、マイクを向ける音声の吉野さん(注10)からの印象深い一言です。その後も少しずつ撮り足し、足かけ13年。映画のもとになった証言映像は100時間に及びます。プロデューサーには、民映研を事務局長として支えてきた小泉修吉さんも加わってくださいました。
 「ひめゆりの方たちに元気をもらった」「一人ひとり立つ姿に勇気づけられた」「いのちの輝きを感じる」。映画を観ていただいた方からの感想にこんな言葉があるのも、語られた証言が「怨み節」になってないからです。「怒りは神様が返してくれる」。沖縄古来の信仰にもとづいた思いの深さ、大切さ。ひめゆりのみなさんは僕たちにそれを教えてくれます。そして、平和へのキーワードも、この感性にあるんじゃないのかな。今、ふりかえってみて、そう思うんです。

インタビュー・執筆 編集委員 村岡 正司

●プロフィール●
1963年生まれ。東京大学で文化人類学を専攻。卒業後、NHK(沖縄放送局ディレクター、報道局特報部)、民族文化映像研究所を経てプロダクション・エイシアを設立。 沖縄やアジアに目を向けた映像作品 を制作し続ける。主な監督作品に『1フィート映像でつづるドキュメント沖縄戦』(教育映画祭優秀賞)、NHK『風の橋~中国雲南・大峡谷に生きる』(ギャラクシー賞)、NHK『杉の海に甦る巨大楼閣』(ギャラクシー賞・ATP賞)、NHKスペシャル『新シルクロード・第五集・天山南路・ラピスラズリの輝き』(伊・国際宗教映画祭参加、2007年ニューヨーク・フェスティバル金賞受賞) 、NHKスペシャル『世界里山紀行・フィンランド・森・妖精との対話』(独・World Media Festival 銀賞受賞) 、長編ドキュメンタリー映画『ひめゆり』(キネマ旬報ベスト・テン<文化映画>第1位、文化庁映画賞<文化記録映画部門>大賞ほか)。http://www.asia-documentary.com/

(注1)荒崎の海岸:沖縄県糸満市束里。沖縄戦末期の45年6月、「ひめゆり学徒隊」の生徒を含め多くの人びとが「集団自決」(強制集団死)した場所。
(注2)アブチラガマ:沖縄県南城市玉城字糸数。沖縄戦時の45年4月末、陸軍病院の分院となり、「ひめゆり学徒隊」が看護活動に使役された。「ガマ」は自然洞窟。
(注3) 民映研(民族文化映像研究所):神奈川県川崎市麻生区。76年創立された民間の研究所。日本の基層文化を映像で記録・研究し、119本の映画作品と150本余りのビデオ作品を生み出している。
(注4)アチック・フォーラム:09年で28年目を迎える民映研の作品自主上映会。現在までに製作された作品を上映し、後半には製作に参加したスタッフと観客との対話の会が持たれる。
(注5)姫田忠義さん:28年神戸生まれ。旧制神戸高商(現神戸商大)卒。54年上京、民俗学者宮本常一に師事。61年から映像による民族文化の記録作業を開始する。民族文化映像研究所設立後、同研究所所長。
(注6)ゆんたく:沖縄方言で「おしゃべり」の意味。
(注7)嘉手納基地(嘉手納飛行場):沖縄県中頭郡嘉手納町・沖縄市・中頭郡北谷町にまたがる、極東最大の米空軍基地。
(注8)澤幡さん:澤幡正範。民映研の映像カメラマン。代表作に『シシリムカのほとりで』ほか。
(注9)テープは100本:当時、テープ1本あたりの記録時間は20分だった。
(注10)吉野さん:吉野奈保子。元民映研所員。現在、NPO法人共存の森ネットワークにて「森の“聞き書き甲子園”」プロジェクトを担当。
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2009年6月号(通巻446号):わたしのライブラリー

戦争とさまざまな画像の関係について考えるための本
編集委員 小笠原 慶彰

『改訂版 写真記録 これが沖縄戦だ』 
大田昌秀編、琉球新報社発行・那覇出版社発売
1983年 1,785円

『敵の顔―憎悪と戦争の心理学』 
サム・キーン著、佐藤卓巳・八寿子訳、柏書房(パルマケイア叢書)
1994年 4,660円

『戦争がつくる女性像―第二次大戦下の日本女性動員の視覚的プロパガンダ』 
若桑みどり、ちくま学芸文庫
2000年 998円

 戦時、平時を問わず、さまざまな画像が「戦争」を前提とした国威発揚のためのプロパガンダに活用されてきた。一般市民は、それによって正確な事実を説明され、冷静な判断を求められるのではなかった。作られた虚像に踊らされ、人生を翻弄されたのだ。だが今日、そのような史実を理解し、逆にさまざまな画像を有効に活用して、平和維持に役立てられないだろうか。本号特集の意図は、そこにある。
 ところで、今月は6月。それに戦争といえば、まず沖縄を思う。そんな時、本誌4月号にも登場した元沖縄県知事大田昌秀さんが編んだ『写真記録 これが沖縄戦だ』を手にしたい。本書は、表題の
ように写真を多用している。77年の初版を83年に改訂し、その後も息長く増刷されてきた。まだ大手書店には在庫もある。主として米国側撮影の写真を利用しているが、だからといって米国に都合の良い内容になっているというわけではない。とにかく沖縄戦、いや一般市民を巻き込む戦闘の結果をイメージする便よすが
として相当に有効である。
 ところで、本書の表紙については、後日談がある。おかっぱ頭の「少女」がうつろな目をして血まみれで座りこんでいる写真である。キャプションにも「少女」とある。だが事実は、当時12歳の少年であった。84年に写真を見た本人が大田に直接申し出た。彼は、息子が皇軍に利用されることを嫌った父親によって「少女」にされていた。そうした努力にもかかわらず、この子は、家族の食料を奪いにきた皇軍兵士に抗い、そのため暴行された。写真は、米軍の治療を受けていた時に撮影されたものであった。その時の傷は、身体障害として残った。それなのに、日本政府は補償を拒否した。そうした事実が本書をきっかけに明らかにされ、マス・メディアでも紹介された。そして今、その男性は「語り部」となり、1千200回を超す活動を続けている。一枚の写真から始まった物語である※。
 だが、この沖縄戦の記録を見ていて奇妙な感覚に囚われるのは、子どもや女性、さらに敵兵たる皇軍兵士にさえ親切な米兵の写真が出てくることである。もちろん今では、当時のスローガン通りの「鬼畜米英」などではなかったことは良く知っている。しかし、まだ戦闘が終結していない時期に、すでに親切な兵士の写真を撮影する必要があったのか。あるいは、そういった視覚的なイメージを流布させようとする目的が何かあったのだろうか。
 そのことを考える上でサム・キーン『敵の顔︱憎悪と戦争の心理学』(パルマケイア叢書)は、もってこいである。キーンは、人類を敵対人(ホモ・ホスティリス:敵を作り出す存在)と定義している。つまり、自分たちと同じ人間を敵だと思わせることは簡単で、そうなれば殺させることも容易なのである。そのためにさまざまな画像が、戦争あるいは支配を目的として「敵の顔」を作り上げることに利用された。本書では、実際に使われた事例を通して分析を行っている。そこでは「敵の顔」は、全く人間的でない、おぞましい顔として表現された。実像からかけ離れたイメージを作り、「恐るべき敵」に仕上げていく。敵意はイマジネーションによる集団心理の操作なのである。それによって、敵と味方という二元論が世に支配的な思考形式になる。だとすれば、反対に「敵の顔」の実像、それも恐ろしくない実像が流布されれば、敵意は喪失するのか。それが米国側提供写真の撮影意図なのか、それとも大田の編集意図なのか。
 いずれにしても、さまざまな画像が、どのようにして「敵の顔」を作り上げていくかを知ることは重要だ。それによって、戦時の敵に限らず平時の敵つまり差別や排除の対象に対して、心底にある差別心や敵意も自覚できる。その自覚は、ひょっとすれば親愛人(ホモ・アミクス:寛容な存在)に向けての自己変革を可能にさせるのではないか、と希望を感じさせてくれる。「パルマケイア」とは、毒の精から変じて薬の精、つまり毒もまた薬になる意であり、本書がそのシリーズに入れられていることは、さまざまな画像も使いようということを暗示しているようだ。
 さて、毒もまた薬になるとして、次は、薬と信じて毒を飲むという話である。第二次大戦下、女性はどういうイメージとしてさまざまな画像に登場していたか。若桑みどりさんは『戦争がつくる女性像』で、戦時下に160万部の発行部数を誇った、つまりそれだけ市民に影響を及ぼしていた『主婦の友』を中心とする婦人雑誌の表紙や口絵を分析している。著者は、どこの国でも、戦争中に女性の果たす役割は、以下の3つだという。つまり、第1に「母性」、第2に「補助的労働力」、第3に「チアリーダー」である。事実、表紙や口絵は、子どもを生み育てよ、勤労奉仕に汗を流せ、「戦争に行け」と言い続けよと鼓舞しているイメージなのだ。かくて、戦争中の婦人雑誌は、戦時下女性の役割が巧妙に視覚化し、市民、とりわけ女性に植え付けていった。これはあからさまに「敵の顔」を宣伝するポスターではない。薬と信じて飲んだのが、後になってみれば、じわじわと効いてくる毒であったとわかる完全犯罪仕掛けだったということである。これは相当恐ろしい。
 最後に戦争遺跡関連本を考えよう。冒頭述べたようにさまざまな画像を有効に活用して、平和の維持に役立てるとすれば、これらを忘れてはならない。安島太佳由『訪ねてみよう! 日本の戦争遺産』(角川SSC新書2009)や戦争遺跡保存全国ネットワーク(http://homepage3.nifty.com/kibonoie/isikinituto.htm)編『保存版ガイド日本の戦争遺跡』(平凡社新書2004)等は、全国津々浦々の戦争遺跡ガイドブックである。だがこれらは、写真が多用されており、それによって文字からとは異なったメッセージを訴える。戦争とは、莫大なエネルギーと人命の浪費であり、その事実は、ほとんど知られぬままに見事に忘却されるものなのだと。

※注 このエピソードは、大田昌秀『沖縄戦を生きた子どもたち』(クリエイティブ21・2007)に詳しく紹介されている。
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2009年6月号(通巻446号):レポートR

人と/自然と/世界とつながる
“ここからつながるマーケット in Nara”

編集委員 久保 友美

 ゴールデンウィーク真っ只中の5月3日、奈良県庁の中庭で今年初の試みとなるイベントが開催された。その名も“ここからつながるマーケットinNara ”。関西を中心に環境やオーガニック、フェアトレードを意識した人たちが集うマーケットで、当日は50店以上の出店があった。
 「つながることで、私たちの視野はだんだんと大きく広がっていきます。有機的に様々なコト・ものとつながっていくことを通じて、私たちの生活が豊かになれたらいいな。そういう想いを込めてこのマーケットを行います」とパンフレットに書かれているようにこのマーケットの最大の特徴は“つながり”である。食べ物の販売だけでなく、音楽やワークショップ、カフェ、クラフト、エコ雑貨などバラエティ豊かなお店が一同に出店をし、手作りおやつを食べながら音楽に耳を傾けたり、子どもたちが糸つむぎのワークショップで夢中になっている傍らで両親はクラフト雑貨を眺めたり…というような光景が至るところで見受けられた。お店のジャンルとしてのつながりはもちろんのこと、出店者同士、出店者とお客さんのつながりの強さもこのマーケットの特徴のひとつのように感じた。
 出店者の中には親子連れの参加も多かったのだが、出店者の子ども同士が一緒に芝生を駆け回って遊んだり、お客さんとの懐かしい再会を喜ぶ姿が多々見られたのが印象的であった。また、当日は鹿の格好をしたボランティアが会場を盛り上げた。鹿が正座をして音楽を聞いたり、数人(数頭?)の鹿が一緒になってヨガのワークショップを受ける様子は周囲の雰囲気をより一層楽しいものとしてくれた。
 お客さんからは「次はいつやるの」「毎年やっているの」「奈良でこういうイベントがあって嬉しい」という声がたくさん上がり、ゴールデンウィーク中は観光客で賑わう新緑まばゆい奈良の地で、新たなまちの魅力を創り出したイベントであったように思う。ここで生まれた“つながり”が次の新たな“つながり”となることが楽しみだ。
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2009年6月号(通巻446号):レポートL

「チェルノブイリ23年京都のつどい」に参加して

編集委員 千葉 有紀子

 1986年4月26日、現ウクライナ(発生当時はソビエト連邦)のチェルノブイリ原子力発電所で核暴走事故が起こった。それから23年が経過した今年、同月同日、「チェルノブイリ23年京都のつどい・苦しむ人を決して忘れずに」(ハートピア京都大ホール・京都市中京区)と題した集いが行われた。開会の挨拶の後、「チェルノブイリ被災者の今」を野田正彰さん(精神科医・関西大学教授)が講演(写真)、また、ドキュメント・ビデオ『サクリファイス(犠牲)』の上映もあった。
 講演では、被災者や事故処理者などの面接調査を通して見た現状が伝えられた。ドキュメント・ビデオには、広島に投下された原爆の500発に相当するほどの「死の灰」が飛び散った事故の後、汚染した車を埋めたり、事故を起こした4号炉を囲む巨大な壁、いわゆる「石棺」を作るために必要な作業をした人の姿が映し出された。淡々と続けられるその作業が実はとても恐ろしいことであったことが分かったのは、後になってからだった。野田さんは91年、チェルノブイリを訪れ、後処理にかかわった人たちの診察をしていた。そして、昨年再び現地を訪れ、被災者の面接をしてきた。
 後処理にかかわった人たちは、その作業中から、すでに体調に不調をきたしていたという。その後も体調が優れないため、仕事に就くこともできず、次々と亡くなっていった。医療体制も万全ではない。診察は無料だが、医薬品は実費である。一時的に得たその当時まとまったお金もソ連崩壊のインフレで無くなってしまっている。今回、診察した人の多くが「将来、生活への不安」を口にした。みんな多くの病気を抱え、薬のお金に悩み、生活の不安に苦しんでいる。しかし、この現状に対し、直後には援助していた欧米諸国はだんだん撤退していき、今も援助を続けるのは日本の団体だけだという。
 講演の最後に「私たちにできることは、この事故のことを決して忘れないこと。そして、援助を続けていくことだ」と締めくくった。野田さんは「驚いたことに、これほどまでに原発に苦しめられていながら、みんな口を揃えて『原発は必要だ』と言う。情報を知らないということは恐ろしい」ということにも触れていた。このように、後処理にかかわることで、2次被爆、3次被爆もある原子力発電所の事故の怖さを、50数基の原発の老朽化が進みつつある日本の場合にもかんがみ、私たちも我が国の原発のあり方を考えるべきであろう。
 会の最後には「チェルノブイリ23年京都のつどい・集会アピール」がされた。その中には「原発事故が起きれば、どのような惨状が発生するかを、原発を推進し、運転を続けている人びと、また原発について関心を持たない人びとにも届けていく必要性を共有しました」とあり、最後は「原発はいらない! 原発推進政策をやめよう! 放射性廃棄物のスソ切りをやめよう! プルトニウム利用政策の廃絶を! 高速増殖炉もんじゅもいらない、六カ所村核燃料再処理工場もいらない!」と締めくくった。この世界から原発を無くしていくために、会場のみんなが心を一つにして、会は閉会した。
 なお、この集いは、来年も4月25日、同じ会場で行われる。チェルノブイリの事故は永遠に忘れてはいけない。
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