2007年6月号(通巻436号):目次



《V時評》
呼びかけに応えて志を受けつぐ
 岡部伊都子さんの訃報と小田実さんの1周忌を前に思う
 ・・・牧口明

《特集》
キャンパスはまちのなか!
 学生たちのまちづくり
 ・・・岡本千帆子、久保友美、辰巳砂悦子、山中大輔

《だから私はこれを買う ~選りすぐりソーシャルビジネス商品》
てるおさんのポット野菜(有限会社 マッテル)
 ・・・杉浦健

《うぉろ君の気にな~る☆ゼミナ~ル》
小さな政府って?
 ・・・ラッキー植松&早瀬昇

《語り下ろし市民活動》 
「何とかしなきゃ!」激動のアフガニスタンに通い続けて③
西垣敬子さん(「宝塚・アフガニスタン友好協会」代表)
 ・・・近藤鞠子

《市民活動で知っておきたい労務》
NPOはどんなときに、公的保険に入る必要があるの?
 ・・・石田信隆

《ゆき@》
「骨太」と経済財政諮問会議の呪い、です(/o\)
 ・・・大熊由紀子(福祉と医療、現場と政策をつなぐ「えにし」ネット)

《この人に》
森西真弓さん(『上方芸能』編集代表)
 ・・・川井田祥子

《コーディネートの現場から ~現場は語る》
障害者運動とボランティア
 ・・・梅田純平(おおさか行動する障害者応援センター)

《トピックス》
「仏リンピック大阪大会」における静かな怒り
 ・・・吐山継彦

《私の市民論》
教科書検定意見撤回運動は何をつくったのか
 ・・・山口剛史(琉球大学)

《わたしのライブラリー》
胸の奥に棲む「表現の虫」がぞわぞわと動き出す1枚と1冊
 ・・・大谷隆

《3つ星》
コミュニティカフェ パンゲア(堺市)
 ・・・入江由美子

新コーナー
《共感シネマ館》
ひめゆり(長編ドキュメンタリー映画)

《レポート》
「100人の村、あなたもここに生きています」
 池田香代子さんの講演会より
 ・・・近藤鞠子

《リレーエッセイ 昼の月》
隣近所の隠れた宝

《VOICE NPO推進センターの現場から》
企業からの社員ボランティア受け入れのススメ
 ・・・福神岳志(大阪ボランティア協会)

《ウォロ・ニュース》
STOP ROKKASHO(青森県六ヶ所村・核再処理工場)
映画と講演「空と海と、そして大地に放射能を捨てないで!」


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2008年6月号(通巻436号):V時評

呼びかけに応えて志を受けつぐ


  岡部伊都子さんの訃報と
  小田実さんの1周忌を前に思う


編集委員 牧口明

 先日(4月29日)、随筆家として知られた岡部伊都子さんが亡くなられた。享年85歳。近頃よく聞かれるエッセイストではなく、まさに随筆家と呼ぶにふさわしい方だった。
 折しも、来月30日には、昨年亡くなられた小田実さんの1周忌を迎える。享年75歳。おふたりとも、その年齢から言えば決して早すぎる死とは言えないだろうが、おふたりの言動から多くのことを学ばせていただき、また励ましを与えられてきた身としては、やはり、「もう少し生きていていただきたかった」という思いが募る。
 方や、幼少時からの虚弱体質で、結核により高等女学校を中退し、「学歴はないけど、病歴はたくさんあります」とおっしゃっていた岡部さん。対して、大柄で、その名を一躍有名にした『何でも見てやろう』(1961年刊)からも読み取れる強靱な精神と身体を持った小田さん。一見かなり違った肌合いをお持ちのように思えるが、案外に共通点をお持ちのおふたりであった。

■大阪生まれ、大阪育ちのおふたり

 その一つは、おふたりとも大阪に生まれ、大阪で育たれたこと。岡部さんは、船場の商家のこいさん(※1)。小田さんは大阪市福島区のお生まれである。岡部さんはその後、大阪から神戸、また京都へと何度かの転居をされたものの終生関西から居を移されることはなかった。小田さんは、仕事(予備校教師や大学の教員)の関係上、国内はもとより海外にも移住されたが、晩年は関西に戻って西宮で暮らされた。その西宮で阪神・淡路大震災に逢われ、被災者支援のための市民・議員立法(被災者生活再建支援法)実現のために大きな役割を果たされたことはよく知られている。
 二つ目は、ともに無類の読書家であり、また、書き手であったこと。病弱で、女学校を中退して転地療養を繰り返された岡部さんの最大の楽しみは本を読むことと、その読書で得た発見を文章化することであった。
 一方の小田さんも高校の時、弁護士をしておられた父君の蔵書を読破し、教師から、「小田君にはもう教えることがない」と言われたとか。執筆の点でも早熟で、高校2年生の時に初めての小説「明後日の手紙」を執筆。河出書房から出版している。

■戦争体験に真摯に向き合ったおふたり

 三つ目は、おふたりとも第2次世界大戦(その日本における展開としてのアジア太平洋戦争)の体験を基礎に、憲法9条を核とした戦後日本の平和主義の実現と定着のため一貫して挺身されたこと。
 「自分はこの戦争は間違いやと思うている。こんな戦争で死にたくない」と言う許嫁者を「わたしだったら喜んで死ぬけれど」と言って戦地に送り出し、その許嫁者が沖縄戦で亡くなったことを生涯悔やみ通し、自身を「加害の女」と呼んだ岡部さんは、その体験と真摯に向き合うことで反戦・平和の強い思いを発信し続けられた。
 また小田さんも、アメリカ軍による3度にわたる大阪大空襲を小学生から中学生の時期に体験し、「殺される」側から戦争や社会のあり方を見る視点(虫瞰図)を、その言論と行動において貫かれた。
 四つ目に、先のこととも関連して、おふたりとも人権擁護・反差別の闘いに積極的に関わられたこと。
 自身が病弱だったことと、父上や戦後一時期婚姻関係を持った男性による女性差別の言動に悔しい思いをした体験が、反戦・平和の思想とともに、戦後の岡部さんを反権力、反差別、人権擁護の道へと誘った。
 小田さんもまた、「何でも見てやろう」以来の「人間すべてチョボチョボ」との考え方のもとに、反権力、反差別、人権擁護の姿勢を貫かれた。

■本誌の取材に応じていただいたおふたり

 そして最後に、もう1つの共通点は、ともに、本誌の取材に応じていただいたことがある点である。
 岡部さんは、本誌の前身である『月刊ボランティア』244号(89年4月号)「この人に」の欄にご登場いただいたし、小田さんは、やはり『月刊ボランティア』237号(88年7・8月号)の特集(「論理と倫理」組み立てないとゴリラにも勝てないよー小田実さんに聞く)と本誌385号(03年5月号「私の市民論」)にご登場いただいている。
 岡部さんはその紙面で、「何でもそうや思うんですけど、せんならんからするというのでなく、したいからするというのがいいですね」「お互いに、いのちの存在として、同時代を呼吸している。存在への敬意というものが基本にないと」「それは自分の人権回復、人間解放としての参加なんですね」と、岡部さんらしい表現でボランティア活動の本質をずばりと指摘されている。
 小田さんもまた「私の市民論」の中で、「震災のときに市民=議員立法を支援してくれた東京のメンバーがいる。こうしたボランティアが大切です」「震災のときにも、炊き出しをするだけではなく(被災者の生活再建策を実行する政治を求める)デモ行進をするボランティアがほしかったが、誰もしようとしなかった」「市民はもっと政策を作るべきだ」「(市民が)自分たちで知恵を出し合って政策づくりをやっている。こういうのができると世界は変わっていくだろう」と、これまた小田さんらしい語り口で市民論、ボランティア論を語っておられる(引用文中カッコ内の言葉は筆者のもの)。
 ともに、今日改めて読み返してみて、その内容はなんら古びてはいない。
 昨年8月4日におこなわれた小田さんの告別式で、ともに「9条の会」(※2)の呼びかけ人を務められた加藤周一氏は、「公的な小田実は驚くべき『呼びかけ人』でした」「小田実はいまも私たちに呼びかけています。皆さんとともに、ここに居られる全ての方と一緒に、その呼びかけに応えてゆきたいと思います。我々の希望はそこに開けてくるのです」と語られた由。私たちもまた、小田さんや岡部さんが生涯を掛けて、その生命を切り刻んでまで訴えられたこと、反戦平和や人権擁護の思いを引き継ぎ、その呼びかけに応えていきたいと思う。

(※1)主に大阪の商家で使われた言葉。末娘のこと。
(※2)日本国憲法9条の擁護とその思想の普及を目的に2004年6月に結成された市民組織。小田実、加藤周一、鶴見俊輔、大江健三郎、三木睦子、等の各氏が呼びかけ人となり、現在、地域・職場・職能別等に7千を超える9条の会がある。
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2008年6月号(通巻436号):特集

《特集》キャンパスはまちのなか!
 学生たちのまちづくり

青木千帆子
久保友美
辰巳砂悦子
山中大輔





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2008年6月号(通巻436号):この人に



森西 真弓さん(『上方芸能』編集代表)

 1968年4月26日に創刊された雑誌『上方芸能』は今年、40周年を迎えた。当初は「上方落語をきく会」の会報という位置づけだったが、徐々に上方(京阪神)の芸能全般を取り上げる雑誌へと進化し、現在では能・狂言、歌舞伎、文楽、日本舞踊、上方舞、邦楽、現代演劇、歌劇、落語、漫才など、幅広いジャンルを取り扱っている。ウォロと同じ市民メディアとして歩み続けてきた『上方芸能』の編集代表・森西真弓さんにお話を伺った。


もともと伝統芸能に興味はおありだったんですか。

 中学生の頃から歌舞伎に興味をもち始め、テレビの劇場中継を見ていました。京都に住んでいたので、高校生のときは南座で年に2、3回ある公演をほとんど観に行ってました。スクラップ帳に貼ってある入場券を見ると、最初は一等席で観てるんです。親に買ってもらったのかどうか、はっきり覚えてないんですけど。
 大学生になって歌舞伎研究会に入りました。1974年入学ですが、その頃の活動は下火で部員は4~5人だったかな。3・4回生の部員はいたけど、2回生はゼロ。それで私が2回生になったときは3回生がいなかったので、部長になったんです。高校の頃から「大学生になれば歌舞伎研究会の部長になりたい」という夢をもっていて、わりとあっさり実現してしまいましたね(笑)。でも、部長とは名ばかりで、雑用を一手に引き受けていた感じです。年に1回、機関紙を発行していて、その編集も手がけました。考えれば、今とやっていることは変わりません。
 卒業したのは78年で、オイルショック直後ですから就職先がまったくありませんでした。市役所や警察、一般企業の入社試験も受けましたが次々に落ちて、卒業目前になったある日、たまたま本屋で『上方芸能』を立ち読みしていたら、スタッフ募集の記事が載ってたんです。たった1人いた専任の編集部員が辞めるというのでね。

その頃、すでに『上方芸能』を定期購読されていたんですか?

 いえいえ、歌舞伎の専門誌は購読してましたが『上方芸能』はいつも立ち読み(笑)。でも、その記事を見つけたので、56号を初めて買って、書類を整えて応募したんです。試験は面接と課題作文で、めでたく合格。あとで発行人の木津川計(きづがわけい)に受かった理由を聞くと、「他の受験者は編集の経験者や芸能ファンだったが、新卒は君だけだった。新卒だと、思うように教育できるだろうと考えて」と話してくれました。

その頃の『上方芸能』は、今と同じスタイルでしたか?

 そうですね。今とほぼ同じで、頁数も164頁ぐらいですね。専従の編集スタッフは私1人でしたが、ボランティアの人が5~6人手伝ってくれていました。うちの編集会議はいつも夜に開催するんですよ。みんな、仕事が終わってから会議に駆けつけてくるので。

ウォロと同じですね。当時の苦労話は何かあります?

 パソコンもなければワープロもまだなかったので、原稿はほとんど手書き。達筆すぎて読めないのもありましたね。メールもないし、原稿を執筆者のところまで取りに行くということもしょっちゅうでした。でも、みなさんからいろいろ親切に教えてもらいながらやってました。入ってすぐに編集教室に通わせてもらったんですが、結局は実地で、失敗しながら覚えるのが一番だと思いました。それに、もともと芸能が好きですから、新たに触れた浪曲や落語などにも、それぞれに味わいがあるのがわかって楽しかったですね。

しばらくしてから編集次長になられたんですね。そのきっかけは?

 平凡社が出している『別冊太陽』が83年に、大阪築城400年を記念して「浪華繁盛(なにはのにぎはひ)」という特集を組んだんです。そのとき私も原稿を書かせていただいたんですが、木津川が「社会では肩書きも大事」と言って、「今日から君は編集次長だ」と。突然でびっくりしましたけど。部下なし、上から2番目、下から一番目の編集次長になりました。

編集長になられたのは??

 今から10年前、『上方芸能』が30周年を迎えたときです。その翌年に池坊短期大学で講義を担当しないかというお話もいただいてたので、これまた突然、編集長に任命されました。もともと木津川は、「編集長というのは若い人がやるもんだ。60歳になった人間がやるものではない」という持論があるので……実は私、今年の4月から編集代表になりまして、編集長は後輩の広瀬依子が務めることになりました。彼女も今年から大学で教えることになりました。

スタッフが順調に育っているということですよね。『上方芸能』を40年間発行し続けてきた、そのパワーの源は?

 スタッフの力だけではなく、上方芸能を復興させたいという多くの方々の願いの集積です。戦後、東京一極集中が進み、演劇も芸能も関西は衰退しましたから。芸術の質という面では今もけっして劣っているとは思いませんが、公演回数など量の面で考えると格段の差があります。この差があるからこそ私たちの雑誌は必要とされているし、人間国宝の方々も応援してくださっています。でも、もともと文化はすべて上方発祥なんですよ。今言うと、なんか負け惜しみみたいですけど(笑)。

伝統芸能の世界では後継者のいない分野があると言われています。伝統芸能そのものの将来をどうお考えですか。

 浪曲の世界では今、3人の演者(浪曲師)と2人の曲師(三味線伴奏者)が「新宣組」というユニットを結成して、自主公演や普及活動に取り組んでいます。全員30代ですが、みなさん魅力的で確実にファンを増やしてます。
 それぞれに浮き沈みはあっても、これまで連綿と続いてきたものは、いつかきっと再評価される時期が来るはずです。滅びかけても滅びないというのが、その芸能のもっている力でしょうし、私はわりと楽観的に考えてるんですよ。
 ただ、伝統をそのまま忠実に受け継いでいるだけではダメで、芸を革新しつつ次の世代に引き継いでいく努力も必要でしょう。
 06年に亡くなられた文楽人形遣いで人間国宝の吉田玉男さんは、「曽根崎心中」の徳兵衛役に抜擢されたとき、心中を決意する場面で「恋人のお初の足を自分ののどにあててうなずく」という演出を考案されました。それまで文楽人形の女形に足はなかったので、初めての試みだったそうです。他にもさまざまな工夫や研究を積み重ねて役を創り上げられたのですが、若手には「何もその通り真似ることはない。独自に役を解釈して変えてもらっていい」とおっしゃっていました。きっぱりと、品格のある素敵な方でしたね。

玉男さんのお話を聞き書きでまとめられたのが、『吉田玉男 文楽藝話』ですね。

 はい。もともとは国立劇場から、東京公演のときに発行する『上演資料集』に師匠の芸談を連載したいので、その聞き手を務めてほしいという依頼を受けたんです。それで年4回、ご自宅へ伺ってお話を聞くという幸せな時間を6年間過ごさせていただきました。
 文楽の人形は今、かしらと右手を操る主遣い(おもづかい)、左手を操る左遣い、両足を操る足遣いの3人がいますが、もともとは1人で人形を遣ってました。それが約300年前、江戸時代に吉田文三郎が3人遣いの芸を築き、玉男さんにまで受け継がれ、そこからまたお弟子さんに受け継がれている。すごく奥深さを感じますね。
 文楽は主遣いになるまでかなりの年数をかけるので、玉男さんが座頭役(ざがしらやく)になられたのは50歳を過ぎてからだそうです。でも、それだけの年数を経ているから、主遣いになっても、あれだけ見事にやれるんだなと思います。
 同じ伝統芸能でも、歌舞伎は若いスターに大きな役を与えます。未熟な部分もありますが、少しずつうまくなっていく過程を見ることができる。たとえば、市川海老蔵は04年に十一代目を襲名して、いろいろ大役を務めてますよね。今はまだ荒削りなところもあるけれど、スケールが大きく、きらりと光る部分があってファンが多い。

なるほど、文楽と歌舞伎では育て方が違うんですね。

 違うといえば、昔はそれぞれの都市に合わせて作品の内容も違ってたんですよ。『曽根崎心中』はわかりやすいほうですが、3回観ても筋のわからないような複雑な作品が文楽にはあります。理由は、江戸時代の大阪の人は理屈を好んだからだそうです。そのことはちゃんと『戯
け ざいろく財録』という文献に残ってるんですよ。享和年間の頃に歌舞伎の作者が、江戸と大阪、京都では観客の反応が違うのでその理由を調べたんです。今でいう三都比較ですね。それを読むと、大阪の人は理屈が好きだから複雑なストーリーを好む。江戸はパワー、力で勝負。京都は着だおれのまちだから見栄えで勝負すると。これはいわばマーケティング・リサーチのはしりでしょうし、伝統芸能であっても、その時代や都市の雰囲気に合わせて作品を変化させていくからこそ、人々に受け入れられ伝わっていくのだと思います。

「伝統は革新の連続である」という言葉を思い出しました。ありがとうございました。


インタビュー・執筆 編集委員
川井田 祥子


プロフィール
1955年京都生まれ。大学卒業後、『上方芸能』編集部に入社。83年より同誌編集次長、99年より編集長、08年より編集代表を務める。また、立命館大学産業社会学部教授、文化庁文化審議会文化財分科会伝統芸能専門委員、独立行政法人日本芸術文化振興会評議員なども兼務。主著に『上方芸能の魅惑――鴈治郎・玉男・千作・米朝の至芸』(2003年・NHK出版)、『吉田玉男 文楽藝話』(2007年・日本芸術文化振興会)、『上方芸能事典』(2008年・岩波書店、編纂)がある。


◎『上方芸能』購読のお申し込みは……
発行は年4回(2・5・8・11月)。1冊1,500円。全国の主要書店でも扱っているが、定期購読も申し込み受付中。年間購読料7,000円(税・送料込)。
『上方芸能』編集部
〒550-0003 大阪市西区京町堀1-12-14-607
電話:06-6441-3337 ファックス:06-6447-0900
kamigata@d6.dion.ne.jp
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2008年6月号(通巻436号):わたしのライブラリー

胸の奥に棲む「表現の虫」が
ぞわぞわと動き出す1枚と1冊

編集委員 大谷 隆


 1枚のDVDがある。
 活動家と機動隊との壮絶な衝突に沸き起こる怒号と悲鳴、泣き崩れる老女、在韓米軍基地の拡張によって土地を奪われる韓国の農民たちの戦いを記録したドキュメンタリー映像。
 お風呂に入った男性が、ちゃぽちゃぽ・ジャバジャバとお湯を手で叩く音と画面でリズミカルな音楽を作りだしているコミカルな芸術作品。
 初めてトライした演技で微妙な心理描写にチャレンジした「レズビアンはあなたの身近に存在しています」という内容のショートドラマ。
 真っ赤な夕焼け空をBGMもナレーションも入れず、ただひたすら撮り続けた、流れる雲の妖しい美しさが印象的な映像。
 など、相互にまったく関連性のない映像作品が8本、そのDVDには収録されている。テーマは見当たらない。作り手の属性も共通点はない。老若男女、プロが手掛けたものもあれば、生まれて初めてカメラを持ったという人もいる。この『てれれセレクト2007』なるDVDはいったい何なのか。
    *  *  *
 その謎を解くキーワードが「パブリック・アクセス・チャンネル(PAC)」だ。『パブリックアクセス 市民が作るメディア』(津田正夫・平塚千尋編、リベルタ出版)によれば、PACとは「市民が自由に番組をケーブル放送できるチャンネル」で「先着順、無差別が原則」。無差別とは「検閲・編集されない」という意味だ。
 もともと放送は「有限希少な公共財である電波を使用することから、公共的なサービスとされ」厳しい規制を受けてきた。この「有限希少な電波」という前提を崩したのがケーブルテレビだ。ケーブルテレビは伝送容量が大きくチャンネルに余裕がある。また地域社会との密着度も高い。
 60年代、米国の公民権運動に始まった市民運動のうねりはやがて放送へも向かい、ついに72年、米国でケーブル事業に関する画期的とも言える規則が生まれる。その規則には「アメリカのテレビ市場上位100都市で、加入者3千500世帯以上のケーブル事業者は、一般市民用のPACと教育用および地方自治体用に各一チャンネルを提供すること」が義務づけられた。さらに80年代、ケーブルを敷設するために自治体とケーブル事業者がフランチャイズ契約を結び、自治体は年間総収入の5%までのフランチャイズ料を事業者に課すことができる仕組みが完成する。PACやパブリック・アクセス・センター※1の運営に、そのフランチャイズ料があてられている。
 本書では、PACに関する歴史的・制度的な経緯と意義を解説するとともに、具体的な市民番組も紹介している。「アジア系米人ケーブル・ネットワーク」は、空手や太極拳の達人、鍼灸師を取材するなどニューヨークに住むアジア系米人社会のイベント・人物を紹介。マイノリティのための番組はPACの典型だ。

 地域密着番組も多い。ニューヨーク州の小さな町の個性溢れる商店街を取材した「いきいき地元商店街!」はエネルギッシュな中年女性ジニーがカメラマンと二人で撮影編集している。「もともと地元地域のために何かしたくて、これまでいろいろしてきたけど、こんなに有効な手段は他にないわ」というジニーの言葉からはPACがもたらす躍動感が溢れ出ている。
 一方で「検閲・編集無し」は危険もはらんでいる。極端な主義主張であっても、ケーブル事業者も自治体も伝送を拒否できないからだ。事実、白人至上主義集団が人種差別を煽る番組を流すこともあるが、対抗手段としては反論番組を提供するしかない。
 それでも「テレビの番組は放送局の特別な人が作るもの」という思いこみがある日本人には、この市民による映像メディアは衝撃的とも言える魅力を放っている。
 97年、編者らのグループが米国のPACを調査した際の研究報告が本書のもとになっているが、その報告会でこの衝撃を受け、人生が変わってしまった女性が大阪にいた。
    *  *  *
 下之坊修子(しものぼうしゅうこ)さんは、男女共同参画センターでビデオ講座を開催していた。受講生の作品は荒削りだが、内容は多くの人に見てもらいたいと思うものだった。しかし、テープを袋につめて放送局へ持っていくも、迷惑そうに追い返されるだけ。そんなときにPACを知り、衝撃を受ける。「なんで日本にはないんや!」
 欧州でのPACの視察にも参加し、パリのカフェで「まさにこれ!」と手を打つ光景に出会う。市民が作った映像をテープにまとめてカフェやバールで流す活動で、ケーブルテレビとは異なる市民メディアの一形態だ。上映がはじまる時間になるとワイワイと皆が集ってきて、ドリンク片手に実に熱心に見入っている。
 帰国後、2003年1月、同様の活動を大阪で開始。厳密には「上映」なのだが、あえて「カフェ放送」と銘打った。南米パラグアイの言葉で「お茶の時間」を意味する「テレレ」を「てれれ」と表記し団体の名称に。お茶を飲み、おしゃべりしながら気負わずに映像を楽しんでもらいたいとの思いが込められている。
 上映作品は、「10分以内、著作権を処理し、作者は上映会に参加する」という条件※2を満たしていれば「何でもよし」。作品料・上映料もない。基本的に持ち込まれた順に上映していく。隔月(当初は毎月)で作品数本を1時間程度にまとめ上映店舗を巡回。上映終了後に客と制作者が気軽に話せる時間も設けた。
 つまりDVD『てれれセレクト2007』は、カフェ放送された作品の中から、上映会参加者の投票などにより構成した作品集なのだ。
 6年目に突入したてれれだが、一時期は上映店が3店舗まで減る危機もあった。「幼稚園の学芸会みたいなもんを見せるな!」と怒鳴られたり、「もっとクオリティの高い作品だけを選んで上映しては」との提案も受ける。しかし、悩んだ末に「何でもよし」を貫いた。「良い悪いって誰が判断するん?私は見る人がそれぞれに決めることやと思う」。
 「何でもよし」は「どうでもよい」という怠惰な消極性を意味しない。「これから作ろうと思う人を一切排除しない」という積極的な姿勢である。だから、上映会にいるだけで、どんどんと心の温度が上がり、たたき起こされた「表現の虫」がぞわぞわと体を巡りだす。その虫がやがて小さな作品となって、あなたの体を飛び出してしまったとしても大丈夫。てれれという場では、頭ごなしに踏みつぶされることはない。


■『てれれセレクト2007』映像発信てれれ、個人価格2,000円、上映権付き価格10,000円、教材用価格5,000円(送料400円)
映像発信てれれウエブサイトに収録作品の紹介あり。
注文は、eizoinfo@terere.jp 06-6644-3701
2003年から2006年までの同様のセレクト版も販売されている。

■『パブリックアクセス 市民が作りメディア』津田正夫・平塚千尋編、リベルタ出版、1998、本体2000円+税
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2008年6月号(通巻436号):レポートR

「100人の村、あなたもここに生きています」―池田香代子さん講演会より
編集委員 近藤 鞠子

 5月14日、「第40回憲法のつどい」(共催:ひらかた人権協会、枚方市人権政策室)がラポールひらかたで開催された。
 144人収容の会場が満席となったころ、枚方市立第二小学校の6年生88人が入場、壇上にあがる。子どもたちによる日本国憲法前文」の群読は会場いっぱいに響き、記念講演の池田香代子さんは「思わず涙ぐんでしまった」と感動を伝えた。人権政策室の米倉課長によると、「憲法のつどい」は、憲法を感じてほしい、意識してほしいという意図から毎年開かれ、小学生による憲法前文の群読は、近年の慣例とか。
 池田さんはドイツ文学翻訳や口承文芸研究に関わり、訳本、著作は多く枚挙にいとまがないほど。9・11とアフガン報復攻撃をきっかけに出版した絵本『世界がもし100人の村だったら』がベストセラーになり、その印税で「100人の村基金」を立ち上げ、活発な支援活動を展開されている。
 「この本は、最初からお金が目当てだったんです。印税が100万円くらい入ったら寄付できていいなあと思っていたんですが、35万8千部も売れ、印税も30倍。そこで『100人村基金』を作り、難民支援やNGOを支援することにしました」と語った。1冊買うと、印税から税金を引いた29円が支援になる。
 この絵本は環境コラムを執筆していたドネラ・メドウズ(01年没)の一篇のエッセイが発端。それがEメールで世界中をサーフィンしながら、当初1000人の村が100人に形を変え、ひとつのメッセージへと結実していったものだ。受け取った人が、自分の気持ちを書き足したり、一部を削除したりしながら、原文は5分の1に縮まり、その3倍以上の尾ひれがついた。まさに、世界中の何万人(何百万人?)が関わった「ネット・ロア」(グローバル時代のフォークロア、民話)といえる。
 100人の村とは地球のこと。人口63億人を100人としてみることで、不本意ながらマイノリティを切り捨てる結果になった。統計学の先生からも「そんなことはダメだ」と。「しかし」と彼女は言う。「民話や童話では、数字が意味をもっている。グリムの7はゲルマンでは運命の分かれ目を表しているように。100人は大雑把だけれど心にグサッとくる数字。1000人村から100人村になった時、心に響く現代の民話が誕生した。本の中の数字は、膨大なデーターに基づいたフィクションです」と。2巻目では「100人の村白書」として数字について詳しく解説している。
 4冊の『世界がもし100人の村だったら』を紹介しながら、池田さんはできることはいろいろあると背中を押す。「私たちは無力ではない、微力なんだ」と。「生の声を聞いて感動した」「何かやれることがあると思う」多くの人びとがそう記した。あとは、一歩踏み出すこと。その鍵は絵本にある。憲法前文を群読した子どもたちの学校に、池田さんはこの本を贈った。


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2008年6月号(通巻436号):共感シネマ館


長編ドキュメンタリー映画「ひめゆり」
ひめゆり平和祈念資料館のリニューアルの総合プロデューサー・コーディネーターを勤めた柴田昌平監督が13年かけて作った、2時間10分の長編ドキュメンタリー映画。

※誌面ダウンロード(PDF:740KB)



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