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新・日本紀行(72)中村 「四万十川・Ⅱ」

2015年11月08日 17時41分23秒 | 徳島、高知






 新・日本紀行(72)中村 「四万十川・Ⅱ」   

















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風物詩等のTVでお馴染みであるが、四万十川は特に生活に密着した川である。 
古くから独特の漁(りょう)が盛んに行われて、天然ウナギ、ゴリ(チチブ、ヌマチチブ)、ツガネ(モクズガニ)、テナガエビなどの魚介類のほか、青海苔の産地として知られている。 

四万十川は、川漁で生計を立てている人が多いことでも、日本有数の河川といえる。

全長196km、吉野川に次ぐ四国第二の川で、本流に大規模なダムなどが建設されていないことから、「日本最後の清流」と呼ばれている。 

四万十川には、中上流域、支流も含めて47もの名物・沈下橋(もぐり橋)があり、高知県では生活文化遺産として保存する方針を1993年に決定している。



もぐり橋(潜水橋、潜没橋、潜流橋、沈み橋、潜り橋などともいう)とは・・、


これらの橋の上には欄干が無く、水面からの高さも高くないことが特徴である。

これは、増水時に、橋が水面下に没するようになっており、流木や土砂が橋桁に引っかかり橋が破壊されたり、川の水が塞止められ洪水になることを防ぐためでもあるという。
また、壊れても再建が簡単で費用が安いという利点もある。

その構造から建設費が安く抑えられるため山間部や住居の少ない地域など、比較的交通量の少ない地域で生活道路として多く作られた。 

しかし現在では山間部でも広い道路や本格的な橋が造られることから徐々に姿を消しつつあるという。


源流部は、県内の東津野村(本年・2005・2月、葉山町と合併し津野町として発足している)の布施坂付近で、この辺りの水域は日本名水100選にも選ばれている。 

蛇行を繰り返しながら南下し、先にも記したが窪川、大正、十和の町村を西へ移行しながら、更に四万十市(西土佐村、中村市)を潤して南下し、土佐湾に到る。


本流は珍しく、高知一県のみを流れる一級大河川で、一つの都府県のみを流域とする河川としては、山形一県を流れる最上川本流(224km)に次ぐ長さである。
 

次回は、「土佐清水から足摺へ

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新・日本紀行(72)中村 「四万十川」

2015年11月06日 17時09分34秒 | 徳島、高知




 新・日本紀行(72)中村 「四万十川」   







四万十川と沈下橋







四万十川と遊覧船、澄んだ水の青さに季節によって顔を変える四万十川、この船で食事やお酒を飲みながら遊覧する。



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日本最後の清流、「四万十川」

「中村市」・・、とはいっても旧中村市のことで、本年4月に北部・山間地、西土佐村と合併し新市「四万十市」として発足したばかりである。 
四万十川の町として知られる土佐中村は、河口よりやや内陸に入った河畔、四万十川と支流河川の中洲に広がる町並みである。

中村の町並みは、15世紀半ばの室町期、朝廷の関白家の一条氏が応仁の乱の混乱を避け、所領であった土佐幡多の荘(現在の中村・四万十市)に京都から下向してきたことから始まる。 
一条氏は、雅やかな京都に対する思慕の念から、この土地に京風の町造り、町並み造りを実施し、中村御所(現在は一条神社)を中心に碁盤目状の街並みや祇園神社、東山、鴨川といった地名を残している。
又、前関白という身分の高さもあり一条氏は土佐の人望を集め、国中の豪族もこれに臣従し「中村」は土佐の小京都とも呼ばれるほど。 
一方ならぬ賑わいを見せたという。以降、土佐一条氏は、新興勢力長宗我部氏が幡多に侵攻するまで続くことになる。


実は、中村という名称は、長宗我部氏から始まる・・、

土佐中村城は、土佐くろしお鉄道の中村駅から西北に3kmのところ古城山とその山麓を占めるところにある。
この城郭は現在、郷土資料館になっているが、当地は昔から交通の要衝であり、かっては、この地方の豪族、為松氏が城を造り居城としていた。
後に、為松氏は土佐国司となった一条家の家老として仕え、為松城は中村御所の詰の城として整備された。
中村御所跡はいま中村一條神社となっている。


町並みを過ぎて、四万十川の渡川大橋を渡り、そのまま西側の河畔土手を走る、成る程、その名に聞こえた清流である。
川幅は1kmもあろうか、草生した洲だまりもあるが、広くは流水部が占めて悠々と移流している。
合流河川の所はさらに川幅は広くなり、雄大さを誇る。河口付近は、巨大な中洲も発達しているようである。

川岸に造形された船着場に、数艘の屋形船が着岸している、中央の川面に漁であろうか・・?一艘の川船が佇んでいた。
四万十川らしい風景と雰囲気を感じ、思わずシャッターに手が延びた。 
川岸に沿って「四万十屋」や、“うなぎ”と銘うった数件のドライブインと御土産屋があり、「遊覧船乗り場」の大きな看板も目につく。 
名所に、四万十川らしい生活景観を厭味無く演出している。 


次回も「四万十川」


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新・日本紀行(71)土佐佐賀 「黒潮の狩人・カツオ漁」

2015年11月05日 18時06分35秒 | 徳島、高知




 新・日本紀行(71)土佐佐賀 「黒潮の狩人・カツオ漁」   









カツオ漁とカツオの叩き


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上流部の四万十川沿いに開けた窪川をあとにして、相変わらず山間の道へ入り込む。
峠を越えると間もなく「土佐くろしお鉄道」と並行する。

この鉄道は北部山中でJR予土線と合流しているが、付近は高度順化させる為であろう、トンネル内がループ状になっているのが面白い。

予土線は、四万十川の流域と並行して西へ走り、伊予の宇和島に達している。
この沿線の鉄道と四万十川の景観が実に良いらしく、日本一の清流の眺めを楽しむために、一日一往復トロッコ列車が運行していて、いつも予約で一杯だという。



「佐賀」は、四国の佐賀で正確には「土佐佐賀」、こちらは日本一のカツオ漁の基地でもある。

国道は、くろしお鉄道の「土佐佐賀駅」と伊与木川も合わせて土佐佐賀の港に達する。
こじんまりとした港町は、この伊与木川を中心に開けているようで、港の正面に可愛らしい「鹿島」という島が防波堤の役目をしているようでもある。 

この小さな・・?佐賀漁港には、中小型船の所謂、「黒潮の狩人」と呼ばれる「土佐カツオ一本づり漁業」のカツオ船団がビッシリと停泊している。 
佐賀の港は、日本一のカツオ一本づりの地であるという。


「カツオ」は、佐賀沖の春の「のぼりガツオ」、秋の「もどりガツオ」といわれ、早春の頃、グアム島沖のマリアナ海域に始まり、季節とともに北上、3~4月には南西諸島、5月には土佐沖に達するという。

更に日本列島に沿って流れる黒潮にのって北上する。 


海の狩人「佐賀カツオ船団」は、太平洋をカツオとともに北上する。 
カツオと春の訪れが早いことから、町全体を総称して「黒潮一番地」とも称しているようである。 
波止場には、その名も「黒潮一番館」があり、釣り上げた鮮度抜群のカツオの刺身やタタキが戴け、又、新鮮なカツオを使った「カツオのタタキづくり体験」ができると言う。



因みに、漁港とは「漁港漁場整備法」によって四つの区域を定められているという。

第1種漁港(利用範囲が地元の漁船を主とするもの)、第2種漁港(利用範囲が第1種より広く、第3種に属さないもの)、第3種漁港(利用範囲が全国的なもの)、第4種漁港(離島その他辺地にあって漁場の開発、または避難上、必要とされるもの)とされている。


太平洋に面した土佐の海岸沿線の港は、大小88もの漁港が点在しているといわれ、この内、第3種漁港に属しているのは4港のみで、その中に佐賀の港は入っているという。(他に、宇佐、土佐清水、室戸岬の4箇所)

この佐賀町は、隣町の大方町と協議合併が決まり、平成18年(西暦2006年)3月20日に新町名称は、その名も「黒潮町」として発足する。
日本一のカツオの町が、黒潮町と命名したのは賢明な選択かもしれない。




R56、通称「中村街道」を行く、大方町の海岸であろう、左に見える緑の絨毯は「入野松原」といって長大な海岸松林を形ずくっている。

県立自然公園でもある白砂青松は長宗我部元親の重臣、谷氏が中村城代であった時(1576~80)に囚人を使役して植えたのが始まりとされる。 ウミガメの産卵場所としてもしられるという。

南端にホエールウオッチングセンターがあり、土佐沖は各所でホエールウオッチングが盛んであり、主にニタリクジラ(シロナガスクジラの一種)やマッコウクジラを対象とした見物ツアーが行われていという。


次回は、「四万十川





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新・日本紀行(70)横浪半島 「青竜寺と朝青龍」

2015年11月04日 17時46分48秒 | 徳島、高知



 新・日本紀行(70)横浪半島 「青竜寺と朝青龍」  







本坊への鐘楼門



本堂まで続く石段



青龍寺 本堂


横綱 朝青龍





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宇佐漁港の外れから昭和49年に華美な橋が開通した。
その「宇佐大橋」を渡って、対岸の島のような横浪半島へ行く。 

すぐに36番霊場「青竜寺」があった、堂々たる山門をくぐり、長い石段を登ると正面に本堂、その左に大師堂、 右に薬師堂が並んでいる。

潮風を受ける本堂の軒下には宇佐の港にも象徴される、多くの船を描いた絵馬が奉納され、船人たちの本尊・波切不動明王への厚い信仰が伺える。


因みに、「不動明王」とは・・?、
仏教で云う「大日如来」とは、森羅万象全てを創造した宇宙の根本仏のことで、仏像には普通、大日如来を真ん中にして右側に観音様(壷を持つ=凹=水)、左側に不動明王(剣=凸=火)を配置するという。 
つまり、観音様は肉体で、「不動明王は精神を現す」といわれる。 これは、人の腹、首、頭の三位一体を教えているともいう。


不動明王の精神は、仏道に導くために煩悩を打ち砕き、悪魔を下し、邪物を畏怖せしめ、菩提の心が揺るがないことから不動という。 

押し寄せる大波(煩悩)を粉々に打ち砕く不動様を特に「波切不動明王」と信じ、この不動様を拝めば、どんな嵐でも船は安全であり、
大漁もまた間違いなしといわれる。  
朱色が鮮やかな三重塔が石段の途中の左側にある。



青龍寺」は、弘法大師が唐の都・長安のにちなんで建立したという。  

また、平成の大横綱と形容されるモンゴル出身の「朝青龍明徳」という「しこ名」は、四国霊場・青龍寺に因んで名づけられた。 
明徳の名は、同寺の近くにある出身校であり、高校野球でも有名な明徳義塾高校の名をを付けたもの。

因みに、「朝青龍」の所属するの砂部屋は現、若松親方(元大関・朝潮太郎)で、出身は室戸市である。





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新・日本紀行(70)横浪半島 「武市半平太」

2015年11月02日 21時02分39秒 | 徳島、高知




 新・日本紀行(70)横浪半島 「武市半平太」   、







高知・横浪黒潮ラインに立つ「武市半平太」の像





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横浪スカイラインへは、更に屈曲した道を登り、細長く伸びる横浪半島を縦走する。

高知県内一番の人気のドライブウェイというが、小生にとっては見慣れた風景でもある。 南に荒々しい太平洋、北には四国山脈と南国の保養地・入江三里といわれる鏡のように穏やかな内海(浦の内)を望め、半島全体が深緑におおわれて目にも優しい。 

横浪黒潮ライン途中に休憩所があり、ここに、龍馬と同じく土佐藩の幕末志士の一人、武市半平太(瑞山)の堂々とした像が立つ。



至誠の人・武市半平太瑞山(1829年~1865年)は桂浜、浦戸湾の近くで生まれている。

幕末・安政期、桜田門外の変(大老・井伊直弼の暗殺事件)の後、半平太は土佐藩の下級武士を集結させて土佐勤王党を結成する。龍馬も加盟するものの、早くから自らの土佐藩に見限りをつけ脱藩し、半平太と進むべき道を異にしたのである。
龍馬の脱藩を知ったとき半平太は「土佐にはあだたぬ (狭い土佐にはおさまりきらない)奴よ」と言ったという。

半平太は、その後も土佐藩を勤王思想・尊皇攘夷で統一しようと活動を続け、一方の龍馬は勝海舟と出会い、開国論に目覚める。 
二人は、其々違った道で世の変革を求めるが、半平太は公武合体派の山内容堂の弾圧にあい投獄され、慶応元年(1865)、道半ばにして36年間の生涯を閉じている。



辞世の歌は・・、

『 ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 
           今は惜しまぬ 身となりにけり
  』



維新後、山内容堂は武市を殺してしまったことを何度も悔いていたという。 

しかし、維新後、木戸孝允は旧土佐藩主山内容堂との酒の席で酔い「なぜ武市を斬った・・?」と容堂をなじったが、容堂は「藩令に従ったまでだ」と答えたとも言う。


勤王党仲間内でも、一死君国のため脱藩した志士達も、お互いを呼び合う時は全部土佐弁丸だしでオンシ、オラを使い、年齢の後先はなかったという。
身分の上下を越えて、みんなオンシ、オラで、このオンシ、オラは勤皇志士の合言葉でもあった。
ただ、武市瑞山は別で、一枚上であったという。皆は瑞山先生とか、武市先生とか呼んだという。「瑞山」とは号(ごう)で、武市を称える名称でもある。



「維新土佐勤皇史」には、次のような記述がある・・、

『身長は2m近い。すらりとした長身。顔は青白いといっていいほど白く、鼻が高く、顎の張った骨っぽい表情。その表情は、滅多なことでは動かず、目に尋常ならぬ鋭い輝きがある。ひとたび口を開けば、音吐高朗、人の肺腑に徹する。人格、また高潔、一枝の寒梅が春に先駆けて咲き香る趣があった。』

武市の人格を評するには「人望は西郷、政治は大久保、木戸(桂)に匹敵する人材」といった言葉が残されている事からも、高潔な人物であったことが伺える。



坂本龍馬と半平太の出会いは、龍馬が初めて江戸へ剣術修行(千葉道場)に出たとき、土佐藩下屋敷で一緒になったのが始まりで、半平太は龍馬より6歳年上、このとき龍馬は19歳、半平太は25歳であった。 

半平太は、城下でも謹厳実直できこえる器量人で、しかも几帳面。龍馬とは正反対のタイプで考え方においても、事あるごとに二人は対立したようであるが、どこかでウマが合い、竜馬を弟のように思い、仲が良かったと言われる。 
尤も、龍馬とは遠縁にあたるともいう。


次回は、「青龍寺と横綱」

  
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