詩遊空間 <いつかのBGM>

今まで聴いてきた音楽、今日聴いた音楽、これから聴く音楽・・・      

シャドウズ・アンド・ライト / ジョニ・ミッチェル

2007年10月31日 | ジャズ・フュージョン
1979年、才女ジョニ・ミッチェルのライブ盤。
<バックミュージシャン>
ジャコ・パストリアス(ベース)
ドン・アライアス(ドラム)
パット・メセニー(ギター)
ライル・メイズ(キーボード)
マイケル・ブレッカー(サックス)

はい。。このメンバー見ただけで完全に降参です。白旗2枚も3枚も挙げちゃうくらい強力です。。。

このアルバムと同じく、ライブビデオも存在しているという事は知っていたのだが、長い間そのビデオを見る機会に恵まれないでいた。
『死ぬまでには絶対に見ておきたい・・・な』と痛切に願って止まなかったわけなのだが、あろうことか、先日TSUTAYAにて、このライブDVDを発見。『毛は逆立ち、両手両足鳥肌だらけ、舌は乾ききって、目は虚ろ、全身の穴という穴からは訳のわからない液体が噴出して・・・』というくらいな興奮状態に陥ってしまい、とにもかくにも、『一週間レンタル300円』(安!)というレンタル料を惜しげもなく払いきり、速効家へ帰って見まくったやった。
長年の恨みを晴らすように・・・

アグレッシブでダイナミックなジャコのベースの魔力というものは、並大抵の賞賛では物足りないほどなのだが、それとは全く逆に、胸が締め付けられるような感覚に酔わされてしまう『ピュアで純朴な叙情性』というのも、ジャコの魅力だ。
『イーディスと親玉』や『コヨーテ』で聴かれるジャコの叙情性に胸が痛くなる。
なんと優しい音を出すのか。このようなピュアで純朴な青年を地獄の底へ突き落としてしまった神というものを激しく憎む。

マイケル・ブレッカーのサックスがいかにも『夜ジャズ』的な『グッドバイ・ポーク・パイ・ハット』。同じくジャコのウォーキングベースがイカス、4ビート『デ・モインのお洒落賭博師』。
マイケルにしろジャコにしろそうだが、『才能と寿命』というものは比例しないのだなと苦々しく思う。

ジョニ・ミッチェルの弾き語りから始まる『アメリア』
彼女のギターは、かなり上手いはず。とくにリズムの取り方が絶妙だ。
『音楽は一にも二にもリズムから・・・』という基本中の基本の事なのだが、いかんせん、その基本が『とほほ・・・』な自称ミュージシャンの多いこと・・・

そのジョニの『しだれざくら』のような爪弾きに絡んでくるように侵入してくるのは『メセニー様』。
そのまま、あの叙情性の塊のようなギターソロへ滑り込んでいくころには、僕の心と胸と瞳には涙が充満している。
『何故にこんなに美しいの?』。その言葉どおりの純粋な美を前にしては、ただ僕は微動だにせず、というか、金縛りにあったかのごとく、パット・メセニーのギターに完全催眠をかけられてしまう。
さらに間髪をいれずに『逃避行』
『アメリア』~『パット・メセニー・ソロ』~『逃避行』へと続く清流の流れのような一連の展開が、このアルバムの中での一番のハイライトだと僕は思っている。

このアルバムはCD2枚組みなのだが、やはり僕は、賑やかでお祭りみたいなDISC2ももちろん良いのだが、『泣き虫』という虫が胸の奥でごそごそ這いまわっているようなDISC1の『美』と『叙情性』が好きだな。
ただ、DISC2、このアルバムのラスト曲『ウッドストック』における、ジョニの・・・というよりも、超大国アメリカの『孤独』を曝け出したような切々として、しかし、鬼気迫る『静寂なる迫力』を聴くだけでも充分に価値はある。

解体的交感 / 高柳昌行&阿部薫

2007年10月29日 | ジャズ・フュージョン


地球は常に絶えず音に包まれている。
それは、些細な風の音や、微小な空気の振動する音も含めてだ。
地球上に完全な『無音』は無い。

・・・ほんとか?

というような意見はもうどうでもよろしい。

では、『ほぼ地球上には完全な無音は無い』・・・これでどうだ?

・・・という事を踏まえて、高柳のギターは『地球』であり、『世界』であり、『宇宙』だ。
そして、阿部薫のサックスは『地球上にうごめくありとあらゆる生命体』だ。

高柳の『音』という宇宙の中で、阿部の『命』がもがきながらうごめいている。
僕たちは、ただその圧倒的な『音』の世界の中で、もはや成す術もなく、あんぐりとだらしなく口を開いたまま、キチガイのように彼らに追従する以外に手段は無い。
もしも、そういう行為を望まないのなら、絶対にこのアルバムは聴くな。

人というもの、いや、生物すべて・・・
とにかく生きとし生けるものすべては、ある次元を超えると、脳内、体内にある『文語』というものが消滅する。
俗に言う『言葉を失う』というやつだ。
ある次元を超えた『物凄いもの』の前では、我々は何も言えなくなるし、何も考えられなくもなる。
その『物凄いもの』の強烈な圧力が、脳内の『言葉を押し込めた入れ物』の蓋を完璧に圧迫し、けっして開けられないようにしてしまうからだ。

だから、『物凄いもの』は、ただ単に『物凄いもの』としか認識できず、それ以上も以下も無い、あくまで『物凄いもの』という固定観念でしか表現できなくなる。

『物凄いもの』以外には、何の言葉もボキャブラリーももてないのである。何の言葉も理屈も無意味に成り下がってしまうのである。

そういう言語障害・脳内硬直・身体麻痺状態に陥ってしまうのが嫌な人は、けっしてこのアルバムは聴くな。

LIVE / ザ・プレイヤーズ

2007年10月25日 | ジャズ・フュージョン


『噛めば噛むほど味が出る』という、スルメ的なギターを弾く人って、日本にもたくさんいる。
山岸潤氏、大村憲次、鈴木茂、今剛、木村勘太郎・・・
その他大勢いるが、元プレイヤーズの松木恒秀も間違いなく、このスルメ軍団の一員であろう。

当時の日本人スタジオミュージシャンのなかでは、トップクラスの売れっ子であり実力者たちが集まったバンド。その名もずばり『ザ・プレイヤーズ』
コルゲンさんこと鈴木宏昌をリーダーに、ボブ斉藤、岡沢章、渡嘉敷祐一、そしてあの中村誠一(!)に、ギターの松木というメンバーから成り、一時は『和製ウェザーリポート』とも言われていた。
そんな腕利きでシリアスなバンドなのだが、そうだと思えば、TV『タモリの今夜は最高』では、タモリらとコントまがいの事とかしていて、中でもコルゲンさんと中村誠一の飄々としたボケキャラは、あまり意味がわからなかったが、なにか面白かった。
そんな中でも、よく言えば『寡黙』、悪く言えば『存在感薄め』、もう少し言えば『一般人みたい』な、そんな印象を僕は松木氏に持っていた。
TVではあまり前へ出てこないし、派手なソロもないし、ずっと『控えめ』な感じだったのだが、それでもその『控えめ』な中にあった『内に秘めた炎』みたいなものは感じていた・・・
・・・と、そこまで言えば、大袈裟すぎてうそ臭い・・・な。(笑)
まぁ、いわゆる『渋好み』というやつです。

でも、このライブアルバム(六本木ピット・イン!!!)では、けっこう弾いてる。
コンプレッサー+コーラス+ディレイ、もしくはそれにオーヴァードライヴをプラスした・・・
そう、いわずと知れた『80年代クロスオーヴァー・ギターサウンド』の流行音を使って激しいソロを弾く松木氏。
けっして地味で頑ななだけの人ではなかったのだ。
・・・でも、といっても、けっして『派手に出すぎ』ない、その絶妙のスタンスが、スルメギターの所以であるということは、火を見るよりも明らかなのだ。

EXIT / パット・マルティーノ

2007年10月22日 | ジャズ・フュージョン


ギター、ベース、ドラム、ピアノ、・・・・・

どいつもこいつも音が『硬い』
『硬い』というよりか『硬質』というべきなのだろう。

それはもちろん、個々の楽器のセッティングや録音状態などによるものだが、そういうハード面を考慮しても、そこにはそれプラス、何か異常に硬いものが存在している。
そして、その『異常に硬いもの』の正体は僕にはわかっている。
それは強固な『ストイックさ』が作り出す、硬く頑丈なオーラであり、それはけっして第三者によって動かせるほどのものではなく、あくまで、『自分に対する強靭なストイックさ』からくるオーラなのである。
そこには、作り笑いも愛想顔も諂いもなく、僕はその、まるで石仏のような純粋な音楽を前にして、静かに目を閉じ手を合わせるしかない。(なんのこっちゃ?)

ギターを弾いた事のある人にはわかると思うが、このような『硬い音質』でギターを弾くという事は、かなり高度な技術を要する。
『荒ら』がバシバシに目立つからである。
ちょっとしたフィンガリングミスもピッキングミスも、すべて悲しいくらいに、この硬い音質は拾い出し、さらけ出してしまう。
そういう『難しい音質』をあえて選び、さらに、その難儀な音質を使い、例の『空間恐怖症』(本人はそう言われることは嫌らしいが・・・)な、壮絶な弾きまくりを披露するパット・マルティーノ。

『止まったら死んでしまう』みたいな、彼のフレーズには驚嘆を通り越して、『笑うしかない』・・・
そんな、超ストイックな音楽は、時として肩が凝るし、疲労感も伴うのだが、のんべんだらりとした昨今の『垂れ流し音楽』に心が腐ってしまいそうなときには、是非こういうアルバムを聴いてみて欲しい。

キアズマ / 山下洋輔トリオ

2007年10月21日 | ジャズ・フュージョン
数年前、ふとしたことがきっかけで、ネット上である人と争いかけたときがあるのだけれど、所詮、ネット上での出来事でしかなく、もちろん顔も本名も知らない人といつまでも争っているほど暇でもないので、適当に終結させて、それはそれでもう昔の話と思って割り切っている。
だから、その時感じた『嫌な感情』もその場限りのこととして、それ以来その事についてはひきづってはいないつもりだ。
なので、いまさらそんな話を蒸し返すのもなんだが、最近久々にこのアルバムを聴いて、その人に言われた(書かれた)ある言葉を思い出した。

『貴方の書く自虐意識が強すぎる文章にはあきれてしまう・・・』

・・・と、こんな感じだった・・・かな?

僕としても、なんだか『上手く言うな』と・・・
『そうなんだよな・・俺って』と・・・
その時は、妙に素直に納得したのを覚えている。

というのも、そのころ僕は、『あえて、そういう自分を出していた』から。

趣味の範疇でしかない『ホームページ』で、僕はあえて、そういう自分(自虐的で弱い自分)を曝け出す事で、なんだか自分も赦されるような気にもなっていたようだ。
日頃は、口に出して言わない(言えない)、自分の心に潜むいろいろな感情のひとつとして、『自虐』的なこととか書いていたりして、そうすることで『自分にも納得させる・・』みたいな感じもあったかもしれない。
具体的にどんな事を書いていたのかは、正直なところあまり覚えていない。
しかし、結局は『自分の弱さが憎い』とか、『自分の情けなさに腹がたつ』とか、そんな風なことを書いていたと思う。
まさに、興味がない人には『寒気をもよおす』駄文だったろう。。
それが才能のある作家とかが書くと、他人からも理解され、名文とよばれるのだろうが・・・
所詮、ど素人が書いていた駄文。。。
理解してくれというほうが無理な注文だったのだろう。
そういう状況で、『貴方は自虐的過ぎる』とすっぱりと否定されたことは、まぁ当然ショックもあったが、へんに『・・・ですよね。』と肯定する部分も確かにあった。
今思えば、なんだかちんぷんかんぷんな論争でしかなったのである。

山下洋輔の弾く現代音楽みたいなピアノの音は、繊細すぎて『心が震え』、また大胆すぎて『心が燃え』・・・
そういう正反対な心が同時にあるいは瞬時に入れ替わり、僕はそのスピードに時として覚醒されてしまうのだけれど、そういうことよりもっと僕がこのアルバムについて魅かれてしまうのは、そのなかに『自虐的』な『自傷的』な空気が流れている事だ。
それは『ナィーブ』とも『センチメンタル』とも呼べるが、あえて僕は『自分の弱さに征服されてしまいそうな時、その逃げ道のひとつとしての自虐』と呼ぶ。
どうしようもない自分の弱さや情けなさを、自虐という行為で紛らせているというような感覚か。

たしかに『自虐』は良くない。そんなこと最初からわかりきっている・・・

でも、『自虐する事で、赦される自分』というのもあるのではないだろうか?

そして、そういう『弱い自分』が徐々に増えてきそうな時に、このアルバムを聴いていると、なおさらそういう思いは強くなってくる。

山下のピアノが・・・
森山のドラムが・・・
坂田明のサックスが・・・

僕を優しく、かつ激しく、赦してくれる・・・



ジャンゴ・ラインハルト

2007年10月18日 | ジャズ・フュージョン


『起きて、飯くって、働いて、風呂はいって、クソして、寝る』という、ごくありきたりの生活。しかし、その『ごくありきたり』な事を出来るという幸せを忘れてしまっているような時に、このアルバムは『そうなんだよなぁ~ 僕たちの根っこはそういうことなんだよなぁ~』と、ふと我に返らせてくれるようだ。
『いろいろあるけど、やっぱこれだな・・・』と。

いまさら、ジャンゴ・ラインハルトについて、いろいろ書く気はない。
そんなの、もういろいろな人に書きつくされているし、どうあがいたって、まともで斬新な事など書く技術は僕にはない。

ただ、思うんだ・・・

『生きるということの素晴らしさが、いっぱい詰まったアルバムだな。』って・・・

THE ROAR OF 74 / バディー・リッチ

2007年10月16日 | ジャズ・フュージョン


『あんた、確実にラリってんだろ!』というような虚ろな目をしたチャーリー・パーカーと、時代遅れのお笑い芸人みたいな能天気でアホな顔をしたディジー・ガレスピーの2ショット写真がアルバムのジャケットになっている・・・
といえば、これはもう、紛れもなくビ・バップのバイブル的アルバム『バード・アンド・ディズ』なのだが、そこでもドラムを叩いていたバディー・リッチ。
あらゆる評論本などで『うるさい』だの『邪魔』だの、このアルバムにおけるリッチのドラムは酷評されてて、それはそれで『何もそこまで言わなくても・・・』なんて、ちょっとばかしバディー・リッチのことが可哀想にもなるが・・・

バディー・リッチになんの義理も仁義もない僕までも、そんなことを感じてしまうのだが・・・

たしかに。。。うるさい

でも、そんな下手な親心だしてリッチを援護しようかと思った自分自身が馬鹿らしくなってしまうほどに、このおっさん『うるさい』・・・
いや、良い意味で・・・
『なんの反省もしとらんよ。。。』である。

いや、これでいいのだ。彼の場合は。
反省なんかいらん! 勉強なんて無駄だ!
好きなようにどかどかドラム叩いてりゃ良い。この世は天国!
いくらうるさいだの邪魔だのといわれようが、ただ猪突猛進に叩いてりゃそれでOK!なんの心配もいりません。
これぞ、『ドラムばか一代』の真骨頂。

『やりつくす』というのは、これほどまでに爽快なのだ。
と、再認識されてくれる、そんな清々しいバカに出会えたことに乾杯!

8:30 / ウェザーリポート

2007年10月14日 | ジャズ・フュージョン


もちろん『ブラック・マーケット』のダイナミックな躍動感、とくにウェイン・ショーターのソロ部分におけるサックスとリズム陣との鮮烈なカラミは、まさに『世界中が踊っている』ような趣があるし、ジャコ・パストリアスの持っていた『最良の美』の部分がストレートに表現された名バラード『お前のしるし』も、オリジナルとはまるで違うアレンジの『十代の町』(ちなみに、僕はこのライブアレンジ版をオリジナルよりも先に聴いてしまったために、後になって聴いたオリジナル版のやけに薄っぺらくて平べったい感じに閉口してしまった覚えがある。)も、ジャコ一世一代の名演奏『スラング』の狂と正の交じり合った覚醒感も、『バードランド』での涙が出るほどの幸福感も・・・
それら他の曲も合わせて、全部が全部『稀に見る逸品』なのであるが、やはりウェザー・リポートの最もウェザー・リポートらしい曲という事では、『バディアの楼閣~ブギウギワルツ』のメドレーに尽きるだろう。
おなじみ、呪文のような旋律を何度も何度も繰り返す『反復運動』こそがウェザー・リポートの代名詞ともいえないか?
『どうしたら、このようなメロディーラインを発想できるのか?』
僕にはそんな素朴な疑問さえわいてくる。
そして、この『反復運動』に身をさらけ出しているうちに、催眠術にかかったかのような不思議な悦楽感を感じるころには、もうすっかり爪先から脳天までウェザー・リポートの『中毒』に冒されてしまっている。
おそらくウェザーリポートが好きだという人は、十中八九、この催眠術に冒された重症患者ばかりだろう。

ヘヴィ・メタル・ビ・バップ / ブレッカー・ブラザーズ

2007年10月12日 | ジャズ・フュージョン

バリー・フィナティーの『いかにもクロスオーヴァーの音』なギターソロがたまらない『インサイド・アウト』

『横綱の張り手、モロ受け一発!』みたいなガチンコ・キラーチューン『サム・スカンク・ファンク』(この曲のアンサンブルは、現在のブラスバンドセクションの教材であり法典である。)

フュージョンというものが、こぎれいに洒落て、洗練されたまとまりというベールに包まれる以前の、丸裸で丸出しなパッションがこのアルバムにはある。
今では『スムース・ジャズ?』『コンテンポラリー・ジャズ?』っていうのか?
そんなの、知るか!

1978年、今から29年前のライブ。
50年前くらいの、生音で演奏しているジャズなどに、案外、古臭さを感じないというのもあるが、電化されたサウンドはどうしても時代の風を感じないわけにはいかないものも多い。それは日進月歩進化し続ける電化音と、ある意味、『進化を拒否した生音』との違いからくる差異であり、そこに『なぜ?』とか『どうすればいいのか?』という疑問を投げかけてみても、答えなんて出るはずもない。
このアルバムも、もしかして今の高校生や大学生に聴かせると『古い音』なのかもしれない。
いや、逆に新鮮・・・かな?
(僕たちがマイルスの『オン・ザ・コーナー』を聴いて、新鮮と感じるのと同じ意味で・・・)
まぁ、べつにどっちでもいいが・・・
ひとつだけ、今の、このアルバムを知らない、聴いた事のない、興味もない・・・そんな若い人たちに教えておいてあげよう・・・
『このアルバムがなかったら、現在の音楽状況というものは、もしかしたら、今あるものとはガラッと変っているものだったのかも知れないんだよ。』

satisfaction / いの・ひでふみ

2007年10月11日 | ジャズ・フュージョン

流行の音楽クリエイターたちが作る、『あのころ』『むかし』を意識したようなサウンドには、『カッコイイよな!』と思う反面、それが上手くなればなるほどに、その裏に『あざとさ』が映し出され、それで、『ちょっと、いやだなぁ~』なんてことも薄っすらとだが感じてしまう。

常に僕は思っているのだが『音楽はループする』と、つまり音楽というものは、例えば直線的にずっと長く先へ延びているのではなく、いわゆる環状になっており、その円周をぐるぐると回っている(ループしている)と・・・
『音楽は繰り返される』と。
今は最新のサウンドも、やがて古くなり、そして何年後かのちに、その時代のクリエイターの手によって再び新しいサウンドとなって蘇る、そしてやがてそれも古くなる・・・そして・・・繰り返し。
当然その『繰り返し』を認められるサウンドは『本物』でなければいけないわけで、他の雑多なサウンド類は、まるでスターダストのように、音楽周期の周辺を浮遊して、あるものは『繰り返さない』特異の存在として異様な光を放ち続け(それはそれで完全に本物だが)、またあるものは『繰り返さずには及ばない』存在として、空間から抹殺される。
しかし、あくまで音楽宇宙の核は『ループする音楽』なわけ。
クラシック、ロック、ジャズ、ポップス・・・みんなそう。
もちろん、その繰り返しには、ただ単純に繰り返しているもの(模倣)と、その古い素材に新たな時代のエッセンスを加えながら、なんとか新しいものにしようとしているものがある。
・・・で、当然、僕が関心のあるものは後者のほうだ。
こういうものに、ひとつでも多く出会いたいと思っているのだが、そこで問題になってしまうのが、冒頭で述べた『あざとさ』という厄介者だ。
時代とともに音楽について様々な分野の進化は続いている。
楽器、録音技術、理論学習、知識・・・
そういうものをいち早く察知する能力に長けているのは、いつだって若者だった。
そして、昔の古い曲を環状の周期を使ってこちらへ引き寄せてくる感覚と嗅覚に秀でているのも、やはりいつの時代も若者だ。
そして、これはもう、どうしようもない現実なのだが、古いものばかりにすがりついているもの達は、それら新しいものの免疫が薄れ、残るのは『拒否』というアレルギー反応だけになってしまう。
そういうことが、その古い体質をどうも排除できないままである僕に、『あざとい』というアレルギーを覚えさせるのではないだろうか。
若い頃には死ぬほど毛嫌いしていた言葉、『近頃の若い奴らは・・・』を、あろうことか、今の若者に投げかけようとする情けない心まで、どうやら、世間様という鬱陶しい風に吹かれすぎていると、生まれてくるようでもある。

正直、このアルバムを聴いても、妙な懐かしさとともに『策略的なあざとさ』を重箱の隅をつつく手つきで探そうとしている自分もいる・・・
完全に、修行不足だ。

このアルバムについて、ちょっと書いとこう・・・
全編フェンダー・ローズ(エレピ)の美しく深い響き、いわゆる『あのころ』の音が充満している。
『スパルタカス愛のテーマ』なんて、個人的には大好きな曲も入っているので嬉しい。
べつに難しい事なんて考えずに、若者は『新しい音楽』として、そして僕は『あのころの音楽』として聴いていれば文句はないのではなかろうか。
ここは、フェンダー・ローズのゆらめきと、ナイスな選曲にめんじて、『あざとさ』を探すのは、もう辞めておこう。