2006年4月号(通巻414号):目次



《V時評》
ハリケーン・カトリーナが語るもの
磯辺康子

《特集》
市民セクターが問いかける
これからのCSR(企業の社会的責任)


第1特集:CSR(企業の社会的責任)は本当に広がったか?
 水谷綾(大阪ボランティア協会 企業市民活動推進センター)

第2特集:市民セクターが考えるCSRの視点
 ~「CSRを応援するNPOネット」の試みで見えるもの

セミナー1:市民の心に訴えかけ、それが企業のCSRを動かす
 グリーンピース・ジャパン(GPJ) 
セミナー2:企業活動の中で、人権侵害を避けることはできない
 アムネスティ・インターナショナル日本
セミナー3:「同一価値・同一賃金(Pay Equity)」が当たり前の社会に
 ワーキング・ウイメンズ・ネットワーク(WWN)

CSRを応援するNPOの「陣形」
 尾崎力(NPO政策研究所 理事)

《新連載・ミーティングファシリテーション工房》
会議のフレームを変えてみよう!
 ちょんせいこ

《語り下ろし市民活動》 
まちづくり、仲間づくりの力はタウン誌から
 路地から路地を駆け巡って25年② 街角探訪編
南野佳代子さん(タウン誌『ザ・淀川』『ザ・おおさか』編集長)
 錺栄美子(大阪ボランティア協会 常任運営委員)

《むだちしき》
功名がボラ

《ゆき@》
サポートハウス年輪です(*^^*)
 大熊由紀子(福祉と医療、現場と政策をつなぐ「えにし」ネット)

《この人に》
平田オリザさん(劇作家・演出家)
「伝わらない」と考えることからはじまるコミュニケーション
 北川真理子

《私の市民論》
「『市民』の可能性」を問われ続けている“ザ・ビッグイシュー”
 佐野章二(ビッグイシュー日本代表・CEO)

《コーディネートの現場から ~現場は語る》
コーディネーターの「アティテュード」
 小原宗一(日本ボランティアコーディネーター協会)

《レポート L&R》
現代は“企業の専制政治”の時代か!? ~映画『ザ・コーポレーション』プレミア上映会開催
川井田祥子

知的障がい者ファッションショー「きらり個性☆スウィッチON」
 ~企画運営からショー出演まで自分たちの力で
久保友美

《VOICE NPO推進センターの現場から》
NPOにカンジんな監事
水谷綾(大阪ボランティア協会 NPO推進センター)

《リレーエッセイ 昼の月》
呪いのチラシ

《ウォロが選ぶ3つ星なお店》
天音堂ギャラリー(大阪市西区南堀江)
村岡正司

《わたしのライブラリー》
企業の社会的責任について再考するための本
小笠原慶彰

《ウォロ・ニュース》
市民参加の裁判員制度スタートに向けて ほか

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2006年4月号(通巻414号):V時評

ハリケーン・カトリーナが語るもの


編集委員 磯辺康子


●ニューオーリンズの現在

 今年2月、超大型ハリケーン・カトリーナの直撃から半年を迎えたアメリカ南部を訪れる機会があった。
 市街地の8割が水没したルイジアナ州・ニューオーリンズは、今も被災の傷跡が生々しかった。堤防決壊で運河の水が流れ込んだ地区は、倒壊した泥まみれの住宅が延々と続いていた。観光地として有名な「バーボン・ストリート」に面したホテルは、宴会場が警察の臨時事務所になっていた。
 街の人口は、その時点で被災前の約4割。「もとの人口には戻らないだろう」という声を、複数の住民から聞いた。たまたま入ったバーの店員は「家賃が高騰して人が戻ってこない」と嘆いた。街はまだ、あえいでいた。
 それにしても、国外から見ていて不思議に思ったのは、「なぜアメリカのような先進国でこれほどの被害が出たのか」ということだった。アメリカの人びともまた、同じ疑問を抱いていた。死者は、ルイジアナ、ミシシッピ州を中心に1300人以上。今なお行方不明の人もいる。
 地震のように突然襲われる災害ならまだしも、ハリケーンは進路を予測することができる。実際、多くの市民は事前に避難した。車を持ち、避難に必要な資金があれば、可能だった。
 しかし、車を持たない低所得層にとって、事は簡単ではなかった。ニューヨークなど一部の都市を除いて公共交通機関が非常に少ないアメリカでは、「車を持たない」ことは「貧しさ」を表すといってもいい。車は「ライフライン」であり、ガソリンは水に匹敵する必需品だ。それ故に、アメリカは日本よりガソリンが安い。いや、安くなければ生きていけない。
 避難用のバスの手配など、取り残された人びとに対する政府の支援策は遅れた。現地では「バスの運転手も避難してしまった」と、笑えない話も聞いた。
 もちろん、被害拡大の背景には、かつてない巨大なハリケーンだったということもある。人びとがカトリーナについて語るとき、「アメリカの自然災害史上、最大規模」という枕詞がよく使われた。ミシシッピ州で、湾岸を走る高速道路の橋が跡形もなく崩れ、巨大な船が陸上に居座っている状況を見たときには、その威力のすさまじさを実感した。
 ニューオーリンズの市街地の被害には「油断」もあっただろう。湖とミシシッピ川に挟まれたゼロメートル地帯が広がるこの街は、昔から水害に悩まされてきた。街は別名「スープ皿」と呼ばれ、中心部は浸水しやすい。過去の経験から「大丈夫だろう」と思っていても、今回はそれが通じなかった。

●巨大省庁…国土安全保障省

 しかし、一番の問題は、なんと言っても政府の対応だった。阪神・淡路大震災が起きたとき、日本で絶賛されたアメリカの災害対策は、この10年ほどで大きく変わっていた。10年というより、01年9月11日の同時多発テロ以降、といったほうがいいかもしれない。簡単に言えば、毎年のように国内のどこかを襲う自然災害に目をつぶり、遠い国との戦争に人と金をつぎこんできたということだ。
 そのことを象徴的に表しているのが、03年に新設された「国土安全保障省」の存在。テロ対策の強化を目的に、22の政府機関を統合した巨大省庁だ。傘下には、阪神・淡路大震災後に日本で「災害対策の手本」とされた「連邦緊急事態管理局(FEMA)」が組み込まれた。
 FEMAは、カーター政権時代、スリーマイル島の原発事故などを教訓に創設され、自然・人的災害への対応を担ってきた。80年代から90年代初めは災害救援で数々の失敗を重ね、国民の批判を浴びたが、クリントン政権時代にはカリフォルニア州・ノースリッジ地震(94年)などでの素早い対応が評価された。ちょうどその時期、日本で阪神・淡路大震災が起きた。
 国土安全保障省の傘下に入ったFEMAは権限を奪われ、人も予算も削られた。なかでも、「災害への備え」の部分は、大幅に縮小された。
 テロ対策と自然災害対策は、同じ危機管理とはいっても、異質の要素も多い。以前FEMAで働いていた職員は「自然災害では、国民に情報をどんどん出すのが基本。しかし、テロ対策では情報を隠すのが基本。国土安全保障省は、ハリケーン・カトリーナのときも必要な情報を出そうとしなかった」とやりきれない表情だった。
 しかも、ブッシュ政権では、FEMAの局長に災害対策の素人を置いてきた。カトリーナの被災者救援の遅れを理由に更迭されたマイケル・ブラウン前局長は、法律家。その前任のジョー・オルボー氏は、大統領選の選挙対策責任者で、ブラウン前局長の友人。とても真面目な人事とは思えない。

●Tシャツというメッセージボード

 ニューオーリンズの土産物店には、”カトリーナ関連“のTシャツが数多く売られていたが、その中には「FEMA/New four-letter word(新しい四文字言葉)」と書かれたものがあった。「四文字言葉」とは、「fuck」「shit」などの下品なののしり言葉を指す。その仲間に、「FEMA」が追加されたということだ。
 「Forget Iraq Rebuild New Orleans(イラクを忘れ、ニューオーリンズの再建を)」と書かれたTシャツもあった。
 被災地のルイジアナ州などからは、多くの州兵がイラクに派遣されている。カトリーナでの救援の遅れには、その派遣による国内の人材不足が影響したという指摘も出ている。
 復興が進まない街の状況は見ていてつらかったが、政府への不満をパロディーTシャツにして売る市民のたくましさには、救われる思いがした(日本なら、「パロディーにするなんてけしからん」という声が上がるだろうけれど…)。
 そして、被災地内外の自治体関係者や大学教授、上院・下院議員から、政府や大統領に対する率直な批判を聞き、アメリカという国にわずかな望みも感じた。
 訪問中、下院の調査委員会が発表したカトリーナに関する報告書の題名は、「指導力の失敗」。まとめたのは、ブッシュ大統領の”身内“である与党共和党だった。
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2006年4月号(通巻414号):この人に



平田オリザさん(劇作家・演出家)

インタビュアー・執筆
編集委員 北川真理子


■戯曲「東京ノート」が仏語に翻訳されてフランス各地で上演されたり、日韓合作の公演を行うなど、国際的に活躍される平田さんですが、脚本の言葉のもつニュアンスや笑いのツボなどを、狙いどおりちゃんと観客に伝えることは、国内の公演でも難しい作業なのではと想像します。文化や言葉の違いなどで、苦労された部分はなかったのでしょうか。

 私は日頃から、自分の発した言葉が「きちんと」伝わるということ自体が、ありえないことなのだと考えるようにしています。日本語の戯曲でもそのように考えていますから、台本が何語に翻訳されようともそれは同じだと思っています。自分の考えたとおりには言葉は伝わらないものなのだと、まずその絶望に立ってから、脚本が実際に受け手にどう理解されるか、その化学反応を楽しむわけです。ですから公演が始まるまではとても不安になりますが、だからこそ演劇は奥が深くて面白い作業だと言えるのではないでしょうか。
 自分の発した言葉が、たいていそのままの意図で伝わらないのは、人とのコミュニケーションにおいても同じだと思います。言葉というものは、同じ言葉を使っていても一人ひとり意味が違う。それぞれの経験が言葉に反映されていくわけです。国が違えば言語も文化的背景も全く違ってきますから、「東京ノート」のフランス公演では、こちらが意図しないシーンで観客が大爆笑しているなんてこともありました(笑)。しかしそれも演劇の醍醐味であって、非常に興味深くて面白い経験だったと思っています。

■昨今は、伝えるためのコミュニケーションがさかんに研究され、それが主流のようになっていますが?

 コミュニケーション力を培う上では、子ども時代からの「伝わらない」「理解されない」という痛切な体験が必要なのだと思います。コミュニケーションの手段として、ストレートな伝え方、遠まわしな伝え方、卑怯な伝え方…そういったものがあることを体験したかどうかも。確かに、コミュニケーションの取り方はパターン化もできますから、一定レベルまでの訓練をすることは可能でしょう。しかしそれは、社会で生きていくためにそれぞれが最低限必要なインターフェイスを身に付ける、という意味においてです。最近の事件などを見ていると対話(※1)能力の欠如による問題が多く、しかもこれらは本来、コミュニケーション能力の高い人が就くべき職業だと言える官僚や医療関係者たちが起こしている。聞いていて情けなくなる一方、若いときから本当の意味でのコミュニケーションのセンスを磨く機会や場の必要性を痛切に感じます。
 これまでの日本は、終身雇用やニュータウン型の暮らしなど、一致団結して価値観をひとつにまとめることで問題が解決し社会が再生する、と信じていた社会だったということができます。家庭、学校、職場など、同じ経験を共有した人同士や特定のグループの中だけでコミュニケーションをしていることがほとんどでしょう。暮らし方も働き方にも多様性がなく、画一的な無菌培養の関係性でも事足りてきたわけです。しかし今後は、価値観もライフスタイルも多様化しますから、より広域的な、質の高い、緩やかなネットワークのある社会が求められる。組織の強固さを求めるのではなく、誰かが誰かを知っているという関係性、そのネットワークの網の目を、どこまで細かくしていけるかということが鍵ではないでしょうか。
 そのためには、対話のための基本的な形式と技術を身に付けることも重要ですが、差異のある者同士が、新たな関係性を築くなかで創出される新しい語彙と態度を身に付ける術を学ぶことが求められると考えています。

■今春から大阪大学コミュニケーションデザイン・センター(※2)の教授に正式に就任されるとのことですが、今後の活動に向けた「野望」は?

 今の日本に必要なものの一つは、官民問わず、公の仕事のできる、責任のある地位に就ける人間を育てていくことだと思います。正しい意味での「エリート教育」と言ってもいいでしょう。エリート教育、というとどうも良くないイメージがあるのですが、阪大生には、選ばれた人材であるという自覚を持ち、よきエリートとなって公的な場で活躍できる人間になってほしい。よきエリートとは、「公」に対して責任を持てるということ、リーダーシップを取れる人材であるということ、富を得ることに惑わされず非営利の行動規範をもつ人材であるとイメージしています。これまでも権力、富、名誉を同時に求めた結果、不正が起こった例は誰もがさんざん見てきていますし、これからの阪大生たちにはよきエリートとなれるような場を与えてあげたい。
 これまでの国立大学では、分野や研究室ごとにタコツボ化し、それは特に理系の分野で顕著でした。内部と外部が隔絶され、異分野の人と話す機会もないような人たちでは、国際的な学会では通用しません。また、医者のように弱者を相手に高いコミュニケーション能力を発揮することが求められる職業も、今の教育制度では、他人の気持ちをろくに理解できない人でもなれるシステムになってしまっています。コミュニケーションデザイン・センターでは、そういった今の大学の閉塞感を打破し、分野を超えた専門外の人と出会い、また芸術・文化のシャワーを浴びせ掛けて、切磋琢磨するなかでコミュニケーションセンスを磨き、心豊かな人材を輩出する場になっていけたらと考えています。

■市民活動の分野でも、「公」の意識のあり方が、様々な部分で問題となっています。

 これまでも様々な国で仕事をしてきましたが、他と比較して、日本人が公の意識が特に欠如しているというわけではないようにも思います。
 ただ、フランスでの「東京ノート」の公演の時ですが、フランス人のプロデューサーが、公演パンフレットの中で、なぜ日本人の私の脚本を選んだのかについて、格調の高いしっかりとした文章で説明していたのを見て、芸術をプロデュースする側、それを評価する側の市民それぞれに、高い公の意識があることを感じました。特にフランスでは芸術監督や契約プロデューサー制度が発達し、劇場が若い人材にもチャンスと資金を与える仕組みが整っています。芸術監督やプロデューサーは、冒険の場を与えられると、自身の企画を理解し受け入れてもらうための綿密な準備と覚悟が求められます。その未知の領域へ踏み込み、冒険のプロセスを経ることで、本当の勇気の質を試されるわけです。
 演劇を含めた芸術は公共性が高い分野であるにもかかわらず、日本では、社会全体としてもその意識が弱かった。その反省から、最近はアートマネジメントの概念が生まれるなど、様々な側面で公共性のあり方を考え始めているところです。芸術の公共性の評価というものは、実際にやってみないと分からない部分が多い。芸術家には、それを説明する責任はないと思います。しかし、やはり芸術監督やプロデューサーに対しては、市民は説明を求める権利がある。
また、芸術家を評価する側は、愛情をもって、そこに公共性や社会性を見出してあげることも大事です。要するに芸術監督やプロデューサーの仕事は、才能という形のないものを見いだし、社会に対してその意義を説明する役割だと言えるでしょう。その作業を通して芸術が育成され、結果として「公共性」や「公益」が生まれる。
 指定管理者制度が導入され、施設の有料化など受益者負担のあり方も見直されています。芸術の施設であれば、より広い市民に高いレベルのサービスが提供できそうなものを積極的に実施する一方、趣味の活動で施設を使うなら料金を徴収するなど、公益性を評価する制度を整えつつ、新しい人材が挑戦できる舞台を整え、積極的に公益性を見出し評価するプロセスも必要ではないかと思っています。

■今「公」の仕事に就く人たちへ伝えたいことは?

 これは自戒を込めてですが、自分たちが「いいことをやっているんだ」と自信を持っている時こそ、それが本当なのか疑いなさいということです。私自身、国内外でコミュニケーションをテーマにした演劇ワークショップを実施していますが、そこでは常に、その場の参加者や社会にとって説得力のある取り組みになっているかを考え、きちんと説明できるように考え取り組んでいます。
 もうひとつ、公益性があるかどうか。そこに参加してみないと分からないという状態では、本当の公益性はないと考えるべきです。公益性があるということは、病院や学校のように、「自分は好きじゃないけどないと皆が困る」というものであって、そういう存在にどこまで近づけるか、そこに挑戦していくことなのではと思っています。
 あと、公の仕事に就いている人には、ぜひ新しい価値を見つけることに積極的になってほしい。私も、私の戯曲を面白いと言ってくれる人がいなければ世の中に出ることはなかったわけですから。そのように、社会に埋もれている価値や、社会性や公益性のあるものを見い出して、一緒に作っていく人の存在は非常に大切なものですし、今後は社会的にもより重要な仕事となっていくでしょうから、ぜひ頑張っていただきたいと思っています。


●プロフィール●
1962年生まれ。劇作家・演出家。こまばアゴラ劇場 支配人、大阪大学コミュニケーション・デザインセンター 教授。国際基督教大学教養学部、在学中に結成した劇団「青年団」を率いて、東京のこまばアゴラ劇場を拠点に国内はもとより海外でも幅広く活動。95年、『東京ノート』で第39回岸田國士戯曲賞受賞、03年、日韓合同企画『その河をこえて、五月』で第2回朝日舞台芸術賞グランプリ受賞ほか。演劇ワークショップの方法論は、02年より中学国語教科書(三省堂)にも掲載されている。第9回読売演劇大賞優秀作品賞を受賞した『上野動物園再々々襲撃』が、06年5月より伊丹市のAI・HALLほかにて再演予定。


(※1)対話:平田オリザ氏の著書『対話のレッスン』(小学館)p.215より『——対話とは、他者との異なった価値観の摺り合わせだ。そしてその摺り合わせの過程で、自分の当初の価値観が変わっていくことを潔しとすること、あるいはさらにその変化を喜びにさえ感じることが対話の基本的な態度である。』

(※2)大阪大学コミュニケーションデザイン・センター:2006年4月より、「臨床コミュニケーションデザイン部門」「安全コミュニケーションデザイン部門」「アート&フィールドデザイン部門」の3部門からなり、「市民に信頼される科学・技術者」の養成を行うとともに、「産学連携」とならぶ阪大の社会貢献のもう一つの軸である「社学連携」の窓口・拠点とすることを目的として、全学部の大学院生を対象にコミュニケーション講座を開設し、いずれは、その受講を博士号取得の条件とすることを目指している。学外向けにも「科学技術コミュニケーター養成講座」などを実施する。
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2006年4月号(通巻414号):特集

《特集》市民セクターが問いかける
これからのCSR(企業の社会的責任)


第1特集
CSR(企業の社会的責任)は本当に広がったか?
 ・・・水谷綾(大阪ボランティア協会 企業市民活動推進センター)

第2特集
市民セクターが考えるCSRの視点
 ~「CSRを応援するNPOネット」の試みで見えるもの

セミナー1【グリーンピース・ジャパン】
市民の心に訴えかけ、それが企業のCSRを動かす

セミナー2【アムネスティ・インターナショナル日本】
企業活動の中で、人権侵害をさけることはできない

セミナー3【ワーキング・ウィメンズ・ネットワーク】
「同一価値・同一賃金(Pay Equity)」が当たり前の社会に

CSRを応援するNPOの「陣形」 ・・・尾崎力(NPO政策研究所 理事)

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2006年4月号(通巻414号):わたしのライブラリー

企業の社会的責任ついて再考するための本
編集委員 小笠原慶彰


 今月号の特集は「市民セクターが問いかけるこれからのCSR(企業の社会的責任)」である。相変わらず不祥事を繰り返す企業が自発的に良き企業市民たらんとして社会的責任を果たせるのだろうか。しかも多くの企業の風土として定着するのか。企業の社会的責任(CSR)がやかましく言われる昨今だからという経営トップの考え方だけの社会的責任のあり方ではなく、そもそもそれが当然のこととして位置付けられていくものなのだろうか。だとすれば今後の私たち市民に求められるのはどういうことなのだろうか。今月は「企業の社会的責任」について再考させてくれる新書を三冊。

 一冊目は、水谷雅一さんの『経営倫理学のすすめ』(1998年6月、丸善ライブラリー)である。

 本書の紹介によれば、著者は大学経済学部の出身で米国の大学院で学んだ経験もあり、さまざまな企業の役員を経て、大学教員として経営倫理を講じた。また「日本経営倫理学会」の初代会長であり、「経営倫理学」を紹介したパイオニアでもある。 主著『経営倫理学の実践と課題』で「経営科学文献賞」を受賞しているが、本書はその入門編といえる。 
 眼目は、従来の「企業中心のマネジメント」では、「効率性原理」・「競争性原理」(経営経済性)が至上価値だが、今日求められるようになってきたのは、それに加えて「社会性原理」・「人間性原理」(経営公共性)だという主張だ。「社会性原理」とは「社会的存在としての企業の社会におけるあり方を重視する原理」、「人間性原理」とは「主として企業における従業員の雇用と処遇における人間らしさの実現を追求する原理」のことだという。 
 著者は、アダム・スミスにとっての「神の手」とは、資本主義初期の企業家達の道徳的感情つまり倫理観だったのではないか、と述べている。企業経営の「好倫理体質」とは、その道徳的感情の復活、強化なのだろうか。だとすれば、多くの現在の企業リーダーは道徳的感情が欠落しているし、それを許してしまう社会的雰囲気もあるということか。


 二冊目は、平田雅彦さんの『企業倫理とは何か~石田梅岩に学ぶCSRの精神』(2005年5月、PHP新書)である。

 著者は、元松下電器産業代表取締役副社長であるが、一貫して経理畑を歩き、金庫番として采配を振るった人物である。現在は大学の客員教授として企業倫理を教える立場でもある。
 その主張は、欧米流の経営倫理を言わなくとも、日本独自の「商人道」を見直すべきだというものである。その「商人道」が石田梅岩の「心学」で、商業の飛躍的発達を見た江戸中期の「心学」にこそCSRの原型があるのだという。そして梅岩の主著『都雛問答』などによって「資本の論理」と「倫理」のバランスを説いていく。だからといって著者の立場は、日本至上主義なのではない。80年代のアメリカ企業は、日本や東南アジアの企業に追われて力が弱まり、ベトナム戦争の後遺症によって社会が荒廃し、さまざまな不祥事が起こった。そこで、コーポレート・ガバナンスを強化して株主に対する姿勢を正し、企業倫理を問うて社会に対する姿勢を正した。それが契機となってアメリカ経済が再生したとする文脈は、ちゃんと押さえている。その上で、企業倫理の要諦は不祥事の防止より「いかに社会に誠実であるか」だとするのだが、現在の松下電器の不良製品問題に対する対応はその実践と見てよいのだろう。(とはいえ「松下幸之助至上主義」が匂うのは、しょうがないですよね)


 三冊目は斉藤槙さんの『社会企業家 社会責任ビジネスの新しい潮流』(2004年7月、岩波新書)である。

 奥付によると著者は、大学卒業後、大手広告代理店勤務を経て、米国の大学院に留学。さらに企業の社会責任度調査・格付けを行うシンクタンクを経て、ロサンゼルスで起業したコンサルティング会社代表・社会責任コンサルタントとなっている。
 しかし、それだからといって米国流のCSRを日本でも展開しようということではない。「『社会責任コンサルタント』という言葉も、どうもアメリカの考えを押し付けているような感じがしてしっくりこない。『おかげさまコンサルタント』とか、日本の心を盛り込みながら、ビジネスでも通用して、社会に開かれた企業であることの大切さをアピールできる言葉がないかなぁ」というのは、あるインタビューでの著者の言(http://eco.goo.ne.jp/business/csr/ecologue/wave13.html)だが、前二者の感覚とは相当違っているような気がする。
 本書でも「活躍する社会企業家たち 日本篇」と題した一章が設けられている。また「社会責任投資(SRI)」の考え方や実際も紹介されているのだが、その章で取り上げられているSRIコンサルタント先駆的企業の代表も著者同様に女性である。このことは、現在の日本で支配的な価値観を覆す何かを持っているのはどういう人たちかという意味で、日本社会の先行きを暗示しているように思う。
 今はまだ企業主体で進行している感のあるCSRブームだが、それを社会変革に結び付けるためには、たとえばNPOなどの非営利セクターが重要な役割を担うかもしれない。企業が考えるCSRではなく、NPOが考えるCSRを積極的に提案していくこと、それこそが特集の提案するように今後の市民セクターとCSRの望ましい関係なのだろう。
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2006年4月号(通巻414号):レポートR

現代は”企業の専制政治“の時代か!?
——映画『ザ・コーポレーション』プレミア上映会開催(大阪)

編集委員 川井田祥子


 「株式会社は誰のものか?」という問いに真正面から向き合ったドキュメンタリー映画『ザ・コーポレーション』が、大阪での一般公開に先駆けて、3月10日應典院(天王寺区)で上映された。
 この映画で取り上げている企業(コーポレーション)は、株式を公開している英米の大企業で、経済のグローバル化によって多くの国々に影響を及ぼしている会社である。レーガンやサッチャーが政権について「新自由主義経済」が導入された結果、企業の活動の舞台は地球規模に広がった。新自由主義経済とは、「市場原理に任せておけばおのずと競争と淘汰が働き、社会は最善の状態になる。よって政府による規制や干渉は最小限にとどめるべし。民営化できるものは徹底して民営化すべし」という考えに基づくもので、企業はかつてないほどの権力と富を得ることが可能になったが、一方では企業による環境破壊や労働力搾取、内部告発の問題などが相次いで起こり、CSR(企業の社会的責任)が問い直されている(本号の特集でも取り上げているとおり)。
 映画では企業の歴史をたどり、不祥事などの様々な事例を取り上げ、観る者に問題を投げかける。また、規制緩和と民営化が進められる行く手には何が待っているのか、無条件に歓迎すべきものではないことを痛感させられる。市場競争主義は民主主義とはほど遠いものなのだ、ということを。
       * * *
 映画のなかに「外部性」という言葉が出てくる。「外部性」には「正の外部性」と「負の外部性」があって、それぞれ「外部経済」「外部不経済」とも呼ばれる。例えば、すぐれた芸術文化には正の外部性があって、チケット代金を払って鑑賞した消費者だけでなく、広く人々の生活の質を高め創造性を増す効果があるが、公害問題のように企業がより安く市場に商品を供給することに専心すると、その生産過程で環境に汚染物質を撒き散らすこともあり得る。公害は「外部不経済」の代表事例だ。
 良かれ悪しかれ、私たちは企業の経済活動に影響を受けている。だが逆に、私たち自身の消費行動が企業に影響を与えているという自覚も大切だろう。自分が買おうとしている商品は、どういうプロセスで作られたものか、収益はどういうふうに使われるのか。様々に思いをめぐらせ、自らの消費行動に責任を持とうとすることが企業の暴走を止める第一歩になるはずだ。この作品には、一人ひとりが何らかの行動を起こすように、との願いも込められている。
 この映画は情報量がとても多い。字幕を読むことだけに集中してしまうと他の重要な情報をキャッチできない。情報の享受能力や読み解く力を試される映画であり、それはすなわち、様々な情報のあふれる現代社会で「賢い消費者」になってほしいというメッセージかもしれない。


★『ザ・コーポレーション』
2004年/カナダ/145分/カラー ●配給:アップリンク ●監督:マーク・アクバー、ジェニファー・アボット ●原作:ジョエル・ベイカン『ザ・コーポレーション——わたしたちの社会は「企業」に支配されている』(早川書房)●出演:マイケル・ムーア、ピーター・ドラッカー、ノーム・チョムスキー他 ※東京・大阪・長野・岐阜など全国順次公開
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2006年4月号(通巻414号):レポートL

知的障がい者ファッションショー「きらり個性☆スウィッチON」
~企画運営からショー出演まで自分たちの力で

編集委員 久保友美


 暖かくなると、春物の洋服が気になる季節である。ちょうど各ブランドが主催する春夏コレクションも目にする機会が増えてきた。そのような中、今までにない新しいスタイルのファッションショーが06年2月19日に開かれた。それは、奈良県上牧・河合町社会福祉協議会が行っているレスパイト事業の一つ、知的障がい者によるファッションショー「きらり個性☆スウィッチON」だ。
 レスパイトとは、一般的には知的障がいを持つ子どもを施設などに預け、家族に休息を与えるというイメージであるが、上牧・河合町社協では知的障がい者自身が自分らしく生活するための本人支援事業を指す。その事業の一つに、障がい者が自分の暮らしを自分自身で考え、決めていくための「啓発イベント」があり、第1弾として04年にファッションショー「世界に一つだけのステージ」が開催された。そこでモデルをした知的障がいを持つ人たちの中から今度は企画・運営のすべてを自分たちで考えて決めていきたいという声が上がったため、知的障がいを持つ人たちが実行委員会を組織し、ショータイトルからバックミュージックまで自分達で決め、本番を迎えた。
 ステージの幕が開くと、天童よしみの『珍島物語』とともにスーツをバシッと着こなした男性陣が登場。第1部は1人ずつがステージをウォーキング。女性はウエディングドレス、男性はスーツ姿で、恥じらいながら登場する人もいれば、斬新なポーズで観客の注目を集める場面も。第2部は、2人組によるショー。既に新婚夫婦であるかのようにアツアツなムードのカップルや、宝塚顔負けのスーツの着こなしで登場する女性も。最後は、全出演者が『キューティーハニー』『LOVEマシーン』にのせて、ノリノリのダンスを披露した。それとともに観客の手拍子も次第に大きくなり、熱狂的な一体感のもと幕を閉じた。
 このショーの核は、企画運営のすべてを知的障がいを持つ人たちが「自分自身で決める」ことであろう。当日配布の資料にも、「実行委員会を通して僕は『自分で決める』ことの大切さを知りました。(中略)僕たちは今までよりもっと自分のことを好きになれるし自信を持てると思います」という実行委員長からのメッセージが載っていた。ショーのメイキングビデオの中では恥ずかしがっていたモデルたちも、本番では堂々と思い思いのウォーキングやダンスを披露していたことが印象的だった。それは自分たちが主体となってショーを運営した自信や喜びによるものではないだろうか。これまで知的障がい者は自分のことを自分で決めるという誰もがしている当たり前のことを奪われてきた歴史がある(当日展示資料より)。そのような過去の歴史を乗り越えていった今回のショーは、モデルそれぞれの一人ひとりの顔が見えるまさしく「個性がきらり」と光るものであった。
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