おりおん日記

電車に揺られて、会社への往き帰りの読書日記 & ミーハー文楽鑑賞記

「光秀曜変」 岩井三四二

2013年01月15日 | あ行の作家

「光秀曜変」 岩井三四二著/光文社

  明智光秀と言えば本能寺の変。天下を我が物とし、恐怖政治を敷いた信長を死に至らしめた緻密な策略家。学問があり、切れ者ではあるが、結局のところ「裏切り者」「逆臣」というマイナスイメージの言葉で総括される人物-というのは大河ドラマなどで断片的に描かれる人間像の蓄積に過ぎなかったのだろうか。(考えてみれば、光秀主役の歴史ドラマは記憶にない。常に信長や秀吉が主役のドラマの脇役だ)

  「光秀曜変」に描かれる光秀は、これまで私の頭の中にあった光秀像とは全く異なる。まだ幼い子供の行く末を案じ、病死した先妻を敬いつつも、後添えとなった若き妻を愛する良き父・良き夫。そして、信長の命に背いてまで臣下の命を守り、常に臣下を気遣う良き上司。そんな、善人・光秀が、なぜ、上様である信長を討つというところまで追い詰められてしまったのか。

  著者は、実は、光秀が信長よりもはるかに年上で、既に老境に達する年齢に至っていたという歴史研究に基づいて物語を書き始めているのだという。まだまだ合戦で武を立てる自信はあるとはいえ…昔に比べると身体は動かなくなってきた。疲れは溜まる。何より、記憶力が落ちた。会ったことがあると分かっていても、名前が出てこないことが多い。自らに迫る「老い」を日々、実感するにつけ、心配事が募る。自分より遥かに若い信長の天下はいつまで続くのか。まだ幼く、自分よりも凡庸な息子たちは、気分屋で、自己中心的で、臣下を大切にしない信長の怒りを買うことなく、家を守り続けることができるだろうか。

  その焦燥感が光秀の神経を蝕んでいく。今で言えば、痴呆症と老人性鬱病のような症状に冒され、寝ても覚めても信長の幻影に怯え、信長を消すことによってしか心の安寧が得られなくなってしまったのだ。本能寺の変は緻密な策謀によって実現したのではなく、精神的に追い詰められた光秀が乱心して起こしてしまった突発事故のようなものなのだと解釈している。これまで冷徹な裏切りものだと思いこんでいた光秀が、突如、人間臭く、哀れな老人として浮かび上がってくる。

  「光秀曜変」というタイトルの意味が最後に語られる。信長が愛した「曜変天目」という茶碗に光秀の人生をなぞらえているのが、光秀という人物への慈しみが溢れていて、切なく、悲しい。

  「本能寺の変の半年前」「本能寺の変の11日後」など、「本能寺の変」を座標軸の中心に据えて時間が行ったり来たりしながら物語が展開するため、最初はなかなかストーリーに入っていくことができなかったが、3分の1ほど読んだところで作者の意図が少し見えてくると、一気読みモードに突入。やっばり、岩井三四二面白い!

 


「本屋さんで待ちあわせ」 三浦しをん

2013年01月04日 | あ行の作家

「本屋さんで待ち合わせ」 三浦しをん著  大和書房

  読売新聞に掲載されたものを中心に既発表の三浦しをんの書評をまとめたもの。改めて、三浦しをんは作家である以前に、重篤な読書中毒患者であることを思い知らされる。

  新聞書評という紙幅の制限がある中で紹介した書評の集大成なので、無理無理まとめました感が否めないものも多い。もっとたっぶりの字数ならば、さぞやしをんワールドが炸裂したのではないかと思うと、少々、残念ではあります(書評集としては、ポプラ社の「三四郎はそれから門を出た」の方がガツンと読み応えがあった)。それでも、自分が全く知らない作家や、考えてもみたことのない読書視点が紹介されていて、「これは、いずれ必ず読もう!」と思う本が何冊もあった。

  中でも、最も気になった作品は「東海道四谷怪談」(四谷怪談の頭に「東海道」が付くなんて初めて知った!)。小学生の頃、学級文庫にあり、男子はこぞって読んでいた。しかし、顔面が崩れたお岩さんの挿絵が小学生女子にとってはあまりにも耐えがたく不気味で、その後のン十年の人生でも四谷怪談を手に取ろう、読もうと思ったことは一度もなかった。

  三浦しをんの解説によって、お岩さんの顔面が崩れてしまった理由を初めて知るとともに、怪談というよりも、なんとも人間臭い不条理物語なのだと理解する。かなり文楽チックなストーリー展開だ。ホラーとか怪談ものはあまり好きではないけれど、四谷怪談、必ず読もうと思います。(ちなみに、歌舞伎の演目にはあるけれど、文楽でほとんど演じられたことがないようです)

  昨年は通勤時間にタブレットで新聞を読んだり、FBチェックするクセがつき、読書量が急減!読了後、感想を書かないままにしてしまった本も多数。今年は、デジタル機器に振り回されず(?)、読書三昧な生活を取り戻したいものです。

 


「弥勒の月」 あさのあつこ

2012年09月26日 | あ行の作家

「弥勒の月」 あさのあつこ著 光文社  

 「バッテリー」など児童小説(青春小説?)でヒットを飛ばしている人気作家の時代小説。

 小間物問屋の若女将おりんの溺死体が見つかったところから物語がスタート。おりんの夫であり、小間物問屋の主人・清之助が背負った暗く、重たい陰の正体を少しずつ明かしていく形でストーリーは進展していく。

 さすがにソツが無いというか、一定の水準は満たしていると思う。

 でも、強烈に心に突き刺さる「何か」はないし、かといって、次のページをめくるのがワクワクしてたまらないようなエンタメ性もない。主要登場人物も強烈なキャラではないし、何のひっかかりもなく読み終えたしまった感じかな。

 現代小説も2-3作は読んだものの、実は、ほとんど記憶に残っていない。

 あまり、私の好みの文章ではないのかもしれません。

 


「すいかの匂い」 江國香織

2012年03月11日 | あ行の作家

「すいかの匂い」 江國香織著 新潮文庫 

  ああ、この人、私と同世代の人なんだ―と強く実感する作品。多分、昭和30年代、40年代生まれの人であれば、「あの頃、そんなことがあった」「私の夏休みもこんなふうだったな」と必ず感じてしまうようなフレーズに溢れている。すっかり忘れていた幼稚園時代のちょっとした日常の光景がフラッシュバックしてくる。

  音楽で言えば、シューマンの「子供の情景」のような作品。当たり前の日常を切り取りながら、そこには、当たり前ではない切なさとか、悲しさとか、残酷さが潜んでいる。

  この人の一瞬を切り取る才能って、スゴイと思う。

  でも、小説としては、私の好みでないな。一瞬、一瞬の光景が強烈すぎて、ストーリーが印象に残らなかった。


「あなたがピアノを続けるべき11の理由」 飯田有抄

2012年01月13日 | あ行の作家

「あなたがピアノを続けるべき11の理由」 飯田有抄構成・解説 ヤマハミュージックメディア 12/01/12読了 

 

 私は幼稚園に1年しか行っていない。少子化という言葉が存在せず、町のフツーの幼稚園が定員オーバーになっていた時代。入園するはずの年に、母親が見事、くじ引きでハズレを引いてしまった。近所の友だちがみんな幼稚園に通っているのに、私だけ行くところがないことを不憫に思って、親はかなり無理をしてピアノを購入し、教室に通わせてくれたらしい。

 

 でも、正直なところ、小さな頃は「ピアノのおけいこ」を楽しいと思ったことはなかった。そもそも、根気が無いので「毎日、継続的に」というのは苦手だし、テクニック向上のための練習曲でハイになれるほどの感性はなかった。

 

 自分から進んでピアノを練習するようになったのは、中学1年生の時にショパンの「革命」を聴いてから。激しく繊細な旋律に鳥肌が立つくらい感動して、猛烈に「この曲が弾きたい」と思った。ピアノの先生に頼み込んで、テキストにショパンのエチュードを加えてもらい、半年近くかかって「革命」を弾けるようになった。今でも、特別に大好きな曲の1つ。

 

 「あなたがピアノを続けるべき11の理由」を縷々説明されたところで、ピアノを続けたくない人の気持ちがどうにかなるわけではないような気がする。人を音楽に向かわせる力があるのは、結局のところ、音楽だけなのだと思う。「続けるべき理由」があっても、「続けたい」人にしか音楽は続けられない。

 

 ちなみに、この本はプロのピアニストや、趣味としてピアノを楽しんでいる哲学者、落語家、科学者など11人へのインタビューをもとに構成されているのだが、これがもう、なんとも単調きわまりない。話の内容はそれぞれ違うのに、文章のトーンが同じなので似たりよったりの話に思えてしまう。

 

 かつて愛読していた土屋先生の文春の連載コラムは思わず吹き出してしまうほど面白かった。ピアニストの秦万里子さんは何気ない日常をステキな音楽にしてしまう天才。この人たちがピアノについて語ったら、面白くないはずがないだろうに、なぜか、全然、面白みがない。落語家の柳家花緑は、さぞやテンポ良くインタビューに答えたであろうに、残念ながら活字からは落語家らしい調子の良さは伝わってこなかった。「ピアノを続ける理由」になるかどうかはともかくとして、ご本人たちに執筆を依頼した方がグッと個性的で楽しい読み物になったのではないか―と思うと、残念。

 

 以上、ピアノを続けなかったことを深く後悔している負け犬の遠吠えでした。

 


「四十九日のレシピ」 伊吹有喜

2011年12月21日 | あ行の作家

「四十九日のレシピ」 伊吹有喜著 ポプラ文庫

 

 なんか妙にテレビドラマチックなストーリーだなぁと思ったのですが…まんまとNHKでドラマ化されていました。

 

 百合子がまだ幼い頃に病死した産みの親に代わり、愛情たっぷりに育ててくれた母親が急逝した。母親が嫌いだったわけではないのに…どこかで壁を作って、心を開くことができなかった。母親が死んで初めて、母親の人生に向き合う。母親が残した生活のレシピカードを見ながら、いかに母親が日々の生活を楽しみ、家族を慈しみ、周囲の人を大切にしていたかを知る。そして、いかに、百合子自身が母親を愛ししていたかに気付く―というのが、物語の骨格。

 

 と、思うのですが、サイドストーリーが賑やかすぎて、ドタバタ劇になってしまった感が否めませんでした。

 

ストーリーは、亡き母の遺志による四十九日の大宴会に向けて進んでいくのですが、なぜか、この四十九日イベントのお手伝い役として、突然、血縁のない若者2人(流行2周遅れぐらいの茶髪ギャルと、日系ブラジル人青年)が転がり混んでくる。登場人物に若者が組み込まれたことで、なんとなく、文化祭の準備を一生懸命やっている学園ドラマのような様相を呈してくる。

 

 若者2人もかなりキャラが濃いめなのですが、さらに、毒舌炸裂の百合子の叔母や、感情レベルが幼稚園児並みの百合子の旦那の不倫相手とか、無駄に存在感ありすぎる人が多数登場するため、どんどん散漫になっていく。

 

 お祭りのような勢いがあって、それなりに楽しめましたが、小説としての落ち着きというか…味わいには欠けるかなぁ。

 

 主人公なのに、濃い人たちの間で埋没している地味地味の百合子役に和久井映見を起用したNHKのドラマ、なかなか渋い!(ドラマ見てないけど…)

 


「ラジ&ピース」 絲山秋子

2011年12月07日 | あ行の作家

「ラジ&ピース」 絲山秋子著 講談社文庫 

 

 やっぱり私は絲山秋子が好きだ。ぶっきらぼうで、衝動的で、ブッとび過ぎて理解不能なところもあるけれど、でも、彼女の作品にどうしようもない吸引力を感じる。

 

 私にとって絲山秋子の魅力は、爆笑問題の太田光、フィギュアスケートのミキティーと似ている。精神的に不安定で、ちょっと危なっかしい。たくさんの友達に囲まれても、多くのファンから愛されても、孤独だ(というのは、単に受け取る側の主観で、ご本人たちはいたって安定しているのかもしれません)。そして、必死に安定しようともがく姿が、その才能を際立たせているように思える。

 

「ラジ&ピース」の主人公・野枝も孤独だ。容姿と性格に対する無用な劣等感を抱え、心の奥底から周囲と打ち解けあうことができない。学校でも、家でも、職場でも、そして東京という町そのものに対しても、自分の周りに壁をめぐらし心を閉ざしてきた。ラジオのパーソナリティとして仕事をしている時―それが、唯一、野枝が心を解き放てる時間だという。

 

そんな野枝がFM東北から、Jyoushu-FMに転職し、平日午後の番組を担当しながら、少しずつ前橋の町に馴染み、心の壁を低くしていく様子を描いた物語。東京でも、仙台でもなく、群馬に居場所を見つけるってあたりに、著者の「群馬愛」が溢れていていいなぁ。

 

そんな誰からも心を閉ざしているような人が地方局とはいえ、ラジオパーソナリティとして10年ものキャリアを重ねることができるのだろうか…とか、あまりにも唐突に野枝の心の壁を乗り越えてくる人が二人も現れるというあたりが、若干、ストーリーとして不自然な感じがしないでもない。でも、そこにこそ、不安定ゆえに安定を求める、自分で壁を作っておきながら孤独に負けそうになる人の気持ちがこもっているのかもしれない。

 

野枝がJyoushu-FMに転職して気付いた「ラジオの魅力」がなんとも言えずいい。きっと、絲山秋子もラジオ派なのだろうな…。「テレビ<ラジオ」の人にはジワリ沁みるものがあると思う。

 

 


「隣のアボリジニ」 上橋菜穂子

2011年11月30日 | あ行の作家

「隣のアボリジニ」 上橋菜穂子著 ちくま文庫  

 

 個人的には胸がチクリと痛む一冊だった。

 

作家であり、文化人類学者である著者が20代後半~30代にかけてオーストラリアの原住民・アボリジニの調査をした経験を綴ったもの。文化交流のための派遣小学校教員として現地にもぐりこみ、少しずつ情報提供者を開拓していく。

 

 アボリジニに対して勝手に描いていた幻想と、それが幻想だとわかった時の戸惑い。そして、「アボリジニの伝統」を実体験として知らない世代が増え、にも関わらず、生活水準や差別によって白人のコミュニティとは融合しきれないアボリジニの人々の不満など、著者が見て感じたまま、そして、研究者としての未熟さに対する反省も率直に語っている。

 

 心が痛む理由の1つは、私自身も文化人類学を学びたかったし、そのチャンスはあったのに、学生時代に遊び呆けていて(というか、バイト三昧?)、成し遂げなかったことへの深い深い反省があるから。そして、もう1つは、大学時代にタイのトレッキングツアーに参加して山岳民族の村を尋ね歩いたことを思い出し、古傷に触れられたような気分になったから。

 

 当時は、トレッキングツアーに参加して、アドベンチャー気分を満喫。タイとミャンマー(私が旅した頃は、ラオスだった)の国境付近の山岳地帯に住む民族には、都市部のタイ人よりもずっと日本人と顔が似ている民族もあり、共通のオリジンを感じたし、特別の日に食べるという赤米は日本のお赤飯に似ていたりと、興味深い発見がいっぱいあった。でも、山岳民族にとって「見世物になる」ことが継続的に貨幣を得る手段であるということが、どうしても心にひっかかった。そもそも、貨幣経済に組み込まれることは、彼らが自ら選択したことなのだろうか? 仮にそうであるとしても、その手段が「見世物になる」ということは正しいのだろうか。~なんて、お金を払ってツアーに参加した私が論じるべきことではないけれど、異文化に足を踏み入れることの難しさを感じた。

 

 著者が、その「難しさ」と真正面から向き合い、誠実にアボリジニの人たちと信頼関係を築き、アボリジニが置かれている難しい状況を分かりやすく示したことは、文化人類学という学問が、人の文化に足を踏み入れるという無神経さから逃れられない一方で、社会にフィードバックできるものがある可能性を示しているように思えた。

 

 さすがに、アボリジニのような形で新たな「被・征服民族」が現代社会で生まれることはないと思う(思いたい)。でも、日本におけるアイヌや在日韓国・朝鮮人の人たちや、世界各地の移民コミュニティなどのマイノリティがどうやって社会の中でアイデンティを維持するのか、マジョリティと遜色のない生活レベルを確保していくのかというのは、これからも、ずっと、「難しい問題」であり続けるのだろうなと思う。

 

 …とつらつらと、まとまりのないことを書き連ねているのは、勉強しなかったものの、やっぱり、私にとって人類学がとても気になる学問であり、だから、この一冊はとても「ひっかかった」。


「ナツコ 沖縄密貿易の女王」 奥野修司

2011年11月16日 | あ行の作家

「ナツコ 沖縄密貿易の女王」 奥野修司著 文春文庫

 

 久々に脳天にガツンと来る一冊。日本で生まれ育ったのに、ほんの1世代前の日本の歴史を私は何も知らないのだなということを思い知らされた。

 

 フリージャーナリストである著者が、石垣島の路地裏の居酒屋にフラリと入った時にオジィやオバァが、いかにも懐かしげに「ナツコ」とい名前を口にするのを耳にした。「ナツコ」とはいったい何者なのか…。文書資料はほとんど残っていない。ただ、ひたすら、ナツコの知り合いを人づてに訪ね歩き、ナツコという人物に迫ったルポルタージュ。

 

 ナツコが密貿易商として一世を風靡したのは1946-51年。沖縄が「ケーキ時代」と呼ばれた頃だ。「ケーキ」は、実は「景気」のこと。私が沖縄に関して知っているのは、太平洋戦争末期に戦場となりたくさんの方が亡くなったこと。1972年に変換されるまで米軍の統治下に置かれていたということぐらい。その延長線上で、終戦後の沖縄は、本土以上に辛く、苦しく、貧しい時間を過ごしたのではないか―と、「死の街」のようにひと気もなく、活気もなかったのではないか―と勝手に思い描いていました。

 

 もちろん、焦土となり、多くの死者を出し、本当に辛い思いをした方もたくさんいたはずですが、ナツコをはじめとするこのルポに登場する人々は、生命力とエネルギーに満ちあふれ、強く、逞しく、ガッポリ稼いでいる。いや、もしかしたら、全てを失ったからこそ、強く、逞しかったのかもしれない。戦争に負けても、着る物がなくても、ひもじくても、生き残った人間は生きて行かなければならない。米軍の物資を盗んでは、舟で香港や台湾に運んで売りさばく。香港・台湾では砂糖やペニシリンを仕入れて持ち帰り、沖縄で売りさばく。

 

 十分な装備のある舟を準備することなどできるはずもなく、気象や海の状態を見極めながらの密貿易。舟が沈むこともあれば、海水をかぶって仕入れた商品が売り物にならないこともある。もちろん、闇取引故に、相手に足元を見られて騙されることも珍しくない。そうした条件下で、並外れた度胸と、ピカイチの商売勘で密貿易の女王とのしあがったのがナツコ。その人生は、太く、短く、はかないが、清々しい。密貿易で警察に捕らえられても「沖縄には何もない。でも、生きていくためには、食べるものも、着る物も必要だよ。だから、貿易で手に入れることの何が悪い?」と、少しも悪びれることのないナツコの強さが印象的だった。

 

 私は、たった1世代前の日本のことをほとんど知らない。そして、その1世代前の人々は高齢期を迎えている。戦争や、敗戦直後のことを実体験として知っている人たちにもっと色々なことを聞いて、書き残しておかなければいけないのではないだろうか。公文書に残っていることだけが歴史ではない、教科書に書いてあることが歴史ではないということを実感する一冊だった。