A letter from Osaka Tanihachi @ Foot of Atagoyama

家族への公開書簡
Life shift from Big city to small town

山を登っているときにかんがえていること

2012-02-17 | 山と思考
■ 陽の気があまっている?

最近、山へ行くようになって思うようになった。

文明で人間の生活がラクになりすぎて、だから なんらかの負荷が必要なのかなと。

ある人は山。ある人は仕事。ある人は美容。ある人は健康。ある人は名声。

先日テレビで声をかけるだけでスイッチが入るエアコン、ってのがあった。
しまいにはテレビも、オーディオも何もかもが、人間が行動せず、声をかけるだけで
オンオフ可能になってしまいそう。 

しかし果たしてそれが人間にとって幸せなのか?

動かないで食べるだけの存在は、フォアグラ用に飼育されている鴨とおなじじゃないか?

それってむしろ虐待? なんだか、幸不孝を取り違えていないか?

人間の生活が便利になりすぎた。最近のリタイヤ団塊世代は現役世代より若々しい。

要するに陽の気があまりすぎている。つまり体力的に余裕がありすぎている。あまった体力はどこかで消費しなくてはならない。それが命の合理性だ。じっとしているとそれこそ肝硬変かなにかで死を招いてしまう。現代病ってのはほとんどが同じ原理だ。

■ 足るを知る

わたしはヨガを教えているので、運動不足の解消、というより、陽の気があまっていて、それを
発散したい!それがみんながヨガにくる理由のような気がするときがある。

私のヨガスタジオでもクタクタになるようなのが人気で、すでに痩せていて、ガリガリの人も
もっとやせてもっときれいになりたい!って言う。あるいは、痩せたいっていう人も
運動した後に、たっぷり食べたいがためにレッスンに通う。最初から食べなければいいのだが
コトはそうは運ばない。

きりのない欲望。それに答えるのは本当のところはヨガではない。実はヨガで教えるのは 足るを知る心 だからだ。

ヨガでは排泄する(引き算)には最大の注意を払うが 取り入れる(足し算)には無頓着だ。
何千年も前のインドに発したヨガでも、栄養過多がむしろ問題で不足を問題視していないのに、今の現代人は? 押して図るべし。

結局、現代の病気というのは、不足するより過剰すぎることによる…なんていつも山で考えてしまう。

最初から不足気味だったころのほうが確実に人生はシンプルだったはずだ。

■ 命のはかなさ

花の命は短い。けれど精一杯さいている姿が美しい。2週間の命のセミ君も泣くときはすごい音だ。
そんなことは別に山なんて行かなくても分かることだけど…。

冬山は神々しいほどに美しい。けど、先週の日曜、わたしたちが山を降りた日に、赤岳では分三郎尾根で
滑落して死亡した人がいたらしい。ちょっとの滑落でも死んでしまう。非情で危険な場所だ。

いくら高山植物が美しく咲いても、キレイだし、可哀想だからずっと夏って訳にはいかない。
花弁が吹き飛んでしまって可哀想だからって 風がやわらぐことはない。生命はそこで生きるしかない。
だから適応して生きる。適応して生きることそのものが命の力強さなのだ。

けれども、適応ということのリスクは、少しの環境変化に弱いということでもある。適応力があるということは少々の環境変化に敏感だということの裏返しでもある。 厳しい環境に適応してきた花たちはどれだけ苦労して適応したんだろう?

でも最近は環境の変化のスピードが速すぎ、人がちょっと入っただけで、あるいは鹿がちょっと増えただけでも絶滅しそうだ。はかない。でもたぶん いのちってそういうことなんだなっていつも山で思う。
その命がなくなっても、また別の命が生まれる。だからいいって訳ではない、ただそういう仕組みだって
だけだ。その結果大量に増えるのが、貴重な動植物ってわけでなく、里にもいるカラスだったり、鹿だったり、あるいはゴキだったりするのはいったいどういう示唆なんだろう?

花にとっての開花の喜びも枯れていく悲しみも山には一瞬の出来事でしかない。たぶんそこには意味も
感情も存在しない。そこに意味を感じ、無常観を持つのは人間側の色眼鏡でしかない。
それでも人間はやっぱり、はかない命を保護したいな、と考えてしまう。 

たぶんそれは、短い期間に美しく咲く花に自分たちの命の時間を重ねてしまうからなんだ。

それが人間らしさってことなんだなっていつも思う。

■ 自分の山に登ろう

どんな山に登っても花はある。人間万事塞翁が馬と思う。 

わたしが以前登ろうとしていた山は、良い子で、学校で良い点とって、有名大学に進学して、大企業に就職して・・・というような山だったらしいけれど、別にそんな山に登りたかったわけじゃないような?

みんなが行けっていう山が実際に登って楽しい山とは限らない。

それより何より、信じられていたような”山”は最初から存在しなかったし、それが”楽な山”だって
いうのは先の登山者の誤報だったというほうが正しい。

実際登っている人に聞くと、薦められていったその山は山ってより、登っても頂上が出てこない蜃気楼のようなもので、登山道はゆるゆる、だらだらの、景色もなく、単調でつまらない道だそうだ。
最近はガスまで出てきてお先が見えない。でもみんなで歩いてきちゃったし、これまで歩いてきた
距離を考えると、引き返す気分にはなれないらしい。もうここまで歩いてきちゃったし、と後ろを振り返ってしまうのだ。でも、実際、頂上はあるのか、この先どれくらい道はあるのかも分からないで歩いている。

一般に登山で一番難しいのは撤退する勇気を持つことだったりする。 もうそんな場合は、ガスが晴れるまでビバークしてたらいいんじゃないかって思ったりするけど、ガスが濃くても歩けないわけじゃないから
とりあえず歩いているのだという。

わたしは最近、当初思った山とは違う山にたどり着いてしまったようだ。それも周囲の景色から想像するに、そんなに高くない近所の低山のようだ。ま、それでもいっかって最近思う。

どんな山にも花があるんだし。目の前の一歩が確実なら、道は必ず通じている。

大体、山に登っていると目標地点は到達できないほど遠くそして高く見える。一体全体どうやって
その頂点に立つのか地形からは想像もできない。地図はあっても実際の道を想像するのはほとんど無理だ。
これは樹林帯に覆われている標高が低い場所ほどそうだ。

でも実際は、歩いてみると、難所を避けて曲がりくねった道がぱっと見た目に見える高所のガレ場の直登なんかより、はるかにやさしく、登山者を頂点に導いてくれる。時間だって思ったよりかからない。

でも、その道そのものは立っている地点からは見えないことが多いのだ。

道なんてそんなもんだ。だから一歩一歩を大事に今を歩いていこう。

・・・とまぁ、そんなことを山では考えています(^^)
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歩いていこう 人間万事塞翁が馬 生まれる。 生きること
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