2008年10月号(通巻439号):目次

《V時評》
日本でも「サードセクター」の結集を
 ・・・早瀬昇

《特集》
ザ・社会福祉協議会
 この不可思議なる多面体
 ・・・筒井のり子、早瀬昇、村岡正司

《語り下ろし市民活動》 
福岡だからこそ! ボランティアだからこそ!
市民で映画祭22年(3)
前田秀一郎さん(福岡アジア映画祭ディレクター)
 ・・・村岡正司

《うぉろ君の気にな~る☆ゼミナ~ル》
エコカー
 ・・・ラッキー植松&堀井隆弥

《ゆき@》
患者と医療者の架け橋をもとめて
 ・・・大熊由紀子(福祉と医療、現場と政策をつなぐ「えにし」ネット)

《ウォロ・バルーン》
 ・・・久保友美、堀井隆弥

《この人に》
上村淳之さん(日本画家)
 ・・・千葉有紀子

《コーディネートの現場から ~現場は語る》
「ボランティア風(ふう)」活動との向き合い方考
 ・・・疋田恵子(杉並ボランティア・地域福祉推進センター)

《だから私はこれを買う 選りすぐりソーシャルビジネス商品》
塀の中で製造・本革トートバッグ(株式会社プリゾナ)
 ・・・岡村こず恵

《どーなる?どーする!裁判員制度》
かみ合わない賛否の論議
“第2の後期高齢者医療制度”となるのか!?
 ・・・大門秀幸

《トピックス・組織の社会的責任》
社会的責任の規格づくりも次の段階に!
 ISO26000(組織の社会的責任規格)サンチャゴ総会レポート
 ・・・水谷綾

《トピックス・市民メディア》
「伝えたい」「知りたい」思いが集まった熱い3日間
 第6回市民メディア全国交流集会『京都メディフェス』をレポート
 ・・・大谷祐理子

《VOICE NPO推進センターの現場から》
NPOにとっての会員戦略
 2歩下がっても、3歩進めるか?
 ・・・水谷綾

《リレーエッセイ 昼の月》
魔法の手

《まちを歩けば ~大阪の社会事業の史跡》
大阪府立修館と武田愼治郎
 ・・・小笠原慶彰

《わたしのライブラリー》
”孫たち”に何を伝えるのか
 ・・・華房ひろ子
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2008年10月号(通巻439号):V時評

日本でも「サードセクター」の結集を



編集委員 早瀬昇

■ドラマ「篤姫」のもう一つの注目点
 NHKの大河ドラマ「篤姫」が好評だ。8月17日と9月7日の放送分では、木村拓哉さんが首相を演じたドラマ「CHANGE」の最終回を超える27.7%の平均視聴率を得、今年のテレビドラマの最高視聴率となっている。宮崎あおいさんらの好演を通して激動の時代に凛として生きた女性たちへの共感が広がっているようだが、このドラマを別の点で注目する見方がある。それはドラマが、腐敗に満ちた幕府が改革派・薩長連合によって倒されたとする「薩長史観」に偏らず、幕府側の「進歩性」もふまえた展開となっている点だ(注)。
 従来は「封建的幕藩体制下にあった日本社会が明治維新で近代化された」という勝者(薩長)側の史観で説明されがちだったが、日本に近代的殖産興業を進めたのは幕臣・小栗上野介(忠順)らであったし、そもそも江戸時代は前近代的社会ではなかった。たとえば早い時期から寺子屋や私塾など地方ごとに質の高い教育活動が取り組まれ、江戸後期の就学率は同時代の他国に比べ飛びぬけて高い約8割に達していた。しかし明治5年(1872年)の学制公布で、こうした民衆主導の教育活動は帝国大学を頂点とする教育管理体制に組み込まれ、寺子屋は次第に消滅していった。
 明治期の改革の中には現代にまで禍根を残すものもあるが、薩長史観では、その事情が見えなくなってしまう。この点、薩摩と幕府の間に立った(ゆえに薩長史観では顧みられることのなかった)篤姫にスポットライトがあたった今回のドラマでは、新たな歴史観が垣間見られるのでは…と期待する人びともいる。

■存在感示すイギリスの「サードセクター」
 明治期改革の負の側面に思い至ったのは、先日、イギリスの非営利セクター(以下では「サードセクター」と呼ぶ)の現状を視察する機会を得たからだ。
 大和日英基金とチャリティ・プラットフォームの助成を得、9月15日から19日まで、イギリスにあるACEVO(アキーボ。Association of Chief Executives of Voluntary Organization。「非営利団体事務局長協会」とでも訳せるか?)の取り組みを詳しく調査することができた。この調査は名古屋にある市民フォーラム21・NPOセンターの後房雄代表理事の呼びかけで、せんだい・みやぎNPOセンターの加藤哲夫代表理事らとともに行ったもの。ACEVOだけに焦点をあて、内外の関係者12人の取材を通じて、かなり深くこの団体の取り組みに迫ることができた。
 21年前、1987年に誕生したACEVOには、現在、福祉団体や国際協力団体、環境保護団体などはもとより、私立学校、病院、教会なども含む多様な非営利団体の事務局長ら2千人以上が個人で参加。相互のネットワーク作り、能力開発、それに彼らの立場を代表した政府や政党への働きかけなどを進めている。
 特に近年は行政が独占してきた公共サービスを民間、特にサードセクターに置き換えようとのキャンペーンを進め、政府からの事業委託の際に直接経費だけでなく人件費や間接費などすべての必要経費を保障する「フルコスト・リカバリー」を契約上の評準とさせた。
 日本で行政からの事業受託というと間接費はもとより人件費も計上されないダンピング状態も少なくないが、ACEVOは実務をふまえたキャンペーンを政府や政党などに行い、イギリスのサードセクターを成長させることに成功している。

■「サードセクターの声」がある英国、ない日本
 こうした制度化が実現できた背景には、先に紹介したようにサードセクターの実務に関わる人びとが分野を超えてACEVOに結集していることがあった。政府でも企業でもない立場に立つ人びとが、力を合わせて、その役割の大切さを訴える基盤があったのだ。
 しかし、日本ではどうか。ここで冒頭の「篤姫」につながるのだが、日本では明治31年(1898年)に個々の官庁が非営利公益法人を監督する体制(主務官庁制度)が始まり、さらに戦後は社会福祉法人や学校法人など事業ごとの法人制度までできた。その結果、行政の縦割り状況が相似的にサードセクターにも持ち込まれる事態となってしまった。今、社会福祉法人は厚生労働省を、学校法人は文部科学省を見ているが、本来、みんな同じ非営利活動に取り組む「NPO法人」だ。しかし、そのような連帯感はなく「NPOとは特定非営利活動法人のこと」と思われてしまっている。
 このため、社会福祉法人や学校法人、市民活動に関わる人びとが「サードセクター」として一堂に会して話し合う場もない。英国には(実は米国にも)広くサードセクター全体の声を代表する全国組織があるが、日本にはないのだ。

■「人の連携」を通じて「サードセクター」へ
 もっとも、日本にも徐々に変化の兆しがある。
 たとえば日本ボランティアコーディネーター協会は、ボランティアの参画を支援する専門職の養成・支援活動を通じて、上記のサードセクターを構成する多様な団体に幅広く関わる事業を進めている。また寄付金や会費・助成金の確保策は、このセクター全体に共通する悩みだが、この課題に取り組む人びとが連携しようという動きも始まっている。
 このボランティアとの協働や寄付金の確保はサードセクターに共通の悩みだ。そこで、こうした点を起点に、明治以来、分断されてきた「多様なNPO」ごとの壁を越え、サードセクターとしての結集を図っていくことも必要だろう。
 ただし組織単位で連携を進めるのは、そう容易ではない。そこで可能性を感じるのがACEVO流の「個人有志の連携」だ。分野や法人形態が異なろうとも、個人ならば、同じセクターに関わる者としてつながりあうことは、より容易だ。
 法律の枠内だけに留まらず、儲けだけに走るのでもなく、より良い社会の実現をめざすことを第一義として生きる人びとは、往々にして孤軍奮闘となりやすい。それゆえに、連携し、能力を磨き、きちんと発信する拠点を日本にも作る必要があると思う。

(注)詳しくは「AERA」8月11日号掲載の長谷川煕(ひろし)氏の論考を参照下さい。
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2008年10月号(通巻439号):特集

《特集》ザ・社会福祉協議会学校
 この不可思議なる多面体

筒井のり子
早瀬昇
村岡正司

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2008年10月号(通巻439号):この人に

花鳥画という欧米には見られないジャンルには、
だからこそ東洋と西洋の文化の本質的な違いの一面を
うかがい知ることが出来るのです。

上村淳之(日本画家)

夏の真っ盛りの一日。日本画壇の重鎮であり花鳥画の第一人者である上村淳之氏のご自宅の奈良市平城の唳禽荘(れいきんそう)におじゃまさせていただきました。

■こうやって拝見すると、花鳥画というのは心が安らかになって、これほど素晴らしいものはない、とつくづく思うのですが、日本に固有のものだそうですね。

 そう、意外でしょう。花鳥画というのは、東アジアにしかないものですが古くはエジプトまで及んでいたものです。欧米人が描くと、植物生態画、動物生態画になってしまって、東洋の「花鳥画」とは本質的に違います。花でも鳥でも、見たそのままを描こうとする。そうなると、観察画になってしまう。植物生態画、動物生態画とは違う、花鳥画は、イメージの世界に昇華されてようやく絵になる。
 僕は、ご覧になった通りたくさん鳥を飼っていますから、「見ながら描かはるんですか」と、よう言われるけど、そやないんです。もちろん、スケッチはしますよ。眺めてもいます。でも、描くときは見ながら描くわけではない。いわば、結晶として心の中から浮かび上がってくるもんを描く、そんなもんやと思ったらいいんです。

■こんなに近くに鳥がいて、さえずりを聞きながら画を描かれるというのは、素晴らしい環境ですね。

 今、280種、1千300匹の鳥がいます。スタッフは8人。朝起きたら、ぐるっと鳥の様子を見ながら散歩して、一周し終わったころにスタッフが出勤してくるので、「この鳥が調子悪いみたいやから、気ぃつけといて」と言うて引き継いでから、他のことをする、そんな感じです。だんだんに増やしてきたので、特にしんどいと思うこともないですね。
 鳥には一年の中で生活のリズムがあるから、雌、雄の間で争いが起きたりして傷つくことがありますし、特に春の発情期はとても難しい時期で、長い留守はできません。基本的には自分で子育てさせるのですが、雛で取り上げることもあります。補充卵を産ませるためです。産卵しなくなると翌々年くらいから羽色が雄になり、目立つことで天敵の注視の的となって種族の保護の犠牲になるのだと思います。
 たぶん自然界では、そこまで生きていかれへんのやろな。それも飼うてみてわかること。今もまだまだわからんことはたくさんある、だから、面白いんです。
 この場所は、もともと父が野生との出逢いを求めて買っていたのですが、学校の勤めもあり、戦争も始まり、あまり利用することはなかったのです。第二次世界大戦の末期、松園を疎開させたんですが、没後、またしばらくして空き家になったんを、僕が画学生のとき画室として使い始めたんですわ。
 ここから学校に通いながら描いていました。鳥を飼い、はじめ畠を手入れして、花や木を育てるようになり父も写生にやってくるようになりました。わたしの手料理で長逗留することもありました。
 京都の家にも、鳥たちを少し飼っていましたが、禽舎は小さく、野性の姿には程遠いものでした。「松篁さんの絵は箱庭的」と評した人もおられましたが、ここに来るようになって、少しずつ変わっていったようです。
 そう、こんなこともありました。白い鷹を描きたい、探してほしいと言うのですが、輸入業者に依頼しても、見つからず、15年がたちようやく幼鳥が手に入った。でも、一向に描こうとはしませんでした。たぶん少々の写生では描ききれないと思ったのでしょうか。わたしに、宿題として残していったのだと思います。白い鷹の野生環境を体感するために厳冬の北海道にも行きました。そして、その体感から空間をイメージして描くのです。

■これだけ描いてらっしゃっても、やはり生みの苦しみがある、ということですか。

 いつも、その段階が一番迷う。言うたら、下絵の段階です。そこが済んだら、すっすっすっといくんです。襖絵とか大きいものも、それは同じです。そこが一番時間食うんです。そやから、画家というのは、なんやぼんやりしてるな、ということが案外多いのと違いますか。それはぼんやりしてるんとちごて、見たり、考えたりしてるんです。
 画家なんて、今で言うたらフリーターとおんなじようなもんです。なんの保障もないんですから。そやから、親父はずっと、僕が画家になるのを反対してました。
 僕は、親父から画は習うてへんのです。僕の息子も日本画をやってるんですが、大学は東京にやりました。よその飯食うてこいということですな。
 僕は若いときに、西洋の絵画の模写もしました。日本人としては初めて認めてもらって、イタリアの美術館で実物大の模写をさせてもらったり。最初、閉館してから描くいう話やったんですけど、気に入ってもらったんか、「ずっと一日描いたらええ」と言われて、一日模写してました。美術館が休みの日には、館員の人たちに、あちこち連れていってもろたり。
そのときの仲間とはいまだにつながっていますよ。人間て、言葉やないんですな。
 大学も留学生がようけ来るやないですか。みんな日本に来たら、電話してきますね。また、会いたいと。
 外国行ったときに、鳥の渡りを見に行ったり、生息地を見に行ったりすることもありますな。動物園は必ず行きますよ。じぃっと見てるんですわ。どんなもんあげてんのかな、とかね。わからんかったら聞きます。「うちにも同じもんがいてんねんけど、教えて」って、言うてね。ちゃんと教えてくれますよ。
 どうもフィンランドには鴫(しぎ)や千鳥 がいっぱいいるところがあるらしい。そう聞いてて行きたいなと思て。まあなんとかなるやろと思てたらちょうどご縁ができて、「行きたいんやけど」言うたら、「どうぞどうぞ」ということになって、来年行くんですわ。思てたら、夢てかなうんですな。

■思うことが、大切なんですね。これからの「夢」について、お聞かせください。

 僕はずっと、今の子ども達に自然の素晴らしさを知ってもらいたいと思っていた。今の子ども達はいろんな問題を抱えている。それは、自然の素晴らしさを知らないことが原因の一つやないかと思てる。それに、今問題になっている地球温暖化の問題もある。
 そやけど、今の子ども達の身近なとこに自然ってありますか? それで解れって言う方が無理でしょう。だから、なんとかそういうことに触れる場所がないかなと思てたら、山を提供してくれるという話になって、そういう場をつくっていこ思てるんです。
 京都府の南山城村に、ササユリの群生もある11万坪の土地があります。ゴルフ場開発に失敗した場所で、安価で譲っていただくことができました。
 この山を里山として、きちっと整備していきたいと思てます。大きくなりすぎた木は切って薪にし、炭をつくる。太陽があたった地表には新芽が出る。虫たちが育ち、それを小鳥が食べる。そういった循環の中で育まれてきた、自然と人との共生の中で生まれたのが里山で、そこに生まれたんが花鳥画です。
 みなさんにそこへ来ていただいて、ご自分の好きな木を植えていただいて、周囲の手入れはご自分でしていただく。お孫さんや子どもさんたちのためにそういう場所をつくりましょう。
 このことを私の一生の最後の夢にしたいです。そこへいらっしゃる方が、自然との共生を実感し、もう一度、美しい日本へと帰っていくことができればいい。そんなことを今考えているところです。まだまだこれからやけど、もうじき秋が来て葉っぱが落ちたら設計図を描くことになっています。何ごともあきらめたらあかんのですよ。
 自然の英知に導かれて文化、文明が発達してきたことを知り、人間中心の思考がもたらしてきた悪業を知り、人間のあるべき姿を考えてほしいのです。

インタビュー・執筆 
編集委員 千葉 有紀子


●プロフィール●
美人画の大家・上村松園(1875~1949年)を祖母、日本画壇の重鎮・上村松篁(1902~2001年)を父にもつ。京都市立芸術大学名誉教授、同大学副学長。上村家三代の作品を所蔵する松伯美術館館長。創画会理事長、日本芸術院会員。京都市立学校歴史博物館館長。日本鳥類保護連盟奈良研究所所長でもある。

【関連書籍】
『上村松園 あくまでもたおやかで、気品高い女性像を描きつづけた女性画家』(著:上村松園監修:上村淳之、青幻舎、2006)、『上村淳之のはじめよう日本画』(日本放送出版協会、2001)、他。

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2008年10月号(通巻439号):わたしのライブラリー

“孫たち”に何を伝えるのか
編集委員 華房 ひろ子

■なんだか似ている2作品

 梨木香歩の『西の魔女が死んだ』を読んだ時、あ、これは筒井康隆の『わたしのグランパ』と対になった作品だ、と、勝手に認定してしまった。二冊をセットで女の子の中学入学祝いにプレゼントなんていいんじゃないか、とか思ったり。
 それほどに、読後感が似ていたのだ。どちらもジュブナイル(少年少女向け小説)。『わたしの~』の主人公珠子と『西の魔女~』の主人公まいは、どちらも中学一年生の少女。彼女らがそれぞれ祖父、祖母と同居することになるのが、話の発端。少女たちの両親も、現代の親らしく子供に高圧的でないなど、何だか雰囲気が似ている。確かに、そんなところは似た設定だ(ついでながら二作品とも映画化されている)。
 しかし、『わたしの~』の方は、珠子の同級生や街の人々、やくざなどがにぎやかに登場する。文体こそ昔の筒井康隆の作品よりは落ち着いているが、ストーリーはいじめ、脅迫、ヤクザとのトラブル、エス(少女のプラトニックな同性愛)(?)、大金、誘拐、自動小銃、パーティ、とサービス満点だ。いかにも映画化しやすそうである。
 『西の魔女~』にはまいと祖母、近所の男、まいの両親ぐらいしか登場しない。文体も梨木香歩独特の淡々とした調子。これをどうやって映画にしたのかと思うほど、事件というほどの事件も起こらずまいと祖母二人の生活が続く。
 主人公の少女は二人とも、頭が良くてしっかりした性格だけれども、学校でのいじめの対象となっているのが悩みという、これもちょっと似た設定だ。話の途中または後日談で新しい親友(タイプは全然違うけれども)ができるのも似ている。が、彼女らの祖父・祖母は正反対とも言える。珠子の祖父謙三は刑務所帰り。伝法な口を利く江戸っ子タイプで、義侠心があり下町の誰彼に頼りにされる存在。まいの祖母はまいの祖父と結婚して日本に住み着いたイギリス女性。未亡人となり、田舎で一人静かに清貧な生活を送る孤高の〝魔女〟である。
 が、二人とも、やり方は違えど孫娘を愛し、幸せであってほしいと願うのは変わらない。

■「祖父母と孫」という関係

 親子というのは、とても距離が近い。しばしば近すぎて、どちらかが追い詰められてしまったりさえする。昔は子供の周辺には親以外にも親戚や近所の人などたくさんの大人がいたが、今はいないか、いても関係が希薄になってしまっている。祖父母とはまだ近い関係でいる場合も多いが、今の祖父母は、親(特に嫁)から「考え方が古い」「今の子育ては昔とは違う」などと言われたりして(当たってるか否かはともかく)、子育てに参加や口出しができにくくなってしまった。孫も「じいちゃんばあちゃんの昔話」などはうっとうしがる。
 しかし、距離が適度に遠いからこそ伝えやすいということもあるのではないか。また現代でも、年寄りならでは伝えうる大事なことというのはあると思う。一つには、謙三のセリフにもあるが、死がすでに射程距離に入っていること。老人にとって、どう死ぬか、それまでにどう生きるかは、哲学ではなく現実的な問題となる。謙三は孫娘や街の人たちとの交流を楽しみつつ、自分にとって納得のいく死に場所、というか死に方を模索する。まいの祖母は、魔女として自身の死期を知り、その時を冷静に待つ。
 死に方ではなく、生き方については少女らは何をどう学んだのか。まいの祖母はイギリス式の〝環境にやさしい〟田舎暮らしをまいに教えつつ、魔女修行と称して「規則正しい生活」などという、まるで小学校の夏休み前のプリントに書いてあるような地道な生活をさせる。謙三は孫娘のため、孫娘の学校や街のため、やくざめいた乱暴なやり方で解決していく。痛快ではあるが、「孫に伝えたい生き方」であるかどうかは賛否両論あろう。が、とにかく珠子は、いじめっ子相手に、キレたあげくに脅迫的な啖た んか呵で脅しつけることで、自分で問題を解決した。まいは、祖母との生活がどう影響したか、不登校を脱し、祖母から教わった魔女の心得として「自分で物事を決め、それをこなしていくこと」「いかなる時も冷静でいること」を身につけるべく努力を続ける。
 『わたしの~』は、エピローグで珠子が親友と共に未来を見据え、しっかりと生きていく様が簡単に描かれる。『西の魔女が~』は、短編の後日談の中で、エキセントリックな親友との関係が描かれる。どちらも、祖父母から何を学んだとか、どう影響されたとかは、具体的に読みとれない。たぶん「生き方を伝える」とは、「具体的に何かを教え込む」ことではないのだろう。しかし祖父・祖母との暮らしの後にわざわざ書かれたそれらのエピソードは、祖父母と過ごした日々、祖父母の生き方に接した日々に続いている話だということなのだろう。

■私たちから子供たちへ

 さて、まいの祖母や謙三に倣い、私たちは子世代、孫世代に何を伝えればいいのだろうか。長期間を生きてきた分、口では何か有意義なことをしゃべれるだろう。が、その言葉が、こちらの真摯な思いとして子供たちに伝わるだろうか。たぶん、聞いてもらえるだけの関係性、聞く気になるだけの信頼感や尊敬を持ってもらえなければ、ただの説教にしか聞こえないのだろうな、と思う。謙三もまいの祖母も、よく読めば二人とも押しつけがましい説教はしていない。謙三は自分の考えとして述べているだけだし、まいの魔女修行の指示も、まいが「魔女になりたいからがんばる」と言ったことから始まったのだ。二人とも、自信のない親世代のようにではなく確固としたポリシーを持った年上としてではあるが、しかし孫を一個の個人と見て話をするのだ。
 それとも口先で何かを伝えるのではなく、自分の生き方そのものを見てもらうべきなのだろうか。そちらの方がますます大変そうだ。魔女でも一徹爺さんでもない大人にこそ、まだまだ修行が必要なのかもしれない。


『西の魔女が死んだ』
梨木香歩著、1996年
新潮文庫420円(税込)

『わたしのグランパ』
筒井康隆著、1999年
文春文庫440円(税込)
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